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第八章 永遠/不変

 ……彼女は――。

 辺りは、静かな闇だった。残ったのは、二人の子ども。まだ小学生になったばかりの、ほんの小さな子どもたち。

 一人は白の衣服をまとい。一人は黒の衣服をまとい。

「……」

「……」

 二人並んで、その光景を前に硬直する。

 ここは、一つの祭壇。儀式の終わり。もう用は済んだと、大人たちは立ち去った後も、二人の子どもは残り続ける。

 部屋の中心、歪な輪の中には、すでにこと切れた少女が一人。それは、眠るように穏やか。目を閉じ、胸の前で両手を組む。手向けられたその華は、触れれば、まだ温もりを感じ取れそうなほど――。

 少女の遺骸を前にして、しかし二人の子どもは身動きできない。子どもたちの目は、まるで焦点を失ったようにどこも見ていない。ただ、この部屋という在り様を、(ボウ)と眺める。

 不意に、黒い子どもが口を開く。

「なんだよ……」

 それは、一体何を指して呟いたものか。

 部屋の中心、床の上には少女の亡骸。

 そして部屋の奥、松明で囲われた輪よりも外側。そこに奇形の水槽が一つ。まるで金魚鉢のような、底の丸いガラス。しかし、その水槽は金魚鉢ていどの大きさではなく、人一人を呑み込めるほどに巨大。子どもたちはおろか、横たわる少女さえも優に取り込める、それほどの大きさ。

 その水槽の中には、水が満ちている。ぽこぽこ、と時折、底から空気の泡が上っていく。松明の光など届かなくても、そこだけが(みどり)色の光を放っている。

 ――そこに、黒い影が浮かんでいる。

 小さいそれは、まるでゴミみたいだ。汚水に漂う、ボウフラ。二人の子どもの小さな手にすら納まってしまいそうな、それは本当に小さくて、ちっぽけなモノ。

「なんだよ、それ……」

 黒い子どもの口から、なおも言葉が溢れる。まるで抑えが効かないとばかりに、内から溢れて止まらない。

「そんなの、ありかよ」

 子どもが叫ぶ。

「あれがきんねえだってゆーのかよ!」

 水槽の中に浮かぶのは、胎児と呼ばれるモノ。本来なら、女の子宮の中で少しずつ、時間をかけて大きくなっていくモノが、いまこうして、二人の子どもの前に曝されている。

 透明なガラスの中。碧に光る水の中に浮かんで。生物図鑑で見るように、それは手のようなものを丸めて、足となる部分を折り曲げて、静かに浮いている。

 まるで。

 まるで――。

 ――自分たちとは、違うモノ。

 あれが、自分たちと同じ人間だなんて、とても信じられない。

 時が経てば、目の前の彼女と同じモノになるなんて……!

「――これが、名継(なつぎ)の家が到達した魔術」

 白い子どもが、さも当然とばかりに、告げる。

「輪廻を壊し、常に同じ命が誕生するように輪を閉ざす。同じ運命を歩み続ける魂はより濃いものとなり、やがて、人類(ヒト)の命まで手が届くだろう」

 それがどういうことなのか、幼い彼らはちゃんと理解している。大人たちは、まだ子どもにはわからない、なんて言うかもしれないが、彼らは十分すぎるくらい、そのことを理解している。その意味も、その重みも、自分たちが担っていくのだという、その宿命も――。

「これは、そのための儀式」

「知ってるよ!」

 黒い子どもが、反論するように叫ぶ。

 そんな叫び声も、しかしどこにも届かず部屋の中で反響する。もう、この部屋には彼らしかいない。大人も誰も、彼の訴えは、どこにも届かないままに消える。

 静寂が、この限られた空間を包み込む。叫んだ言葉は、まるで無かったように消えてしまった。その空虚さに耐えかねて、黒い子どもは自身を抱きかかえる。

「……そんなの…………()ってる……ッ」

 知らないうちに、目から涙が溢れて、止まらない。まだ幼い彼は、泣くことに耐えられなかった。――耐えられるわけが、なかった。

 今まで知識でしか知らなかったこと。それがどういうことなのか、頭の中ではわかっていた。――わかっていた、はずだった。

 ……なのに。

 それを目の前にしたら、どうだ。それを現実として目撃したら、この様じゃないか。

 動くことはできなかった。叫び声を上げることもできなかった。ただ、全てが終わって嘆くばかり。

 ――結局、自分は何をした?

 そう、自身に問う彼の横で、白い子どもは依然、変わらぬ姿で立ち続ける。

「なら問うな」

 その、いつもと変わらない口調、声。その横柄な態度すら、遜色がない。

「…………すましてんじゃねーよ」

 だから、余計に腹が立つ。納得がいかない。どうしてこんなものを見せつけられて、こんなにも平然としていられるんだこいつは……ッ。

「認められるのかよ、テメーは。きんねえは、死んでるんだぞ。あそこで、死んでるんだ。なのに、なのに…………」

 黒い子どもが白い子どもの襟を掴む。このまま締め上げたいのに、子どもの彼には、まだそんな力もない。持ち上げようとしても持ち上げられなくて、ただ腕が震えるばかり。

 悔しくて、抑えが効かなくて。黒い子どもは片手だけ離して、奥で鈍い光を放つ水槽を指さした。

「あんなモンがきんねえになるって、そんなふうに、テメーは認められるのかよ!」

「君が認めないでどうする。次からは、君がこの儀式を担う。その君が、よもや否定するというか」

「……ッ」

 返す言葉がなくて、黒い子どもは襟から手を離した。自分の内で暴れる感情を目の前の相手にぶつけてやりたかったが、ギリギリで堪えた。

 ……わかっている。

 自分が、次の役を担うことくらい。だから、これはひいては自身の責任でもある。

 この結末を前にして目の前の相手を殴ってしまったら、それこそ自分は何も知らない、無責任なただの子どもになってしまう。だから黒い子どもは、一人、震えることしかできなかった。


 その後の記憶は、空白だ。なぜなら、名継路貴(ろき)はそれから五年間、あれとは会っていないのだから。

 ……名継家の決まりでは、あれの面倒は路貴がみないといけない。

 すでに名継家の跡取りと決まっている路貴は、だから名継の秘術も継承しなくてはならない。その第一歩として、あれの面倒をみる。

 だが、路貴はそれを放棄した。だって、そうだろう。いままで姉だと慕っていた相手を、今度は妹を相手にするように接しなければならない。

 ――想像しただけで、くらくらする。

 小さい頃は、まだ耐えられるだろう。しかし、時間の流れだけは止めようがない。そして、この秘術を知る路貴だからこそ、より致命的な問題を予想している。

 姿形だけではない。同じ命を繰り返すということは、同じ運命を辿ることと同義だ。周囲の環境が違ったくらいで、運命というものは変わらない。仮にその運命を知って覆そうとしても、そう易々と(あらが)えるものではない。運命とは、すなわち『命が運ぶモノ』だ。同じ命なら同じ運命に至ることくらい、必然と呼ばれる種のモノだ。

 彼女の姿を知る路貴だから。話し方や、性格や、彼女の存在という感触や雰囲気まで。路貴の身には刻みこまれている。それだけ長く、そして深く、路貴は彼女と関わった。

 たとえ、あれは記憶していなくても、路貴の身には刻まれている。それが、時を経るごとに顕著になり、目の前に曝されることに路貴自身が耐えられない。

 死んだ彼女、それが再び、自分の前に現れる。しかし、あれが自分のことを覚えているわけではない。どれだけ自分が昔を回顧したところで、目の前の相手にはまるで通じない。

 ……だから、名継路貴はその役を放棄した。

 別に、あれの面倒をみなかったからといって、問題になるわけでもあるまいと、路貴は周囲から問われるたびに返していた。

 あくまで、路貴の役目は儀式の遂行。次の周期が巡って来たそのときに、ちゃんと役目を果たせればそれでいい。面倒をみることなんて、その大役から見たら、何の必然性もないこと。

 だから路貴は、そのときが来るまであれに遭ったことはない。あの、水槽の中の胎児の姿から、一度も。

 ――だから。

 彼女を前にしたとき、路貴はかける言葉を失った――。

 その再開のお膳立てをしたのは、よりにもよって王貴士(おうきし)だった。

 路貴が暮らす町の血族(けつぞく)であり、名継の家が仕える存在。その王家から、名継の家は多くの報酬をもらっていた。

 王家は、結果主義だ。王家に忠誠を誓い、より世界へ到達する可能性の高い成果を生み出した家に、王家は惜しみなく援助する。しかし、それを満たさない家は容赦なく切り捨てられる。切り捨てられた家は、もうその土地で魔術を続けることができない。あらゆる資源――魔術に適した土地や魔術的な実験のための設備投資など――は王家がまとめて握っているから、見捨てられた家は外に可能性を求めるしかない。しかし、一度滅んだ家の名を、路貴はその後聞いたことがない。

 現代において、魔術師が魔術の探究を続けたままに存続できる可能性は、低くなっている。なにせ、世間的には存在が知られていないのだ。魔術のみを頼って生き残ることは、つまり不可能に近い。

 魔術師だって、表面上は普通の人間なのだ。金がほしければ、働きもする。しかし、その労働力は魔術を介してはいけない。それでも魔術の研究を続けたいというのなら、それなりの後ろ盾が必要になるのは、必然と言える。

 名継路貴の両親は、社会でいうところのまっとうな職には就いていない。それはつまり、名継家を支えるのは、王家の財力だということ。それが名継家の収入の全てだから、路貴の両親は王家に忠誠を誓い、王家のためにあらゆる成果を捧げている。

 そんな両親を、路貴は嫌悪している。王家のために、魔術を極める。王家のために、呪術師の生業(なりわい)を現代においても続けている。誰かを憎んでいるわけでも、嫌っているわけでもない、ただ王家が不要あるいは邪魔だと判断したものを、その(わざ)で消してきた。

 それが、名継の家。そして、王家との関係。

 幼い頃の路貴は、しかし両親を嫌ってなどいなかった。自分が呪術の家系に生まれたことも、別段不快に思うこともなかった。

 そも、路貴にとって呪術も魔術も大差がない、等しく、世界を目指すための手段の一つ。ひたすら、世界という一つの目標に向かって智を積み重ね、研鑽し、また一つ、世界に近づくための魔術を築く。

 それが、人々の望むモノ。誰もが願い、求めるモノ。だからこそ、自分たちも目指すのだと、幼い頃の路貴は何も疑問に思わなかった。

 遥か昔から代々、今の自分に至るまで積み上げられたモノを、次は自分が受け継いでより高いモノにしていく。その、昔の人の願いと自分の感情に何も不和がなかったから、路貴はそれを受け入れて、学び、極めることに終始していた。

 ――思い描いた夢を壊したモノ。

 その元凶が、目の前にいる――。

 王貴士とは、何度か会っている。しかし、昔のように言葉を交わすようなことはしなかった。

「――ようやく我の求めに応じたか」

 貴士は、まるで昔と変わっていなかった。その喋り方といい、やけに気に障る尊大な態度といい、全ては路貴の幼い記憶のままだ。

 だが、そのときの路貴は貴士の気に障る物言いに反応することができなかった。――より致命的な存在が、路貴の目の前にいたからだ。

 大きな瞳が、路貴を見上げている。ぺこり、と一度大きく頭を下げてから、彼女はとつとつと語り始めた。

「はじめまして。(きん)です。あなた、ナツギ、ロキ、ですか?よろしくお願いします」

 その、舌足らずな喋り方まで、昔の彼女とそっくりだ。それ以上に、その姿がもはや消し去れないほど、彼女と同等だった。

 五年――。

 たった、五年だ。それしか経っていないはずなのに、目の前のそれは、昔の彼女と全く等価。路貴の記憶の中にあるそのままに、目の前のそれが路貴を見上げ、笑っている。

 ……身体(からだ)が、震える。

 目の前のそれを、受け入れたいという自分と拒絶したいという自分が()()ぜになって、暴れている。目の前が霞んで、さらに過去と現実が曖昧になる。

 路貴の(なか)で、感情はぐちゃぐちゃになって何の形も結ばない。外の景色まで、回転を始める。気をしっかり持っていなければ、この場で吐いてしまいそうなくらい、気持ちが悪い。

「何をしている。少しは口を()いたらどうだ」

 そんな貴士の低い声さえ、路貴の耳には遠かった。時間をかけてその意味を咀嚼できても、果たして路貴に何ができただろうか。

 ――なんて、返したらいい?

 ……初めまして?気持ちが悪い。

 ……よろしく?なんて、白々しい。

 ……ひさしぶり?わかるわけがない。

 ――きんねえ。

 どくん、と鼓動が鳴る。ぎり、と心臓が締めつけられる。

 反射的に、奥歯を噛む。そうでもしていないと、現実の自分を保っていられない。もう、路貴の内側はずたずたでも、表面上だけは繕っていなければならない。

「ロキ……?」

 不思議そうに首を傾げる、そんな姿さえ、路貴にとっては悪夢だ。

 思い出す。決して忘れることなんてできない。五年経って、忘れようと、無視しようとしても、ふと集中力を欠いたらその光景が脳裏に浮かぶ。

 彼女の声、彼女の話し方、彼女の姿、彼女の表情、彼女の癖、彼女の感触、彼女の温かさ、彼女の性格も、笑顔も、怒った顔も、泣いた顔も。――彼女がまとう、雰囲気、存在、その全て。

 ……なんて、路貴(じぶん)は莫迦だったんだろう。

 忘れるわけが、ない。消し去るなんて、できるわけがない。無かったことになんて、できやしないんだ。

 ずっと、覚えている。五年経っても、いや、一〇年経っても、二〇年経っても、きっと死ぬまで、覚えている。

 彼女と過ごした、短い期間。

 ――そして。

 これからも続く〝彼女〟との思い出――。

 自分がどんなに年をとっても、彼女はずっと彼女のまま。魂に呪詛をかけられ、輪廻を破壊された彼女は、ずっと変わらない。彼女はいつだって、一〇歳で終わる。終わった彼女は、再びゼロからやり直す。

 路貴は一体、何度彼女の生と死を見送るのだろうか。

 ――いや。

 何度、路貴は彼女を殺し、何度、路貴は彼女を蘇らせるのか――?

 目の前のそれが、困ったように路貴に向かって手を差し伸べる。その様子にようやく気づき、路貴は慌てて身を引いた。あと少しというところで、その指は空を(かす)めるに終わった。

「俺に、関わるな……!」

 咄嗟に吐いた声が何だったのか、そのときの路貴は聞いていない。だが、路貴の記憶はその残酷な言葉を録音している。

 その後の光景も、記憶は律義に記録している。路貴は、それから逃げるように駆け出して、結局町の外れの山の(ふもと)まで全速で走り続けた。この山は、迂闊に入ると方向を見失うため、地元では自殺の名所としてそれなりに有名な場所。名継家では魔力の(よど)み具合から、呪術の儀には最適だと、かなり重宝されている、そんな場所。

「はぁはぁ…………」

 王家からそれなりの距離があるため、走り終えた後は呼吸もままならない。荒い息を繰り返し、しかし落ち着くよりも前に路貴の口は勝手に言葉を吐き出した。

「やめろ……」

 身体は疲れ切っているはずなのに、視界にはその映像が現実と重なって流れ続ける。

 幼い日々、彼女と過ごした時間。ともに学び、ともに世界を夢見た無知な自分。何も知らないままに、ただ智を重ね、研鑽し、やがて自分たちがこの世の最果てに到るのだと、そんなことを夢想した。

 暗い祭壇、仄かな松明、()じれた輪、ウロボロス…………。

 それは、死と再生の儀式。不死を願い、いつの日か世界の起源へと到ることを祈願して建てられた、一つの塔。

 ――その塔は、不死の象徴などではない。

 ――それは、永遠に抜けることのできない、無限の檻。

 その犠牲に、亡骸が一つ。そして、新たな命という、それは生け贄。死と、再生と。その永遠を約束された命は、しかし自由を許されない。未熟なまま、最後の成長を迎えることはない。老いて死ぬなんて、そんな普通の人生もない。事故死もない、病死もない、果たしてそれは幸福なのか?そんな、生まれた瞬間に死を突きつけられて、それを恵まれていると言えるのか?

 それが、路貴の背負ったもの。

 名継の跡継ぎとして、生まれてしまった者の運命(さだめ)

 何度でも、路貴はこれから目にすることになるだろう。生と死を。大切な人を殺し、そして蘇らせる禁断の術。まるで、殺しても殺しても蘇るように。そんな黄泉の住人と、路貴は永遠に結ばれる。

「もう、やめてくれ…………ッ」

 何度でも――。

 路貴が目にする彼女の笑顔には、常に死斑が()ぎる。彼女の死骸の隣には、いつだって小さな胎児が浮かぶ。それは女の(はら)から出る前の、異形じみた肉片。

 ――その不変を、繰り返す。

 路貴の大切な人は、生まれながらに死んでいる。その死骸を積み、さらに塔を高くするのは、他でもない路貴自身…………。


「……………………」

 言葉もなく、金は立ち(すく)む。

 路貴の心の内、奥の奥に抱え込んでいたもの。記憶と、感情と。ずっと蓋をしてきたもの。消し去りたいと願っても、(つい)ぞ忘却できなかった忌まわしき、忌むべきモノ。

 それは、記憶。ただ流れるだけの映像ではなく、そこには、路貴自身の感情が流れている。今でも、覚えているもの。ずっと、忘れないもの。だから、路貴はそれを見せつけられても、倒れない。正気を失うことも、許されない。

 ――そう。

 ずっと、変わらない――。

 どんなに心が痛んでも、体がボロボロになろうとも、路貴は目を背けることを許されない。どんなに無視したくても、どんなに忘却したくても、それが叶うことはない。

 ――これが、路貴の背負ったもの。

 ――これから、路貴が積み上げていくもの。

 それを、目にする。

 彼女と、目にする。

 唐突に、雨が降り始めた。雨は瞬く間に豪雨となり、風も嵐のような激しさを帯びてくる。まるで、台風が落ちてきたみたいに、暴風雨に囲まれている。

 彼女は、まるで打ちのめされたみたいに硬直している。

「……う…………そ…………」

 吐き出した音さえ、意味を成すことができない。まるで水面に絵を描くように、線を引いたそばから崩れて跡形もなくなる。

「…………うそ………………」

 それは、まだ音。声に届く、一歩手前。致命的なまでに、そこには彼女の意思が届いていない。

 かたかた、と彼女の体が彼女の意思とは関係なしに震え始める。まるで拒否するように、彼女は小さく左右に首を振る。

「……うそ、だよ…………」

 伸ばした両手は、一体何を掴むものだったのか。ただ虚空を掴むように、彼女の目の前で揺れる。

 彼女の顔は、この闇夜の下でも驚くくらい蒼白だ。血の気がなくなって、まるで蝋人形のよう。どこまでも白く、触れたら氷の冷たさを感じ取れるくらいに。

 宙空(ちゅうくう)彷徨(さまよ)っていた視線が、ぼんやりと路貴を捉える。

「うそ、だよ………………ね?」

 その音に、路貴はついと顔を逸らす。

 ――直視なんて、できるわけがない。

 それは、路貴が抱えるはずのものだった。路貴だけが、その記憶と感情をしまいこんでいれば良かったんだ。

 ……なのに。

 よりによって、彼女に知られてしまった。

 彼女の正体が、彼女自身に知られてしまった。なんて、最悪だ。なんのために、路貴は彼女から距離を置いたのか。なんのために、路貴は彼女に近づかなかったのか。触れることも、触れさせることもない。ずっとずっと、拒否し続けた。

 変わることも、変わらないことも、我慢できなかった。昔とは決定的に変わった立ち位置、その関係で彼女が変わってしまうことも、それでも彼女が変わらないことも、路貴には、耐えられなかった。

 どうして、近づくことができるだろうか。近づいて、自分は一体彼女に何をしてあげられるのか。

 ……本当は、全てを話すことが、路貴の役目だった。

 彼女は何者で、何のために存在しているのか。その役目のために、最低限、彼女が知っていなければいけないこと、覚悟していなければいけないこと、その残酷を突きつけるのは、他でもない路貴の役目。

 ――それは。

 昔、彼女自身が、路貴に教えてくれたように――。

 路貴が彼女から教えてもらったこと。魔術師のこと。家のこと。世界に到達するために、智を学び、智を研鑽し、智を積み重ね。魔術師とは如何な存在か。名継家に生まれた者の運命(さだめ)とは何か。

 それを、今度は路貴が彼女に返さなければならなかった。

 魔術師のこと。彼女自身のこと。彼女はいつ生まれ、そしてこれまでに何度生と死を繰り返してきたのか。そしてこれから、あと何回生と死を繰り返すのか。彼女は、何を望まれたのか。そのために、彼女が為さなければならないこととは何なのか。知識だけではなく、肉体のうえでも、精神のうえでも――――魂のうえでも。

 路貴との、関係も。すべて、すべて。教えなければならなかった。伝えなければならなかった。路貴から、路貴の口から、彼女に全てを示さなければならなかった。

 それは少しずつ。本当は、少しずつ、やらなければならなかった。そして、生の終着までに、理解させなければならなかった。納得させなければならなかった。

 一〇年の寿命。壊れた輪廻の終点。その魂を別の器へと移す、死と再生の儀式。その塔をより高くするために。永遠に繰り返される、不滅の呪い――。

 気づけば、彼女の腕は路貴の肩を掴んでいた。倒れた路貴を揺さぶって、何度も何度も同じ音を吐き出し続ける。

「うそ。路貴。うそ、言って」

 なんて、返したらいいのかわからない。返すものなんて、あるわけがない。そもそも、(こた)えるという行為に何の意味があるだろうか。

 彼女は、自身の邪眼によって路貴の奥に踏み入った。なら、彼女が見たモノは、まぎれもない事実。路貴だって、自分の記憶を捏造することはできない。自分が抱えた感情に、嘘を()くことはできない。だから、そこに偽りなんて、ない。

 だから、路貴は何も応えることができない。彼女が望む答えを口にしたところで、それが嘘だということを彼女は見抜いてしまう。彼女の見たものが真実だと告げるなんて、そんな無駄で残酷なことに、意味なんてない。

 路貴はただ、彼女の視線から目を逸らしたまま、沈黙を守るだけ。彼女の口から発せられる、その震えた音に、路貴の体は揺さぶられる。そのたびに、路貴は胸の奥が締めつけられるような感覚に耐える。締めつけられ、絞り出されたその記憶の残滓(ざんし)、感情のカスに、路貴の心は茨で包まれたように血を流す。

 なのに。

 路貴の(なか)の悪魔が囁く――。

 ――お前の手には、この絶望を無にする(すべ)がある。

 路貴の呪詛。代々、名継の家に伝わる忌まわしき呪術。路貴から、大切な人を奪ったその呪術を、路貴はすでに身に着けている。一〇年前に、その儀式が()り行われたときに、路貴は次代の担い手として、その術式を継承した。

 あれから、一〇年経った。すでに、いつ儀式を執行しても、おかしくない。路貴には、その術がある。

 すぐにでも、彼女を連れて名継の家に行き、儀式の実行を宣言すればいい。これは、名継家が王家に捧げた大魔術。このときのために、祭壇の奥では、羊水に浮かぶ人工の肉体が彼女の魂を待ちうけている。

 ただ、戻ればいい。

 路貴が憎悪する、呪われた屋敷へ。ただ自分たちの利益のために、一人の少女を永遠に(もてあそ)び続ける、あの人でなしの両親(にんげん)たちのもとへ。

 名継の家の跡継ぎの帰還を告げればいい。死ぬまで、名継家と王家にこの身を捧げることを誓えばいい。一度儀式を執り行ったなら、もう出奔することなど許されないのだから。そんな無様、路貴自身でさえ許さない。自分の手を彼女の血で汚しながら、それを棚に上げて名継と王の名を非難するなんて、そこまで路貴は無責任ではない。

 一度受け入れたなら、それはもう、名継路貴の責務。路貴は晴れて、名継の名を名乗ろう。自分かわいさのために一人の少女を永遠に殺し続ける、残忍な死刑執行人……。

 ――誰が……ッ。

 倒れたまま、路貴は奥歯を噛む。

 そんな選択は、許さない。否、そもそんなことを一瞬でも思考したこと自体が許し難い。路貴の憎悪と決意は、このていどのことで揺らぐほど、脆弱なものなのか。

 何のために、名継の家を出奔した?何のために、この地を選んだ?何故、神託(しんたく)者でなくなった今でも、この場に留まり続ける?何故、神託者となった王貴士に勝負を挑む?

 ――すべては、彼女のためではなかったのか?

 もう、彼女を殺さないために。もう、彼女の未来を奪わないように。彼女を、永遠の牢獄から救うために。

 名継の呪詛が目指すものは、つまるところ世界の起源への到達。なら、その呪詛以外に世界に達する術があればいいだけのこと。それを、名継の家の長男が見つけたなら、名継家を侮辱したことにはならない。むしろ、あの両親(あいつら)のことだ、その成果を王家に貢ぎ、さらなる恩恵を受けようと歓喜するだろう。

 だから、路貴は楽園(エデン)を手に入れなくてはならない。最後まで白見(しらみ)町に残るのは、諦めきれないから。王貴士から刻印を奪おうとするのも、同じような理由。

 それが、路貴が楽園(エデン)争奪戦に賭けたもの。すでに路貴は、彼女を失った時点で、世界への到達なんてものに興味がない。そのために誰かの命が犠牲にならないといけないなら、そんなもの、路貴は望まない。

 不幸とは、ただ死ぬことではない。理不尽なままに命が使い潰されること。犠牲者は無知のまま、永遠に囚われの身であること。当たり前のように受け入れ、当たり前のようにその身を捧げる。家のため、世界のため、なんて理由であっさり命を差し出すことを義務付けるなんて、そんな傲慢を路貴は許さない。

 だから、路貴は諦めない。まだ、諦めるわけにはいかない。

 たかが、自分の罪が暴かれたくらいで。そのていどで、彼女という唯一の命を犠牲にするなんて、そんなことは許さない。

 いくらでも、罵倒すればいい。いくらでも、蔑めばいい。それが、路貴の罪だから。その罰を、当然として受けよう。

 そのていどで、路貴は自身の決意を放棄しない。路貴はまだ、戦えるのだから。まだ体が動かなくても、この決意がある限り。路貴は再び、神託者に戻る。彼女に止められたって、こればかりは譲れない。これは、路貴が達成しなければ意味がないのだから。王家の人間になど、譲るつもりはない。名継の家が王家に仕えていようが、路貴は貴士に服従する気はない。だから、路貴は躊躇せず、貴士に抗おう。

 ……あんなヤローなんかに、路貴(おれ)の意思を潰されて、たまるか。

 路貴は、自身の弱さを拒絶する。――路貴はまだ、諦めてなどいないのだから。

 路貴は、目の前の少女の求めに応えない。――人非人だと、罵倒し蔑みたければ、すればいい。路貴は、そのていどでは挫けない。

 そう、覚悟を決める。その覚悟を前に、しかし金は路貴の予想を遥かに超えた言葉を口にする。

「――金、路貴、傷つけてた……?」

 そのあまりの内容に、路貴は顔を逸らしたままではいられなかった。彼女のほうへ目を向ける。雨風に曝されながら、しかし彼女の表情は路貴の胸を突く。――彼女は、泣いていた。

「全部、金のせい……?」

「…………」

 路貴は、応える言葉を失った。応えまいと、したのではない。まるで予想の範疇から超えた問いに、路貴はその意味を理解しきれていない。

 雨に濡れて、しかし路貴には金の涙が見て取れた。

 何故、彼女は泣いている?どうして、その()を怒りにたぎらせない?あのとき、彼女を見殺しにした男がいるのに。これから、彼女を殺し続ける悪人が目の前にいるのに。

 いくら年が離れているとは言え、いま、路貴は動けない。路貴の肩に触れているから、きっと彼女はもう動ける。邪眼が覚醒したせいか、すでに金は路貴の呪詛の影響下にない。

 この絶好の機会を前に、しかし彼女は動かない。ただ、泣き続ける。その瞳に宿るのは殺意の色ではなく、その瞳は悲愴に揺れている。

 金は、より決定的な言葉を口にする。

「……金の、せいで、路貴、悲しい?金、いる、から、貴士、と、仲、悪い、なった?」

 やっと金の言葉を理解できて、しかし路貴には彼女の感情が理解できない。

 どうして、どうして……。

 理解できないから、路貴の中で問いが廻る。

 どうして、彼女は路貴を憎まないのか。路貴はずっと、彼女に隠していた。彼女の出生、彼女の過去、歴史、遥か昔から積み上げられてきた、名継の呪術、その生け贄。彼女は、生まれながらにして死んでいるのだと、それを告げることもなく。やがて、彼女の命を摘むのは、他でもない路貴なのだと。

 それを、彼女はいま、識った。本来なら少しずつ、年月をかけて納得させていくものを、覚悟させていくものを、この瞬間、一度に、過不足なく突きつけられた。そんな膨大な情報を、即座に理解することも納得することもできないだろうに。驚愕は、動揺に。動揺は、やがて憎悪となって路貴を非難する、そのはずなのに。

 だが、実際はどうだ。彼女が口にしたことは、路貴の思考の埒外。

 ――金のせいで、路貴は悲しい……?

 どうして、路貴のことを思いやるのか。どうして、罪人の苦汁に涙するのか。残酷な運命を背負わされた少女は、しかし裕福な路貴のために泣いている。

 彼女のおかげで、名継の家は恵まれている。彼女を犠牲にすることで、王家から多大な支援を受けている。路貴はまさしく、彼女を踏み潰して立っていられる。

 ……なのに。

 金の涙は、止まらない。路貴の頬の上を冷たい、しかし温かい滴が(こぼ)れて落ちる。不幸な彼女は、さらに自分を追い込むように、漏らす。

「金の、せい……」

「違うッ!」

 反射的に、路貴は叫ぶ。

 彼女の声が、途切れる。路貴自身も、何を言おうとしているのかわかっていない。しかし、路貴を襲う衝動は、勝手に路貴の口を動かし続ける。

「金姉は何も悪くない。金姉は、何も悪くないんだ」

 久しく、口にしていなかったその呼び名。一〇年前、彼女を失ってからは、ずっと封印してきた、彼女への感情。

 こんなに、立っている場所は違ってしまったのに。成長した路貴は、もう子どもの頃のように幼くなんてないのに。

 それでも、その呼び方を覚えている。何の抵抗もなく、すんなりと口から零れ落ちる。それを受け取る目の前の表情は、昔の彼女そのままだったから、路貴は衝動に任せて手を伸ばしたかった。触れたときの感触も、きっと昔のまま。でも、とても彼女に触れる気にはなれなかった。もう、路貴は小さな子どもではない。こんな醜い手で彼女に触れるなんて、そんな歪は、路貴の記憶に混ぜたくない。

「俺は、俺は…………」

 何と口にするつもりだったのか、喋りかけた路貴にもわからない。その先の言葉が出なくて、けれどその先を形にしなければいけない気がして。

 その先を求めるように、口だけが動く。なのに、何度やっても形になんてなってくれない。そんな出来損ないの自分に、心底苛立つ。

 ――なんて。

 傲慢――。

 そう思う、自分がいる。

 なんて言うつもりなのかなんて、知らない。けれど、彼女に向かって、何を口にしたら、許されるというのだろう。そも、許されようとする行為自体が、おこがましいにもほどがある。

 だから、路貴は黙っていればいい。なのに、口はまだ喋ろうともがき続ける。心底、出来損ないの自身に苛立つ。

 そんな無様な路貴に、彼女はさも慈しむように微笑む。

「――路貴、優しい」

 なんて、致命的な言葉。

 まるで路貴の形容には似つかわしくないのに、その言葉だけで、路貴の胸の奥には刃が突きたてられる。痛くて、苦しいのに、なぜか温かい。

 ――ああ。

 心が血を流しているのか――。

 そう、路貴は了解した。

「金、わかる。路貴、ずっとずっと、金、助けたい、思ってた。金の知らないところで、いっぱい考えて、金のこと、助ける方法、ずっと探してた。いまも、そう。路貴、一番考えていること、金、助けたいこと」

 真実を識った彼女が口にすること。その真実を彼女の言葉に置き換えて耳にすると、無性に胸の奥が疼く。痒みに似たこの痛みは、次第に熱を発し出す。

「金、何も知らなかった。だから、金、路貴に酷いことした。ごめんなさい。金、謝る」

 ぺこり、と頭を下げる金。

 路貴の心の(なか)で、血が溢れ出す。吐きそうな感情に、しかし肉体(からだ)は震えるくらいしかできない。

 でも、と金は即座に頭を上げる。

「金からも、お願い、したい」

 金は真剣な目で路貴を見据える。

「金にも、教えてほしい。路貴の考えていること。路貴がわからない、困ってること。路貴が背負っていること、みんなみんな、金にも話してほしい」

 目の奥が、じんわりと熱い。心の奥から溢れた血液が、目の奥に溜まっているみたいだ。溢れだしそうな気配を感じて、路貴は抑えるように目を閉じる。そんな路貴に向かって、優しい言葉はなおも降り続く。

「路貴の背負っているもの、金、関係なくない。金も、うーん…………共犯者?悪いの、路貴だけじゃない。金にも、責任ある。責任、一人占め、しないでほしい。金、わからないから、魔術師のこと、教えてほしい。家のこと、教えてほしい。そしたら、いまはわからなくても、金も、役に立つ。路貴と一緒、隣、並べる。金は、一緒がいい」

「そんなこと……」

 その先の言葉を遮るように、金は首を横に振る。

「無駄じゃない。無駄、思わないで。――だって、路貴はここにいる」

 虚を衝かれたように、路貴は言葉を呑み込む。咄嗟に開いた目から溢れだしそうになったモノを、路貴はギリギリで堪える。

 金は何故か嬉しそうに微笑む。

「路貴がここにいるの、金のため。楽園(エデン)ほしいの、金、助けるため。楽園(エデン)が世界、見せるなら、金の呪詛、いらない。金は、ずっと路貴と一緒。路貴はもう、金を殺さなくていい」

 あ、という声を漏らして、金は慌てたように手を振る。

「ごめん。金、言い方わからない。金、言いたいこと、路貴は苦しまなくていい、いうこと」

 金は取り繕うように、早口で次のセリフを繋げる。

「――貴士も、路貴と同じこと考えてる」

 一つ飛んだ話題に、路貴は露骨に顔をしかめる。なのに、話す金はそんな路貴の気持ちを見ないままに続ける。

「貴士の心の中、まだ()てないから、本当のこと、わからない。でも、金、ずっと貴士と一緒にいる。だから、わかる。貴士も、路貴と同じ、金に優しい」

 路貴は、金の語る『優しい貴士』を想像してみた。あの能面で尊大な物言いに、優しさを見出す……。

 ――何かおぞましいものを見る気がして、あと一歩の空想を、路貴は打ち切った。

 そんな路貴の勝手な想像など知らず、うん、と金は頷く。

「それに、路貴もわかってる。路貴、ずっと、不思議、思ってる。なんで、貴士がここにいる?って」

 いまの金の前で、嘘などついても仕方ないから、路貴は胸の内で渋々と頷く。

 王家は血族、ここ白見の町でいうところの栖鳳楼(せいほうろう)家に位置する。すなわち、血族を支える魔術の家系をいくらか有し、名継家はその一つ。王家は支配者に位置し、すなわち直接世界を手にするために動くようなことはしない。他の家が手柄を上げれば、それを自分のものとして取り込む。つまり、王家そのものが世界を手に入れるために動くことはない。

 だから、王貴士がこの町にいることは、奇妙なこと。王家の人間が楽園(エデン)争奪戦に参加し、自ら楽園(エデン)を手に入れようとしている。そんなもの、他の家の誰かにでも行かせればいいだけなのに。

 うん、と金はさもわかっているように頷く。

「――貴士も、路貴と同じ」

 貴士が楽園(エデン)争奪戦に参加するのは、路貴と同じ理由だと。それを、当たり前のように金は路貴に教える。

 路貴は、また面食らって言葉を失う。だって、そうだろう。一〇年前の儀式以来、貴士とは疎遠になっている。あの尊大な男が何を考えているかなんて、路貴は知らない。何を思っているかなんて、そして何をしようとしているかなんて、そんなもの、路貴には関係のないこと。

 だから、路貴は貴士のことなど考えない。知っていればいいことは、貴士が王家の人間であること、そして王家は世界の起源へ到達するために、他の一族からそれぞれの成果を奪っていくこと。どんな犠牲が出ようとも、世界に到達するなら目を(つむ)るし、隠蔽も認めるということ。

 そんな、利己的な傲慢。名継の家を憎むのと等しく、路貴が憎むべきもう一つの家の名。

 ……そんなヤツが、路貴(おれ)と同じ――?

 あまりの莫迦げた内容に、路貴は失笑し、身を震わせる。そんなこと、あるわけないと、叫びたくて仕方がない。だって、もしそれが本当なら、貴士は王家を裏切るために、わざわざ神託者になったようなもの。金を連れ出してきたのだ、もし楽園(エデン)を手にすることができなかったら、貴士には何もできない。そんな危険を、貴士は犯している。

 路貴の笑い声をどう理解したのか、金はだから、と占い師みたいに断言する。

「貴士と路貴、仲直りできる。だって、二人とも、同じ気持ち。仲良くできない、おかしい」

 仲直り、なんて単語に、路貴は面食らう。だって、そうだろう。まるで路貴が、昔は貴士と仲が良かったみたいな表現だ。

 ハッ、と路貴が吐き捨てる。

「誰が……」

「『あんなやつと』?」

 邪眼使いの金は、路貴のセリフを先取りする。路貴は言葉を切り、金は何故か満足したように笑う。

「こういうの何て言うか、金、知ってる。『喧嘩するほど仲がいい』」

「気色悪いこと言うな」

「『二人とも、仲良くする』」

 少し澄ました大人びた口調。金はまた、幸せそうな笑みを浮かべる。

「昔の金、良くこう言って微笑(わら)ってた」

 ああ、そうだな、と路貴は心の中で頷く。

 昔から――。

 ――路貴と貴士は、争っていた。

 より高みを目指そうと、智を競っていた。二人揃って彼女の隣に並び、彼女の話を聞いていた。相手が少しでも自分より抜きんでたところがあれば、そのさらに上のものを見せつけるように智を示す。そうやって、自分が、自分こそがと競い合う。そんな幼い二人の少年たちの様子を、彼女は笑って見守っていた。

 うん、と金はまた頷いて、微笑む。

「路貴、嫌じゃないなら、昔の金のこと、今の金に教えてほしい。昔の金、どんなだったか、ちょっと知りたい」

 あ、でも、と金の顔が曇る。

「路貴が嫌なら、無理に聞かない。これ、金の我がまま」

 その金の優しさに、路貴はわずかに肩を下げる。

 ……こういう彼女の気遣いを、路貴は知らなかった。

 昔の彼女からは見たことのないもの、それは、見せる必要がなかった、といったほうが正しいのかもしれない。昔の路貴と貴士は何の遠慮もなく、自分たちの智を競っていた。だから、彼女が気遣う隙なんて、なかった。幼い自分たちは自分のことしか考えていなかった。――いつか彼女がいなくなるなんて、想像もしていなかった。

「教えてやるよ。別に、なくなるもんじゃない」

 路貴は請け負う。

 ――そう。

 ずっと、なくならない――。

 彼女と過ごした日々。路貴がまだ、幼かった頃。そのときの彼女は、路貴よりもずっと大人で、子どもの路貴なんかよりモノを知っていた。それこそ、何でも知っていた。

 そして、覚えている。彼女の話し方、彼女の性格、触れられたときの感触、彼女のまとっている雰囲気。声の調子、笑顔も、怒ったときの顔も。傍にいるとき、遠くにいるとき。どんな場合だって、彼女という存在を覚えている。覚えている以上に、それは路貴に染みつき、刻み込まれている。

 決して、忘れない。決して、なくならない。忘れるわけなんがない。忘れられるわけがない。だから、彼女はずっと、路貴からなくならない。

 ……すっ、と。

 彼女は、路貴に向かって小指を突き出す。

「約束」

 それは、彼女から習ったもの。幼い頃の路貴は、両親と過ごした時間よりも彼女と()ごしていた時間のほうが多いくらい。だから、路貴は彼女から何でも教わった。

「路貴、金に昔の金のこと、教える。路貴の家のこと、教える。魔術のことも、教える。これから、金のこと無視しない。金と、お話する。それから…………」

「多すぎだ」

 呆れ交じりに、路貴は漏らす。路貴の苦笑に、彼女も笑顔で応じる。

「『順番。順番』」

 遠い昔、彼女が口にしたセリフ。あの頃と同じくらいに大きくなった金が口にして、彼女を追い抜いた路貴がそれを聞く。

 もう、心の痛みはない。

 ただ、温かさが広がっていく。

 ……どうして、彼女はいつだって、こんなに優しいのだろう?

 遠い日の彼女。自分が死ぬことを知っていて、けれど彼女はそんな不安を少しも見せなかった。最期の日だって、彼女は変わらず、穏やかに目を閉じていた。

 自分を殺す相手に、その役目を教えてくれた。嫌悪もなく、怯えもなく、彼女はいつだって、路貴に優しい。

 ――それは。

 生まれ変わってからも、変わらない――。

 また、路貴の傍にいてくれると言う。また、路貴の傍にいたいと言う。いままでずっと無視し続けて、拒否し続けて、自分にかけられた呪いを知ってなお、彼女は呪術師である路貴の傍にいる。

 なんで、こんな人でなしを信じることができるんだ――?

 その疑問を、路貴は形にする前に放棄する。

 ……もう、彼女は全部お見通しなんだ。

 路貴の記憶も、感情も、思考も、やってきたことも、やろうとしていることも。全部、バレてる。なら、いまさら取り繕ったって、意味がない。

 ああ、そうだ。

 路貴の決意は、変わらない。路貴はもう、彼女を死なせたりなんか、しない。そのために、路貴は家を出た。そのために、神託者になった。そのために、楽園(エデン)を欲する。

 ――でも。

 なにより、路貴がほしいのは――。

 雨は、次第に小ぶりになっていく。さっきまで騒々しかったのが嘘みたいに、風も穏やかだ。だから、路貴の耳には彼女の声が良く聞こえる。

「そうね。じゃあ、まず……」

 しばし『最初のお願い』を考えてから、納得のいくものを思いついたように、金は満足して頷く。

「路貴と金と貴士、三人、昔みたいに、仲良くする」

 三人、仲良く。それは、昔のように……。

 路貴は苦笑する。金とはともかく、貴士と仲良くなんて、いまの二人の関係からは、とても想像ができない。小さい頃だって、あれが仲が良かったというものなのか、路貴は即座に頷けない。

 ――けれど。

 昔のように。どんなに年が違っても、どれだけの月日が経っても、昔のように、というのは悪い気がしない。何故だか、それはそんなに難しいことではないような気がする。

 それも、悪くない――。

 思い出にしようとしていた、遠い昔。それを一〇年経ったいまになって、やり直す。それが叶うのなら、路貴はもう、何も言うことはない。

「金の最初のお願い。約束できる?」

 差し出された、小さな指。少し不安そうに見返してくる小さな瞳。昔のまま、変わらない彼女の姿。

「――ああ。約束する」

 彼女に応えるように、路貴は腕を伸ばす。

 高校生になった路貴。子どもの頃から変わってしまった、自分の手。彼女よりも小さかった自分の手が、いまでは目の前の彼女よりもずっと大きい。

 もう、昔とは違う自分たち。けれど、それをやり直す。やり直せないことなんてないのだと、そう信じて。

 路貴は腕を伸ばし、彼女の小指と自分の小指を絡めようとして――。

 ――指は、虚空を切る。

 声は出なかった。

 まるで、スローモーションを見ているよう。ゆっくり、ゆっくり。彼女の身体が(かし)いでいく。頭が落ちる、腕が落ちる、指が落ちる、胴が落ちる、腰が落ちる、足が落ちる。落ちる、落ちる……。

 顔が、落ちる。彼女の顔。その笑顔が、まるで驚いたように固まる。開いた口からは、しかし何も出てこない。ただ瞳は路貴のほうを向いて、しかし次第に映すものを失っていく。落ちる、落ちる……。

 失っていく。失われていく。意識とか、感情とか、温もりや、存在や。すぐ目の前にあるのに、まるで彼方へと遠ざかっていくように。遠ざかる、離れていく、消えていく、その現実を見ているしか、できない。

 ――パサ、と。

 乾いた、音。

 そこに、彼女の肉体(からだ)がある。なのに、彼女の精神(こころ)は聞こえない。彼女の(こえ)は、もう消えてしまいそうなくらい、か細く弱い。

 まるで、フリーズしたみたいに、思考が働かない。手を伸ばすことも、声をかけることもできず。ただ見ているしかできない。いや、そもそも見ているのか、それすらもわからない。ただ、突きつけられているだけ。

 現実という、無情。

 すぐ目の前にあるのに。やっと、通じ合えたと感じたのに。

 まだ、これからなんだ。まだ、始まってもいないのに。単なる、約束。これからだという、そんな決め事。それを結ぶ前に、消えてしまう。

 こんなにあっさり。呆気なく。消えてしまう。

 彼女の、まるで死人のような瞳が虚空を見る。その表情に、死斑が浮く幻覚を見る。その瞳の奥に、黒い胎児を幻視する。

 全てが終わり、また振り出しに戻ったように。

「……あ、あ………」

 ――嵐の夜に。

 少年は独り、慟哭した――。


 決着は、その交錯のうちについた。

 魔力と魔力の衝突は、破滅的だ。衝撃は空間を振るわせ、暴風雨が一瞬のうちに弾け飛ぶ。激震は大地にまで及び、歪んだ地面は宙を舞う。雨と風と土煙が、二人の間から弾き出される。

 両者の周囲は、空白のように静寂と化す。弾き飛ばされた雨の音も、二人からは遠い。二人の目はともに相手のことしか見ていないのだから。

 まるで時間そのものが停止してしまったよう。両者は動かず、ただ睨むように相手を見返すだけ。

 衝突の余韻は、しかし永遠には続かない。不意に、片方の影が揺れる。彼の白い髪が風に流れる。

「……っ」

 貴士は片膝をつくまでで堪える。右腕は痙攣を起こしたように不規則に動き続ける。

 先の勝負の優勢は、純粋な魔力量だけ見れば、貴士にあった。当然だ、貴士は自身の魔力だけでなく、空間に溢れた周囲の魔力までも利用できたのだから。

 しかし、夏弥(かや)はその不利に対して、ただ貴士に到達することだけに専念した。圧倒的な魔力量全てにぶつかるのではなく、その中でただの一点を集中して突き通した。

 貴士の技量では、その一点のみを補うことはできない。ゆえに、貴士は全体の魔力量をあげることでカバーしようとした。結果、貴士の右腕はその膨大な量の魔力に耐えきれず、過負荷のために制御不能となった。

「…………かッ」

 何かを口にしようとして、しかしそれすら形にできない。あまりの痛みに、それこそ倒れてしまいそうだが、貴士の矜持がそれを踏み止まらせる。

 ――こんなことで……ッ!

 勝負における決着はついた。しかし貴士は敗北を認めない。

 敗北を認めた瞬間、貴士の刻印は相手のもとへ向かうだろう。それは貴士が神託者の資格を失うことであり、楽園(エデン)争奪戦からの脱落を意味する。そうなれば、貴士の手はもう、楽園(エデン)を掴むことはない。その可能性が、完全に消失する。

「くっ…………」

 奥歯を強く噛み、その痛みに耐える。

 ――それだけは、あってはならない。

 貴士は自身に言い聞かせる。

 何のために自身の国を出たのか。王家の人間が、なぜ自ら動いたのか。他の魔術師の家ではなく、貴士自身が……。

 無理矢理、右腕を握りしめる。バリバリ、と、内側から外側から、電流が弾ける。まるで腕が破裂でもしたような錯覚が痛覚を刺激する。体の内から漏れる悲鳴を、貴士は口を固く閉ざすことで飲み込む。

 ……もう、貴士の意思では魔力すら通わない。

 貴士の欠片〝暴夜の花嫁(アルフライラワライラ)〟は周囲の魔力を吸収する。だから術者自身はそれほど魔力を払う必要がない。それほど、というのは〝暴夜の花嫁(アルフライラワライラ)〟を駆動させるための最低限の魔力だけは必要になるからだ。

 そしていまの貴士は、その最低限を払うこともできない。貴士の右腕は、正しく役に立たない。貴士は完全に、戦闘不能だ。

 ――それでも。

 貴士は戦いを放棄しない。無抵抗のままに嬲られて、強引に刻印を奪われることになっても、それでも貴士は『諦める』ことだけはしない、とその決意を再確認する。

 どれだけ腕が痛んでも、倒れることはない。もはや戦いを続けることができなくても、降参などしない。

 魔術師にとって、敗北とは死をもってしか認められない。家の名を背負っている以上、敗北は自身のみではなく、自分が背負った家の歴史全てに及ぶ。ゆえに、魔術師は敗北を背負って生き続けることを恥じる。無様に生き続けるくらいなら、死を選ぶ。勝者はだから、その決意を知っているから敗者を殺すのだ。

 だから、貴士は自分の意思で倒れることはしない。最後の最後まで、足掻く。勝者が最期をくだすまで、貴士は何度でも挑む。

「がッ……!」

 吐き出す、その意思。痛みを怒りで塗り潰したその()が、夏弥に告げる。

 ――さあ、殺すがいい。

 それまで、この戦いは終わらない。それが、魔術師同士の闘争――。

 その闘志を見て、しかし夏弥の顔には同情じみた悲哀が浮かんでいる。彼の口から吐き出された言葉は、さらに貴士の激情を(あお)る。

「もう、決着はついた。これ以上戦うのは、無意味だ」

 まるで当然のように紡がれる言葉は、しかし血族の家に生まれた貴士には理解の埒外(らちがい)だ。その情けは貴士だけでなく、魔術師という在り方を根底から侮辱する。

「…………俺は、あんたを殺さない」

 それなのに。夏弥は貴士の心情など知らず、なおもその毒液を吐き出し続ける。 

「俺は、誰も死なせない。――それが、俺の願いだから」

 それが、夏弥の答え。楽園(エデン)争奪戦に挑む、それこそ、夏弥の意思であり、決意。それは、魔術師の在り方とは根本から相容れない。世界に到達するために、世界中の魔術師がどれほどの犠牲を払ったか。どれだけの研鑽を重ね、どれだけの闘争が行われ。――その果てに、どれだけの死が築かれたか。

 何かを得るためには犠牲が必要。王家や彼らを支える魔術師たちがどれだけ犠牲を払っても、いまだ到達し得ない世界の起源。一体、世界はどれだけの犠牲を望んでいるのか。その望みに応えようと、いまだに犠牲を払い続けているというのに。

 ――甘い。

 目の前の相手が未熟者であったなら、貴士はその一言で切り捨てていただろう。しかし、貴士はそれだけで夏弥を無視するわけにはいかない。

 ――なぜなら。

 雪火(ゆきび)夏弥は、神託者なのだから――。

「…………妄言をッ」

 許容できるわけもない。雪火夏弥は、神託者だ。さらに、夏弥はここに到るまで、楽園(エデン)争奪戦を勝ち抜いてきた。そんな相手が、こんな不完全な魔術師だったとは。いや、これはもはや、魔術師ですらない。これは、魔術師の歴史すら知らない。魔術師の思想や哲学、そういった根本的な考え方すら、理解していない。理解していながら拒絶するなら、それは一層、タチが悪い。

「戯け。痴れ者が。君は魔術師の面汚(つらよご)しだ。魔術師の闘争を、意思を、歴史を、全てを侮辱している。その無智は万死に値するッ!」

 貴士は自身の右腕に意識を向ける。魔力の通じないボロボロの腕に、無理矢理魔力を通じようと意識する。返ってくるのは、激しい痛みのみ。どんなに痛みに悶えても、悲鳴を漏らそうと、そこに魔力は生まれない。

 貴士は、そんな役立たずの腕に歯噛みしながら、夏弥へと怒れる視線を刻み続ける。そんな貴士の姿を、やはり夏弥は憐憫の目で見返すだけだ。

 ――悲鳴が聞こえたのは、ちょうどそのとき。

 グラウンドを満たしていた嵐は、すでに止んでいた。空間を満たしていた意思ある魔力は霧散して、もはや魔術にすら届かない。

 そうして訪れた静寂に、その叫び声は夏弥にも貴士にも聞こえた。両者はともに、その声のほうへと振り返る。

 路貴が、天を仰いで絶叫していた――。


 貴士にとって、そんな光景は、本来無視してかまわなかった。それでも、貴士が無視できないと感じたのは、ひとえにその気配を感じたからだ。

「……しばし待て」

 短く夏弥に告げた後、貴士は激痛を上げ続ける右腕をぶら下げたまま、路貴のもとへと向かう。路貴までは一〇〇メートル以上の距離があり、傷ついた右腕を抱えたまま歩くのはただひたすらに苦痛だ。

 それでも、貴士は路貴のもとに辿りつく。この距離になれば、貴士が感じた気配は、もう疑いようがない。

「路貴」

 声をかけるが、路貴はいまだ、天を仰いだまま声を上げる。まるで、子どものように泣いている。

 その慟哭が何を意味するのか、貴士はすぐに察しがついた。しかし、貴士は動揺を表に出さない。王家の人間として、必要以上に感情を露わにすることなど、しない。

「どうした?」

 短く、問う。ようやく届いたのか、路貴の体に変化が生まれる。

 ――ガンッ。

 路貴の右の拳が地面を打つ。

 容赦のない一撃に、しかしそれでも足りないとばかりに、拳はさらに地面に埋まる。右腕は、痙攣を起こしたように震えている。

 く、という呻きを漏らして、路貴は立ち上がる。彼は、もう泣いてなどいない。それでも路貴は天を仰いだまま、まるで独り言のように呟く。

「――始まった」

 その簡素な言葉に、すでに予感のあった貴士は驚かない。ただ、信じたい思いに任せて、なおも問う。

「どういう意味だ?」

 その無知な物言いに、路貴はギリ、と奥歯を噛む。だが路貴はすぐに顔に笑みを張り付けて、小莫迦にしたように吐き捨てる。

「時間切れ、ってことだ」

 貴士は視線を下へと移す。そこに横たわる少女の姿。屈み込み、改めて彼女の子細を(あらた)める。呼吸は、ない。目も、焦点が合っていないのか、虚ろ。触れて生きていることを確認したかったが、そうして絶望を味わう無意味さを知っているから、貴士は手を引いて立ち上がる。

「何故だ?伝承によれば、まだ一月(ひとつき)はあったはずだ」

 ハッ、と苛ついたように路貴が吐く。

「魂の濃さが一段上がった。彼女は、邪眼を発現した。きっと、自分の起源だって自覚してんだろ。そんだけの覚醒に、肉体のほうが抑えられなくなったんだろうさ」

 その意味するところを、王貴士は嫌になるくらい理解している。王家は血族であり、自身が治める町の魔術師を支配する存在だ。魔術師を統べる者として、王家はあらゆる智を積んできた。さらに、貴士は名継家の担当だ。名継の家の性質も、性格も、その秘術の根本に到るまで、知り尽くしている。

 だから貴士は、その後の路貴の言葉にも、何も驚かなかった。

「わかりやすく言うとだな。――このままだとヤベー、ってことだ」

 わかっているから、それ以上の言葉が浮かばない。脈打つような、金の気配。それは普段の彼女からはあり得ない異常。そんなこと、貴士は言われるまでもなく理解している。

 だから、信じられずに立ち尽くす。

 ――彼女を救うためにこの地を訪れたというのに。

 目の前で、彼女は再び死に向かおうとしている――。


 脈打つ気配を、魔術師たちは感じている。まるで鼓動のようなその気配は、何かが生まれる前兆のようだ。

 ――ああ。

 確かに、それは前兆だろう。

 一人の命を犠牲にして生まれるモノ――。

 その絶望を理解してなお、貴士は口を開く。命令や決断をくだすのが王家の役割だ、だから貴士はその義務を放棄できない。

「どうすれば……いい?」

 自分でも、信じられないくらいその声は震えていた。しかし、そんな自身を叱咤する余裕すら、いまの貴士にはない。

 路貴は面倒そうに頭を()く。

「俺が考えられる選択肢は、二つ。一つは、呪詛を解く。もう一つは、儀式をすぐにでも実行する」

 最初の選択肢は、王家の人間ならまず認めない。折角ここまで築き上げてきた成果だ、可能ならば、死と再生の儀式を続行するほうを選ぶ。だから貴士は、その方法を選択した場合の懸念を口にする。

「儀式を実行するとは、この場でか?」

 ハッ、と路貴が呆れたように息を吐き出す。

「無理だ。魂を入れ替える器がない。儀式をやるんなら、名継の家に行く必要がある」

「それまで()つか?」

「無理だろうな。途中で魂だけ抜き出す必要がある。その魂がどれだけ耐えられるか、なんて聞くなよ。俺も試したことがないからわからねー」

 ただ、と路貴が苦いものでも噛んだように呟く。

「あんま期待できないだろうな。肉体から魂を抜き出してそのままで保存ができるなら、誰もこんな呪詛を考えなかったはずだ。結局、魂はそれを納める肉体と一緒じゃないとダメなんだろう。適当な予想だけ言っておくが、――――――――きっと一時間も保たないだろうよ」

 その悲観すら楽観的な部類だと、貴士は即座に気づく。抜き出した魂を元の肉体に戻すなら一時間という時間は十分だろう。しかし、彼女の場合は他の肉体に移し替える。それも、一〇年の月日を経た肉体から、(はら)から出る前の胎児の肉体に、だ。どれだけの負荷がかかるか、わかったものではない。

 ならば、途中で魂を抜き出すなど、考えるだけ愚かだ。貴士は最善の法を取るべく、最後の確認をする。

「この状態は、どれだけ保つ?」

「初期の頃は何度かタイミングがわからず、こういう場面に出くわしたらしい。だが、誰もこいつを儀式の間から遠ざけようとしなかったから、すぐに儀式はできたそうだが。伝承だと三〇分以内、ってことになってる。その間は、肉体から分離することはなかったらしい。だが、相当ヤバい状態だ、ってことには変わらない。なら、――――一時間以内に儀式を始めないとダメだろうな」

「莫迦を言え。そんなことができるものか」

 ここ白見の町から名継の家まで、車を使っても四時間はかかるだろうか。もちろん、高速を使ってだ。新幹線を使いたくても、深夜のこの時間では、動いているわけもない。仮に電車が利用できたところで、一時間以内に儀式にまで持ち込むのは、不可能だ。

「――じゃあ、どうする?」

 路貴の問いに、しかし貴士は答えられない。それは、すでにこの方法では解決不可能だということ。どんなに可能性を見出そうとしても、すぐに行き詰まる。

 見かねたように、路貴は天を仰ぐ。

「俺なら、もう一つの方法を取る」

 その言葉には、少しも迷いが感じられない。その言葉の意味するところを知っているから、貴士は震えを押し殺して問い返す。

「もう一つ、とは?」

「この場で呪詛を解く、だ」

 路貴は即答する。

「この呪詛はな、魂と肉体の両方にかける。魂は肉体に馴染むように、肉体は魂を受け入れるように。お互いがお互いを繋ぎとめる」

 転生とは、それだけですでに大魔術のクラスだ。前世の記憶が引き継がれなくても、意図して同じ肉体、あるいは運命となるよう仕向けられたのなら、それは容易く達成できるものではない。

 名継の一族は、その大魔術を達成するために、犠牲者の魂と肉体に呪詛を施した。それはお互いを縛りあうための、自縛の鎖。

「あるていど定着すれば、あとは無理な力は働かない。一〇年、っていう期限が来るまで、そう滅多なことがなけりゃ壊れはしない。今回のケースが異例中の異例、ってわけだ」

 つまり、と路貴は続ける。

「この呪詛は二つの要素で構成されてる。魂の部分と肉体の部分。で、肉体には魂を受け入れるのとは別に、さらに時限爆弾みたいなのがセットされてる」

 そこで路貴はいったん、言葉を切る。

「ま、要するに、魂が一〇年、っていう年月だけ積めるように、肉体がそれ以上、魂を抱え込もうとしないわけだ。――だが実際には、肉体はそれ以上の年月でも稼働できるように設計されてる」

 その内容は、王貴士さえ初耳だ。貴士は反射的に訊き返す。

「それは、どのくらいだ?」

「成長の終点まで。二〇代の真ん中くらいか、まあ、正確なことは言えないが、少なくてもあと一〇年は保つ、ってことだ」

 人間が成長するのは、二〇代まで。後は日々、老い続ける。つまり、金に与えられた人工の肉体も、成長の限界までは生きていられる。

 路貴は気取ったように口元を吊り上げる。

「――だから、肉体に仕込まれてる時限爆弾だけ解除すれば、彼女の呪詛は解ける」

 その希望を、しかし貴士はすぐに受け入れない。それが口で言うほど容易いことならば、路貴は楽園(エデン)を求める必要など、なかったはずだ。

「その選択に、危険はないか?」

 わかっていたことなのか、路貴は心底嫌そうに舌打ちする。

「ゼロ、とは言わない。つーか、どっちも大差ない。呪詛を解くにしたって、そんな器用に狙ったところだけ解呪できるかなんざ、やってみなきゃわからねー」

 それに、と路貴は頭を掻く。

「時限爆弾を解呪できたところで、肉体が暴走状態の魂を抑えられるかなんて、そんな保証はもっとない。応急処置で定着の呪詛を重ねがけするかもしれねーが、うまくいくかどうかなんて知らねーぞ。俺が名継の家から引き継いだのは、魂を別の器に移し替えるだけだ。うまくいく方法論しか知らねーんだ、失敗する可能性のあるやり方なんざ、知るわけもない」

 ぞんざいな返答に、しかし貴士は反論しない。いかに貴士が魔術の智を極めているとはいえ、秘術の創始者たち以上に秘術を知っているわけではない。どんなに軽薄な物言いでも、その内容は真実だ。

 ならば――。人の上に立つ貴士が口にできるのは、これしかない。

「では問う。――君はどちらに賭ける?」

 その決定的な問いに、しかし路貴は最初から決めていたかのように、あっさりと返す。

「決まってんだろ。――金姉を助けるほうだ」

 路貴は横たわる少女の前に膝をつく。躊躇した貴士に対して、路貴は何の躊躇いもなく金を仰向ける。

「そのために、俺は名継の家を見限ったんだからな」

 なんて、簡単に言ってのける路貴。

 その致命的な発言が、それほど安直なものではないことを貴士は知っている。それは、明らかな裏切り行為。それを、よりにもよって家の跡取りが。

 もしも路貴の両親が彼の言葉を、彼の口から聞いたなら、どんな反応を示すだろうか。激昂するだろうか。それとも悲嘆に暮れるだろうか。――あるいは、そんな戯言と、取り合わないのだろうか。

 路貴が名継の家を出奔してから、その捜索にあたっているのは王家の人間だけだ。王家にとって名継の秘術は極めつけだから、失うわけにはいかない。それを知っているからか、名継家は少しも動かない。

 貴士は瞑目し、静かに首を横に振る。長い溜め息を吐き出した後で、目を開く。すでに貴士の瞳からは迷いが消えた。

「――聞き入れよう」

 承諾の意を、貴士は示す。

「君の提案と意思を我は承諾する。あとの責任は我が負う」

 ゆえに、と貴士は鋭く、路貴にくだす。

「王貴士が命じる。君は全力を尽くせ、名継路貴」

 路貴は不敵に笑い、懐から大量の呪符をばら撒く。その呪符はすでに路貴の魔力に反応し、蒼い光を帯びている。

「――言われるまでもねェ」

 路貴の両腕を呪符が覆う。呪符から無数の鎖が伸びる。まるで包帯のように呪符を巻きつけた両腕を、路貴は意識のない金の上に重ねる。路貴は迷いなく、その呪言を唱える。


「手繰り寄せるは肉の鎖。その奥底に眠る、(とき)の支配者に命じる」

 路貴は目を閉じ、意識を金の体内へと向ける。(いにしえ)の名継家がかけた金の呪詛、それを手繰(たぐ)り寄せるために。

「門戸を開き、この声を聞け。呪法の主が汝を求める。この求めに応じよ、そしてこの意思に身命を捧げよ」

 魔術において、呪文に必然性はない。だが、より強大な魔術を扱う際には、魔術を構築するイメージを強固にするために、呪文を使ったり魔方陣のようなものを用いたりする。

 普段、路貴は自身の呪詛を呪符という形で保存する。魔術師の間では魔具と呼ばれるモノで、魔術の発現速度を上げるためや戦闘時の魔力消費を抑えるために用いられる。

 現に、路貴はありったけの呪符を両腕に巻きつけている。全ての呪符からは蒼い鎖が伸び、金の肉体と繋がっている。

 それでも、路貴は言霊を使う。これから行使する呪詛が強大であることの証拠。路貴は瞑目したまま、さらに続ける。

「――命じる」

 路貴の意識が、金の底に眠る呪詛に触れる。金の肉体を蝕む呪詛は、まさしくいま、彼女の生殺与奪の権を握っている。その絶対支配者に向けて、路貴は命令をくだす。

(とき)を縛る手を放棄せよ。汝の手が握るは、生命の鎖。この血肉とその魂魄を結ぶ、それは永遠(とわ)の鎖となる。支配の名を我が刻む。()の使命は我が握る。呪言の(ことごと)くを(したた)める。我がもとにくだれ。我が声を聞け。我が命に従え。其の役目は我が決定する」

 魔術は年月を経るごとに強大になっていく。物質に魔術を定着させ、さらに魔力と術式を加算することで、魔具は神具と呼ばれる域に達する。

 金にかけられた呪詛も、すでにその域。すでに千年近く受け継がれた呪詛は、彼女の魂と肉体の一部と化している。引き千切ることもできず、触れるだけでも、そのどす黒さが路貴に向かって逆流してきそうだ。呪詛に意識を呑まれまいと、路貴はさらに言霊を続ける。

「――告げる」

 意識を持って行かれないように、路貴は目を閉じたまま意識を伸ばす。

「捧げよう。自身という供物で、(あがな)おう。代価を清算し、我が名にくだれ。我が血肉は汝の同胞。我が声を聞け。我の求めに応じよ。我が命にくだるがいい」

 路貴の魔力と術式が、金の奥へと流れ込んでいく。対峙する呪詛は、千年も生き続ける怪物。たかが一〇年ほどしか生きていない路貴が敵う相手か。だが路貴は相手の(なか)へと意識を滑り込ませる。奥へ奥へと自身をねじ込み、内側から相手の心臓を握りしめる。

「――命じる」

 意識が持って行かれそうになるのをギリギリで耐えながら、路貴は呪術を成立させるための呪言を紡ぐ。

「破却する。汝に刻まれた呪言を破却する。我、新たに汝の理を刻む。――生命の鎖を握る者よ。命を導く者よ。汝、永遠(とわ)に生命を運ぶ者。この肉体が生きる限り、汝、生命を見捨てることなし」

 名継家が代々継承してきた呪詛を、路貴はこの場で書き換える。千年近くも前に端を発し、これまでに百近い儀式が行われた。その、延々と続いた呪術を、いま、路貴は自身の言霊で塗り替えていく。

「鎖を投じよう。(いかり)を打ちおろそう。そして、古の呪言を抹消しよう。新たな呪言に、新たな主に、我がもとに、くだれ」

 逆流してきた呪詛の一部が、路貴の意識の(なか)で暴れる。それは、魂と肉体を縛るモノ。路貴という意識までも縛り上げようと、その呪詛は暴れ続ける。路貴は目を閉じたまま、しかし意識を手放すことなく、その苦痛を無視するように、続ける。

「この命は、輪廻に従う。この命に、制約などなし。肉体が存在する限り、この命は生を全うする。誰も、この命を侵略することは許さない。何者も、この命を脅かすことは許さない」

 命じる。書き換える。この意思を、刻む。何者だろうと、路貴の決意を乱すことはできない。仮に名継家そのものを相手にしようとも、路貴は決して(ひる)まない。それくらいの覚悟がなければ、家を捨てるなんて、できはしないのだから。

「永遠を、棄却する。閉じた輪を、解体する。その牢獄から、解放する。この肉体は、一つの命を背負う。この命は、一つの肉体に在る。永遠を棄却する。壊れた輪廻を破壊する。其を、自然の摂理に還そう」

 その呪詛に、路貴は意識の大半を踏み入れる。持って行けるものなら、持って行けばいい。そう簡単に、路貴は意識を手放したりしない。奥まで入り、切り刻み、破壊し尽くし。書き換える、塗り潰す。その呪詛を、路貴の手中に収めるために。相手が千年も生きた怪物だろうと、手は休めない。根こそぎ、路貴の呪詛で浸食しよう。

 路貴はついに、呪詛の心臓を自身の内へと呑み込む。

「崩壊を止めろ。(ほつ)れを修復しろ。この魂を、永遠から解放しろ!」

 命じる。その一言を刻みつける。意識の(なか)で暴れる鼓動を、無理矢理嚥下する。もう呪符は使い果たしたのか、路貴を縛る鎖の気配はない。代わりに、猛烈な寒気が内から路貴を襲う。

 ……浸食される。

 だが、路貴は意識を止めない。呪符がなくても、路貴はまだ呪術を使える。それが、名継の家の呪術師。次代を担う者。ありったけの呪詛を、路貴は自身に向ける。入り込んできた呪いを潰し尽くすように、這い上がってくる呪詛を斬り尽くすように。

 もはや、言霊は必要ない。あとは、路貴と呪詛の根競べ。どちらが、最後まで生き残るか。路貴は意識を燃やし尽くすように呪術をかけ続ける。


 呪術とは精神への働きかけだ。ゆえに、魔術のように見た目でわかるものではない。呪術の経緯も経過も、当事者でなければわからない。

 だから王貴士は、路貴と金の様子をただ見守ることしかできなかった。不意に、路貴が地面に倒れて、そこで貴士は初めて路貴に声をかけた。

「……やれるだけのことは、やった」

 路貴の口から、そんな簡素な声が返ってきた。どうやら路貴自身は大丈夫だと、貴士は安堵の息を漏らしてから金のほうへと目を向ける。

 変化は、すぐにはなかった。

 目は相変わらず焦点を失ったままで、呼吸も再開しているようには見えない。そんな彼女の姿を目にしてなお、貴士は信じるに任せて彼女を凝視する。

「…………」

 彼女の口が、わずかに動いたような気がした。その認識を信じて、貴士は反射的に彼女の名を呼ぶ。

「金!」

 見間違いであってくれるなと、それだけを願って貴士は彼女を見守る。どれほどの間があっただろうか。ほんの一〇秒ていどでも、貴士には永遠に等しい時間だ。

 彼女の口が、その名を紡ぐ。

「…………キシ?」

 貴士は硬直したまま、応えることができなかった。その声を聞きつけたのか、横になっていた路貴が一瞬で体を持ち上げる。呪詛を使った疲れなど忘れて、路貴は貴士と並んで彼女を覗きこむ。

「ロキも…………」

 紡がれた自身の名に、路貴もまた動きを忘れる。

 彼女の顔は、確かに二人を見上げている。呼吸を取り戻して、彼女の肩が上下している。しかし、二人はそんなことさえ気づかず、魔力の気配を探ることも忘れた。

 だから貴士は、直接彼女に無事を問う。

「金、身体(からだ)に問題はないか?」

「…………」

 金は探るように体を動かす。右手を何度か開閉し、左足の先をわずかに動かす。

「問題、ない」

 金は頷く。

「苦しい、ない」

 自然、貴士と路貴は大きく息を吐き出す。あまりの安堵に、この場で崩れてしまいそうだ。

 ――彼女は、生きている。

 そう理解しただけで、こんなにも体が震えている。いままで自分たちを縛りつけていたものが解けたように、体が言うことをきかない。なのに、体は勝手に震えている。

「貴士、路貴」

 その名を呼ばれて、二人はともに顔を上げる。互いに嫌悪し合っていた自分たちが並んでいることさえ、いまの二人は忘れている。

 金は頬を緩めて微笑()みを浮かべる。

「ありがとう」

 金はまだ、喋ることさえ辛そうなのに、それでも言葉を止めない。いますぐにでもこの感情を伝えたいと、伝えなければいけないと、そう信じるように。

「金、貴士と路貴の声、聞こえた。貴士も路貴も、金のこと、助けたい、思った」

 長い間、すれ違い続けた二人。顔を合わせればいがみ合い、殴り合っていた自分たち。

 そんな二人が、同じ感情を抱いていたなんて。ともに、同じことを願っていたなんて。なんて、滑稽。

 でも――。いまは、いまだけはそんなことは忘れよう。

 二人並んで、彼女の声を聞く。彼女が生きていることを、実感する。彼女の笑顔を、また見上げる。

 三人は、ずっと一緒なのだと……。

「金、嬉しい。だから、ありがとう」

 もう、遠い昔に捨てたはずの衝動が、二人を襲う。男の子は泣いてはいけない、なんて口約束のようなものが理由ではない。それは、成長するにつれて抱く矜持。人に涙を見せてはいけないと、簡単に泣いてしまう自分が許せないと、そんな小さなプライド。

 それが、崩れてしまいそう。衝動に任せて、破れてしまいそうな、この感情。ただ、その感情の正体も知らないままに、身体の奥から溢れてしまいそう。

「――和んでいるところ申し訳ないけど」

 唐突に、そんな声が割って入ってきた。路貴と貴士が顔を上げると、その視線の先にその少女は腕を組んで立っていた。

「決着はつけてもらうわよ、王貴士」

 栖鳳楼は無愛想にそれだけ告げる。その顔には不満の色がありありと浮かんでいる。

 そんな彼女の怒気を察したにもかかわらず、夏弥は横から声を挟む。

「おい、栖鳳楼……」

 夏弥の言葉は最後まで続かなかった。栖鳳楼は振り向きざまにキッと夏弥を睨む。そのあまりの剣幕に、夏弥はそれ以上の言葉を飲み込む。

「こっちはタダ働きで、ここまでお膳立てしてあげたのよ。それなのに、こんなにずぶ濡れにされて…………」

 溜まっていた不満をぶちまけるようにつらつら語る栖鳳楼は、しかしそこで言葉を切って夏弥を睨みあげる。

「悪い?」

「いえ、ごもっともです」

 夏弥は栖鳳楼の視界から消えるように三歩退がる。ふん、と栖鳳楼は夏弥から目を逸らし、そのまま貴士のほうを睨む。

「あなたは?」

 貴士は平生のように顔を凍らせる。栖鳳楼の求めに応じるように、貴士は立ち上がる。もはや栖鳳楼には目も向けず、相手となる夏弥のもとへ、向かう。

 両者の距離は、五メートルしかない。戦うには、あまりにも近すぎる立ち位置。

「貴士……」

 夏弥の口から、ついそんな声が漏れる。まるで、戦いに臨む者の姿ではない。その表情には、どこか痛みを耐えるような色がある。

「雪火夏弥。君に問う」

 貴士は、しかし、感情のない表情で向かう。

「君は、最後の神託者と戦う意思はあるか?」

 貴士の意図が読めず、夏弥は反応することができなかった。そんな夏弥にはかまわず、貴士はなおも問いを続ける。

「最後の神託者こそ、この町で『神隠し』という名の殺戮を繰り返した張本人。そんな者と君は対峙する意思があるか」

 その致命的な内容に、ようやく夏弥は理解する。

 ……それは、夏弥も予想していたことだ。

 人が忽然と姿を消す『神隠し』。その犯人はいまだ明らかになっていないが、その容疑者が神託者の中にいることを、夏弥はなんとなく知っている。人の命からは魔力を取り出すことができ、ゆえに力を欲する神託者なら、それだけの理由と能力がある。

 夏弥は、目の前の相手が神隠しの犯人ではないと、そう信じる。周囲から魔力を吸収する欠片〝暴夜の花嫁(アルフライラワライラ)〟を持っているなら、わざわざ人を襲う危険(リスク)を犯す必要などない。

 だから夏弥は、断固たる意思を込めて頷く。

「ああ。俺は誰にも、誰かを傷つけるようなことはさせない」

 そのために楽園争奪戦(このたたかい)に挑む、と夏弥の瞳が語る。

 貴士は驚かない。その返答を、貴士も予想していた。神託者に選ばれながら、魔術師の思想を持ち合わせない少年。彼は最後まで、人殺しは悪なのだと、命は家の名よりも重いのだと、そう信じ、貫くのだろう。

 ――生粋の魔術師とは相容れない思考。

 そんな不完全な魔術師が、神託者に選ばれたという事実――。

 貴士はそんな皮肉に、一つ、微笑を漏らす。

「――よろしい」

 そこに嘲笑はない。いっそ、清々しいほどに、夏弥の宣言は痛快だ。だから貴士は、そんな夏弥に返礼を贈る。

 その瞬きは、刹那のうちに終わった。貴士が夏弥に向けて右腕を差し出すと、刻印は貴士の腕から離れて、夏弥のものと一つになった。その呆気ない幕切れに、しかし貴士は優美なままに右腕を振る。

「君の勝利だ、雪火夏弥。最終決戦に挑むがいい」

 それが、王貴士の決定した意思。貴士の望みは、金の命を救うこと。それが達成されたなら、もはや楽園(エデン)に求めるものなど、何もない。

「金、立てるか?」

「あ、うん」

「路貴は?」

「……余裕だ」

 金はゆっくりと、路貴はぎこちなく、立ち上がる。その様を見届けてから貴士は頷く。

「では、行くぞ」

 それは、王家の人間として当然の振る舞い。従者に対して、労いも気遣いも不要。ただ命じて、それが実行されたことを確認する。

「さらばだ、雪火夏弥。最終戦においても、君が勝利せよ。――王貴士が命じる」

 振り向きもせず、それだけ残して貴士は立ち去る。彼の後を、金と路貴がつき従う。まだ体に不調があるのか、路貴が片足を引きずるように歩きながら、前を歩く貴士に向かった不平を投げる。そんな路貴には応じず、貴士はただ前を向いたまま進み続ける。

 グラウンドを出て、三人の姿は夏弥の視界から消える。三人の姿が完全に見えなくなる前に、夏弥は金の横顔を見る。路貴が一方的に罵り、貴士はまるで相手をしない。そんな二人を見上げる彼女の顔は、どこか嬉しそうに微笑んでいた。

 そんな彼らに、夏弥は一つ頷いて、返した。

「――当たり前だ」

 夏弥の意思は、変わらない。楽園(エデン)に求めるものなどなく、ただこの戦いを終わらせるために剣をとる。誰も死なせないという祈りのために、夏弥に敗北はない。夏弥はその決意を、改めて胸に秘める。


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