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ユオニマスの丘で

 わたしは茜射す小道を一人で歩いている。幾筋もの雲が薄紅に染まって薄墨を流した空を彩っている。わたしはそれを見上げながらただ歩く。小道の両脇には真っ赤に色づいたユオニマスが植えられ、遙か彼方まで続いている。爽やかな風がわたしを置いて吹きすぎていく。別れを惜しむようにそっと頬を撫でて。

 背後から軽い足音が近づいてくることに気付いて振り返る。小さな人影がこちらに向かって駆けて来るのが見えた。大きく手を振りながらわたしの名を呼んでいる。それは『まゆみ』だ。わたしは歩みを止めて『まゆみ』が追いついてくるのを待つ。

 追いついた『まゆみ』は当たり前のようにわたしの手を取って歩き出す。果てしのない小道をどこまでも。

 ふと『まゆみ』が小道の先を指さす。見ると、どこまでも続いているかと思われた小道が丘の向こうに消えていた。

「ありがとう、縁。ぼくはお父さんと行くことにしたよ」

 柔らかにほほえむ『まゆみ』はどこか悲しげに見える。

「でも、いつかきっと縁のところへ戻ってくるから」

 そう言うと『まゆみ』はわたしの手を離して、丘へと続く小道を走り出す。追いかけようとするけれど、体が言うことを聞かずその場にとどまるしか出来ない。わたしは小さくなっていく『まゆみ』の後ろ姿をじっと見つめていた。不意に『まゆみ』の行く先に人影があることに気付く。丘に続くゆるやかな坂道の途中でたたずんでいる。それがアボット氏だと気付くのに時間はかからなかった。

 アボット氏はわたしに向かって深く頭を下げた。そして『まゆみ』の手を取り丘へと登っていく。わたしは二人の姿が見えなくなるまで眺めていた。

 二人は、あの永遠の一瞬を刻んだユオニマスの丘へ還っていくのだろう。頭の端でそんなことを思った。


 ガチャン!

 何かが落ちる音に驚いて慌てて顔を上げる。握っていたはずのマウスがデスクから落ちている。どうやらCAD仕事をしながら眠っていたようだ。

「これだからデスクワークは」

 独りごちて、冷め切った紅茶に口をつける。

 まどろみの中で夢を見ていたような気がしたが、思い出すことが出来ない。わたしはメガネをかけ直すと再びCADに向かった。

 アボット氏の訃報を受け取ったのはその夜だった。


 葬儀は小さな教会で執り行われた。

 やはりアボット氏は人望が厚い人だったようで、教会の中には最後の挨拶に訪れた弔問客で溢れかえっていた。その中には猪瀬先生の姿も見えた。

「素晴らしい仕事を成し遂げたのね」

 先生は私の耳元でそっと囁いた。

 アボット氏は『まゆみ』で仕立てたスーツを死に装束に選んでいた。棺の中で『まゆみ』を着せ付けられた氏は随分やせ細っていたが、とても穏やかな顔をしていた。

 菜穂子さんがわたしに気付いてがそっと近づいてきた。

「彼は、縁ちゃんに申し訳ないことをしてしまったと言っていたわ」

 おそらく『まゆみ』のことなのだろう。わたしは首を振る。

「こうなることはわかっていたことです」

 そう告げると、菜穂子さんは悲しそうにほほえんだ。

「私も、いつかそのときが来たら、縁ちゃんが作ってくれた衣装を着ていっていいかしら?」

 その言葉に、小さくほほえむ。

「きっと、そう仰ると思っていました」

「彼が、ぜひあなたに託したいと言っていた品があるの。受け取ってくれるかしら?」

「なんでしょう?」

「『まゆみ』よ。あなたに使っていただきたいと」

 その言葉にわたしは慌てて首を振る。

「それは受け取れません。菜穂子さんが持っているべきです」

「私だっていつまで生きられるかわからないわ。それに、私が持っていても宝の持ち腐れよ。縁ちゃんが然るべき時に然るべき人に使っていただく方がずっといいでしょ?」

「菜穂子さんはそれでいいのですか?」

「ええ。彼からはたくさんのものをもらったわ。短い間だったけれど。だから、『まゆみ』は縁ちゃんが受け取って」

 菜穂子さんの真摯な瞳に負けてわたしはうなずいた。

「わかりました。後日、受け取りに参らせていただきます」

 すると菜穂子さんは「その必要は無いわ」とほほえんだ。

「彼の遺言通り引き渡しの手はずは整えてあるの」


 菜穂子さんの指示通りに教会の駐車場へ行くと祥平が待っていた。どうやら訃報を受け取った際に車で来るようにと言われていたらしい。実家の生地問屋の名前が入った商用車が停めてある。

「久しぶりだな」

 わたしに気付いて小さく苦笑する。

 顔を合わせるのは千秋さんの結婚式以来だった。ひと月ほど顔を見ていなかっただが、随分と長い間疎遠になっていたように感じてしまう。

「少々お節介なご老人だよな」

 そう笑いかけると祥平は運転席に乗り込む。荷台には梱包された原反がすでに積み込まれていた。

 確かにお節介かもしれない。わだかまりを抱えるわたしたちを見越してこんな手配をするなんて、少々どころかかなりなお節介だ。躊躇っていると祥平が「行くぞ」と声をかけてくる。仕方なしに助手席に乗り込んだ。

 シートベルトを締めるのを確認して、祥平が白い封筒を差し出してくる。

「ご老人が橘にって」

 見ると確かに宛名にわたしの名前が書いてある。車がゆっくりと発車するのを待って、わたしは封筒を開けた。入っていたのは数枚の便せんだった。震える文字はおそらくアボット氏が自ら書いたものなのだろう。

 運転をする祥平に気を遣って便せんを封筒にしまおうとしたが、横目で見ていた彼が「読めよ」と促してくる。その言葉に、わたしは躊躇いながら文字を追った。


   意地っ張りな仕立屋さんへ

 まず最初に、あなたに謝らなければなりません。せっかく仕立てていただいた『まゆみ』を連れて行ってしまうことをどうかお許しください。そして、私たちの運命を導いてくれたことを深く感謝いたします。あなたに出会うことがなければ私はこれほどまでに幸福な時間を過ごすことは叶わなかったでしょう。あなたが私の背中を押してくれなかったら、私は後悔を抱えたままこの人生を終えていたに違いない。だから、今度は私の番です。

 もしかしたらあなたはお節介が過ぎると怒るかもしれない。それでも、私はどうしてもあなたに気付いて欲しかったのです。あなたが恐れ遠ざける幸福は、いつでもあなたを迎え入れようとしていることを。陽だまりの中でほほえむあなたは本当に素敵だ。そこはあなたのいるべき場所です。

 そんなことを言ったところで、あなたはきっと違うと仰るのでしょう。だから、最後の依頼をさせてください。対価は『まゆみ』です。

 どうか、素直な心であるがままを受け入れてください。無理にあなたに繋がれた枷を外す必要は無いのです。ただ、歩みの遅いあなたの手を取って共に歩こうとしている人たちがいることを忘れないでください。

 あなたは、天に与えられたその力で今度は自らの未来を創るのです。あなたならきっとやり遂げるでしょう。私はそれを信じています。

 あなたが導いてくれたあのユオニマスの丘でいつまでも見守っていますよ。

 それでは、あなたの前途に幸多からんことを。

   お節介な老人より 


 胸の奥が焼け付くように痛み出す。のどが詰まって思うように息が出来ない。不意にぽたりとしずくが落ちた。それは次々と音を立てて便せんを濡らしていく。ハッとして頬に触れる。濡れた指先を見てようやく理解した。自分が泣いているのだと。

 止めどなく流れてくる涙をどう止めたらいいのかわからずに、ただ祥平にだけは悟られまいと必死に顔を背けた。

 けれど、おそらくは気付かれていたのだろう。車のヒーターが付いているにもかかわらず彼は窓を開けたから。

 窓から十一月の冷たい風が入り込んできては髪を乱していく。わたしは風を避ける振りをしてそっと涙をぬぐった。


 目張りを施した倉庫にそっと『まゆみ』を置く。しかし、その姿はどこにも見えない。

 わたしはその手触りと確かめるように原反に触れる。いくら語りかけても、もう答えてはくれないだろうか。

 祈るように囁く。

「運命が君をゆり起こすまで、ここでおやすみなさい」

 そうだ。いつか時が満ちて君がここへ戻ってくる日まで。


まだ続きます!あと一話!

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