序章
雨に感謝を。雨は戦場に溜まる穢れた人の血を洗い流してくれる
風に感謝を。風は墓地に漂う腐れた人の臭いを吹き消してくれる
雪に感謝を。雪は街道に転がる幸なき人の屍を覆い隠してくれる
火に感謝を。火は教会に積まれた患う人の魂を焚き浄めてくれる
時代は震え、教義世界は現に微睡む
ならば人よ。彼の声を聞け!
衆愚の業を嘆く天、あるいは無慈悲なる神を嘲る魔の声を!
聞かば、天を仰ぎ拝せよ
主の福音を飲み込むために
大地を力強く踏みつけよ
悪魔の復活を阻むために
それでも祈りはなお遠く、果てなき悪夢に追われるならば
汝ら彼の者を見よ!
彼我の罪に炙られて、罰とたはむる贖いの王を!
目さば、悔い改めよ
されば迎えるは、罪人たちの楽天地
神の赦しと悪の肥やしを相剋し、すべては央に、黒白の境地に列しなん
『γεεννα史書〜詩歌編〜』より
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ウ「豈図らんや人たる種族の執着とはなんと淺ましきか」
メ「まことに。世には古より森精、土精、小人に獣人などなど、人と同形の生命は多々ございますが、賤しさにこそ強味を見出す種は、およそ人だけでしょう」
ウ「然るに主に背きし堕世の所為を如何でか見過ごせん。かかる罪罰を如何にして滅ぼせしめんとや」
メ「さて。罪と罰こそ彼らを育む原始の果実。滅ぼさずして喰い検めるのです」
ウ「汝は只管に世を貪る餓鬼どもの渇きに癒しをたれよと言うか」
メ「いえ。癒されず虐げられしときこそ彼らは自ずから高みに至りましょう。これも一つの神の思召しでは」
ウ「汝よ。容易く主の御心を察るなかれや。我らはただ常に善悪の天秤たらしめるべし」
メ「はて、善悪とはことにおいて万種万様ございますれば、神の御心とて万種万様ございましょう。彼らは神に与えられし生命の種。万種万様に咲き誇る生こそ至上の善なのです」
ウ「一は全にして全は一。たとえ善悪の彼岸に至れども、此岸を返り見すれば往往にして己が揺らぐもの。人たる種族は主に非らずして主の一部なれば、いみじき罪を定かにし、生を超克せしこそ善の権現ならずや」
メ「そうは言われましても、人は死んでしまっては終わりなのですから。まさに超克すべきは原罪という幻の戒律ですわ」
ウ「いや、死しても人は命を紡ぎ魂を繋ぐ。奴等が主より賜りしは言葉と歴史とただ莫逆の性根なり。然ればこそ、あえかなるとてなほ剣を与ふべからざりけり」
メ「よもや今になって人をー」
ウ「然に非らず。件の咎人の仕儀とて思ひ巡らさば、我らが炎のまほらをつとに見過ごしたるがため。ゆえに咎人の行く末を見定めたし。焉んぞ人たる種族を滅さんや」
メ「彼に希望を与えるの?いえ・・・寧ろ彼こそが我らの希望なのかもしれない」
ウ「げに。件の咎人が此世の愁ひを偏に主に託ちましかば、我とてー」
メ「“託つ”・・・にやりとさせられてしまう言葉ですわね。・・・そうだわ!ねえ、いっそ彼を枢軸にして遊戯をいたしませんこと?」
ウ「ほう。遊戯とな。如何なる思いつきぞ」
メ「下界を御覧なさって。奇しくも彼が生まれたあの地は、見た目よりもその内実、人の歴史から搾り出しされた罪悪の澱が溜まりに溜まった混沌の坩堝ですわ」
ウ「然り。目を覆うべき罪の数々よ」
メ「彼らは人類が織り成してきた歴史の痛苦にふしまろぶ悲哀の遺伝者たち。しかし、同時に各々が寄る辺とする神徳の加護も身に纏っているのです。彼の地にてあらゆる罪と徳とが相交わるとき、きっとあなた様が仰る善悪の権現を見せてくれましょう」
ウ「彼の者たちこそ幾星霜に及ぶ我らが討議に落着をもたらす鍵の因子とぞ申したるか・・・」
メ「ええ。神が創りたもうた人たる種の観念。我ら坐真の囚われ人にとって無上のこの命題に・・・今こそ明らけき解を!」
ウ「いとおもしろし。然ればこれより、その骨子に肉を授けん・・・」
メ「では、まずは盤上に駒共をうまく導かねばなりませんね。・・・まずは彼女を・・・こうして」
ウ「良きかな・・・なればこの力を・・・我の・・・」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
ー神戒暦10年ー
見上げれば、天はどす黒く圧縮された雲に閉ざされている。例えるならば、“暗鬱”という名の画布に“悲愴”や”苦悶”という名の絵の具を塗りたくった重厚で陰気な油彩画だ。
いつからだろう?太陽の光が届かなくなったのは。
望まれぬ戦火が燃え盛った日だったか、民衆に絶望を植え付けた疫病の影に覆われた日だったか。
人々の日常の隣に死が色濃く姿を成し始めてからは、彼らの心の眼にはどんより空と同じ色の靄がかかり、何もかもが輝きを失った。
奇蹟の降臨を信じた人々の祈りは、虚しく曇天に吸い込まれるばかりだ。災いは絶えず、人の嘆きも果てなく、これを聖なる試練と呼ぶにはあまりに陰惨で無慈悲ではないか。
ある者は「これは神の罰だ」と嘆き、ある者は「神の裏切りだ」と憤り、またある者は「神は死んだ」と嗤った。
死に蹂躙され続けた人々の心はその廉潔を忘れ、肉体を超えて荒みきってしまった。本当の荒廃とは、家屋の壊廃を云うではなく、民心の壊敗を云うのだ。
時が過ぎ、死の嵐はその勢いを失ったが、人の歴史に刻まれた傷痕からは、未だに毒毒と血が流れている。
この国は死に瀕している。母(大地)に嫌われ、父(神)に見棄てられ、眷属(属州)に裏切られ、そして今まさに隣人(帝国)に侵されようとしているのだ。
この国は、ひたすらに救いを求めていた。
いつからだろう?耳を澄ませば、街の何処からか奇妙な歌が聴こえてくる。これは救いの兆しか、あるいは第二の災禍の影か・・・。
そして、今にも崩れ落ちそうなひび割れた空から、嘆きの涙が零れ始める。
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ディケロニア烙皇国の東方属州国ザルツァイ辺境伯爵領の北部にザファケルという名の都市がある。
流行病が蔓延る前は、小規模ながら多種多様の人民文化が交わる活況の町だった。
皇都から遥か東、隣国との国境に接する鄙の土地だが、この町の栄えは、偏に鉱脈から採れる様々な水晶の専売と、冒険者や旅商の活動の拠点であることによる。
大陸西方の誇る五大旅道「自由神の左手」が一指、第三大街道(通称:中指街道)は、大陸最西の皇都を出発点にして本国を横断し、東隣国の主要都市に至るまで通貫している。
その中継に位置するザファケル市は、隣国に向かって背にザルツァイ山脈を負う堅牢な自然要塞でもあり、地の利を得た城郭都市の機能を備えている。その特性ゆえに、東方からの来訪者に対し、中指街道から皇国領に至る際の国境関の役割も果たしていた。
逆に大街道を利用して東を目指す旅人は、山脈南部を貫き通した隧道をほぼ3日かけて抜けることになる。
自然の恩恵というべきか、隧道内には、染み出る湧水のマナを借りて淡い紫色に発光する水晶鉱石が随所で掘り起こされているため、どこを歩いても光源に不自由することはない。
この水晶(宵闇の天使の名からルキフェリンと呼ばれる。)が放つ光は、外傷を癒す効果があることから冒険者には殊更評判が良い。なにより、その光を受け緑光を放つヒカリゴケや、そのコケに群がる洞窟ホタルの青白い光が一堂に会せば、それは美事な彩光の壁画を描き出す。旅人達は、この自然が織りなす鮮やかな幻想空間に浸るがまま、詩歌でも口ずさみながら文字通り観光に耽けることができるのだ。
しかし、今やその光が照らすものは、死の斑を帯び人里から放り出された余命幾許もない病人ばかりであった。
「死紋病」と名付けられた恐るべき致死率を誇る悪疫の罹患者達は、体内に巣食う絶望から逃れるためにルキフェリン鉱の癒しを求めた。
この光が死紋病に薬効があるという根拠はまるでない。
いや、本当は効かなくても良いのだ。ただ、精神的安らぎを求める病人と、そんな病人を隔離したい町。どちらもこの隧道に煌めく光明を縁にしている点においては大した違いはなかった。
・・・・・・
コケに群がるホタルがまだざわついている。
先刻この隧道において突如起こった悪夢のような奇跡。
横たわることを止めた老人は、どこか夢見心地でつい先程の出来事を思い返していた。
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微睡みの中、振り返った私の目の端にその者は居た。
先程まで寝惚けていた心臓が唐突に大きく脈を打った。
その者はまるで幽鬼のように立ち尽くしていて、どうも生きた人の気配が感じられない。
死神が誰かの臨終の匂いを嗅ぎ取って現れたのか?
あるいはそれは自分なのか?
目を凝らしてみると、その影の輪郭はひどく歪だった。不気味なほど頭が真横に長く、鼻のあたりから細長い何かがぐんと突き出ている。
気づけば、ひっきりなしに聴こえていた隔離患者達の呻き声がぱたりと途絶えていた。
回廊のひんやりとした空気が波立ち、ぼんやり照らす青紫の灯が揺れる。
その怪異は、私の方に向かって宙を滑るように近づいてきた。自分の恐怖心が形を成して自らを呑み込もうとしているのではないか、そんな妄想に駆られる。
混乱を鎮めようと掌を胸に押し付けながらも、軍軍と距離を縮める異形から眼を離すことができない。
だが、その姿が近づくにつれ明らかになることもあった。
奴が着ているのは決して死神装束などではないということだ。暗がりと同化したような真っ黒な外套に覆われていた。
奇妙な影を模る頭は大きな鍔広帽を被っていたがためで、その顔は流行病に携わる医療従事者が被る特有の嘴を模した防護面で覆われていた。
そう。あれは医者だ。
医者?見捨てられた隔離区域のここに?
嘴面の目穴の周囲にはいくつも埋め込まれた小さな赤光石が蜘蛛の眼のように怪しく煌めいていた。
得も言われぬ不安感が背筋を撫で上げる。
鳥肌が立ち、堪らず声を漏らしそうになる。
しかし、恐怖に耐えながら目を凝らして見れば、どうだ。その身をすっぽり覆う外套は獣と格闘したかのように寸寸に破れ、布地の奥に見え隠れするなめし革の鎧には歴戦を物語る刃傷が刻まれている。
それは私にとってあまりに馴染み深いものだった。
この人為的な戦痕の生々しさが、この状況に呑まれかけた私の精神を繋ぎ止め、むしろ現実に引き戻してくれたのだ。
さて、その怪人は身じろぎもできぬ私の眼前を平然と踏み抜くと、私には一瞥もくれず、頭上で屈み込んだ。
ふわりと不可思議な香りが鼻腔を刺激した。
聞いたことがある。死紋病専門医師は、空気からの伝染を防ぐため、その嘴の中に香袋(肉荳蔲、龍涎香、麝香鹿の香嚢などの香草、香料を粉末状にして詰めた袋)を入れているのだ。
そこで男の視線を盗み見た。どうやら男が興味を持ったのは隣で壁にもたれたまま俯き、身じろぎもしない少女に対してのようだ。
これもまた奇妙なり。
およそ前世紀の装いに身を包んだ少女がそこに居た。
その小さな手足に自分や周りの病人のような疫病特有の黒い斑点は見られず、むしろ紫水晶の光を受けて仄かに透き通ってさえ見える。
こんなに違和感だらけの少女の存在に、自分は今の今まで何故気づかなかったのだろうか?
少女の顔を見入っていた嘴医者は、やおら頭の上で月十字を切り、佛佛と二言三言呟き、懐から一つの水晶を取り出した。
それから少女の顎を持ち上げ、水晶の先端から滲み出た水をその口に含ませた。
少女はまるで機械仕掛けの人形のように、ぱちりと目を開いた。
そこで初めて男の視線と少女の視線が絡み合った。
少女は震えるような、囁きのような声を漏らし、何かを訴えると、男は黙って小さくうなずき嘴の面を取り外した。
(おお、顔が見えるぞ!)
ぐいっと身体を捻った。床ずれによる炎症や鬱血からできた膿腫が破れ、何かがどろりと垂れたが、そんなものはどうでもよい。
(よ、よし、もうちょっと・・・)
もう一捻り、首を回そうとしたその瞬間のことだ。なんの脈絡も無く自分の脳内に大きな警鐘が鳴り響いた。
(ダメだ!!見てはいけない!!)
頭に響く自らの声が反射的に身を硬直させた。
今の声はなんだ?自らの薄弱な精神が最大限の警戒を促しているのだ。
戦場と同じだ。踏み込むべきでないと感じた己の勘にどれだけ助けられてきたか。
ゆえに己を信じなければいけない。
だが見たい!
自問自答の後、身体を元の位置に戻すと弛緩させ横目で事の成り行きを見守ることに徹した。残念ながら単に好奇心を満たすには相手も状況も悪すぎたのだ。
少女は男の目を覗き込んだ。感情がかけらも読み取れない作り物の表情で。
すると、男の右目からこの世のものとは思えないほど鮮やかな蒼白の階調を纏った炎が漏出し始めたのだ。
明暗と濃淡の境界を疎かにして、その現象は霊験怪しく、不規則な拡がりを見せながら、少女の身体を、また足元で固まる私の身体をも構わず呑み込んだのだ。
私は声にならぬ絶叫を上げていた。
どちらかと言えば炎で焼くと云うよりも、毒素で溶かすと云った表現が適切だったろう。
枯れた燃え種を掴んだ冥蒼の炎は、燃え盛るではなく、一定の勢いを保って、私の全身にねっとりとまとわりつき、廻廻皮膚を蝕んでいったのだ。
赤みをのぞかせた肉は見えた先から色を失い、脂肪は黄色く泡立ち、筋骨を、神経を、やがて自我をも吞み込んでいった。
この時、私は確実に自分が発狂していたことに気付いていた。そして、熱望した。
ああ。この痛みから逃れるためならば、腐りかけの手足を捥ぎ取り、背を地面に擦り付け、頭が砕けるほど岩壁に打ちつけることさえ躊躇いはしない!
だが現実はいつだって厳しい。寝たきり朽ち果てた身体は自分の意思ではどうしても動かないのだ。
神よ、これは一体何の罰なのか
声にならぬ悲鳴は、まさに心底から発した神の無慈悲を呪う言の葉だ。
それでも、喩えようのない痛みの中である違和感に行き着いた。
何かがおかしい。
そうだ。音が無い。匂いが無い。まるで現実感が無い!
その直感は正しかった。
血肉を貪っていたはずの蒼然とした炎は、その実、側から見れば老いた痩躯を包み、ただ幽幽と揺らいでいるだけであった。
私は責め苦の妄想に身を焦がし、ひたすら脳の裏側で自らをしゃぶりつくしていただけだった。
正気を失っていたのは、時にしてごく僅かだったのだろう。そのまま炎は舞い戻った霊魂のごとく少女の身に吸い込まれて消えた。
そして、彼女は何事もなかったかのように一つ二つ目瞬きをして事の区切りを伝えるのだった。
男は地の底から響くような低くしわがれた声で呟いた。
「さあ、行こう。遊戯が始まるぞ」
「はい。おともします」
少女はそう答えてから、唖然とした表情の私に対して顔を向け、その小さな口元を綻ばせてみせた。
そこで私は初めて自分が黒装の男の腕にしがみ付いていたことに気付いた。
私はこの時、あっと呻き声をあげ、反射的に男の顔を覗き見てしまった。
これぞ人生の三本指に入る後悔の瞬間だ。
全く偶然にも壁を這う青白い光が、私を見下ろす男の顔をのっぺりと舐め上げたのだ。
この時、私は先程の身を焼かれる絶望に並ぶ程の恐怖を知り、正気が薄れていく感覚を味わった。
あ・・・アアァァ
あろうことか、その貌は、この坑内に蠢くどの病人よりも死に近く、およそ人ならざる魔性の気配を湛えていたのであった。形容し難い恐怖こそ真の恐怖に違いない。
私の意識はそこで漸く途切れてくれた。
・・・・・・
再び気を取り戻すと、あの奇怪な二人の姿は消え、いつもと変わらぬ黙を搔き回す疾病患者の唸り声が反響していた。
夢、か
悪夢の余韻に早まる心臓の動悸を聴きながら、私はしばらく指先一つ動かす事ができずにいた。
あの怪異は、あの痛みは、あの恐怖は・・・夢、か?
「夢なものか!」
意思とは裏腹に、思わぬ強さの声を上げた自分に驚く。
なんだ?身体がおかしい
つい先程まで腐りかけていた全身を巡る泥泥の血が、仄熱い。まるで新鮮なものにでも入れ替えられた気分だ。
身体はまさに新たな息吹を発し始めている。
この異変を疑い、それが確信に至ると動悸は一層高鳴った。歓喜と畏怖に身を震わせ、慄きつつも、四肢を伸ばしたくて堪らなくなったのだ。
もうこの身体は立ち上がる事が出来る。
「おお、おォォォォ」
どうしようもなく涙が溢れ出た。
つい先ほどまで己の身体の機能はおろか生きる望みさえ奪い尽くしていた死の病巣が、あろうことか悉く消え去っていたという、夢にもあるまじき事実がゆえであった。