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第1章 〜邂逅〜 第4話

 目覚めたニコラスは、昨夜の酔いの名残を洗い飛ばそうと、部屋を出て楼閣が保有する井戸で水を汲んでいた。


 頭では朝だと分かっているのに陽の光を浴びない身体がそれを受け入れず体の歯車が噛み合わない心地だ。


 洗い落としたいのは酔いや眠気だけではない。昨夜から引きずっているヘイスワイズへの情念もだ。


 あの時、もし扉が叩かれなければ・・・。


 過ぎたことを気にしても詮無いことだ。

 なんにせよ、来た早々この田舎に心を掴まれてしまったことに違いはなかった。


「おはようございますヨ」


 変な挨拶が聴こえた。

 振り返ると着流し姿の男が歯磨き用の小枝を咥えて水桶を井戸に落としていた。


「あ、おはよう、ございます」


 小さな壮年の男だ。ニコラスの頭二つ分は身長が低く、黒髪を短く刈り込んでいるが、中心から禿げが広がってきている。大きな鷲鼻が野生的な風貌を誇張させており、その体躯の割にはどこか圧力を感じるところが印象的だった。


「見ない顔だネ」


「昨日到着したばかりでしてね」


「ほぉう。来た日から曲輪遊びとは、さては兄さんもかなり好きだナ?」


 小男は大口開けてカカカと笑う。

 なるほど確かに。客観的にみれば、遊び人の所業に違いない。


「はは。いや、実は懇意の者の好意で宿代わりに離れで寝泊まりさせて貰っただけなんです。あなたはこの町の住人ですか」


「おお、そうとも。皆はワシをこの町の支配人と呼ぶ。」


 ガハガハと笑い、大げさなことを言うが、憎めない愛嬌のある男だ。

 男は汲んだ水で顔を洗い流すと、手拭いで顔を拭いながらニコラスをジッと見て、言葉を続けた。


「そういえば、昨日はご活躍だったんだって?虎との大立ち回りの話を女郎達から聞いたぞ。君のことだろう?」


「活躍なんて。向こうが引いてくれて助かっただけですよ」


「謙遜するねェ。猛獣と張り合うだけでも立派なもんだ。それから一等 魂消たまげたのは、空が割れたことだナ。俺たちにとって、これはかなり重要なことだ。月の光なんざ何年ぶりに拝んだか・・・」


 ピシリと神妙な顔になって、男は、今はいつもの暗天を見上げた。


 こうして見るとナリは小さいが風格があるものだ、と感想を抱く。


「そんなに珍しいことなんですか?」


「そりゃ珍しいさ。それどころじゃない!奇跡と言っても良い!いやネ、行為の途中であれを見ちまったもんだから、吃驚びっくりして大事な息子が萎えちまったぐらいだ」


 ガハハハハと下品に笑う。


「ふふっ。俺はそれどころじゃなかった」


「大流行から10年、以来ザファケルじゃ一度たりとてあんなことは無かった。もし、あんたがこの町に来てあの奇跡を齎したのだとすれば、ワシは町を代表してあんたを表彰するヨ」


「それは光栄の至り。証明できないのが残念ですが」


 二人は声を出して笑い合った。


「さて、それじゃワシは町に戻るとするか。今日も仕事だ。商人に休みはない」


「あなたは商人でしたか。俺は暫くこの町にいます。縁があればまた会うこともあるでしょうね」


「名を聞いても?」


「ニコラス=アルツァス」


「ニコラスさんかい。聖人と同じ名だね。ワシはギュサンテ=ダントンだ。近いうちにまた会うかもナ。では」


 そう言い残し、男は手拭いを振り回して去っていった。


(ダントン・・・あの男が)


 ニコラスの頭に彼との因縁を訴えた姉妹の顔が浮かび、思わぬ出会いに奇妙な感慨を覚えた。



■■■■■■■■■■



 カタリナは早朝、仕事を終えて帰宅した。アルルは外出しているようだ。

 踏み固めた藁敷の床に座り込んで、昨日出逢った男のことを考えていた。都からやってきた聖騎士。男前で、誠実で、純情だが力強い。あの楼主が個人の男を誉める様を初めて見た。

 知り合えたのは僥倖だ。ようやく運が巡ってきたかもしれない、と少し胸が高揚するのを感じる。


 思えば自分に降りかかる出来事は不幸ばかりだった。死紋病で真っ先に母が死に、入れ替わるようにやってきたのは厄介事ばかり引き連れてくる厄病神。その不幸の女神は家に棲みつくや早速本領を発揮した。なんの前触れもなく父が投獄され、稼ぎは自分の体一つに託されたのだ。一度預かった妹を見捨てるわけにもいかず、今や自分までも世間から魔女の一族に認定されつつある。


 妹は見目も心も綺麗な子だ。無愛想だが、純粋で、一途なところが時折羨ましくも妬ましくもある。身を売り下げた自分は最早あのようにはなれないだろう。

 こうなったのはあの子のせいだ。と思ったことは正直一度や二度ではない!


 ガタンと音がして木戸が開く。稼ぎの代価に不幸を手渡す厄病神様のお戻りだ。


「あ、姉様。帰ってたの」


「アルル、どこに行ってたのよ?そんな泥んこになって」


 ぶっきらぼうにカタリナは応対した。

 しかし、どういうことだろう?いつもの辛気臭さがなく、泥まみれのくせにその顔には身内ですら見るのも稀な笑顔が浮かんでいるではないか。

 そして、もう一つ気になるのはアルルが部屋に入ってきてから漂ってきている香ばしい匂いだ。


「姉様、これを見て!」


 妹が手提げ籠から取り出したのは、まだほんのり湯気の立つほど温かそうな小麦パンとライ麦パンだった。まるまる二斤もある。


「アルル、これって!しかもこの甘い香りは」


「そうなの!一つは黒小豆のライ麦パン。それとね。もう一つは小麦のパンよ。干し葡萄が入ってるの」


「小麦のパンって!あんたこんなものどうやってー」


 パンを渡されてその温かみを直に感じる。なんとも香ばしい匂いが胃を刺激する。


「姉様の誕生日祝いよ。それから、実はこのパンにはすごい秘密があるの!」


「アルル・・・あんた」


 カタリナは間髪入れずに察してしまった。そして、胸が締め付けられる思いが去来した。それはアルルの心配りがもたらした感謝の気持ちではなかった。むしろ、また持って来た厄介事への苛立ちか、あるいはこれから起きるであろうことに対する良心の呵責だったのかもしれない。


 そうだ。この妹が小麦でできた上質なパンなど、たとえどれだけお金があっても手に入れられるはずがないのだ。カタリナは知っていた。商会の手回しで妹が町の誰からも何物も売り買いできない事実を。


 勝手に喉から言葉が迸った。


「あんた。市のパン屋から盗んだわね・・・」


「え?」


 不意に差した翳り。姉の顔が歪む。


「やってはいけないことを!」


「えっ、姉様??・・・ち、違う!」


 過ちは正さなくてはならない。カタリナは容赦なく畳み掛けた。


「何が違うのよ!あんたがどうやったら小麦のパンなんて手に入れられるの!?言ってみなさいよ!」


 アルルは思いも寄らぬ叱咤に頭が真っ白になり声を詰まらせた。

カタリナはその態度が図星を指されたものと捉えた。頭には血が上り、腹からせり上がってくる声は震え、気がつけば手のパンを妹の顔に投げつけていた。


「あんたって子は!なんて情けない。あ、アタシは父さんに顔向けができないわ!あんたは恩を仇で返したのよ!」


「ね、姉様、お願い。聞いて!」


 カタリナはたじろぐ妹の目を正面から見据えた。


「聞くのはあんたのほう。いい?私達はどれだけ貧しくても罪だけは犯さず、真っ当に生きてきたわ。父さんだって今も冤罪を被ってジッと耐えてる。神様の正義が守ってくださっているからまだ刑は確定していない。なのに、もしもあんたが罪を犯して捕まってしまったら、議会の連中は父さんの罪まであっという間に認めてしまいかねないのよ!あたし達は、父さんのためにも耐えなければならないの!分かる!?」


 姉の目には涙が滲んでいた。


「あ・・・あ」


 アルルは確かに姉の言葉を理解した。盗んだかどうかは関係がないのだ。魔女が小麦のパンを持っているという事実がいけないのだ。魔女は妬まれたり、怒らせたり、疑われてしまったりしてはお仕舞いなのだ。

最早何を言っても言い訳にしかならないと悟り、がくりとうな垂れた。


 その様子を見たカタリナはグッと唇を噛み締め、無言で家を出て行った。


 取り残された少女は、干草の床に転がる小麦パンを呆然と見つめ、掠れた声を漏らした。


「どうして・・・どうしてこうなるの?」


 さっきまで姉が座っていた藁敷きに、アルルはついと突っ伏した。カタリナに感謝の気持ちを述べたかった。喜んで欲しかったんだ。ただ、それだけだったのに。


 体全体が震えた。心の底から魔女と呼ばれる自分自身を遣る瀬無く感じた。自分という存在をー。


もはや姉には妹に対するわずかな信頼も親愛も同情すらも、藻屑と化したに違いない。


 しばらくそうしていて、つい先程まで心を温めていたカタリナの幻の笑顔が頭から消え去るのを感じると、アルルは身体を震わせて、嗚咽を漏らした。


・・・・・・


 カタリナは一直線に楼閣に向かった。

 苛立ちが収まらない。どうしてこんなに腹立たしいのか、心の奥底でその理由は分かっている。ただ、懺悔しなければ、と心が逸る。貧民には神の加護が必要なのだ。罪は告白し、浄化しなければならない。教会の人間に、そうだ、もう一度ニコラスに逢いたい。


 冥香楼インフェルミナに着くと、楼閣前に馬車が停まっていた。

 御者台後部の四輪車両には黒と金で誂えた客室が備えられ、その扉には領主ルクセンカッツェ家の紋章が描かれている。


「あれは・・・。そっか、聖花嬢インペレイアが!」


 3年前のことだ。冥香楼インフェルミナに在籍するこの町きっての高級娼婦がいた。彼女は、さる貴族客の筋から着任したばかりの領主暗殺の企てを知った。そして、あろうことか彼女はたった一人で、自らの体を張って領主を狙う暗殺者を斥けたのである。


その事件がきっかけで若き領主に見初められたその高級娼婦は、ついに領主本人に身請けされるという誰も想像だにしなかった顛末を呼び起こしたのである。


 娼婦の名はラナイエッタ=マルゴーといい、町では女傑「ラマルゴ」の愛称で親しまれている。カタリナをはじめ町の女子の憧れであった。


 「聖花嬢インペレイア」とは、そんな伝説の娼婦の二つ名である。


 カタリナが門をくぐったちょうどその時、遣っ付け程度に修繕された玄関扉がガタリと開き、楼主とラマルゴが歓談しながら現れた。


 今年、ラマルゴ夫人が目出度くも第一子を出産したと号外で話題になったことを思い出す。冥香楼にはその挨拶に来たのだろう。憧れの姿を見て喜んだのも束の間、その隣に見えた聖騎士の姿に、カタリナはチクリと胸を刺す痛みを覚えた。


 一頻りの挨拶が済んだのか、ラマルゴが馬車に乗りかけたところでカタリナは駆け寄った。


「ラマルゴ様〜!」


「あら、カタリナさん?お久方ぶり。暫く見ないうちに綺麗になったじゃない」


「ラマルゴ様はお変わりなく素敵ですよね!またお会いできて嬉しいです!」


 ちゃんと憶えていてくれた。カタリナは満面の笑顔を返す。

 ニコラスはカタリナのあどけない顔を少し意外そうな顔で見ていた。

きっと昨日の男勝りは、旅人や衛士の前で気を張り詰めていたからなのだろう。この笑顔が本来の彼女なのだ。


「有難う。ところでカタリナさん、何かあった?」


 ラマルゴの無邪気な眼がカタリナのわずかな表情の陰を見抜いたのである。彼女は人の感情の機微を敏感に読み取ることに長けていた。


「あ、いえいえ!そんなラマルゴ様にお聞かせできるような大層な話じゃありませんので」


 カタリナは慌てて目の前で手を振った。


「あら、そ。ま、ワタクシもゆっくり悩み相談聞いてあげる時間もないし。そうね。折角だからニコに聞いてもらいなさいな。教会の人だし」


とあっさりした返事をする。


「ニコリン?」


 カタリナが素頓狂な声を出した。

 ヘイスワイズがプッと吹き出して笑いを噛み殺すのに失敗している。その目線の先は言わずもがな。


「ラマルゴ様。それやめて下さいよ。騎士の権威も何もあったもんじゃない」


 ニコラスが頭を掻いてふてくされている姿がどこか可愛らしい。


「あはっ。ニコリンですかー。可愛い!それ、使わせてもらいます!」


「よせ、使わなくていい!」


「あらら、虎退治の豪傑が形無しね。カタリナも悪ノリが過ぎますよ。」


「さっきからヘイスワイズさんが一番笑ってますけど」


 ジト目で拗ねるニコラスを見て、再び一同は笑いの渦に巻き込まれた。


 そこで、おや、とカタリナは気付いた。ニコラスが楼主を名で呼んでいる。いつの間にそんなに親密になったのか。


 ラマルゴは、あー、おかしい。と目を擦りながら車室の扉を開くと、やおら振り返って、深く優雅にお辞儀をした。


「では、楼主殿。時間も取れず、今更朝早くに押し掛けたる無礼、お許しくださいまし」


「ラナ。ここは貴女の家よ。いつでも寄ってきなさいな。私とあなたの間には格式も形式も要らない。そうでしょう?」


 ラマルゴとヘイスワイズは、互いの頰に口付けし、短い抱擁を交わした。


「有り難う、お母様マーテル。皆様もご機嫌よう」


 二頭の双角馬ドゥアルコが嘶き、馬車は土埃を立てて去って行く。すれ違うような短い時間だったが、ラマルゴとの会話は荒んだカタリナの心を和らげていた。


「ところで、あなたは帰ったとばかり思っていたけれど?」


 不意に話を振られてカタリナは出始めの言葉が思い浮かばず狼狽えた。


 「え、っと。ちょっと聞いて欲しい話があって。ニコラス、良いかしら?」


 カタリナは楼主の顔を見ると、微笑みを返された。


「これから教会のほうに用がある。二人で話したいことなら部屋を借りようか。一緒に来るかい?」


 教会と聞いて一瞬躊躇いを覚えた。しかし、逃げては行けない、必要なことだと思い直す。


「分かった。一緒にいくわ」


 昨日と同じように中央広場を突き抜け、貴族街北大門に至る。そこの番兵に身分証を提示すると、衛兵は二人を連れ教会入口まで誘導した。


「ニコラスはカダルタ派?」


「いや、俺の実家は真教だ。だが、カダルタ聖人の教えには深く賛同しているよ。人と精霊は手を取り合い大地のために力を尽くすべきだと思っている」


 ニコラスは、教会の前に積まれた死体の山を横目で追いながらそう答えた。今もまた、墓掘人の手で一人の若者の遺体が投げ重ねられた。


「あれ・・・」


「ん?どうした?」


「今積まれたの、アタシの知り合い。ダンってやつ。意地悪な男だったわ。でも、なんだかこういうのに慣れてしまったわね」


 若い命も容赦なく奪われるのが疫病だ。これもダンという少年の運命だったのだろう。ニコラスは、心の中で月十字ルナクルクスを切った。


「そういえば、貴方は何の用で教会に?」


「ああ、着任前の挨拶さ。君は?」


「懺悔したいの。できればニコラスに聞いて欲しいのだけれど・・・」


「告解か?まいったな。俺は資格を持っていないんだ」


「聞いてくれるだけでいいの。ダメ?」


 ニコラスは、少しの間唸り声を漏らしていたが、これも護衛に必要なことだと理解して、うなづいた。


 教会の大扉を開くと、外気とはまた違った質のジメッとした冷気が二人を一瞬包み外へと逃げていった。石造りの壁や床が冷気を吸収して構内の温度を一層下げていた。

本来ならばタペストリーなどを壁にかけて暖炉の熱を多少なり逃さぬよう仕掛けるのだが、そんな工夫はこの教会堂のどこにも見られなかった。


 朝の礼拝はとっくに済まされ、今や身廊ナヴィスは人の声無くがらんどうとしているため、二人の靴音の一つひとつが高天の聖堂に響き渡っていく。


「事務室は二階だな」


 側廊アイルを通りながら、神話を描いた天井画を眺めつつ、翼廊トランセプタから二階へ延びる階段に至った。


 二人が階段を昇り上階に足を踏み入れると、俄かに激しい口調の会話が聞こえてきた。

いや、声色は一つ、一方的に捲し立てているようだ。


 カタリナはどんよりとした気持ちになった。知った声だ。

 扉が開き、漏れ出る声の音量が大きくなる。神父に押し出されながら現れたのは、予想どおりバゾー家の三男だ。


「いいか!魔女の呪いだ!教会には調査の義務があるんだぞ!?」


「話は分かったから出てお行きなさい。この教会で大きな声は要りませんよ。そして、君は世間に対しもっと礼節を弁えるべきだ」


 イザェク=バゾーは説教は無用とばかりに、神父の手を振り払うと踵を返した。


「ち、イザェク・・・」


 カタリナは目が合うと露骨に舌打ちした。


「おっと、なんだ?売女が教会に何の用さ?」


「こっちの科白さね」


 普段ヨイヨイおちゃらけているイザェクがやけに機嫌が悪い。


「なるほど。妹のために懺悔に来たんか?」


 カタリナは傍目で判るほど紅潮した。なんであんたが知ってるの?と顔に書いている。


「図星か」


「あ、あんたこそ金魚の糞が死んじまって慰めてもらいに来たのかい?外で見たわよ。ダンの奴が積まれてるの」


 その言葉にピシリとイザェクは表情を固まらせた。そして次の瞬間、見見みるみると顔色が変えるや、カタリナの胸倉を掴むと、無言で床を蹴り、その身体を壁に叩きつけた。


「てめぇ、どの口がほざく!てめぇんとこのがやったんだろうが!朝起きてから一つ目の鐘が鳴るまではなんとも無かったんだ!」


 イザェクは、哀しみのままに眉間を寄せ上げながら、泣きそうな表情で喚き立てた。脈絡のない言葉を乗せて力任せに胸倉を握る拳が、ぐいとカタリナの喉元にめり込む。


「な、何言って?言ってる意味わからなー」「朝すぐアルルに会ったんだよ!森精霊祠堂アルヴェルタで!ダンをっ、くそ、魔女めが、よくも」


「く、苦し」


 カタリナが呻きを漏らした瞬間、イザェクの襟首が持ち上がると、身体がフワッと宙を浮いて、後ろに引き戻されてしまった。


「な、なんだなんだ?」


 思いも寄らぬ力を体感し、イザェクは毒気を抜かれた顔でグルンと振り向いた。


「すまんが、見兼ねてね。手を出させてもらうよ」


 騎士姿の男が、片手で図体の自由を奪っている。


「ゴホゴホッ!二、ニコラス」


「だ、誰だ??」


「中央の教会騎士をしている者だ。カタリナの友人さ」


 地位を好む者は権力に弱い。イザェクの勢いが見る間に萎んだ。


「中央の騎士様ー!?ウソだろ。なんでカタリナなんかにそんな知り合いが!?」


「いては悪いかな?」


 ニコラスは威圧的に微笑んだ。


「お、あ、あんた、には関係ないよ。ダンが、俺の友達が、ま、アルルに殺されたんだ。黙っててくれよ!」


「なんとなく話の流れから推測出来たが、君は本当に朝アルルと会ったのか?」


「そうだよ。アルルに聞いてみろよ!」


「そう言えばアルル。朝戻ってきたら焼いたパンを持って帰ってきたわ」


「はあ?パンを持ち帰っただー?なんでっ!?」


 イザェクが思わぬところで奇声を上げた。

 カタリナは思わず反論に半ば吃驚びっくりしながら、地主の息子に呆れた声を返す。


森精霊祠堂アルヴェルタから帰ってきたならパンを焼いてくるのになんの疑問があるのさ?あんたバカ?」


「ち、違う!奴のパンの生地は俺が具茶具茶ぐちゃぐちゃにしてやったんだ!焼けるわけが・・・あ」


 カタリナの不審な眼差しがイザェクの言葉を詰まらせた。


「あんた、弁償しなよ?」


「その話は後だ。ダン君とやらが死体焚きの山に積まれたということは、流行病で死んだからだろう?朝発病したとして、この数刻で死に至るなど・・・」


「だ、だから!魔女の呪いだって言ってるんだ!!」


 ニコラスは押し黙った。それが事実ならなんとも奇妙なことだ。これまでの経験上どんなに重い病態でも罹患してその日に死に至った話など聞いたこともない。

世を果無んで自殺でもしたのか?


 カタリナは二人の様子を見て何かを言いかけ、引っ込めた。


「ふん、もういい。教会に調査を頼んだからな。アルルが魔女と証明されればもう終いだ。薪を火にくべる時を今から楽しみにしてるぜ」


 そう吐き捨てて去るイザェクの顔は、科白とは裏腹に友人を喪ったつらさで歪んでいた。


 ガタリと音が鳴る。

イザェクが去ったところで、見計らったように部屋の扉を開いて、神父が姿を見せた。


「おっと。終わりましたか?では貴方達。私に用があったのでしょう。中にお入りください」


 聴いていたのに助け舟を出さなかった事はなんら悪びれず、神父は和和にこにこしながら手招きしている。二人は溜息混じりに顔を見合わせ、肩を竦めた。


 余計な装飾が何もない小ざっぱりとした執務室に通されると椅子を出され、神父と対面する。


禿げ上がった頭に柔和な面立ちでいかにも世話好きそうな初老の男だが、どうも一癖二癖ありそうな気配も匂わせている。ニコラスが彼を見た率直な感想だった。


「疫病の手前、香茶も出せずにすみませんね」


「お構いなく。戒厳時に条例で定めているんでしょう?国からの発令がありましたからね」


「そんなことより神父様!こっそり見てないで助けてくださいよ!あの阿保坊あほぼんにはうんざりだわ!」


「まあまあ。彼には彼なりの理由があったようではないですか。ダン君のことは残念でしたが、イザェク君は彼のために長い間冥福を祈っていましたよ。それにしてもカタリナ。教会に来るのは随分久しぶりですねぇ。やっと今の仕事から足を洗い、戒心に来たんですか?」


「え、違うわよ。戒心でなくて懺悔よ。ニコラスに聴いてもらいたくて・・・」


 カタリナは片手で教会騎士を紹介する。

 どうもこの神父は話をはぐらかすのが上手らしい。カタリナの痛いところを突いて他の話題を促したのだ。


「お初にお目にかかります。教皇庁王都中央教区ガラテェア聖堂外務主事ニコラス=アルツァスです。このたび、このザファケル市に領主附属参謀機関長として赴任して参りました。以後よろしくお頼み申します」


「これは中央の!丁寧なご挨拶痛み入ります。本堂、カダルタ派聖ヨラバスカ教会の司祭ノバラ=ヒワスカと申します。お見知り置きを」


 二人は胸の前で月十字を切って軽い礼を交わした。宗派こそ違え、同じ神を戴くものに対し、わざわざカダルタ派と頭に置くところがこの人の宗旨に対する矜持を思わせられる。


「グリエマ殿のことは残念でなりません。アルツァス殿はいつ頃着任なされたのですか?」


「いえ。実は予定よりも早く着いたもので、領主との謁見は控えたままなんです。今のうちに町の様子を目にしておこうと」


「そうでしたか。表を見ての通り、この町は変わらず疫病の禍事から逃れられずにおります。主はザファケルにとっていまだ試練が不充分とお考えのようだ。世間はとうに復旧しているというのに」


「神の御心は推し量れますまい。聞けばこの疫病は魔女の呪いによるものと噂を聞きましたが?」


 そう言ったニコラスにカタリナが鋭い視線をぶつけた。


「ちょっと、ニコラス!」


「これこれ、カタリナ。いかに“世に生まれしは皆、父なる神の子”と申しても、目上の・・・」


「構いません。私からそうしろと言ったのです」


 神父はそう聞くと、ふと微笑んでニコラスを見た。


「どうやら貴方は些細な身分のしがらみから解き放たれた御仁のようですな」


「恥ずかしく。未熟者なだけです」


 ニコラスは頭をかきながら、また話をはぐらかされている事に気付いた。


「話を戻しましょう。私は事実が知りたいだけなんです。魔女とはアルルのことのようですが、ヒワスカ神父はどうお考えで?」


 神父はかぶりを振って答えづらそうな仕草をする。


「率直なところ、魔女の立証というのは大して意味を成しませんよ。教会は魔女を探すのではなく魔女の噂を聞き咎めるだけなのですから」


「では、何故アルルを縛鎖にかけないのですか?」


「それは私の口からはなんとも・・・。領主様に訊ねてみてはいかがかな?」


「神父様!」


 カタリナが詰め寄るが僧騎士は片手で制した。


「カタリナ、止むを得ないよ。司祭殿の立場もある。俺から明日の謁見の時に訊ねるさ」


 そう言われては、カタリナは渋渋身を引かざるを得なかった。


「ご理解いただけて感謝します。さて、カタリナは懺悔に来たのでしょう?」


 神父は得意の話題切り替えを素早く披露する。カタリナは俯いたままニコラスの袖を引っ張った。


「そうなんだけど、ニコラス、ごめん。やっぱり少しだけ待って・・・。私もまず真実を知るべきだったんだわ」


「先程のあの坊ちゃんとのやりとりで何か気づいたんだな。それが良い。賢い娘の選択だ。アルルの所に戻ってあげるといい。ああ、その前にナリを綺麗にしとかないとな。心配されかねない」


 ニコラスは気遣いの微笑を見せると、カタリナの乱れた襟元を調え、髪を指で梳いた。カタリナはされるがまま恥ずかしそうに体の前で手を握り合わせていると、母の世話を焼いていた幼少の時分に戻った気がした。


 これでよし、とニコラスは満足げに呟くと、カタリナの頭を最後に軽く撫でた。


「もう、子供扱いしないでよね!じゃ、アタシ行くわ。さよなら」


 カタリナはサラッと踵を返すと、ニコラスの顔も見ずに早足で去っていった。


「やれやれ、怒ってしまいましたね」


「いやいや、照れていたんですよ」


 振り向くことなど出来るはずがない。顔が真っ赤になっていたのがバレてしまうから。

 ニコラスの大きな掌を感じ、カタリナは気分良く、足取り軽やかに階段を降りていった。

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