第四章 異国の暗殺者
夏の夜、蝉の声さえ絶えた、それは丑三つ刻。
それは平生と変わらない、静寂がおりた、うだるような暑さを帯びたままの、夏の夜。
雪火夏弥はすでに寝息を立てている。夏のこの暑さに、窓を開けて、網戸で虫の侵入を防いでいる。吹き込む風は、しかし気休めくらいにしかならない。真夏の熱を含んだ空気など、少しも涼しいとは感じない。
夏弥の部屋は、そんなに広くない。勉強机があって、本棚があって、布団を敷いたらそれで終わり。しかし、それで十分な機能を備えた部屋。そもそも夏弥にとって、自分の部屋なんて寝起きする場所くらいの意味しかない。一階に下りれば広い居間がある。起きているときは一階で過ごし、着替えるときと寝るときだけ二階に上がる。
だから、夏弥の部屋には夏弥自身の色があまり染みついていない。自分の部屋を持つようになったのも、中学校に上がってから。夏弥がここ、雪火家で暮らした八年間のうち、ぎりぎり半分満たないていどしか使っていない。
本棚には半分も本が埋まっておらず、勉強机もほとんど使われていないみたいに綺麗なものだ。床の上にも、正しく布団しか敷かれていない。八年近く一人暮らしをしてきた夏弥の性格を映すように綺麗で、だからこそ、この部屋には『夏弥』という特徴が希薄。
誰が入っても、ここは自然に見えてしまう。
誰もいなくなっても、この部屋はきっと、それを受け入れる。
「………………」
沈黙が、寝入った夏弥を見下ろしている。
窓はカーテンがかかっていて、部屋に明かりはない。扉に鍵はついていないが、誰かが開けたような気配などない。
――何の気配もなく、その影は立っている。
影絵のように、その存在は自然とこの部屋に融け込んでいる。呼吸の音さえ、聞こえない。その代わりを担うように、夏弥の寝息が部屋の中にはある。
影は、夏弥の子細を検める。上は黒のTシャツ一枚、下は足首が出るくらいの暗いカーゴパンツ。腹部にだけタオルケットを敷いて、両腕はその上。呼吸をするたびに腹が上下して、その動きに従って腕の高さも変わる。
――静かで。穏やかで。
――無防備で。隙だらけ。
眠っている人間というのは、弱いのではなく、脆い。少し力を加えただけで、例えば口を塞いだり、首を絞めたり、瞼の隙間から指を侵入させたり……。
ほんの少しでいい。ほんの少し、そう、崖っぷちの人間をそっと押すように。それだけで、その人間の生命は終わる。そこに、体格も性別も関係ない。眠ったままであるなら、命の摘出は、こんなにも、容易い。
つまり、暗殺とは対象に気づかれることなく手をくだすことを言う。殺し切る前に気づかれて、暴れられるようでは失敗でしかない。
だから。
「……………………」
息を殺す。いや、最初から呼吸などしていない。この部屋に侵入する数秒前から、影は息を止めている。
足音など、立てるはずがない。動く気配さえ、感じさせることもない。音、だけではない。その振動すら、影であるこの存在は、決して気取られることはない。
人間くらいの愚鈍な生き物では、足音でも立てなければ気づかないが、鳥などはそれより先に敵の接近に気づく。音ではない、それは地面から伝わる振動。近づいてくる、その振動を鳥たちは聴くのだ。
そんな、生物が無意識の間に放つ気配というものを、影は悉く無にしている。ゆえに、その存在は影でしかない。
怯えたって無駄だ。恐怖など、まるで意味のない衝動。
気づかれない限りにおいて、暗殺は成功している。だから、最期の成功を確実にするために、暗殺者はその一撃をくだすのだ。
それは、心筋梗塞に似ている。あるいは、脳梗塞や脳出血のようなもの。
不意に訪れる、死。誰もが忘れていて、そして誰もに平等に訪れるもの。平穏を、安寧を信じていた人間を転覆させる、それは絶望の向こう側。
だから、無意味なのだ。その死を体験する前に恐怖するなんて、実験動物のラットだってそんなことはしない。
――暗殺者が舞い降りた前で対象がすることは。
ただ無知のままに眠りに落ちればいい――。
「……………………」
身を屈める。
その気配も、決して発しない。周囲の流れを乱すことなく、その存在はこの場所で当たり前のように融け込んだまま。
手段は、決まっている。位置を、正確に見定める。呼吸で腹部と、なにより肺が上下するが、そんなものは百も承知だ。呼吸の周期に従って、適切なタイミングでその一度きりを仕留めればいい。
――そう。
チャンスは、一度きり――。
同時に。
――その一度で。
全てを、終わらせる――。
位置は合わせた。狙うは、心臓。
心臓は肋骨によって守られている。だが、肋骨は決して心臓を完璧に包み込む壁ではない。骨同士の間には隙間がある。狙う位置と侵入する角度さえ熟知すれば、仕留めることは可能だ。
それに、心臓は循環器系の要。その力は、血液を重力に逆らって脳にまで押し上げるほど。そのポンプに穴が開けば、肉体という風船に蓄えられた血液は一気に弾け飛ぶ。こんな狭い部屋など、瞬く間に紅に染まるだろう。
心臓という重要器官を失い、大量の血液を失えば、その肉体は立ち所に絶命する。
「……」
準備は整った。武器など必要ない。心臓を貫くくらい、腕の一本があれば事足りる。
相手の呼吸のせいで、対象の胸部が上下する。そんなもの、想定の範囲内。タイミングも、もう知り尽くしている。
――だから。
迷うことなく。
暗殺者は、手をくだした――。
――どん。
と。
鈍い音を聞く。
音、というよりは、振動に近い。内に沈んで、外には漏れない。
それは、あまりに鮮やかな一撃。少しも揺らぐことなく、一寸のブレもなく、定められたルートを、決められた場所に向けて。まさしく、会心の一撃。
それでいてかつ、その後の動作にも全く無駄が存在しない。一撃を加え、後は素早く腕を引く。侵入するときの抵抗も感じさせず、抜き出す際にもその手際は見事という他ない。
全てが一連の、一繋がりの動作。引き抜かれたときの、そのわずかな音でさえ、この場所の気配に融け込んで周囲には漏らさない。
――ゴボ。
なんて。
小さくか細い、しかし不吉すぎる音を聴く。空気が引き抜かれるような、いや、引きずり出されるような、そんな音。
見下ろしたその先に、ぽっかりと穴。開かれた穴の奥は、ただ闇が覗いている。
――ざあ。
と。
身体の奥から血潮が聴こえる。血液が、まるでその穴に吸い込まれるように。それは、排水溝に水が落ちていく様に似ている。
……血の気が、引く。
呼吸が止まってしまったよう。体が熱く、そして濡れている。べったりと、嫌な感触に体が浸食されていく。
「…………」
胸の前に手を置く。握ったシャツは温い汗でじとりと重い。心臓が今なお脈打っているのを聴いて、夏弥はただ息を漏らす。
目を覚ました直後だというのに、意識は嫌になるくらいクリア。だが、だからこそ夏弥はこの状況を理解することができる。
自分が直前まで眠っていた布団には、白いシーツとは対極な黒い穴が穿たれている。鋭利なナイフでも突き立てた後のようなその穴は、床まで到達していて、夏弥も初めて見る雪火家の内部を覗かせている。
そして、見上げるその先。部屋の闇に融け込むように、その影は一瞬だけ見えた。
しかし、夏弥がその存在を正視しようとした瞬間には、影はカーテンの向こうに消えていた。
「……ッ!」
喉の奥で悲鳴を上げながらも、夏弥は窓へと駆け寄った。カーテンを開けると、外の夜空が見えた。寝る前に網戸にしたはずなのに、それは窓のほうへと追いやられている。
呆然と、なんてしている余裕もない。状況は、すぐに理解できた。
侵入者がいた。
――そして。
そいつは夏弥を殺そうとした――。
その思考に、ぞくり、と肌の上で嫌なものが走る。なのに夏弥の思考は、本当に、嫌になるくらい冷静だ。
と。
「夏弥ッ!」
激しい物音とともに扉がぶち開けられた。
夜の闇の中で、しかしその存在を夏弥は見間違えない。彼女が良く着るドレスではなく、それは袖のない黒のネグリジェ。銀の髪が白く浮かび、その金色の瞳が揺れている。表情など見えないはずなのに、夏弥にはローズが動揺しているようにしか見えなかった。
「なにかあったか?」
問うて、ものすごい速さで部屋中に目を向けるローズ。式神のローズをしても、敵の存在は気づけなかった。そして三秒をして、ようやくローズは布団に開いた穴に目を止めた。ローズはそこに何を見たのか、金の瞳がさらに揺れる。
その動揺も二秒の間のみ。
「……ッ」
ローズは瞳を鋭利に光らせて、夏弥の部屋を飛び出した。階段を駆け降りる音も、廊下を走る音も聞こえない。ローズはまさしく飛んだまま玄関へ向かっていく。
「おい、ローズ……!」
ローズの焦りに引っ張られるように、夏弥も部屋を飛び出した。夏弥にはローズみたいに飛んでいくことなんてできないから、階段を駆け下り、廊下を駆けて玄関へと到達する。真っ暗闇の中だが、長年住み慣れている家だ、転ぶようなことはしない。
素足のままで靴を履くのは気持ちが悪いが、今は緊急事態につき無視する。外へ出れば、弱い街灯に照らされて、しかし路上に人の姿は見えない。
「どっちだ?」
ローズが焦燥に駆られて叫ぶ。ローズは式神、魔力とか人の気配とかには、普通の人間以上に鋭い。なのに、そのローズでさえ、侵入者の行方はわからない。
夏弥は、ただ窓から消えたイメージを信じて、ローズの腕を引く。
「こっちだ」
夏弥はひたすら、坂を下った。普段、夏弥が丘ノ上高校に向かうための細い道ではなく、車が良く通る大通りのほうへと。
五分は走っただろうか、しかしあの影の姿は少しも捉えられない。
相手は夏弥たちよりも先に出た。それに、闇討ちしようとした相手だ、失敗したときの逃走方法も考えているだろう。夏弥たちが遅れて駆け出しても、逃げられてしまうかもしれない。
それでも、夏弥はちっとも不安に思わなかった。ただ、こっちへ。この先に。あの影は、必ずいる。そんな直感が、夏弥を走らせる。
交差点に入る、その直前で、夏弥は道を逸れる。この先に何があるのか、夏弥は知らない。父親である玄果とも踏み入ったことのない場所。
奥まで進み、ここが終点だと決めて、夏弥は足を止める。
そこは、墓地だった。夏の夜、深夜の夜、丑三つ刻の夜。街灯などなく、ただ無言の墓石だけが並んでいる。
「どこだ?」
ローズの問いかけが耳に入る。夏弥は気配を探ろうと周囲に目を向ける。が、夏弥は魔術師としては半人前なわけで、魔術師の気配を読むなんてできるわけもない。せいぜい、物音や人影でも見えないかと、そんなことを期待するだけだ。
「わからない」
夏弥の正直な返答に、ローズは呆れ気味に口を開く。
「わからない、って……」
「ローズでも、わからないか?」
逆に訊き返され、ローズは不服そうに口元を歪める。
「わからない。まるで周囲に溶け込んでいるように、判別できない。……夏弥が襲われたときだって、物音がしたから気づけたのだ」
つまり、夏弥が心臓を貫かれようとした、その瞬間ということ。それまで何の気配もなく、いまも式神のローズが見失ったままなんて、それは一体どんな相手なのか。
そんな夏弥の疑問も、しかしすぐに解決することになる。
「――ここまで辿りついたか」
研ぎ澄ました意識の中で、夏弥は即座にその声の位置を把握した。紛れることも違うこともなく、そこには一つの白い影があった。
街灯も届かない墓地の闇にあって、その存在は異質な存在感を放っていた。闇という舞台とは対極な、白い影。上から下まで、身につけているモノから地の色まで、まさしくそれは白い影だ。
「おまえ……!」
吐き出しかけた言葉に、しかし夏弥は、否、と言葉を切る。一瞬だけとはいえ、夏弥の脳裏に残っている影の姿とは、似ても似つかない。
だから夏弥は、確信をもって否定する。
「……じゃないな、俺の部屋にいたのは」
白い影が口元を歪める。それは微笑の形を作っている。
その白い衣装をまとった男はわずかに右腕をあげる。男の右手に、閃光が疾る。
それを合図に、などという感覚はまるでなかった。それで幕が開いたように、その存在に夏弥はようやく気づいた。
男の背後の墓石の、さらに影。目を凝らして、いや、意識をこらしてようやくその存在を認められるような、まるで背景の一部と見間違えてしまいそうな、その影。
中学生くらいの子どもだろうか、明るい色の服を着ているのに、この暗闇に溶け込むように、まるで存在感がない。
夏弥の視線の動きを知ってか、男は歪めた口を開く。
「我の式から生き残るとは、君も良い式を持っている」
ふるふる、と墓石の影の子どもが首を横に振る。
「違う。その人、だけで、避けた」
ほう、と男は振り返らずに目を細める。
「自力でかわすか。流石は、楽園に選ばれることはある、ということか」
その単語に、夏弥は咄嗟に反応した。
「おまえ」
ばさり、と男が右腕を振り上げる。示されたそれを、夏弥が見逃すはずがない。右手の甲に刻まれた、禍々しい模様。それは、夏弥の右手のモノと酷似した、一つの象徴。
「王貴士。我を呼ぶときはその名を使うことを許そう。――雪火夏弥」
わずかに動揺したが、それで集中を乱してはいけないと、夏弥は自身を落ち着かせる。――相手は魔術師で、しかも神託者だ。それに、自分を襲ってきた相手でもある。夏弥自身のことを調べていても、そんなに驚くことではない。
夏弥の内面など知らず、男――王貴士――はさらに続ける。
「楽園の求めに従い、君に決闘を申し込む。楽園を得るのは、一人の選ばれた者のみ」
その立ち振る舞いは、どこか品めいたものがあった。堂々としている、それ以上に、命令すること、上から見下ろすことに慣れている人間。そこに不自然さがないから、妙にその姿は様になっている。
そんな彼の申し出に。
「――随分勝手じゃないか」
ローズは一歩、前に出る。
「ローズ!」
咄嗟に、夏弥は彼女の名を叫んだ。しかし、ローズの雰囲気に気圧されて、それ以上の言葉が続かない。有り体に言えば、彼女は怒っている。
「闇討ちに失敗したら、今度は正々堂々決闘だと。傲慢が過ぎるぞ。――その驕り、跡形もなく消してやろうか?」
いや、そんな生温いモノじゃない。ローズは、本気だ。真剣に止めなければ、目の前の男を殺す気でいる。
夏弥が止める、よりも前に、貴士は低くその名を呼ぶ。
「金」
呼ばれた子どもは、そのあどけない表情のままに貴士を見上げる。貴士は振り返らず、ただ命令をくだす。
「あれの相手をしていろ」
たったそれだけで、全てが承諾された。
――直前まで墓石の影にいた子どもは。
コンマ数秒ほどで、ローズの目の前まで迫っている――。
咄嗟に、ローズは防御の体勢をとった。
「――――ッ!」
防御し、反撃の一撃を放つ。それをかわすため、子ども――金――は距離を置く。そしてローズが体勢を整える前に、追の二撃目。ローズは防御し、また反撃。今度は押されないようにと、前に出る。二人は夏弥からも貴士からも離れた位置で戦闘を開始する。
「ローズ!」
夏弥は叫ぶ。その足を塞ぐように、貴士の気配が夏弥に迫る。その感覚に、夏弥は反射的に振り返る。
「君は我と死合う。もしも命が惜しいというなら、この場に刻印を置いて去ね。それが君に許された、選択の余地」
そう、突きつけられて、夏弥は硬直する。
ローズの姿は、夏弥の視界にはない。揺れる魔力の気配だけはなんとなくわかるが、どこにいるかまでは判然としない。夏弥には、魔力の源を察知するだけの技量などない。
「…………」
だから夏弥は、目の前の相手へと意識を向ける。どこまでも白い、男の立ち振る舞い。これから魔術師同士の戦いをするというのに、まるで魔力の気配がない。それでも、夏弥には十分に過ぎた。相手の闘志が、夏弥には感じ取れるから。それくらいのことなら、すでに三人の神託者との戦いをくぐりぬけてきた夏弥にもわかること。
「……どうしても、戦わないといけないのか」
自身に言い聞かせるように、ただ吐く。夏弥の使える魔術など限られているが、それでも、戦いを前にして退くわけにはいかない。
「――ああ。いいさ」
だから、夏弥は応える。
「俺が相手をしてやる」
未だ、両者の間に魔力の流れはない。けれど、二人の間に満ちる気配は決定的に違ったものとなる。――神託者同士の闘争、それが、楽園争奪戦。
先手を取ったのは、貴士だった。しかし夏弥はそれが如何なる技なのか、理解できなかった。
貴士が掲げた右腕。それが振り下ろされる、ただそれだけの所作。
それだけで――。
――突風が夏弥を襲う。
「…………ッ!」
咄嗟に、夏弥は顔の前で両腕を交差する。感じたのは、衝撃と痛み。まるで、全身をバットで一度に殴られたような、そんな痛み。その衝撃で、夏弥は五メートル近く後退させられる。
「……っ」
あまりの痛みに、そんな声を漏らす。
腕を胸の位置まで下げて、目を開ける。ほう、と貴士が感嘆の声を漏らす。
「いまのを踏み止まるか。なるほど、少しはできるか」
夏弥は、まだ立っている。五メートルも後退させられたが、踏み止まっていられる。まだ、戦う意思は失っていない。
だが、と貴士は平坦な声で続ける。
「いまの君に武器はない。その様で、君はどうやって我に勝つ?雪火夏弥」
二撃目が、夏弥を襲う。再度、夏弥は腕を盾にする。
同じ衝撃、同じ痛み。
――そして同じく。
不可解な、技――。
半人前とは言え、夏弥も三人の神託者との戦いを経ている。魔術の気配も、なんとなくわかるようになっている。
そんな夏弥でさえ、貴士からは魔術の気配が感じられない。
夏弥がわかるのは、貴士が右腕を振り上げ、下ろすまでの所作のみ。そこから数間おいて、夏弥の身体に衝撃と痛みがある。それまでの一連の流れに、魔術の気配などどこにもない。
それでも夏弥が貴士の攻撃に耐えられているのは、そのわずかな間のおかげだろう。貴士が腕を振り下ろしてから夏弥の身体に衝撃が走るまでの、そのわずかだが確実な間。その遅延が、夏弥の窮地を救っている。
しかし――。
「防戦一方、か」
貴士の声が遠くに聞こえる。何度も攻撃を受け、そのたびに夏弥の身体は後退させられている。もう二人の距離は二〇メートル近くあいているだろうか。
「そんなことでは、我に勝つことなどできん。諦めて、刻印を我に渡すがいい。そうすれば、命だけは助けよう」
再度、衝撃が走る。だんだんと、立っているのも辛くなっていた。つい、片膝をついてしまう。
「…………」
それでも、夏弥は立ち上がる。負けるわけにはいかないと、ただそれだけの意識のゆえに。
貴士の表情は、この距離と暗さもあって、もはや見えない。静かに、腕が振り下ろされる。その白い軌跡が、尾を引くよう。
今度の衝撃は、石の床を転がるものだった。だが、思ったよりも痛みはない。夏弥が自ら、その痛みを選んだのだから。
ほう、と貴士が感嘆の声を漏らす。
「かわすか」
貴士の猛攻を、夏弥は自力でかわした。もう何度も、その軌道を見ているのだ。たとえ魔力の気配がなくたって、いい加減、かわせる。
……それに。
夏弥は手の内の感触を確かめる。
さっき膝をついたとき、手近の石を拾っておいた。選ぶ時間などなかったが、大きさとしては手頃だろう。
――そろそろ、反撃だ。
貴士はさも品定めでもするように、立ち上がった夏弥を眺めて、すぐには手を動かさない。夏弥がかわしたことに驚いたのか、まだ夏弥から反撃がないだろうと高をくくっているのか。
――イメージ、する。
なら、ちょうどいい。
この隙に、と……。
――夏弥の〝イメージ〟に、その〝映像〟が流れ込む。
それは、巨大な怪物。全長三メートル近い巨人は、しかしその頭は人のモノではなく、牛のモノ。まるで古代の彫刻のように完成された肉体、鋼のような黒い体、捩じれた二本の角はどこまでも魔的。
その鉄の腕が、軽々と宙を舞う。右肩の断面は、チェーンソーで切り裂かれたように、見事な楕円。
……その断面から、赤黒いモノが溢れ出る。切り裂かれた腕が、赤に溶けていく。
それが、夏弥の放った魔術。
式神は、人とは違う。人以上に魔術に最適化された身体は、即座に魔力を帯びて再生する。
しかし、人は式神とは違う。それがもしも人に向けて放たれていたら……?
――〝映像〟が夏弥に〝ソレ〟を見せる。
牛鬼の肉体が弾け飛ぶ。ざーざー、と赤い雨が降る。散らばる肉片が、濡れた音を立てて路面に降り積もる。
髪が濡れる。頬が濡れる。腕が濡れて、体が重い。べったりと染みついたその色に、夏弥は目を背けることができない。
ふと、足元に浮かぶモノに焦点が合う。
それは、人の■。
胸が、締めつけられる。違うと、首を振りたいのに動かすことも許されない。見上げる瞳にどんな感情が込められているのか、夏弥は知っている。
楽園争奪戦で、夏弥が見殺しにしたモノ――。
救えるはずだった、かけがえのないモノ――。
もう戻ってはこない、二度と還ってはこない、失ったモノ――。
それを、今度こそ夏弥は自分の手で築き上げるだろう。
――おまえの手には〝ソレ〟があると、〝映像〟は夏弥に突きつける。
夏弥は目を開いた。
なのに、その〝イメージ〟は現実に染み出たまま消えてくれない。
目の前に立つ、白い青年。その姿に、赤色が滲み出す。夏弥の手には、それを〝現実〟にする術がある。
……夏弥だって、そんなことはわかっている。
それなのに、夏弥はいつだって、気づくのが遅い。実際に、魔術というものの脅威を目の当たりにするまで、夏弥はそのことに気づけない。
――水鏡言の状態を、正しく測れなかったように。
式神の牛鬼でさえ、あれだけの威力を与えたのだ。
じゃあ、人間の貴士には……?
――問うまでもない。
夏弥は簡単に■してしまう――。
目の前の景色が、赤く歪む。
震える。それは肉体ではなく、夏弥の内側、もっと深い部分。叫んだ声も、夏弥の内にしか届かない。
地に足がつかないというのはこういうことか。肉体と精神が、まるでバラバラ。なんて、統一感のない。不出来な、自身。
「なら、これは如何にする?」
貴士の声が耳に届いても、まるで現実味を帯びない。夏弥の身体が、勝手に反応する。足が地面を蹴って、また回避に動く。
――ドン。
と、衝撃。
体が押し潰される。緩んだその隙間から、パラパラと零れ落ちていくよう。ぐしゃ、と自分の体が悲鳴を上げる。ぼろぼろで、ずたずたで。まるで役立たずの、木偶の坊みたいな体。
貴士の嘲笑を含んだ声が上から降ってくる。
「君でも、こればかりは超えられぬらしい」
痛みは、不思議とない。加熱しすぎた痛みは、神経には届かないらしい。代わりに感じるのは、熱さ。まるで、熱病のよう。視界がぼやける、意識がぼやける。
ほう、という貴士の感嘆。
「なお立つか。その点のみは、君のほうが優れているということか」
貴士が何を言っているのか、よくわからない。ぼやける視界が、一瞬だけ晴れる。それを見るに、夏弥はどうやら立ち上がっているらしい。
――なんだ、夏弥は立っているのか。
――なんで、夏弥は立っているんだ――?
もう、考えることも億劫。
イメージさえ、すでに形を成さない。
だが、と貴士の声が聞こえる。
「すでに満身創痍。次で終わりにしよう」
ぼやける視界の中で、その腕が動く。ああ確かに、なんて、夏弥はそんなふうに頷けてしまう。
手には、まだ感触がある。夏弥の視界が、時折赤に明滅する。でも、夏弥にはそんなことはできない。
「…………夏弥ッ!」
遠くで、自分の名を叫ぶ声がする。その声に応えたくて、夏弥は口を開いた。なのに、夏弥の喉は何の音も作ってはくれなかった。
嵐が迫る、その直前。
――水の亀裂が、空間を裁断する。
水飛沫、なんて生易しいものではない。ガラスのように透けた水面は、触れた指はおろか腕だろうと輪切りにできるだろう。それほどに、この水には魔力がこもっている。
全てが、その場で硬直した。夏弥も貴士も、ローズも金も、水の壁に阻まれて動くことができない。
その硬直も、一〇秒で終わる。水の壁は出現したときと同じく唐突に消え、そのタイミングを見計らったように澄んだ声が墓地に響く。
「――人の領土で随分勝手な真似をするのね」
夏弥と貴士は、同時に声のほうへと振り向いた。両者ともに、わずかな驚きの色を見せている。
そこに立っていたのは、一人の少女。夏弥にとっては見慣れたポニーテールが夜風に揺れる。栖鳳楼礼は二人から一〇メートルの距離を置いて、止まる。
「王家の」
冷たい視線を、栖鳳楼は貴士へと向ける。血族の長として、裁くべき相手に向ける、魔術師を統べる者の瞳。自分に向けられているわけではないのに、夏弥の背筋はぞくりと震える。
対する貴士は、その視線に気圧されることなく、さも当然の挨拶のように返した。
「栖鳳楼の姫君、か――」
貴士は振りおろしかけた腕をおろして、感情を表さない表情で告げる。
「邪魔立てしないでもらいたい。これは楽園争奪戦、選ばれた者にのみ許される、正当な果たし合いだ」
「なら、魔術師としての最低限だけは守ってもらえないかしら?コトが外界に知られるなんて、流石に見過ごせない」
栖鳳楼も、決して退く素振りは見せない。当然だ、それが血族の長として多くの咎人を裁いてきた栖鳳楼の姿勢なのだから。
貴士は栖鳳楼に応じながら、つい、と夏弥を一瞥する。
「こちらの準備は整っている。問題があるのは、彼のほう」
栖鳳楼も夏弥を一瞥する。薄く、冷たい、日中とは打って変わった冷やかな視線。夏弥は何も返せず、ただ黙ったまま二人のやり取りを見守るだけ。
「だとしても――」
一瞬目を閉じたあと、栖鳳楼はきっぱりと言い放つ。
「国を預かる者として、魔術師の戒律を破ることは許さない。魔術師としての闘争を行うというのなら、それ相応の準備を敷くのが筋でしょう」
「なら、如何にする」
即座に、貴士が返す。まるでこういうやり取りに慣れているような、怯むことも弱さを見せることも、ない。
「我には問題などない。過度の力を使おうとしたのは、そこの式神」
顎で示されたローズが、口元を歪める。牙でも剥きだしそうなくらい、敵意をありありと貴士へと向ける。そんなローズの殺気などまるで意に介さず、貴士は淡々と続ける。
「生憎だが、我には相手の不手際を補うだけの余剰などない。そちらで対処するとでも言うか?」
そう、突きつける。
なかなかに、傲慢な要求だ。魔術師同士の決闘をするなら結界の備えぐらいはするようにという血族の命令に対して、そんなことに魔力は割けないからそちらで準備しろと要求する。もはや横暴以外のなにものでもない。
そんな要求に。
「――了解しましょう」
栖鳳楼はあっさりと首肯した。
貴士が初めて訝しむ。貴士とて、こんなに簡単に要求が通るなどと思っていなかった。意外に思う以上に、なにか裏があるのではと警戒するのは至極当然のこと。
「ただし――」
貴士に思考の時間を与えないように、栖鳳楼は即座に続きを口にする。
「再戦の場所と時間はこちらで決める。場所は追って決めるとして……、時間は二四時間後、明日の丑三つ刻でよろしい?」
なるほど、と貴士は納得する。そのくらいのハンデなら、別段、かまわない。
「良いだろう。報せは夕刻までを願う」
「ええ。十分すぎるわ」
これでお互い、用はない。貴士は何の憂いも準備もなく、明日の再戦に臨めばいい。この土地の血族からお墨付きをもらったと思えば、より好条件とも言える。
貴士は、だから栖鳳楼にも夏弥にも背を向ける。
「命拾いしたな、雪火夏弥」
貴士の白い姿が墓地の闇に溶けていく。古の貴族のように、その姿はどこまでも優美で気品に溢れる。そんな彼の後ろ姿に並ぶように、金がつき従う。二人の姿はほどなくして、闇の奥へとかき消えた。
終わった――。
そんなふうに、夏弥は思った。
何故そんなふうに思うのかと考えて、解答は案外、簡単に見つかった。
――誰も死ななかった。
そんなふうに思っただけで。
良かった――。
と、夏弥は本気で思ってしまった。
……情け、なかった。
そんなことを思ってしまった自分が、無性に情けない。今夜、一体夏弥は何を為し得たか。
勝利することもなく、敗北することもなかった。だから、夏弥はこうして生きていられる。ただ、それだけのことでしかない。
――楽園争奪戦は、まだ続くのに。
何も、変わらない。危機は、いまだ去っていない。いつどこで、理不尽な死が巡ってくるかもしれない。それが嫌で、夏弥はこの戦いに身を投じると覚悟したのではないか。
殺したくない。殺されるところなんて、見たくない。もう誰も、死なせたくない。
じゃあ、それが叶ったから、それで満足か、て――。
――ふざけるなッ。
無駄、なんて言葉が夏弥の脳裏をかすめる。
……確かに。
これは、無駄だ。
何も、できてなんかいない。
――ああ。
情けない――。
そのまま体から力が抜けてしまいそうだった。まだ、体中に熱さが残っている。それをようやく痛みだと、夏弥は感覚することができた。気を抜けば、夏弥はすぐに倒れることができる。
「栖鳳楼……」
しかし、夏弥は倒れることができなかった。近づいてくる気配に声をかける。いまや視界は明瞭で、対峙する相手の顔がよく見える。相手の表情に、しかし夏弥はこれしか返す言葉を知らない。
「…………ありがとう」
かくん、と頭を下げる。目は閉じない。閉じた瞬間、意識を失ってしまいそうだから。夏弥の視界には、栖鳳楼の足元しか見えない。
――パンッ。
と。
乾いた音に、夏弥の頭は起こされる。
「『ありがとう』じゃないわよ」
それは針のように鋭い言葉だった。
「あたしがあれだけ言ったのに。まだ一日も経ってないのよ」
感情の起伏がない声。けれどその声に含まれている一つの感情は、ただ夏弥を殴りつける。
「偶然あたしが見つけなきゃ、夏弥は本当にここで脱落してたのよ」
夏弥はゆっくりと、首を正面へと向ける。
栖鳳楼の瞳には、ただ氷のような怒りがあるだけだ。そこに乱れはない。当然のように、涙もない。
――ああ、そうだろう。
栖鳳楼は、もう泣かないんだから――。
夏弥は、自分でも場違いだと思いつつ、口を開く。
「やっぱり、見回りしてるんだ」
呆れたように、栖鳳楼が息を吐く。
「当然。やることが増える一方でも、削れないものはあるの。他の人に任せるわけにもいかないし。まったく……」
愚痴になりかけて、栖鳳楼は言葉を止める。いまは、そういう話をするときではない。キッと、栖鳳楼は夏弥を見返す。
「…………」
まるで、ガランドウな瞳。言葉が届いても、きっと心を滑り落ちていくような、そんな虚ろな表情。諦めて、栖鳳楼は一つ息を吐く。
「いろいろ、言いたいことはあるけど。それは朝になってからにしましょう。夏弥は帰って、すぐに寝なさい。決戦の時間も指定したし、寝込みを襲われるなんて、まあ、八割くらいでないと思うけど」
最後に混ぜた軽口も、もはや聞いているんだかいないんだか。夏弥はこくんと、まるで落ちるように頭をさげて頷いた。
「…………わかった」
じっと栖鳳楼が見ていても、まるで動く素振りがない。もはや息を吐くのも莫迦らしくなって、栖鳳楼はさっと夏弥に背を向ける。
「じゃあ、おやすみなさい。夏弥」
ぴく、と夏弥の意識が反応を示す。
――おやすみ、か。
そんなセリフ、栖鳳楼から言われるなんて、思ってもみなかった。
雪火玄果が亡くなってから、夏弥の周りではいくつかの挨拶が欠けてしまった。ローズが雪火家で暮らすようになってから、そんな一人きりの生活も段々薄れてきたが、まさか栖鳳楼からもそんな言葉をかけられるなんて、まったくの予想外だ。
少しだけ嬉しくなって、暗闇なのをいいことに、夏弥は栖鳳楼に返答をした。
「…………ああ。おやすみ」
「夏弥。今夜は俺と一緒に寝ろ」
「…………はい?」
いつも通りのボーイッシュな口調で、彼女は唐突にそんな提案をしてきた。
雪火家に戻ってきて、夏弥とローズは薄暗い廊下にいる。ちょうど正面がローズの寝起きする客間で、右手の奥の階段を上れば夏弥の自室になる。
結局、貴士との勝負でどれくらいの時間が経ったのかはわからないが、空の色が濃い闇から藍に変化している。五時か、夏のこの時期では四時くらいだろうか。
いまから眠れる気が、夏弥にはしない。当然だ、あんな起こされかたをしたのだから。目を覚ました瞬間に殺されかけるなんて、寝覚めが悪いにもほどがある。とはいっても、あと三時間くらいは寝ておかないと、一日持ちそうにない。明日の同じ時間には、貴士との再戦もある。睡眠は、どうしても必要だ。
そんなわけで、夏弥はローズにおやすみ、と言って自室に戻ろうとした、まさにそのタイミングで。最初の提案が、出たわけだ。
「ええっと、それはちょっと…………」
「夏弥」
薄暗い廊下には、気休めていどの明かりが灯っている。この廊下は日中でもあまり光が入らないので、夜になれば全く見えなくなる。そんなときのための、気休めの明かりだから、月明かりの下にいるのとあまり変わらない。
その暗さの中でも、ローズの真剣な表情は良く見えた。それくらいに、夏弥とローズの距離は近いということ。
夏弥がどぎまぎするのもかまわずに、ローズはその顔つきにも劣らない真剣な声で夏弥に迫る。
「礼はああ言っていたが、油断しないほうがいい。もともと闇討ちするような連中だ、約束の時間まで安全でいられるなど、考えられない」
ローズの言い分は、もっとものように聞こえる。そんな理由を抜きにして、夏弥は自分の部屋に戻って眠れるかどうか、不安がある。つい先刻に開けられた穴が、まだ夏弥の部屋にはある。布団を、さらに床まで貫いた穴。それを無視して熟睡できるほど、夏弥の神経は太くない。
だが、ローズの提案を受け入れられるかというと、それも怪しい。ローズの寝るときの姿など初めて見たが、その恰好がいま目の前にある。袖のないネグリジェは薄く、彼女そのもののラインを惹きたてる。男の夏弥が身につけている寝巻とは違い、柔らかそうで、華奢で、触れたら壊れてしまいそう……。
夏弥は誤魔化すように「ええと」と視線をローズから逸らす。彼女と一緒に寝て平生でいられるほど夏弥の神経は太くないのだと即座に理解する。
そんな夏弥の内心をどうとったのか、ローズがいつになく細い声で、なおも夏弥に言い募る。
「……俺も、すまないと思っている。敵襲に気づけなかったことや、夏弥の勝負を邪魔してしまったこと」
そんなふうに言われて、夏弥も気づく。
――彼女も、不安でたまらないんだ。
夏弥のためになんでもしてくれるといった少女。
それなのに、夏弥の危機の前に彼女は無力だった。夏弥自身が気づかなければ、守ることさえできなかったという事実。その恐怖に焦って、だから彼女は敵を追ったのだ。
そこでも、彼女は夏弥を守ることができなかった。守ろうとして、でも邪魔が入って。そんな中で彼女がやったことは、夏弥の意思を妨げただけだ。夏弥は戦うと、彼女に語っている。自分の力で、この戦いを勝ち抜くと、その決意はお互いに了承済みだ。
それすら、叶えられなかった。何も、できなかった。そんな不安に、だから彼女はこんなにも泣きそうなんだ。
ローズの声は弱くて、でも確かに夏弥の心に訴えかける。
「だから、俺に償いの機会を与えてくれ。ヤツとの再戦のときまででかまわない。俺に、夏弥を守らせてくれ」
頼む、とローズは頭を下げる。
銀の髪が、揺れる。彼女の金の瞳は、髪に隠れて見えない。その表情すら、窺い知ることはできない。
それでも、夏弥には彼女の表情が想像できてしまった。真剣なローズの顔は見たことがあったけど、ここまで泣きそうな彼女の姿など、夏弥は今まで見たことがなかった。けれど、目の前の少女の気持ちが、不思議とわかる。
なら、夏弥はどうしなければいけないのか。
――そんなの。
もう決まってる――。
夏弥はローズの肩に手を置いた。柔らかくて、少しだけ温かい。夏の空気とは違う、それは少女の確かな温もり。
「ローズは、何も悪くない。むしろ感謝してるくらいだ」
ローズの瞳が、かすかに潤んだように見えた。いつもの偉そうな物言いではなく、夏弥と同年代くらいの少女の反応。そんな珍しい彼女の反応に、だから夏弥は男として返そうと、少し背伸びをした。
「まあ、そういうわけだから。……ええと、その、あれ、今晩だけなら、うん、一緒、でも、ああ、いい、よ?」
口にしたセリフは、恥ずかしくなるくらい震えていた。でも、かまわない。つっかえてたって、いい。完璧でなくたって、いい。ちゃんと、夏弥の思ったことを口にしたんだから、それでいいんだ。
熱くなる身体に耐えながら、夏弥はローズの返事を待った。
「こちらこそ感謝だ、夏弥」
――それはいつになく女の子らしい、彼女の笑顔だった。
自分は男だ、と夏弥は内心で何度もその呪文を唱える。口にしたことは違えないと、それだけはしてはいけないと、そう念じ続ける。
明かりを点ける気には、到底なれなかった。暗闇のまま、夏弥は押入れから布団を一組取り出す。奥からタオルケットを取り出すのに苦労したが、ローズの「明かりを点けるか?」の言葉には断固拒否した。明るくなった部屋の中でローズのネグリジェ姿など、直視できるわけもない。早々に布団の準備を終え、夏弥はすぐに布団の上で横になる。
バクバク、と自分の鼓動の音にどんどん目が冴えていく。こんなにも鼓動がうるさいのに、どうして周囲の音がよく聞こえるのだろう。ローズが布団の上で横になり、タオルケットをかける。衣擦れや呼吸の音に、夏弥の神経はすでに極限状態だ。
どれくらい、その苦行に耐えただろうか。結局時間を確認していないから、いまが何時なのかもわからない。けれど、外が明るくなり始めたことだけはわかる。客間のすぐ隣は縁側で、そこには日の光が良く入る。
布団に入ってから一時間は経っただろうか。それでも夏弥は眠れる気がしない。ふと、気を紛らわせようと、夏弥は天井に向けて右手を伸ばす。
「――『武器はない』か」
戦闘中、貴士から言われた言葉。その言葉が、妙に夏弥の意識に残っている。
確かに、いまの夏弥に武器はない。以前は路貴から借りていた魔具があったが、それはもう路貴に返してしまった。それから、楽園争奪戦で戦うためにと栖鳳楼から魔術を習い始めたが、その魔術も、実践では使えない。命中したら相手の体を粉々にしてしまうなんて、そんな危険な代物を、夏弥が許せるわけもない。
だから、いまの夏弥には武器がない。戦うためではなく、誰かを守るための、そんな武器。
すぐ横で、衣擦れの音がする。ふと横を見ると、ローズと視線が合った。
「案ずるな。『夏弥のために全てを尽くす』そう言ったろ」
いつも通りの偉そうな口調に、つい夏弥は笑みをこぼす。
「ありがとう。でも……」
「わかっている」
ローズは夏弥のセリフを塞いだ。いつもと変わらない表情のはずなのに、こうやって明かりを落とした中で、こんなふうに寝転がって見る彼女の顔は、どこか宝石のように貴いもののように見えた。
ローズは微笑を浮かべて続ける。
「夏弥が自分の力で戦いたいと望むなら、それを邪魔するようなことはしない」
それは、確かに夏弥の望み。
ローズは式神で、夏弥なんかよりもずっと魔術の扱いも戦闘の仕方も心得ている。夏弥が戦場に立つより、ローズに戦闘を任せていたほうが遥かに有利だろう。以前、栖鳳楼からもそんな忠告をされたことがある。
……だけど。
夏弥はそれを『良し』としない。
言葉の上でいくら言われても、夏弥の理解は、全く違うもの。言葉を交わすだけでわかる、触れただけでその温もりを知る。どうして彼女のことを『式神』なんて言葉で片付けることができるのか。どうして人とは違う、人ではない、なんて割り切ろうとするのか。
夏弥には、そんなことはできない。
その容姿、立ち振る舞い、銀の髪や金の瞳は、確かに人間離れした美しさはあるけれど。それでも、彼女は、他の女の子と変わらない。
笑って、怒って、少し偉そうなところはあって、ちょっとわがままなところもあるけれど。
それでも――。
――泣きそうになって。
――手を伸ばそうとする。
そんな彼女のことを、夏弥はほっとくことなんて、できない。
彼女に、人殺しなんてさせたくない。
彼女は、魔術師たちが語るような兵器なんかじゃなく、傷つきやすい女の子なんだ。
――だから。
男の夏弥が守ってあげたいと思うのは、何もおかしなことなんかじゃない――。
「……」
無言で、夏弥はローズの言葉を待つ。
もう長いこと、同じ家で暮らしている。だから、お互いのことは良く知っている。時々、すれ違いもあるけれど――うん――お互いを信じていられるなら、そんなことは気にする必要もない。
少しだけ明るくなり始めた闇の中で、だから、と彼女は続きを口にする。
「夏弥の望みには決して背かない。そのうえで、俺ができることを夏弥のためにしてやる」
それが、彼女の想い。それは、夏弥の願い。だから夏弥は安心して、うん、と頷いた。




