第1章 〜邂逅〜 第5話
部屋に残った二人は、カタリナの姿が視界に映っている間はなんとなしに彼女を微笑ましい眼差しで見送っていたものの、その姿が消え去ったところで示し合わせたようにお互い顔を見合わせた。
「さて、改めて御用向きを伺いましょうか。異端審問官殿」
ヒワスカの目が、そして雰囲気が唐突に尖りを見せる。ニコラスは思わぬ先制攻撃に目を瞬いた。
「・・・司祭殿、私は異端審問官などではないのですが」
「ふむ。ガラテェア聖堂騎士団・・・。またの名を神炎猟騎団。教会関係の人間ならば知る人ぞ知るといったところでしょうが、おや、同じ聖堂の職務者がご存知ない?」
「その名をどこで?カダルタ派が知っていて当然の情報ではない」
聖騎士の声調が一段と低くなった。だが神父の姿勢は崩れなかった。
「最近、この町にある流行歌が歌われているのをご存知で?」
ニコラスは、なおも話をはぐらかす気かと口を開きかけ、ふと口にするのを思い止まった。
「流行歌ですって?」
「さよう。それは罪と罰の王を崇める歌」
神父は一節を口ずさんで見せた。
おお、死と踊りし神の子らよ。
汝らの目に彼の者の姿は映っているか。
あれは彼我の罪に炙られて、なおも罰とたはむる贖いの王!
目さば、今ひとたび悔い改めよ
祈り(まよい)を断ちて其の下へ集わん!
されば迎えるは、罪人たちの楽天地
「まさかー」
神父はニコラスがこの話に食いつくことを確信していた。次なる話への進め方は心得ている。
「ついておいでなさい。貴方に紹介したい人がいます」
ヒワスカ神父は、出し抜けにそう言い放つと腰を上げた。
どうやらこの神父は話をはぐらかすだけでなく人の意表をつくのも好きな性格らしい。ニコラスはあえて警戒心を露骨にしつつも無言でその誘いに乗ると、司祭は穏やかな笑顔を不敵なそれに変え、部屋の外へと誘うのであった。
・・・・・・
別に驚くべきことではないが、この教会には地下がある。戦争や災害等の緊急時に市民の財産や糧秣を管理する教会が地下蔵を作っていることはさして珍しい事ではない。
ヒワスカは手に燭台を取り、火を灯しながら地下への階段を黙して降り始めると、ニコラスもやはり声をかけることなく神父の後ろに従った。
階下に至ると目に入る景色は一本の回廊のみであった。側壁にはいくつも部屋の扉があるのだから見た目よりは随分と広い空間なのだろう。
地下の湿ったカビ臭い空気と剥き出しの土の匂いが鼻を刺激する。どうも五感の記憶は映像の記憶と連動するらしい。彼は、実家である教会の改築の折に地下掘りを手伝わされた少年時代の記憶を思い出していた。あの時は土と汗にまみれ・・・。
神父は回廊の突き当たりに至ったところで初めて振り返り、客人に声をかけた。
「こちらの奥です」
そこには腰を屈めてやっと入れる程度の大きさの鉄格子があった。中は暗くて窺い知れない。
「貴方が紹介したいと言う御仁はこちらに?」
「はい。入りましょう。こんな部屋ですが別に囚人を捕らえて放り込んでいるわけではないんです」
と言うが、その目は周りと同様にひたすら暗い。
神父は古ぼけた鉄の鍵を懐から取り出すと、鍵穴の周囲に浮いた鉄錆を刈刈削りながら鍵を捩じ込み、力任せにガチャリと回した。すると、バキンと何か壊れたような不快な音がして、鉄格子は地面との接点に施された蝶番を軸に前方に倒れる。そこには、吸い込まれるような深い闇の穴が来訪者を待ち構えていた。
「さあ、行きましょう。頭に気をつけて」
ちらとニコラスを一瞥すると神父は中腰になり、すぐに闇に溶け込んでしまった。ニコラスもわずかな灯を見失わないようにとすぐ後ろに付き従う。暗闇を淡く照らし出す燈がヒワスカの歩調に合わせて上下していく様は誘い火の怪談のようだ。
「しかしまた難儀な道ですね。何故こんな背の低い道を掘ったのです?」
暫く腰に負担がかかる状態が続き、ニコラスはつい愚痴っぽく訊ねた。
「それは、もう、直ぐに、分かりますよ」
歩いていると踏み込んだ時の爪先の感覚で知れる。どうやらこの道は緩やかな下り斜面のようだ。二人は地の下の更に下へとじわりじわり潜っているのである。
会話も途切れ、息切れの呼吸音だけが耳に付く。じとり汗が滲み始め、そろそろ膝を着きたくなる頃、前で揺れる僅かな燈が一際高く浮上した。立ち上がれるぐらいに広い空間に出たのだ。
「はぁはぁ、やれやれ。老人にこの穴はかなりキツい」
ヒワスカが背を伸ばしながらボヤく。そしてニコラスの背後に移動すると、彼を前に押し進めた。
「さて、これからはお一人でどうぞ。すぐそこの扉に鍵はかかっていませんので」
「は?紹介していただけるのでは?」
「実は彼はアルツァス殿の事は既知であると申されてましてね。私が間に入るのは野暮なものですから」
またもはぐらかす。ヒワスカの真意は図りかねるものの、ニコラスはたじろぐ様を彼にあまり見せたくはなかった。
(俺を知っている・・・?この神父は今日初めて会う前から俺のことをすでに?)
ただ、ボンヤリと光る燭台を手渡された時、うすら浮かび上がる初老の男の口元が三日月に吊り上っていたのが酷く気になった。
扉に手を掛けると、それは思ったよりも軽く、すんなりと押し開かれた。意を決して中に入り、周りを見渡しながら先ずは一声投げかけてみる。
「どなたかおいでか」
暫く間が空いて後、何処かでパチンと音が鳴った。するとなんとも不思議なことに次々と壁に架かる照明具が一つひとつ灯火を宿し始めるのだ。
俄かにニコラスの胸中が騒ついた。
「これは・・・」
「昌唱術に馴染みはないかな?」
ひどいダミ声が部屋に響いた。よく見ると部屋の奥に設置された寝台らしきに腰掛けている人影がある。
「貴様は何のためにこの町に来た?」
「それをここで話すべきかは貴公次第だ」
「ふん。賢しい言葉を用いるようになったものだな。だが、儂は知っているぞ」
「何を?」
「世の中を練り歩かんとするならば兎角足元の罠に気をつけるべきじゃということよ」
ニコラスは言葉の意図を図りかね、訝りながらも一歩踏み出した途端、何か柔らかい物に躓き、つんのめった。
見やれば死角の足下に一匹の大型犬が寝そべっている。
「っ!」
「くく、そういうことじゃ」
その犬は警戒することなくニコラスに視線を向けていた。壁の照明の光を受けたその瞳は薄闇に浮かぶ二つの青海石のようだ。
「慌てるな。じっとしてれば嚙みつきゃしない。こやつは番人よ。この部屋で儂の命令に従わぬ者は、儂にまみえる前に喉笛を食いちぎられる」
「これは異なことを。私は神父に寄越された貴方の客人のはずだ」
「いやなに、儂は敵が多くてな。おっと、まだ進むなよ。こやつは今貴様の足首に狙いを定めているぞ」
ニコラスは反射的に浮きかけた足下を見たると犬の蒼目がやけに獰猛に煌めいている。
ああ、どうにもこの町には獣難が多いのかと嘆きたくなる。
寝台の上の最後の光源が点灯した。そこに浮かび上がったのは背は低いが恐ろしく体躯が厳つい老人の姿だった。
「久しいな。ニコラス=アルツァス」
「貴方は・・・!グラシャーノン将軍か!」
「くく、思わぬ所で出会ったな。壮健であったか。ヤンバル平原で戦線を共にして以来かのう?」
ニコラスはここまでの穴道の高さが低かったことに納得した。ディケロニア国軍唯一、地精の身ながら将軍職を務めたゴドヴァノス=ガリア=グラシャーノンは、先の大戦でニコラスら傭兵団が組した正規軍の将の一人であった。
地精の平均身長は人の子供と大差ない。もっともその膂力は人の成人の倍以上を誇るのだ。
「これは確かに思わぬところで!まさか御存命であられたとは。戦始末の際には皆で探し回りましたよ」
「まあこれも貴様らの神の思し召しというところか?はっはっは!色々あってな」
ゴドヴァノスは厳しい相貌を崩して豪快に笑って、犬に警戒を解くよう手振りでその意を伝える。
「さて、許せよ。冗談が過ぎたかの。もそっとこっちへ来て顔をよく見せい」
ニコラスは半ば体を硬くしながらも部屋の中に踏み入る。
「いったい何故ここに?」
「いや、儂のことなど今はどうでも良い。先の問いに答えんか。ニコラスよ」
ニコラスは思わぬ再会に内心から弾け出そうな歓喜を押し込め、敢えて平静を努めた。彼がかつてのようにそのまま味方であるかは今計り知れるところではなかったからだ。
「なるほど、貴方が情報源か。ヒワスカ殿も神炎猟騎団の名を知っているはず。将軍、この町に来た理由を問われましたが、実は当代領主に呼ばれたのですが、まだ謁見も済ましていないため、明確に私に求められていることは何とも知らぬのです」
「ほう!シラを切るか。貴様が呼ばれる理由は唯一つであろうが」
「やはり、この地は・・・」
「然もあらん。神炎の思想が広まりつつある。重ねて鬼胎を抱くべきは北の動きであるな。だが目下の異変は其処ではない。今、導かれるかのようにこの地に鍵が集まっていることに貴様は気づかねばならん」
ゴドヴァノスの言葉にニコラスは心を揺さぶられた。
「鍵とは?」
「世界を揺り動かす鍵となる者達のことだ。受け売りじゃ。儂もはっきりと分かってはおらん。空を見よ。濃厚な晦冥が光を遮り、大地を蝕んでいる。これは神の試練などではないぞ。人の業が極めた因果の仕儀よ。疫病が再び流行せしめたるも偶然ではない。ゆめ己の本分を忘るなよ」
「いきなりですね。私は確かに神炎教団を誅するために動いていますが、奴輩が人の業全てを担う者達とは思っていませんよ」
何も知らぬニコラスの言葉に、地精はややもすれば苛つきをぶつけたくなる衝動を抑え、静かに言葉を返した。
「そうか。貴様は啓示を得てはおらなんだか・・・儂は戦場で死にかけた時に偶然ある館を訪れたことがある」
「啓示?館ですって?」
ニコラスの顔色が出し抜けに変わる様を見てゴドヴァノスは身を乗り出した。
「貴様は知っているのか?あの館を」
「将軍の言われる館かどうかは・・・。子供の頃のことです。友人と森で迷った時に偶然見つけた廃墟の城で不思議な体験を」
将軍は目を細めた。
「廃墟の城とな。少し儂の体験とは異なるようだな。まあ良い。その館にはある女人がいて、儂の傷を癒すとともに預言を授けた」
ゴドヴァノスの目がさらに細くなり、少し優しくなったかのようにニコラスは感じた。
「その預言とは?」
「・・・周囲の光景は朧げなのに授けられた言葉は不思議と克明に覚えている。彼女はこう言ったのだ」
ゴドヴァノスは一息吸い込み、意識下の詩歌を諳んじてみせた。
“災禍にまみれた魔女の棲む家で、神と人と炎に冠せられた三人の僕が交わる時、大樹の脈動は旋律に変わり、万有の果実が熟れ落ちる”
「随分と難解な・・・比喩だらけですね」
「然り。儂は何故そのような預言を告げるのか、意図を訊ねなければならなかった。そして、彼女は答えた」
“鍵よ。東の塩の地へ参ずるべし。其の力が僕の援けとならん”
「鍵とは貴方のことですか。では塩の地とは?」
「塩即ちザルツァイの語源よ」
「なるほど。預言というのはいかなる時も回りくどい」
「然り。続きがある。こうだ」
“数多の鍵を手にし、誰よりも早く己が扉を潜れ。僕(しもべ、)の何れかが最後の幻想を剋したらば、いよいよ甘し癒しは与へられん。四方の王即ち、宿痾の王、奏楽の王、公徳の王、罪罰の王は地に隠れ、以って坐真の理へと至らん”
「いかなる解釈やら、なんとも言葉に出来ないです」
「なんとなく読み取れぬか?“東の塩の地”つまりこのザルツァイに、儂のような預言を受けた“鍵”の者らが集う。その者らを同胞とし、助けるべき僕たる者がこの地に起こる幻想の謎を解き明かした時、“万有の果実”が手に入り、何らかの審理を授かる」
「なるほど。大枠はなんとなく・・・。でも前半はどう解釈するんです?」
「それはこれから判ることやもしれんな。“災禍にまみれた魔女の棲む家”というのもザファケルのことかもしれん」
「魔女とは?」
「まだ此処に来て間もない貴様は知らんだろうが、この地は魔女の支配領域にあるのだ」
「え、その魔女とは、アルルという少女のことですか?」
「少女?・・・ああ、あれはくだらん噂だろう。そうではない。古の時代。そう。まだ天使が直接地上を管理していた時代にこの地方を支配していた魔女がいたのだ。名をメディエトという」
ニコラスは初耳だった。
伝承される程の本物がかつてこの地を統べていたとは。
なるほど、アルルがほかでもなく何故“魔女”と異名をつけられたのか。まさに前例があったからだ。
「儂は確信しておる。近いうちにこの地で何かが起こることを。その伝説の魔女が絡んでくるかはなんとも言えぬが、まずは預言を得た鍵の者を捜すが良かろう」
「この地の幻想とは何か?三人の僕は誰か?も特定する必要がありますね」
ニコラスの言葉にゴドヴァノスはうなづいた。
「いいぞ、ニコラス。この預言がいつのか、いやもう始まっているのか、それは定かではない。されど先に知る者が、勝つ。戦は何より情報戦を尊ぶのだ」
「罪罰の王は隠れ・・・か」
ニコラスの脳裏に浮かんだものは、ただ一人の男の姿だった。彼の人生において敬意と好意と敵意を同時に抱いた人物はこの男を置いて他にいない。
「うむ。我が王の仇敵であったな」
「彼奴は、俺の獲物ですよ」
ニコラスは己に言い含めるかのように宙に向かって言い放った。
そして、ゴドヴァノスは、そう呟いた男の瞳が瞬く程の間、金色に輝くのを見逃さなかった。
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「良く来た。ニコラス!」
ゴドヴァノス将軍と共に領主館を訪れたニコラスに対し諸手を拡げ歓迎の意を示したのはこの地の領主アズアーリ=ルクセンカッツェだ。
ニコラスは、領主の予想以上の歓待ぶりに思わず笑顔がこぼれ、彼の手を力強く握った。この手はかつて同じ戦場を駆け抜けた戦友の手なのだ。改めて、自分と歳の差も無い、若かりし主公を見直した。
白金の貴族外套を身に纏う姿は、なるほど相対者に確かな畏敬と礼賛の念を抱かせるだろう。
光を弾くほど透き通った金髪を後ろに流し、貴族らしい高く形の良い鼻と尖った顎をやや上向きにして、常に遠くを見渡すかのように視線を投げかける姿勢は、帝王学を修めた為政者の典型だ。
揺れる光の角度で見え隠れする同色の短い顎髭は以前生やしていなかったはず。少しでも威厳を見せようとするアズアーリの若気にニコラスはなんとなく共感した。
「君と最後に会ったのは、先の戦の後すぐに君が聖大師アデルルメクの布教団と旅立って以来だから・・・ およそ3年振りになるかな」
「そのとおりです。ルクセンカッツェ閣下。またお会いできることを楽しみにやって参りました」
「しかしなんだ。君は随分様変わりしたな。それに、私よりも先にグラシャーノン殿に挨拶を済ませるとは釣れないじゃないか。全く軍人とは同族にばかり律儀な輩だよ」
ゴドヴァノスが何度も頷く。
「然り、然り。此奴、真っ先に拝謁に向かわず虚虚しておったので、こうして首根っこを捕まえてきたのじゃ」
ニコラスが予定より1日早く領主への目通りを叶えたのはゴドヴァノスの強引な口利きのせいだ。
「将軍に出会ったのは本当に偶然でした」
「グラシャーノン殿は私がこの地に来た時には既に町におられたから順番としては悪くない。しかし、ニコラス。格好と一緒に堅苦しい話し方が似合ってきたな。私に言わせれば残念だ。昔の様にアズと呼び捨て、突っかかってはこないのか?」
皮肉を口元に浮かべて領主はニコラスの肩を叩いた。
「お戯れを。今は随分悪い血の気が抜けましたから」
領主は合いの手を打って「お互いにな」と微笑んだ。
「冗談はさておきだ。本当に良く来てくれた。初めに申し渡しておくが、この地は恐らく君が想像している以上に巨大な問題を抱えている。君に参謀機関の長として着任してもらうのは、政治的な側面の相談役が欲しいからではない。奇妙な物言いになるが、深い闇の中に見え隠れする幻想を解決するためなのだ」
アズアーリは真剣な眼差しで二人を見つめた。
「幻想ですって?」「幻想だと?」
二人は同時に驚きの声を上げた。
ニコラスは瞬時に隣のゴドヴァノスの顔を窺った。彼が預言の事を秘匿するか曝け出すかその意を知りたかったからだ。
将軍はニコラスの視線を受け流し、秘して語らず、領主の次なる言葉を求めた。
「我が王国が誇りし王立魔道研究所のことは貴公らも良く知ろう。この機関が秘密裡に研究していた対象に“幻想地”というものがある」
「幻想地・・・」
「そうだ。実は研究調査の中だけでも世界各地に存在することが知られているが、研究所の記録では''奇蹟が連続的に起こっている土地''と定義づけている。」
「奇蹟が連続的に・・・ふムゥ」
「さて、ではここからの説明は専門家に委ねようか」
そう言ってアズアーリは、鈴を鳴らし、人を呼んだ。
その専門家が到着するまでの僅かな時間の中で、ニコラスは“幻想地”という言葉から紡ぎ出された細い記憶の糸を手繰り寄せた。廃墟の城で出逢った天使の化身。死者の群れ。呪術師の執着。女性達との談話。あれは確かに幻想のような世界だった。死の淵で見た夢だと思っていたが・・・。
「お待たせいたしました。皆様」
予想外にも現れたのは若く見目麗しい女性だった。
金の刺繍をあしらった深い藍色の角帽とお揃いの法衣を纏った姿は見るからに博士然として、優雅なる知性を体現している。な「この服装は都人ならば誰もが知っている。魔道研究所とは中央教皇庁検邪聖省に属する祓魔機関「魔蹴会」の所管であり、この特殊機関の会員は皆目の前の女性と同じ格好で都の街中をうろついているからだ。
「魔蹴会のアンネ=ポーワムです。お見知り置きのほど」
二人もそれぞれ名乗り握手を交わす。
その時、ニコラスは笑わぬ目で微笑む彼女の顔にそこはかとなく既視感を覚えた。
「彼女は私がこの地に赴任した時から伴をしてくれている」
「ほほう。つまり、領主殿は3年前既にこの地が魔蹴会の管轄に当たることを知っていたわけじゃな」
ゴドヴァノスが唸る。
「幻想地についてお話すればよろしいのですね」
そう言って、アンネは一歩進んで脇に挟んでいた一冊の本を皆の目の前に差し出した。
「では、まずこの存在について説明する必要があります」
「随分豪奢な装飾本ですね」
「ええ。これは『グリュニムト私記』という本の、実は複製なのです。この地の問題も魔蹴会の設立さえも、すべてはこの本に起源するのです」
「グリュニムト?というとあの古代の作曲家のかね?」
「そのとおりですわ、グラシャーノン様。ジャンバン=グリュニムトは古代真王朝の宮廷音楽家ですが、彼にはもう一つの顔がありました」
アンネは、何かの癖のように左鎖骨に指を引っ掛けながら、遠い過去を思い出すかのように目を閉じて語り始めた。
ーー古代真王朝時代といえば、8人の天使がこの地に降り立ち、8人の真王を見い出し、この大地を8つに分割統制した時代でした。
グリュニムトが産まれたのは北東の第五真王国。このザルツァイ地方の片隅でひっそり暮らす、ある部族の出自でした。
彼は横笛の名手でしたが、何より作曲に優れた才能を持っていました。そして、これは御伽噺としてこの地方に伝わっているのですが、彼が書き起こした楽曲の調べにあわせて詩を吟じれば、その詩に隠された想いは現実の出来事として実現したと云うのです。
哀しみにくれる人に喜びの歌を聴かせれば、たちまちその心を癒し、草花を愛でる詩を唄えば、瞬く間に芽は吹き蕾は花を咲かせたとか。さらには、雨乞いの詩を歌に乗せたら雨雲を呼び寄せた、との伝説まであるほどです。まるで神の如き力。精霊でも天使の御技ですら及ばぬ奇蹟のような力です。
グリュニムトは成人し、自分の才能を世の為に役立たせるべく部族の里に訪れた大道芸団に誘われ旅に出ます。その末、彼は第五真王国の都ルクサンガリア、今のロクサニカに到着します。
そこで運命的な出会いを果たしたのが、都きっての若手宮廷詩人ガラティエ=ヒエロニムザでした。
彼はグリュニムトの力を知らずとも彼の作曲能力を褒め称え、グリュニムトもまたヒエロニムザの詩の艶やかさと格調高さに敬意を抱き、二人は良き友となりました。
ある日、ヒエロニムザは、母が流行病にかかり余命幾許もないことを友に告げます。グリュニムトは、ヒエロニムザを信頼し、自らの能力を打ち明け彼の母を治癒しました。ヒエロニムザは友人の奇蹟とその友情に感動し、グリュニムトを宮廷戯曲家として真王に推挙します。
こうしてグリュニムトは真王への謁見を許されると、ほどなくしてその実力を認められ、歴史に名を残す作曲家として数々の作品を残したのです。
5年近くの月日が流れ、彼らは名実共に宮廷きっての戯曲家としての地位を築き上げました。
ある日ヒエロニムザは、グリュニムトに華々しい話を持ちかけます。来春の祭典に、真王の伴侶たる天使が列席される。彼女のために戯曲を仕立て、歌劇をやらないか、と。
ヒエロニムザは、歓喜しました。天使に密かに恋をしていて、常より彼女のために書いてきた詩を捧げたいと願っていました。そして、その詩を乗せる楽曲を捜していたのです。
むろん初めは自らが認める良い音楽を欲していただけだったのでしょう。しかし、グリュニムトを真の友として迎え入れ、彼の神秘を目の当たりにした詩人は、その時心の奥底に歪んだ想いを抱いたのです。
きっと誰もが思い浮かべること。
“この力があれば、愛する人の心も手に入れることができる”
この時ヒエロニムザは大きな過ちを犯していました。
グリュニムトの神秘は、"詩の物語を現実に再現する"のではなく、"詩に隠された想いを現実化させる"力なのです。
彼の詩に隠された願い。ヒエロニムザが天使に恋したきっかけは?彼女の心を手に入れたい理由は?
彼はどのような想いを込めて詩を書いたのか。
来春の祭典で彼らの戯曲が演じられた時、全ては一変しました。
世界が歪み、人の記憶が歪められたのです。
王は屍となり、天使の心は抜け殻となり、ヒエロニムザは市民に讃えられながら王座に就きました。
実現した彼の想いの根底には、天使に選ばれた真王への憧憬と嫉妬があったのです。
異変の影響を受けなかったグリュニムトは、友の裏切りに絶望します。彼は変わり果てたルクサンガリアの市民達と共に都に残り、自らの力を憎みました。
また、一方のヒエロニムザは、自らの罪深さを目の当たりにすると、狂乱し、王座を棄て、逃げるように国を後にしたといいます。
やがて、幾月かの時を経て、グリュニムトはかつての親友が足跡を残したいくつもの地で奇怪な現象が起きている噂を耳にします。どういうわけか、ヒエロニムザはグリュニムトの奇蹟を利用することなく、ルクサンガリアの異変と同じような怪異を作り上げていたのです。
グリュニムトは決心します。己の力を見つめ直し、怪異に晒される人々を救けるため、友と再会するため、ヒエロニムザの足跡を追う旅に出るのです。
ーーこうしてグリュニムトは自らの研究と友の罪滅ぼしのため、それに一生を費やし、旅の果てにこの私記を遺したのです。
「その怪異の地を幻想地と呼ぶのですね」
「あ、はい。今の学説では厳密には異なりますが、そう捉えていただいて構いません」
アンネが開いた複製本をニコラスは借りて徐ろにめくってみた。そこには、小大軽重の違いはあれど様々な幻想の例が記載されていた。
例えば、泊まると男であろうと妊娠してしまう宿。
精霊を従える一族と悪魔に従う一族の確執。
夜な夜な騎士達の亡霊が戦闘を始める平野。
湖底の町で暮らす人々。
日没とともに全てが金塊に変わる町。
鉄を食べ、炎を飲んで暮らす人々の村。
「なんだこれは・・・これは本当に事実なんですか?」
「そのようです。確かな証拠にこれらの現象が起きた場所ではそのまま口伝や郷土史が残っていますよ。その研究は魔道研究所がまとめてきた膨大な研究資料の中にも当然あります」
アンネは左の鎖骨の裏辺りを指で掻きながら、少し得意げに微笑んだ。
ニコラスは人の裏を暴いている職業柄、彼女の仕草が何となく気になっていた。
(先程からずっと鎖骨を気にしてるな。癖なのかな)
「なるほどのぅ。しかし、この町で幻想が起こっていると何故分かるのじゃ?本に書かれたような、殊更に摩訶不思議な出来事が起きているようには思えぬのだが」
ゴドヴァノスの言葉はもっともだとニコラスはうなづいた。虎と見えた時のような不可解な現象を思い出したが、おそらくあれは幻想地との関係性はないように思えた。
「8対2」
ボソリと領主が呟いた。
「?」
皆一斉にアズアーリに視線を移す。
「昨年のザルツァイ教区管轄教会による検地更新の結果を見てな。目を疑ったよ。今の数値は、領主国土台帳における所有者変遷回数の比率だ」
つまり、ザルツァイ領国土を封建的に貸し与えられた貴族や領主直営地を借用購入した豪商ないし小作人の名義が変わった回数の比率ということだ。
「どういうことです?」
アズアーリは哀しげな得意げな奇妙な顔をした。
「ふふ。間違えるな。驚くべきことに2がザファケルを除くザルツァイ地区都市農村の合計値なのだよ。だから、比率の高い8のほうがザファケルにおける数値」
「な、なんですって・・・それは」
名義が変わる、とは即ち所有者が死亡するか、後継に譲るか、それができず領主に返還するか、三つの理由が考えられる。いずれにせよ数多あるザルツァイ領地属荘園のうち、ザファケル市のみに極端に名義変更の回数が集中していると領主は告げているのだ。
「ザファケルの都市貴族や豪商は、領主から貸り受けた土地を小作人や農奴にさらに貸し出し耕作させている。当たり前のことだが、都市貴族や豪商の一族が死に絶えれば、それにかかる所有者は芋づる式にごそりと変わる。まるでザファケル市全域にのみ呪いがかかったようだろう?」
「奇っ怪じゃな。納得したわい・・・」
「その死因はやはり」
「ええ。死紋病によるものです」
アンネの言葉の後、しばし沈黙の時が流れた。
「再流行のことは聞き及んでいましたが、まさかこれ程の規模だったとは。ところで閣下は近隣の町に足をお運びには?」
ニコラスは独り言のように疑問を口にした。
「無論行った。数値が示す通りだ。変わらぬ牧歌的な農村風景に心が和んだものだよ。君も訪ねてみるといい。この町に満ちた空気がいかに淀んでいるかを思い知らされよう」
「ザファケル以外の領地における2の数値の原因は、必ずしも死紋病に限ったものではなく、むしろ疫病死の例は少ないようですね」
そう言ってから、アンネは目を伏して言葉を続けた。
「ご存知のとおり、疫病の流行は、時間差はあれ、王都も含めてこのディケロニア全土に例外なく発生したわけですが、初めて流行が確認されたのがいわゆる10年前の「不可逆的大流行」です。そして、教会医師団と人口統計学者などで構成された王室諮問機関である死紋病対策三部会の調査では、1年半周期で大規模な流行がおよそ3度、小規模の流行がその合間に平均的に3、4度の頻度で発生した記録が提出されています。その後、西の地方ではこの5年程は病魔も息を潜め、大した流行は起きていません。ゆえに今後大流行は繰り返されないだろうと三部会のまとめを得て、王は結論を下しているのです」
「にもかかわらず、この町においてのみ大規模な流行が継続している・・・ともなれば、何かしらの因果を疑わざるを得ぬと。なるほど、3年前から魔蹴会の関与が認められるわけじゃ」
ゴドヴァノスが話の結論を括った。
都市という小さな単位で局地的に疫病が吹き荒れるなどということが果たしてあり得るのか。
アンネの話に出た幻想地という悪趣味な奇蹟のせいなのか、あるいはゴドヴァノスとの会話にあった伝説の魔女の術某か、はたまた世にも珍しい天然の悪戯なのか。
ただ、ニコラス自身にとって云える確かなことは、自分の任務がようやく形として見えたことだ。その上で、ニコラスは、一つ自分の中で靄がかっていた問題を領主の前で口にした。
「ところで、閣下はこの町に流れる歌をお聴きにはなられたことはあるのですか?」
「歌?」
「カダルタ教会のヒワスカ司祭から聞いたのですが、罪と罰の王を崇めるような詩の歌だとか。てっきり今回の件は神炎猟騎士としての招集かと思っー」
パンッ!!
ニコラスが科白を言い終わりもせぬうちに、アズアーリは突然両手を激しく叩き合わせた。そして、思いもよらぬ鋭い眼光をもってニコラスを睨み付けたのである。
「か、閣下・・・?」
「それは今はこの地では口にすべきでない言葉だよ。私のためにも、君のためにもね」
そう言ったきり、突如として場の空気を冷え込ませた領主は、無言で貴族外套を翻し、その場を後にしたのであった。