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第1章 〜邂逅〜 第2話

 カタリナは、アルルに帰宅を促してから、依頼人とともに第三市民街に向かった。


 第三市民とは貴族や平民以外の者を示す言葉だ。市からの福祉、物的供給を受ける優先度が第3位であることを言い含めた表現でもある。また、中央広場の貴族街を第1階層として、階段を降りるごとに数え3番目にある街を第三市民街と云い、この小都市では位や貧富によって明確に商売区域や居住区域が分けられていた。


 雨足も良い具合に収まり、冷えた外気を吸い込みながら、二人は中央広場の大階段を降りていく。


 その途中に階段を踏み外したのか、頭を階下に向けて倒れ伏した死体があった。


「懐かしいな」


 ニコラスは、その光景が過去に感じ入るもので、不謹慎にも思わずそう口走ってしまった。


「町の外からここを訪れた人はよくそう言うの。久しぶりに見たって。外では死紋病はもう一昔前の出来事なのよね」


 カタリナはそう呟いて唇を噛んだ。


「まだ息をしているかも」


 ニコラスがその死体に近づこうとするとカタリナはそれを手で制し、首を振った。感染うつるかもしれないよと言っているのだ。


カタリナはこの死体を目にし、近づいて見るまでもなく疫病の死体と認識している。


 きっと彼女にとっては当たり前のことなんだろう。


「そうか。この町ではまだ続いているのか。不幸なことだ」


 死体に簡易的な祈りの言葉を投げかけ、その場から立ち去る。階段を降り切ったところで、どこか見覚えのある酒瓶が砕けて転がっていた。


・・・・・・


「アルルには手を焼いたでしょ?」


 しばらくして白い吐息とともにカタリナは言葉を吐いた。


「そうだな。だが、どうだろう?掴み所がないようで、実は分かり易い子って気もするが」


 カタリナは噴き出して、確かに!と楽しそうに相槌を打った。


「ダントンの名を出したら怒られたよ。奴の仲間か!って」


「あら。それは怒るわよ。そうなの?」


「いや、会ったことはない。彼の名は旅の途中で聞いたのさ。分け隔てなく相談に乗ってくれる人徳者だと紹介されたんだが」


 そう聞くと、カタリナは屈屈くつくつと笑った。


「ふふ、その言葉はきっと商人ね。ダントンが親身になるのは儲け話が絡むときだけよ」


「正解だ。なかなか鋭いな。実は猫族バステニャンの商隊と知り合った時なんだ。そうか、ダントンね。何やら一癖ありそうな人物じゃないか」


 カタリナは繕いもせず素直に驚く隣の騎士をじっと見つめて、表情を緩めた。


「参謀長様は不思議な人ね。領主様の側にいる貴族達とは全然違う」


「俺は貴族の生まれじゃないからな」


「本当に?驚いた。平民が聖騎士に取り立てられるなんて信じられない!」


「よく言われるな。自分でもいまだに不思議だよ。主の思し召しというやつかな」


「啓示を受けたの?」


「啓示か・・・。いやどうだろう。俺は子どもの頃に一度だけ奇妙な体験をしたことがあるんだ。あれはなんだったのか。主の在わす世界というのか、話しても信じられないだろうが」


 答え半分で、よく分からない事をぶつくさ呟いたまま、彼の言葉は尻窄みに消えてしまった。

 カタリナは追及を控えて僧騎士の沈黙に従った。この若さで聖騎士の称号を手にしたのだ。生半な人生ではなかったことぐらい容易に知れる。


 一方、ニコラスは去り際に聞いた衛士長バラクの言葉を反芻していた。


ーー楼閣街の連中にはどうか気を許されませぬよう。いずれ分かることですが、ダントンと正面からことを構えている奴輩やつばらです。人の弱味を握ることこそ奴等の常套手段なのですから。


 しばし歩を進めてからニコラスは口を開いた。


「これでも剣王伯領出身なんだ。説法よりも剣を振り回す方が得意なもんさ」


「ふーん。あんな野蛮なところから?とてもそうには・・・と、野蛮だなんてこりゃ失礼」


「構わんさ。かく云う俺も辿れば傭兵から身を起こしたのだから」


 カタリナは商売柄傭兵の相手をしたことは何度もある。彼女が知る傭兵は誰もが匪賊と紙一重だ。表裏一体と言っても良い。夏に傭兵として従軍し、その冬には野党と化して略奪を繰り返す。下衆ばかりだ。


「それでも俺たち傭兵団は誇りを持っていた。かの『女神の息吹傭兵団』のようにね」


「格式の高い団にいたのね。誇りなんて言葉を吐ける傭兵なんて限られてるわ」


「話せるじゃないか。俺は“斧”の一員だったのさ」


「え、あの!?」


「そう。“あの”だ」


 ニコラスは得意げに微笑んだ。


 彼は僧位を授かろうが爵位を賜ろうが自身の過去を見下げたことは一度として無い。己が身命を賭した『グランヴァチカノスの斧傭兵団』を知らぬ者がこの国にいるはずがないという自負があった。先の戦争で北方帝国を退けたその輝かしい戦歴は舞台にまでなっているのだから。


「俺のことはニコラスでいいよ。その方が気が楽だ」


 聖騎士は、呟くようにそう伝えた。


・・・・・・

 

 雲に隠れたわずかな陽の光がゆったりと地平に沈みはじめた黄昏時、労働の終わりを告げる鐘の音が遠く響いている。


 ニコラスは第三市民街の西、楼閣街に足を踏み入れていた。中央階段を挟んで、左区には貧民層の住民街が敷かれているが、二人が向かったのは右区の地下露店街を抜けたさらに奥。市内の労働者は帰宅を始めたろうが、この区画は今まさに目覚めようとしていた。


ーーここは夜華開く街


「ようこそ、楼閣街へ」


「・・・・・・」


 辿り着いた先に拡がる絢爛な街並みに、ニコラスは見事に言葉を失った。


「ふふん。王都でも見られないでしょう?リュケーネ月殿国の風調なのよ」


 この町の娼館は、すべからく楼閣という東方の建築様式を採用しており、女楼閣と呼ばれている。異国情緒溢れるこの一廓は、他の都市では類を見ない仕様だ。


 楼閣街という呼称のとおり、この別天地を貫く大通りの側面には大小あれど2階、3階あるいは5階建の女楼閣が建ち並ぶ。いずれも赤柱白壁黒瓦で外観は統一され、諸所に色彩豊かな水晶装飾が施されていた。


 表通りに置かれた灯篭の明かりは、闇夜にぼんやり浮かぶ愚者火イグニス・ファトゥスのようだ。情欲を掻き立てる媚香に酔った嫖客ひょうかくは、色めき立って振振ふらふらとし、心揺れ惑いながら黄泉路ならぬ色路に誘われる。


 中央広場ですらほとんど見られなかった人の影が、聞こえなかった人の声が、この一廓にはひしめいていた。

 世を儚み、生を諦めた者達が求め行き着くところは、結局、理性を打ち捨てた後の快楽しかないのかもしれない。

 見よ。遊女に酒を注がせる禿頭僧侶の劣情を。罰を愉悦に変える鞭打苦行者の堕落を。獣女の尾を握り、組み伏すがまま支配欲に身を浸す獣人たちの恍惚を。

 ニコラスはそれらとすれ違う度に鼻孔をくすぐられた。背徳からにじみ出るえた匂いを覆い隠すかのように、甘い香りの煙が夜道に漂っている。


 ふと視線を感じて見上げると、楼閣の露台バルコニーから煙管キセルをふかす遊女が濡れた目でこちらに手を振っていた。着慣れないのか前懸けの着物を閉じ損ねたように大きくはだけた胸元がひどく艶かしい。

 僧騎士は、だしぬけに己の心臓が跳ねるのを感じた。まるで女を知らぬ青臭い少年の時分に戻ったような気恥ずかしさを覚え、目を逸らさずにはいられなかった。


 周囲を歩く遊客を除けば、ほとんどの人が同類の着物を身に纏っているようだ。この街の職業民は、西の民が着用する窄衣さくいではなく、布地を前で合わせる東の民特有の懸衣かけいで身を包んでいる。思い起こせば、ニコラスは今までの人生でこんな異文化に直に触れる機会すら無かったのだ。


「すごいな。初めて目にしたよ。楽園の東にあるという桃源郷とはこんなところなのか」


「まぁ。随分大げさねぇ」


「いいだろ?そう言いたい心境なんだよ。カタリナもこういう服を着るのか?桃源郷に住まう者を天女というらしいが・・・」


「ふふ!ちょっと!もしかしてアタシを口説く気?」


 カタリナは思わずニコラスの腕を組んだ。遊女の血が騒いだのか、単にこの天然男をからかいたくなったのか。


「おいおい、バカ言うな!それから・・・身体をくっつけるな!」


 カタリナの身体のかたちを腕で感じ取り、僧騎士は狼狽した。どうやら今宵の彼の免疫力は著しく低下しているらしい。


「何を慌ててるのよ。ここではごく自然なことだわ。むしろこの方が目立たないわよ」


 蠱惑的な笑みを差し向ける天女もどきに翻弄されつつ、ニコラスはさらに進んでいくとやがて一際大きな楼閣に出くわした。

 ここが突き当たり。この街の最奥だ。


「ニコラス。ここが今日の貴方のねぐらよ」


 立派な門構えがあり、掲げられた扁額には月殿国の文字で『冥香楼』と書かれている。


「なんて書いてあるんだ?」


「この文字の読み方はちゃんと知らないけど、この館は『インフェルミナ』と呼ばれてる。意味は“冥府に誘う女”よ」


 傍らで己の腕に絡みつく女が妖しく囁く。

 人が創る夜の鮮烈さに当てられながら、ニコラスは思考が追いつかぬまま、導かれるがままにその門をくぐった。


・・・・・・


「少しお待ちくださいな。楼主に話をつけてきますゆえ」


 カタリナが外すと、代わって小人ジュジュ族の小姓がニコラスを絨毯敷きの広い板間に案内した。


 一度、調査の一環で都の娼館に入ったことはある。その時も彼のような小人ジュジュが客と娼婦の間を取り持っていたことを思い出した。


 用を終えた小人ジュジュ族の男に銅貨を渡し誰もいなくなったことを確認すると、ニコラスは倒れるように深々と客用の長椅子に座った。

 その心地良さからたまらず一つ欠伸をすると、堰を切ったように疲労が押し寄せるのを感じる。


 思い返せば、一昨日前の夜には旅客船で寝入ったが、起こされたのは南湾岸のデメルチ港に到着した時で、夜が明けたばかりだった。港から馬車でほぼ丸一日かけて山道の麓まで送られたが、道は兀兀ゴツゴツしていたし、寒くてろくに眠れなかったものだ。

 山道はかなり整備されていたので中腹までの登りは苦にならなかったが、途中、そこで子鬼族ラルヴァに襲われていた獣人の商隊を助けたのだ。お礼に少し早い昼食を馳走になって・・・


(今日は長い一日だな)


 考えていると眠くなり、ニコラスは、首をぐるりと回した。

 薄暗いこの応接間を見渡し、ふと思う。この町に足を踏み入れた時にも感じたことだ。


 この街からすれば懐かしいと思われるのは心外だろうが、死紋病で枯れ果てた町の姿を久しぶりに目にしてゾクリとしたのだ。

 王都からこの町に至るまでに目にした町々村々はもう随分前に人の顔から翳りが消え、元の暮らしに戻っていた。

 衛兵もカタリナも病魔の復活を口にしていたが、なるほど。当時の王都では石を投げれば必ず屍に当たると言われた地獄の光景が、規模こそ小さいにせよこの町では続いているというのか。


 この雅やかな快楽者達の領域にも死が満ち溢れているのだろうか。


 死紋病という災厄は平等にこの国の人を喰らった。それこそ娼婦から司祭まで分け隔てなく。


 しかし、なぜか北の異教の敵国すなわちドラグマラ帝国からは発病の報を聞いた試しがなかった。海を渡った南のヴェルガノッサ大陸ですら死病にやつれていたと聞くのに。


(・・・疫病が神の与えた罰ならば、父なる神は、子が住まう国よりも龍なぞを崇める帝国を愛しているというのか?)


 戦場で病に屈しこの世を去った仲間達の顔が脳裏にちらついては消えていく。


「そんな理不尽なことがあっていいのか」


 ニコラスは独りちた。


 普段の癖で腰の剣柄を触ろうとして思い出す。武装は門番に預けてしまっていたのだった。


 腰元が軽い・・・この状態が妙に不安を誘うのだ。


 心なしか何処かの部屋から甲高い嬌声が漏れ聞こえているような気までしてしまう。

 

「アルツァス様。お待たせいたしました」


 そこに突然聞こえた女性の声が、ニコラスの思考を途切らせた。現れたのは、豪奢に着飾った風格ある女だった。その後ろには着物姿に替えたカタリナが控えている。


 今日、この町に来て何度目だろうか。ニコラスはまたも驚かされた。


 ああ、なんと異質な存在であろうか。その女性は、この暗黒時代に似つかわしくない精気に充ち満ちていた。そして、朝露に濡れた緑葉のように輝かしい香気と、静かな水面に広まる波紋のように澄み切った声音を持っていた。


「初めまして。冥香楼インフェルミナの楼主ヘイスワイズと申します。ようこそ拙館においでくださいました」


「・・・あ、アルツァス、です・・・」


 楼主はただの人ではなかったのだ。いや、目の前にいるのはそもそも人ではない。この寒冷地にしてなお新緑の気配をまとう麗しき森の精霊だったのである。


 古来、森精アールヴは人民に祀られてきた。その理由を挙げるならば、この世に初めて生まれた人型生命であることに尽きる。言い換えれば、彼女らは人が好む美的感覚の起源とも云うべき神秘の美貌をもっているのだ。


 楼主ヘイスワイズも有無を言わせぬ美貌の持ち主だった。

 何かの花の化身なのだろう。その束ね上げられた薄い桃色の花弁の髪は、部屋の明かりを受けて濡れた光沢をつや出し、透けるような白い肌と境界も曖昧な薄緑の瞳が、儚げだが異質な存在感を醸し出している。


 なめらかな細い首の下は、両肩を露わにした意匠(懸衣にしては奇抜だ!)が彼女の色気を引き立たせているが、それよりも一際目を引くのは、二の腕から肩口にかけて逆立つウロコのように咲き開く数枚の花びらだ。

 それは、人が統べるこの地に在って、敢えて異形を誇示しているかのようだった。


「貴方は、森精アールヴ・・・なんですか?」


「そのとおりです。可笑しいでしょう?森の民がこんなところで女衒ぜげんの商売をしているなんて」


「あ、いや。正直、今日一番の衝撃です」


 森精は、そう聞くと、クスリと微笑んで、翠光の瞳でカタリナの方を一瞥し、教会騎士に向き直った。

 見た目だけ云えば、カタリナと幾許も変わらぬほどの若い女性の姿をしている。だが、その威厳はただの娼館主のそれではない。

 

「アルツァス様。出会って間もないアルルをお救けいただき、またカタリナを案じ、このような場所にまで足をお運びいただく貴方の仁慈に感謝と敬意を捧げますわ」


「滅相もない。神の教えのもと弱き者をたすけただけです」


 森の精はゆっくりうなづいた。


「このカタリナは私どもの家族のようなもの。なれば貴方は恩人。後ほど食事をお持ちしますから、今宵はどうかここでごゆるりとなされませ。カタリナは離れの客間にご案内して差し上げなさい」


「かしこまりました」


「かたじけない。大したことはしていないので恐縮ですが、ここはご厚意に甘えさせていただきます」


 ニコラスは律儀に二人にそれぞれ礼を用いた。


「それからアルツァス様、夕食の後少しだけお時間をいただけませぬか?お伝えしたい事がございます。私一人で参りますゆえ」


 一瞬バラクの言葉が頭をよぎったが、この時点で何か起ころうはずもないと片隅に追いやりうなづいた。


 ヘイスワイズは一頻りの会話を済ませると、会釈をしてカタリナを残し、部屋を去った。


「それじゃ、客人をいつまでもここに居させるわけにもいかないから、付いてきて!」


 ニコラスは、率直に「それ、似合ってるな」とカタリナに褒め言葉を投げようと思い、つい躊躇った。東方民族の装いをしたカタリナも新鮮だったが、先の衝撃には、かすれてしまわざるを得なかったからだ。


・・・・・・


 二人は応接間を出て、楼閣の別館に向かうために玄関広間の扉を開こうとしたところで、外からの喧騒が耳につき、立ち止まった。


「変ね。外が騒がしいわ」


 驚きのような、悲鳴のような、だが、どこか囃し立てるような盛り上がりをみせ、それらの声は、途端に散り散りに遠退いてゆき・・・少しすると全くの静寂が訪れた。


「?」


「なんだったんだ?」

 

ダァン!!


 いきなり響く攻撃音に、思わずカタリナはびくりと肩を揺らした。

 隣の騎士の眉間にはざくりとシワが刻まれている。戦場にいたニコラスにはじつに馴染み深い音だ。


ヒュン!ズドォン!


 上階の露台バルコニーからだろう。風を切る音と突き刺さる音が続く。


 ニコラスは、扉を開けようとしたカタリナに忠告した。


「カタリナ。今外に出るのはまずそうだ。扉の前に立つのも控えたほうがいい」


「え?何?」


機械弓ウィンドラスの音だ。外で戦闘が起きてい・・・早く離れー」


 カタリナはいきなりニコラスに肩を突かれて蹌踉よろめいているうちに、突如目の前の扉が爆音とともに破られた。


バガァーーン!!


 間髪入れずに黒い巨大な影が、弾けた扉の残骸と土埃を巻き上げながら、少女を庇って直線上にいたニコラスを激しく突き飛ばしたのだ!


「キャァ!!」


 直撃は避けたものの、砕けた扉の破片がカタリナの鼻やこめかみをしこたま打つ。


 一体どうしたことか。何が何だかわからない。周囲は、木屑と埃が舞い、咳き込まずにはいられない。


 彼女はたまらず身を屈めて顔を手で覆った。目は?傷は?血で濡れていないか?大丈夫そうだ。とにかくこの現象の正体を。


 カタリナは無理矢理片目を開けて、その直後、ただ絶句した。


・・・は?・・・虎・・・!?


 カタリナはその存在そのものから衝撃を受けて腰を砕いた。


(まさか!・・・あり得ない。何でここに?)


 恐ろしき猛獣がそこにいた。


 その体躯はゆうに6尺を超え、薄暗い屋内にうすら浮かぶのは骸骨のような白の紋様。よく見るとそれは凶々しく黒と白の色が折り合った虎の毛並みで、魔牛の骨に跨り罪人を地獄へ案内する東国の死神「閻魔ヤーマァ」を連想させた。


 ニコラスは仰向けに床に打ち付けられたところをこの妖獣に踏みつけられ身動きを奪われていた。


 さすがの聖騎士もこの状況には肝が冷えるのを感ざるをえなかった。


(こいつは!・・・マズい。剣を預けたままだ)


 黒白の獣は何故かすぐに動かない。脚元の男にはろくに注意を払わず、視界が晴れた先、カタリナをどこか物憂げな眼でジッと見つめているのだ。


 一方の彼女は、とてもその視線から逃れることができず、怯えた目で次なる獣の行動を待つしかなかった。視線を外した瞬間に強靭な顎がこの身を噛み千切るだろう。自分の未来があまりにも急速に閉ざされていく気がして、カタリナは吐き気を催した。


 それにしても虎の静けさはひたすら不気味だ。咆哮を上げるでもなく、唸り声を立てるでもなく、大きな顎を閉じて沈黙している。獣らしからぬ理知的な佇まいで、奴隷商が品の価値を見定めるかのように眼光だけを鋭くしている。 


(とんでもない事態だな。まさか娼館で猛獣と鉢合わせるとは。しかも選りに選って、なんの因果か、この巡り合わせはー)


 ニコラスは自由の利く手で虎に気付かれず、飛び散った扉の木片を握りしめた。まだ冷静さは失っていない。


 この虎はどうもただの畜生ではなさそうだ。理性を備えているようにすら見える。

 こちらから攻撃するのは得策ではないと、取り敢えずの結論を置き、僧騎士は様子を見ることに徹した。不穏な動きがあれば即座に対応する気構えを崩さず。


 と思ったのも束の間、舞台は唐突に次の展開を迎えた。

 

ズダーァァン!!


 突如、この空間にヒビを入れるような着地音が響き渡った。


「大丈夫か!?」


 上階からこの暗がりに飛び降りてきたのは、羽根つき帽子を被った正体不明の女だ。

 カタリナは、あまりの突然さに、「助かった!」と感謝するより先に、「驚かすな!」と心中に罵声の言葉が浮かんだ。


 だが、新たな登場人物は、その心配りの言葉とは裏腹にこの状況よりも猛獣自体に興味があるようだ。


「待ちわびたぞ、死紋虎・・・。ザンヴェルジめ!」


 女は虎を既知の存在であるかのような科白を放つ。かたやその虎も女を鬱陶しげに感情を含んだ目付きで睨め上げている。


 女は鋭く息を吸い込むと、先手必勝と言わんばかりに躊躇うことなく機械弓ウィンドラスを構え、側面の取っ手を引いて強力な矢弾を放った。


 鋭く空気を裂く音が鳴ったかと思いきや、次の瞬間には、虎の顎は矢を咥え取り、噛み砕いていた。


「この闇の中で・・・とんでもない奴だ!」


 呆気にとられているニコラスの目の端で今度は何か赤い光が迸った。

 その光は虎の両眼に真一文字に線を引く。思わぬ光量を瞳に擦り込まれ、分かりやすく虎は頭を振振ブルブルと激しく揺すった。


「アルツァス様!」


 聞こえたのはヘイスワイズの声。文字通り光が射したのだ。


(しめた!)


 猛獣の重心が左脚に寄った感覚を逃しはしない。ここぞとばかりにニコラスは力一杯、のしかかる右脚の爪の付け根に握った木片を突き立てた。


 これには得体の知れない妖獣も呻き声を上げ、仰け反らざるをえない。


 ニコラスは間髪入れず背筋力と脚力で床から跳ね上がり、身体を素早く捻って強引にその身を虎の下から引き抜いた。

 さらにその体を逃すまいとする獣の鉤爪を僅かに躱し、騎士は流れる動作の中で女に指示を放つ。


「打て!」


 再び彼女は虎に焦点を定め、引鉄式機械弓の取っ手を祈りを込めて引き絞った。


「いけっ!!」


ドシュッ!ダン!


さらにもう一発! 


 体勢を崩した虎は止むを得ず後方に一つ飛び、二つ飛びして矢を躱して、そのまま矢は後方の柱に突き刺さって無用の長物と化した。


 ニコラスは身体をカタリナの前で起こして立ち上がると、ようやく虎と真正面から向かい合ったのである。


「アルツァス様!肩と胸から血が・・・」


 隙を見て駆寄ってきたヘイズワイズに言われ、騎士は虎に押さえつけられた際の引っ掻き傷と先程鉤爪を掠めた肩から流血していたことに気付かされた。


「なに、これぐらい他愛もありません。それにしても助かりました。お二方」 


グァゴオゥゥゥ!!!


 獲物に逃げられた怒りからか、虎はついに特大の咆哮を吐き出した。

 空気の壁を震わせ、見えない鉛のような音塊がニコラスに叩きつけられる!


 虎は、ここで初めてニコラスを意識し、その感情を露わにしたのである。爪先の痛みもいとわず、その巨躯に似合わぬ俊敏さで跳躍すると、猛然と騎士に襲いかかった。


 ニコラスは、あまりの獣圧に一瞬呑まれかけたが、グッと丹田に力を溜めて、覚悟を決める。


 カタリナに「楼主のもとへ!」と指示を出すと、彼女とは逆の方へと走った。騎士の目論見どおり、虎は二歩目で獲物を男に切り替えてしなやかに跳ねた。野獣の動きはニコラスの脚力を難なく上回る。


「ニコラス!避けて!!」


 カタリナの悲鳴のような声が耳を刺激する。その声が彼の覚悟を強固にした。

 

(大丈夫。君を守ると約束した!)


 想像を軽く超える速度で、虎の攻撃は繰り出された。それでも何度も死線を越えた彼の身体は即座に反応する。


 ニコラスは、自分自身を信じている。

 戦い慣れた身体は、もはや思うよりも早く・・・虎の初撃をかいくぐり、隙だらけの腹に渾身の打撃を打ち込んでいた!

 

(・・・まるで効果なし、か)


 獣の肉とはここまで分厚いのか!腰を入れた一撃なのに全く通った手応えがない。

 やはり猛獣相手に素手など正気の沙汰ではなかったのだ。


だが武器は・・・


 握り締めている木片の感触を意識する。この切れっ端だけで立ち向かうのが、素手で戦うことと一体どれほどの違いがあるというのか?自問自答すると苦笑いしか出てこない。


それでも!


 手の内の木片を限界まで握りしめた。

 短刀の実戦術は、彼が傭兵時代からそれなりに得意とするところだ。

 体格の勝る相手との接近戦で有効なのは敵の動きに合わせて刃を“置いていく”こと。相手の攻撃が強ければ強いほど刃はその身を深く裂く。短刀だろうが木片だろうが、やることは同じだ。

 

それに・・・


 さあ、虎の第二撃!

 研ぎ澄まされた鉤爪が横薙ぎにニコラスの胴を払わんとする。擦擦すれすれの間合いで体を捻って躱しつつ、まずは虎とすれ違う。

 その動きを読んでいたかのように、獣は床に攻撃を叩きつけ、その反動で体を瞬時に真後ろに向けた。


 まるで武術を嗜む戦士の動きだ!

 間髪入れず、怒涛の連撃が飛び込んできた。一瞬の停滞が、判断の迷いが、簡単に命を攫ってしまいかねない恐怖がニコラスの神経を鋭敏にしてゆく。


 冷たい汗が噴き出し、熱血を巡らす身体に心地よい。もはやこれはある種の恍惚だ。


 袈裟斬りに襲いかかる死神の右撃を、ニコラスは背後の柱の陰に滑り込んで避けた。

 虎の一撃が柱にぶつかると、ボギリ!!とその芯を潰したような音がし、一同の背筋を凍らせる。


 一撃食らえば明らかに死を免れない威力。


「危ない!!」


 3人の女が同時に叫んだ。黒い虎は続けざまの左撃を既に騎士に向けて振りかぶっている!


 カタリナは思わず目を閉じた。その横で、ヘイスワイズはニコラスの驚くべき行動を目撃した。


それだ


 ニコラスは誰にも聞こえぬほど小声でぼそり呟くと、目の端で捉えていた柱の突起に手を掛け、一気に体を引き起こした。あろうことか虎の一撃を向かい受けて。


 守機転じて攻機と為すは、則ち死中に活を求めるに似たり。


 今まさに弧を描く虎の前脚の軌道に、ニコラスは鋭い木片を差し込んだ。

 力任せに獲物の頭をぎ取る筈が、その手応えは再び柱に叩き込まれ・・・


「ギャン!!」


 同時に脚に激痛が走り、虎は鋭く鳴いた。

 獲物を仕留めたはずの左脚には鋭い木片が突き刺さり、血に塗れた前脚の甲からひょこりとその先端を覗かせているのだ。

 獲物は、一撃を食らう瞬間にこそ反撃の機を見ていた。目一杯引きつけたあと、彼は猛獣の前脚に、あまりにも鋭いトゲを踏ませたのだ。


 そして、そのトゲは抜けない!

 木片は柱側にもめり込み、虎を柱に縫い付けてしまっていた。


 虎は、まるで人間のように、振り向きざま驚愕の視線を投げつけた。


 だが、その一拍子すら無駄にはしない。

 獣が振り向いた瞬間、ニコラスは身体を回転させ、虎の眼球に今まさに抜き取った柱の突起を突き立てていた!

 彼の手に握られていたのは、機械弓から放たれ、仕損じて柱に突き刺さった鉄製の鏃だったのである。


グギャウゥゥゥッ!!


「すごい!これが中央から選ばれた戦力。ねぇ、カタリナ・・・」


 ヘイスワイズは思わず手に汗を握っていた。“人”が虎を手玉に取っている。脆弱ですぐに命を散らしてしまうあの“人”が!


 この感動を共有したい相手は、情けなくも縮こまって目を閉じている。


「もう・・・」


 楼主は、従業員の頭をついペチリとはたいた。


「はえ!?」

 

 もう一人の女は、賢しくもこの時間の空隙の中で、音もなく虎の潰された死角に移動していた。


(旅の男がやってくれた・・・千載一遇。逃してなるものか!)


 弓を虎にしっかり向けて一瞬の殺意を込める。

 

(地獄に落ちろ!)


 機を得た次なる鏃があらぬ方向から虎を狙う。虚の一閃。

 

 仕留めた!と思いきや、あろうことか虎は見向きもせず、それを尾の一振りで払い落としてしまった。


「馬鹿な!!」


 女は思わず大声を出した。


(恐るべき獣だ・・・)


 獲物からまさかの手痛い反撃を受け、獣は逆に冷静になったのだろう。耳か鼻か、弓士の位置を完全に把握している。これでは死角からの援護射撃も期待ができない。


 ニコラスは、まさに畳み掛けようとしていた反撃の熱をすっかり奪われてしまった。今の女の先走りがなければ自分が返り討ちに遭っていたに違いない。


 敵が負傷したとはいえ、決して致命傷ではない。

 依然として変わらない状況。手の武器も失われた。


 虎は、強引に木片から腕を引き抜くと、威嚇のように喉を鳴らしながら、先ほどまでとは打って変わって冷めた目で敵対者を見据えた。

 

 それにしてもこの獣は頭がいい。傷ついても獲物を逃さないよう出口を躰で常に隠しながら立ち回っている。


(これではカタリナ達を逃がすことすら)


 薄暗闇に黒が溶け込み、浮き出た白骨模様がぐねりと波打った。

 2つの炯炯けいけいと光る眼が、ニコラスを正面に捉える。

 そして、虎は流れる空気を読むように、緩慢な動きで一度上半身を突き出してから、躰を前傾にし、さらに深く身を沈めた。

 

(まずい・・・)


 ニコラスの緊張が増した。噴き出す汗が目尻に溜まって、涙のように頬を伝う。

 野の捕食者は、獲物に戸惑うことはあっても躊躇はしない。諦めず圧力をかけ、慎重に、次の方法で確実に仕留めに来るのだ。

 め上げるようなこの体勢こそ猛獣が決めにかかる必殺の構え。力を込めた後脚の筋肉が膨張し、その爪は木造の板床を刈刈がりがりと抉った。

 ニコラスは、久方ぶりに“死”がもぞりと背中を這う感覚を味わった。


ーーその時だったのだ。後から考えてもこれはやはり奇跡が起こったと言わざるを得ないだろう。


 ニコラスには俄に周りの空気が和らいだように思われた。いや、黒塗りの世界が僅かに色調を取り戻したのだ。


「これは・・・」


 神がこの邂逅を讃美したのか。この数年変わらず天蓋と化していたドス黒い雲塊に突如亀裂が入ると、そこから透きとおる程に青白い月明かりが漏れ出たのである。

 その光は壊れた扉の隙間を通り抜け、対峙する聖騎士と虎の戦舞台を鮮やかに照らし出した。


 その一瞬、時が凍りついたように全ての呼吸が止まった。


「うそ・・・月の光・・・」


 カタリナは目にうすら涙を浮かべた。

 その光景は、あまりに幻想的で、驚くほど儚げで、知らないうちに自分はこれ程に光を求めていたのだ、とカタリナは気付かされた。


 冷たい色の光が場の空気を鎮静化させた。

 そして、初めて騎士と獣の両者は、互いにその顔を月明かりの下ではっきりと認識したのだ。


ーーひとつ申し添えよう。その時、月光に浮かぶ虎の首が突如何者かの頭に挿げ替わった様を見たのは、ニコラスだけだった。


 曰く、その貌は崩れ果てていたと云う。

 少しばかりの腐った肉と赤黒く変色した筋肉の残滓が白い頭蓋骨の所所にこびりつき、窪んだ右目の奥には黄金の粒のような小さな瞳孔が月の明かりを吸収していた。


 彼は尋ねた。


「お前は、何者だ?」


 死を想ふ(メメント・モリ)風刺画の骸骨が目の前でからりと口を開いた。


 さっきまで虎だったその首から出た言葉は、ニコラスの問いに対する答えでなく、ただ一言、ぽつりと思いがけぬ名を呟いたのだ。


 お前か、ベラスムス・・・

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