初めての客
「橘さあ、自分が好きだからって黒い服作りすぎ。これじゃブラックフォーマル専門店じゃん」
藤本祥平が長身をへし折ってウインドウにトルソーを運んでいる。トルソーが着ているのは胸元をレースで切り替えたベルベットのワンピースだ。夏にベルベットとは季節感もなにもあったもんじゃないが仕方がない。手元にあるのが秋冬物ばかりなのだ。
「阿呆! レースもベルベットもブラックフォーマルじゃ使わない」
わたしは釦を留める手をとめて、店先にいる祥平を振り返った。
「例えだよ! 例え! もっと色があった方が入りやすいだろ? 黒って近寄るなオーラが出てるんだよな。誰にでも似合うけど、誰にでも着こなせる色じゃないんだよなー」
「それはなんだ? わたしが黒を着るのは似合わないと言っているのか?」
そう言うわたしが着ているのは、黒のブラウスにブラックジーンズだ。祥平の言葉にむかっ腹が立って言い返した。
「いや! 橘は別だ! ここまで黒が似合う女はいない!」
その言葉の後に、ゴツンという鈍い音が聞こえた。驚いて様子をうかがいに行くと、ウインドウの中で祥平が頭を押さえてうずくまっていた。どうやらウインドウを出ようとした際に梁に頭をぶつけたらしい。
「大丈夫? 梁折れてない?」
修繕費を捻出することを考えると頭がクラリとする。
「梁の心配かよ! 俺を心配しろ!」
見ると、おでこに大きなたんこぶが出来ている。
「結構腫れてるな。ちょっと待って」
わたしは急いで二階にある住居に駆け上がった。
「続ける」
とは言ったものの、そう簡単に依頼が入ってくるわけではない。服屋のようにすでに出来上がっているものが店内に並んでいるなら客を呼び込むことも可能だが、仕立屋となるとその場で品物が手に入らない上に、量販店のように価格が安いわけでもない。そうなると格段に敷居が上がってしまう。せめてふらりと足を踏み入れやすい店内にしようと、作り溜めていた作品をトルソーに着せてディスプレイをすることになった。
頼んだわけでもないのに手伝いを名乗りだしたのは、学生時代の同級生、藤本祥平だった。彼はよく出入りしている生地問屋の跡取り息子であり、母校の購買部に入る生地屋の店主だ。長身にスラリとしたモデル体型。明るく脱色した髪に耳に開けたピアス。人なつこい笑顔は媚びを売っているようにしか見えない。チャラチャラとした風貌は気に入らないが、いざというときには役に立つ。
「購買部は放っておいていいの?」
氷嚢を渡すと、祥平はにへらと笑いながら「さんきゅ」と受け取った。
「いいのいいの。昼過ぎに行けば問題無い。バイトちゃんがいてくれるからさ」
「ファンの子か。こき使われて可哀想に」
「あ、ヤキモチ?」
「わけあるか。ただの変態生地屋だろ」
「わあ。相変わらずひどいなあ」
祥平はあっけらかんと言いながら顔を歪めて見せる。こんなバカらしいやりとりは嫌いじゃない。冗談が言い合えるのも気心をしれた友人だからだ。だが、正直なところを言うと、購買部で生地をカットしている祥平は苦手だった。延反台で作業をする彼の真剣な眼差しからは、生地に対する情熱が見えた。その眼差しに何人の学生たちが恋に落ちたことだろう。だが、それが決して人には向かわないことをわたしは知っていた。それはファッションの女神だけに向けられる眼差しなのだ。「ヤキモチ」と言われれば、そうなのかもしれない。わたしは祥平に嫉妬してる。彼の持つ才能に。布の声が聞こえないというのに彼はそれに触れただけで性格や特性を知ることが出来る。それが本来の仕立屋のあるべき姿。わたしなどよりも彼の方がよほどこの職に向いている。
「縁ちゃんに鼻っ柱へし折られてから、あいつは変わったよ」
祥平の父である生地問屋の社長が言っていた。
「あいつは随分横暴だったからな」と。
「んで? マチとの約束は何時だって?」
祥平がたんこぶを撫でながら聞いてきた。
「午後一って言ってたけど。一時か、二時ってところ?」
「今十一時か。じゃあ早飯食って、さっさと片付けるか。コンビニで適当に買ってくるけど、いい?」
「待って。お金出す」
「いらねって」
首を振る祥平は無視。自分の財布から五千円を抜き取って押しつけた。
「手伝ってもらってるのに申し訳ない。バイト代出せないからせめてご飯ぐらいは出させて。それから、そのたんこぶのお詫び」
一気にまくし立て、店の外に押し出した。
渋々といった様子でコンビニに向かう祥平を見送って、わたしは雑然とした店内を見渡す。
「もう少し片付けておくか」
マチとの約束。それは仕立屋として初めての仕事の依頼だった。
孫娘のウエディングドレスを作って欲しいという老婦人がいるそうだ。
祥平と同じく服飾学校の同級生だったマチは、卒業と同時に副担をしていた猪瀬先生の助手、村田先生と結婚をした。なんと卒業制作で作っていたウエディングドレスを着て。
老婦人は村田先生の親戚で、マチがウエディングドレスを自作したということを知って話を持ちかけたらしい。だが、卒業してから五年以上まともに縫製してこなかったマチは腕が鈍っているという理由で、わたしに仕事をまわしてきたというわけだ。
だが、実際のところマチはもう服を作る気などないようだった。
「だって、主婦業忙しいんだもん」
同居している義父母がいれば、悠長にウエディングドレスを縫っている時間などないだろう。有りがたいのでもちろん依頼は受けることにした。
一人で店内を片つけていると、唐突にドアベルが音を立てた。
祥平が戻ってきたようだ。
「ありがとう」
振り向くと、そこには白髪の外国人が立っていた。
真夏だというのにピシッとスーツを着て、ネクタイを締めている。すっと伸びた背筋のせいで随分若く見えるが、グレーがかった青い瞳と顔に刻まれた皺が年齢を感じさせている。往年のジェームズ・ボンドと言ったところだろうか。
ふと、脇に小さな子供がいることに気がついた。恐れるように紳士の足にピタリとくっついていた。
「StandBloomとは、こちらでよろしいでしょうか?」
流暢な日本語でたずねられ、一瞬呆けてしまう。
「はい」
わたしが返事をするのが一拍早かっただろうか。
「だからここだって言ってんだろ!」
祥平がドアベルを派手に鳴らしながら入ってきた。汗だくになりながら肩になにかを担いでいる。梱包されて中身が見えないが形から察するにどうやら原反(加工する前のロール状の布)のようだ。
「あの……」
戸惑うわたしに、紳士はにっこりと微笑んで手を差し出してきた。
「はじめまして、ハロルド・アボットと申します。こちらに素晴らしいテーラーがいらっしゃるとうかがって参りました。あなたが橘縁さんですか?」
「はい。わたしのことをどなたから?」
「猪瀬のばーさんだってよ」
祥平が口を挟んでくる。担いでいた原反を重そうに作業台の上に置いた。
「猪瀬先生が?」
「ええ。ギャラリーアボットという画廊をご存じですか?」
その名前には聞き覚えがあった。毎年春先に訪ねている。
「あの、隣町の?」
「そうです。私はそこのオーナーです」
八十歳をこえて現役の講師であり多趣味な猪瀬先生は、若い頃から絵を描くことに熱中していたようで、ここ数年は毎年画廊で個展を開いている。祥平などは、いっそ絵描きに転向したらいいのにと言うが、「服は私の魂」だと言う猪瀬先生はきっと軽く受け流すことだろう。
紳士は原反を愛おしそうに撫でると、私に向き直って言った。
「早速ですが、この生地でスーツを一着仕立てて欲しいのです」
「……わたしで、よろしいのですか?」
メンズ専門であれば名の通った仕立屋がいくつもあるというのに、何故無名なわたしを訪ねてきたのだろう。率直な疑問だった。
きっと怪訝な表情をしていたに違いない。アボット氏の瞳の奥に一瞬悲しみが満ちあふれた。
「実を言うと、ここへ来るまでに何件かテーラーを訪ねたのですが、どの店にも断られてしまったのです。というより、相応しくなかったと言うべきなのでしょうが……」
「相応しくなかった?」
「ええ。誰もこの子の名前を言い当てることが出来ませんでした。残念ですが、どんなに腕のいいテーラーでも、名前もわからないこの子を扱って欲しくなかったのです」
アボット氏の言い回しに引っかかりを覚えた。
「名前、ですか?」
「そうです。名前です。喜久子さんはあなたであればきっとこの子のことがわかると仰っておりました。あなたにはわかりますか? この子の名前が」
そう言うなり、原反の梱包を解いた。
「タータンチェックか」
その生地の柄を見て、祥平が呟いた。
そう。それはタータンチェックの原反だった。遠目から見るとブラウンの生地にも見えるが、よく見るとワインレッドとダークグリーンのチェックに鮮やかなブルーのラインが入っている。スコットランドの伝統的な織物、タータンチェックというと日本で言う「家紋のようなもの」とたとえられることもあるが、家柄とは関係の無い地域や企業と結びつくものも存在する。タータンチェックの図柄にはそれぞれ名前がつけられており、最も名前がしれているのは『ブラックウォッチ』と呼ばれる深緑と濃紺、黒のチェック柄だろう。その他にもファッションとしてのタータンチェックも存在し、こちらはバーバリーチェックのキャメル地に黒・白・赤で構成されたものが代表的だ。だが、公式に登録されているものは数千種に上る。
「このタータンの名前……」
全く見当がつかない。どうやらアボット氏の期待には応えられそうにないようだ。困っていると、不意に子供の声が聞こえた。
【『まゆみ』だよ】
鈴を鳴らしたような儚い声に、わたしはびくりとして肩を震わせた。
声は続ける。
【ぼくはお父さんが見損ねた未来】
この感覚は……。
「『まゆみ』?」
問いかけるように、その名を反復する。するとアボット氏は驚愕の表情を浮かべた。
「あなたには、この子がわかるのですか?」
「『まゆみ』というのですね。このタータンは、あなたを父と慕っています。これは日本名ですか?」
「私が付けたのではありません。遠く離れてしまった恋人が付けたのです」
アボット氏は過去を振り返るように視線がふっとそらした。だが次の瞬間、強くわたしの手を握ってきた。
「ぜひあなたにお願いしたい。この子をあなたの手で仕立てて頂きたいのです」
そう言うなり、ジャケットのインナーポケットから小切手を取り出す。
「これで間に合いますか?」
一瞬ゼロの数に戸惑う。一般的な金額よりも桁が一つ大きい。高級ブランドのスーツが楽々と買えてしまうような金額だ。わたしは慌てて首を振った。
「こんなに頂けません!」
突き返そうとするも、アボット氏は強引にわたしの手に小切手を握らせる。
「受け取ってください。あなたはこの子を扱うに相応しい方なのですから」
「いいじゃん。くれるって言うならもらっておけよ」
祥平が余計な口を挟む。
「おまえは黙ってろ!」
祥平は肩をすくめて両手を挙げた。口を挟まないという意思表示だ。
アボット氏に向き直って息を一つつく。
「困ります。あなたの要望に応えられるだけの腕があるかも分からないというのに……」
「私を助けると思ってください。お願いします」
必死に懇願する眼差しを真っ正面から受けて、それでもはねつけるだけの根性などわたしにはない。
「喜久子さんは、あなたを腕のいいテーラーだと言っていましたよ。私は喜久子さんの言葉と、あなたの腕を信じます」
手の中の小切手とアボット氏を見比べて戸惑うわたしに、彼はそんな言葉を差し出した。初めて会ったというのに、この全幅の信頼は一体どこから来るのだろう。
不意に視界に入ったタータンが告げる。
【誰もぼくの名前がわからなかったんだ。どんなに叫んでも誰にも届かなかった。期待を裏切られるたびにお父さんがどれだけ悲しんだかわかる?】
ハッとした。寂しそうにアボット氏を見つめるタータンの声は、今まで誰にも届くことはなかったのだ。氏の言っていることがようやく理解できた。それはおそらくわたしにしか出来ないのだろう。
覚悟を決めた。
「わかりました。受けさせていただきます」
「よかった」と安堵するアボット氏は続けていった。
「ただ、一つだけ条件があります。三ヶ月以内に仕立てては頂けないでしょうか? ここを離れる予定なので。それに間に合うようにして頂きたいのです」
何かに急かされるような言い方だ。帰国するのだろうか? それとも、このタータンを手放さなければならないのだろうか?
わたしは数秒考えてうなずいた。
「ご依頼通りにいたします。ですが、何度か仮縫いをさせてください。お手数をおかけしてしまうことは承知の上ですが、納得のいく仕事をしたいのです」
するとアボット氏は首を振った。
「仮縫いはいりません。仕上がったら、ここに送ってくだされば結構ですから。わからないことがありましたら、メールでお願いします」
そう言って名刺を取り出すと、アボット氏はドアに向かって歩き出した。
「待ってください! せめて採寸を!」
「申し訳ありませんが、この後約束があるのです。必要な寸法は後日メールで」
それだけ言い残して、アボット氏は店を出て行った。
【ぼくはもう必要ないのかな】
『まゆみ』が遠ざかる背中を見つめて悲しそうに呟いた。
タータンチェックの件がややこしくて自分でもよくわかってないという(~_~;)