第一章 ひとときの休息
周囲から音が消える。エメラルドグリーンに揺れる視界、体を沈めようとしているのに、浮力で体が持ち上がる。どこまで続いているのか、果ては遠い。淡い光しかないこの場所では、藍と碧に混じった闇しか見えない。
一〇メートル進んで、夏弥は水面から顔を出す。口を開いて、内の空気と外の空気を入れ換える。新鮮な空気で肺が満たされていく。
潜水は終わり、残りはクロールで泳ぎ切る。二五メートルの距離はあっという間に終わり、夏弥はプールから上がり、スタート位置まで戻る。
夏弥がいるのは学校のプールではない。電車で二〇分の場所にあるプールで、かなり大きい。夏弥がいるのはレーンの決まったプールだが、他にも流れるプールや、温水プールもあり、いわゆるアスレチックパークの色が強い。
そのせいか、夏弥のいるような普通のプールには人が少ない。一〇レーンもあるのに使っているのは夏弥を含めて五人くらいで、一人一レーン貸し切り状態だ。
十時開店と同時に入ってから、ずっと夏弥は泳ぎ続けている。別に泳ぎが得意というわけではないが、ただがむしゃらに泳いでいるだけで達成感のようなものを覚える。もう二時間以上泳ぎ続けているはずなのに疲れた気がしないのだから、不思議だ。
夏弥はプールから上がり、屋内に設置された時計に目を向ける。十二時半、そろそろ昼食にしよう。
夏弥は別のプールへと向かう。そこは流れるプールがあり、すべり台ありで、とにかく人が多い。さっきまで夏弥がいたプールと比べるのが申し訳なくくらい、大勢の人で賑わっている。
ただいま、夏休み。そのせいか、家族連れや友達同士で遊びに来ている人が多い。そんな夏弥にも連れがいるわけだが。
「さーて、あいつどこにいるかな」
なんて、夏弥が辺りを眺めていると、目的の人物は割とすぐに見つかった。
「ひゃっほーい!」
すぐ目の前のすべり台から大声を上げて、これまた派手に飛び出してきた男が一人。水の中へと勢いよく入って、大きな飛沫を辺りに散らす。
すべり台の出口では人が出て危ないため、あまり人が溜まらないように注意されている。そのため、男の迷惑極まりない派手なダイブも、周囲の歓声に掻き消されている。
そのはずなのに。
男が向かう先に、二人の女性の姿があった。男が近寄ると、逃げることもなく受け入れる。楽しそうに談笑している様子が、遠目の夏弥からも見えた。
「…………」
夏弥は溜め息をついた。驚きはない。あまりにも、予想の範囲内だ。
「幹也」
夏弥は近寄りながら、その男に声をかけた。
丘ノ上高校一年三組、陸上部所属の麻住幹也。夏弥とは中学からの腐れ縁で、今日のプールに誘った張本人。
人からのお願いや誘いを断るのが苦手な夏弥は、特に断る理由が浮かばなかったので幹也の誘いを受けた。夏弥は、プールといえば泳ぐことしか頭になかったから、思い切り泳げるプールを選んだ。一方の幹也は、人の多い流れるプールへ。「ナンパしてくる」と堂々と宣言して。
「よお、夏弥。どうした?」
いつになく喜色を浮かべて、幹也が振り返った。一カ月前は坊主頭だったが、いまは普通くらいまで伸びている。ピアスは、失くすと嫌だということでロッカーに置いてある。不良少年の幹也も、公共の場所でのナンパには身だしなみを整えるらしい。
そんな胸の内は少しも表に出さず、夏弥は平静な態度で返した。
「そろそろ昼にしないか?」
そうだな、と頷いてから、幹也はすぐに二人の女性へと目を向ける。
「お姉さんたち、俺たちと一緒にお昼、どう?」
輪をかけてハイな状態で、幹也がお誘いをかける。二人のうち一人が、即座に口元で両手を合わせる。
「ごめんねー。あたしたち、もう少し泳ぎたいからぁ」
それだけ残して、彼女たちは何の未練もなく幹也から離れていく。二人は大学生のように見えたが、高校生の相手はこれ以上しないらしい。
幹也は笑顔を貼りつけたまま彼女たちに手を振っていたが、やがて二人の姿が見えなくなった途端、手を下ろしてじろりと夏弥を睨む。
「夏弥さー。もうちょっと空気読めよ。あと少し遅かったら、昼も一緒できて、ばっちりなタイミングだったんだぞ」
「…………じゃあ、おまえだけもう少しここにいろ。俺は一人で昼飯にするから」
「あ、嘘嘘。嘘だって。冗談だよ冗談。わかってるくせに」
掌を返したように、泣きつく幹也。抱きつかれても嫌なので、夏弥は先を急ぐ。おいていかれまいと、幹也は必死になって夏弥の後を追った。
アスレチックプールなだけあって、流れるプールやすべり台のあるその場所はとにかく広い。プールだけでなく、休憩場所となる飲食店も設置されている。
夏弥と幹也はひとまず店の前を素通りして、外の廊下を歩く。ロッカーに保管してある財布を取りに行くためだ。
「夏弥はずっと向こうのプールで泳いでたわけ?」
「そうだけど」
幹也はわざとらしく額に手を当て、大袈裟に背中を反らす。
「つまんねーやつだなー。なんのためにここまで来たんだよ」
「泳ぐためだろ」
即答する夏弥に、これまた即座に反論する幹也。
「おまえは小学生か。わざわざこんなデカいプールに来たんだ。それなりの収穫がなきゃ、夏休みの無駄遣い、ってもんだ」
幹也の熱弁に、夏弥は半分聞き流して相槌を打つ。
幹也の言によると、夏とはロマンの飛び交う季節らしい。そのロマンを実現するために狩りに精を出すのが男の使命だとかなんとか。水着姿の女性を目にして心踊らないやつはすでに老化現象の兆しがある云々。
幹也の話を真面目に聞く行為自体が時間の無駄遣いと心得て、夏弥は適当に聞き流すよう心がける。気づけば、幹也の話はさらに先のほうへと進んでいた。
「八月になったら海に行くのもいいよなぁ。まあ、行くとなったらちっと遠出しないといけないけどさ」
その内容には、流石の夏弥も聞き流せなかった。夏弥が住んでいる白見町の近くに海原町と呼ばれる海の見える町があった。白見町と変わらない、どこにでもあるような町。海が見えることくらいがその町の特徴。
――それももう、八年も前の話。
八年前に行われた魔術師同士の戦い、楽園争奪戦の被害で、海原町は消えた――。
科学が世界の中心軸になるより以前に、魔術は存在していた。魔術の担い手を魔術師と呼び、古代において魔術師は人々の生活を支える影の支配者だった。
それほどの勢力を振っていた魔術師が現代、歴史の表舞台から姿を消したのは、科学技術の発展によるものが大きい。
魔術は個人差の影響を強く受ける。魔術も科学同様、理論だった学問ではあるが、個人によって結果が変動しやすい。
科学であれば、設計図通りに組まれたシステムから得られる結果は概ね等しい。確率的に結果が異なることがあっても、それは誤差の範囲で収まる。
しかし、魔術の場合、同じ魔術であっても使う人間によって結果や性質が、誤差の範囲を逸脱して異なる。それは、魔術が人間というシステムに影響するからだ。どれほど理論をつきつめても、基盤となる人間によって得手不得手が生じてしまう。
個人差が大きいということは、常に安定した結果が得られないということ。その不安定性のために、魔術は表舞台から消え、より安定した、誰にでも扱うことができる科学が、現在の社会を支配している。
それでも、魔術師が完全に消滅したかといえば、解答は否、だ。魔術師が最初に生まれた目的、魔術師が目指しているモノが、科学技術をもってしても達成していないことがその所以である。
――世界の起源への到達。
この世界はどこから生まれて、そしてどこへ向かうのか。この世界の全てを記した、全知全能の叡智。
世界の起源へ到達するために、魔術師たちは現代においても魔術の研鑽と探求を続けている。代を重ね、一代で極めた魔術は後世へと引き継がれる。いつか、一族が世界へと到達することを願い、魔術師は魔術の研究を続ける。
そんな魔術師たちの願いを叶える一つの可能性が、楽園――。
楽園は世界に最も近い場所とされている。魔術師たちが求め続ける世界に到達するための可能性。
その楽園を巡って開かれるものが、魔術師最高峰の戦い、楽園争奪戦だ。楽園争奪戦では、楽園によって選ばれた六人の魔術師によって闘争が繰り広げられる。選ばれた魔術師は己が魔術の全てを賭して、戦いに挑む。最後まで勝ち残った者には、楽園への鍵が与えられる。
八年前、白見町にほど近い海原町でその楽園争奪戦が開催された。当時の戦いでは、優勝者が楽園を拒んだ。あらゆる願いが叶うのに、だ。
そのせいかどうか、夏弥は知らない。だが、楽園争奪戦が開催された八年前に、海原町は消えた。一夜のうちに、町は未曽有の大災害に呑まれ、家は灼け、ビルは崩れて、大勢の人が亡くなった。未だ、遺体が確認されていない人もいる。そして、海原町は八年経ったにもかかわらず、復興が進んでいない。海原町は、町としての機能を失ったまま、八年もの間放置されている。誰も、その地に足を踏み入れようとはしない。
「…………」
夏弥は何も応えなかった。
あの災害から八年経ったいま、楽園争奪戦はここ白見町にその舞台を移した。そして夏弥は、その戦いに参加する魔術師の一人。
夏弥自身、自分が魔術師であるなど、楽園争奪戦に参加するまで知らなかった。後から知ったことだが、夏弥の家である雪火家は代々魔術師の家系らしい。だが、夏弥の父親である雪火玄果は夏弥に魔術の手解きなど一切せず、それどころか雪火家が魔術師の一族であることすら明かさぬまま、五年前にこの世を去った。
それでも、雪火夏弥が楽園争奪戦に関わっていることにはかわりない。あの海原町の悲劇に関係することに自分が関わっているという認識が、幹也への返事を妨げる。
そんな夏弥の心境も、しかし幹也は知らない。幹也は魔術師なんてものとは関係のない、ただの一般人だ。だから夏弥も、幹也に魔術師とか楽園なんてことは話さない。それは、殺し合いの世界だ。そんなもの、知らないですむならそのほうがいい。
夏弥と幹也はロッカーから財布を取り出すと、再びプールのほうへと戻る。
「……で、昼は何にするよ?」
広大なプールの前には砂浜を模した休憩場所と海の家風の食堂が並んでいる。
「空いている店にする。あんまり待つの嫌だし」
「そっか。じゃあ、俺向こうな」
特にこだわりのない夏弥は人の並んでいない店にすると答えた。対する幹也はめぼしい場所でもあるのか、奥のほうへと走っていく。……というか、女性客で賑わう店に迷わず突入していく。
「…………まあ、好きにしろ」
投げやり気味に、夏弥は溜め息をつく。
さて、と改めて周囲を見ると夏休みということもあって、どこも結構並んでいる。昼食どきということもあって、人のいない店などないように見受けられる。
「――あ。あそこ人いない」
夏弥も、全く人のいない店など期待していなかった。だから人数が少ない店を探していたのだが、すぐ近くに誰も並んでいない店が一つ。灯台もと暗しというやつだろうか、近くには席も空いている。
あまりにも都合のいい状況に、しかしこのときの夏弥は特に疑問などもたなかった。迷う理由もなく、夏弥はその店の前に立った。
「すいませーん」
店内へと声をかける。その店は周囲の店と比べて、かなり小さかった。メニューも少なく、焼きそば、カレー、焼き鳥、イカ焼きしかない。店員も夏弥の見える範囲にはいなかった。厨房と兼任しているのだろうか。
すぐに店の奥から人の姿が現れた。その人物を目にして、夏弥は言葉に詰まった。
「いらっしゃい」
「……っ。おまえ……!」
現れたのは半裸の男だった。プールだから水着姿でも悪いわけではないが、周囲の店の店員は上にシャツを着ているから、ここの店員だけ特別に見える。
――いや、そんなことより。
伸ばした髪を後ろで縛って、おまけにサングラスまでしているその恰好に、夏弥は嫌でも見覚えがあった。
路貴という名の魔術師。姓は夏弥も知らない。
路貴は楽園争奪戦の参加者の一人だった。すでに戦いからは脱落しているが、夏弥はこの男に殺されそうになった経験がある。そのせいか、夏弥は今でも路貴に対して苦手意識がある。夏弥にとっては珍しい、会うたびに悪態が出てくる相手。
夏弥の心境を無視するように、路貴は店員として夏弥に対応する。
「ご注文は?」
人違いであってほしかった。しかしその声と、なにより白々しいまでの態度に、夏弥は相手に間違いがないと確信してしまった。
夏弥は対峙するように返した。
「…………焼きそば一つ」
「サイズは?」
「普通」
路貴は無言で頷いて、店の奥へと戻っていく。
「…………」
夏弥は無言で、すぐ前の席に座った。
……なかなか出てこない。
夏弥は一人、店の前で待つ。周囲の店は人の列ができて賑わっているのに、路貴の店には誰もやってこない。待たされるということを他の人間は知っているのか、注文してしまった夏弥は仕方なく待ち続ける。
「夏弥」
いったいどれくらいそうしていたのか、幹也がプレートを持ってやってきた。
「先、行ってるぞ」
幹也は夏弥のいる場所から一〇メートルほど離れた席へと向かった。そこは休憩場所の近くで、人の様子が夏弥の場所よりも良く見える。きっと、午後に向けて狙いをつけておこうと、そういう魂胆なのだろう。
幹也を見送ってから、夏弥は時計を探した。出入り口のすぐ上に大きな時計があった。夏弥と幹也がロッカーから戻ってきて、もう二〇分が経過していた。
「……………………わざとじゃないだろうな?」
あまりに待たされて、夏弥は睨むように路貴が消えた店のほうへと視線を向ける。一向に、店からは誰かが出てくる様子はない。
それからさらに二〇分。
「お待ちのお客さん」
店の奥からようやく路貴が姿を現した。片手で、できたての焼きそばが盛られた皿を持っている。
「…………」
お金を払い、焼きそばを受け取って、夏弥は幹也のもとへ向かう。終始、無言で。幹也の対面に座ると、幹也の前のプレートの上にあった料理はすでになくなっていた。
「夏弥、遅ーぞ。先食っちまった」
四〇分もかかったのだ。夏弥も自分を待ってくれなかった幹也を責める気にはなれなかった。
「俺、もう行くぞ。貴重なこの時間を無駄にしたくないからな」
それだけ残して、幹也はすぐに席を立つ。店にプレートを戻すために、奥へと姿を消す。
「……好きにしろ」
それしか、夏弥の口からは出てこない。夏弥は軽く息を吐いてから、買ったばかりの焼きそばへと目を向ける。
「…………」
五年前に育ての親である玄果を亡くしてから、夏弥はずっと一人暮らしをしている。掃除、洗濯、料理と、全て夏弥一人でこなしている。料理の腕前は同年代の中でも上のほうで、味に関してもそれなりにこだわりがある。
一通り眺めてみたが、焼きすぎもなければ半生の部分もない。
「…………」
一口。
……美味しい。
悔しいが、美味しい。
作ったのは、おそらく路貴だ。文句の一つでも言ってやりたかったのに、文句のつけようがない。もっとも、焼きそばなら失敗もないだろうと、夏弥は自分を納得させる。
複雑な気分で昼食を食べていた夏弥に、不意に声をかける者がいた。
「――よお」
箸を止めて、顔を上げる。予想通り、そこには路貴がいた。
「何の用だ?」
つい冷たく、夏弥は訊き返す。あからさまに、路貴は息を吐く。
「つれねーこと言うなよ。休憩もらったんだ」
さっきまで幹也のいた席に、路貴は何の断りもなく座る。つまり、夏弥の正面。
「っていうか、なんでここにいるんだよ」
たまたま幹也に誘われたプールで、たまたま目についた店に行ったらこの男に会うなんて、あまりにもできすぎている。夏弥は挑むように路貴を睨む。
路貴は夏弥と同じ焼きそばを口にしながら、あっさりと口を開く。
「バイトだ」
焼きそばを咀嚼しながら、まるで何でもないように淡々と続ける。
「知り合いの伝手でな。夏はこういう場所が儲かるんだと」
その淡白な言い草に、夏弥は少しだけ引っかかるものを覚える。
「おまえ……」
「路貴、だ」
ドスの利いた声で夏弥の言葉を遮る路貴。食事の手を止めて、わざわざ夏弥を睨みつける。サングラスの奥からでも、その鋭い視線は感じ取れる。
「……路貴は、まだ家に帰らないのか?」
言い直すと、掌を返したように路貴は態度を変える。「ハッ……!」なんて小馬鹿にしたように吐き捨てて両手を上げる。
「誰が帰るか、あんな場所。……それに言ったろ、楽園争奪戦が終わるまで、ここにいる、って」
元々、路貴は白見の人間ではない。家の名前はおろか、どこから来たのかさえ教えてくれない。夏弥が知っているのは、いま路貴はアパートで一人暮らしをしていること、学校を無断欠席していること、そして――。
――両親を嫌っていること。
夏弥には、その感覚がわからない。
夏弥にはもう、両親はいない。父親は五年前に亡くなって、母親はいない。そもそも、父親である雪火玄果は夏弥の本当の父親ではない。八年前の海原町の大災害で生き残った夏弥を、どんな経緯があったかは知らないが、玄果は養子にすると言った。それ以前の、本当の両親については、夏弥も覚えていない。
それでも、夏弥はかまわない。夏弥にとって親とは、雪火玄果ただ一人。たった三年間だけだったけど、玄果と過ごした日々は、夏弥にとって大切なモノ。
だから、夏弥には路貴の感情が理解できない。路貴には親がいる。しかし、自ら親元を離れ戻ろうとはしない。自分の両親に対して、徹底した嫌悪を露わにする。
夏弥はもう二度と、玄果とは会えないというのに。
「まあ、その後のことは、全部終わった後にでも考える」
そう締めくくって、路貴は食事を再開する。夏弥も、それ以上この件について路貴に言及する気はない。そもそも、できることなら関わり合いになりたくない相手なのだ。目の前にいようが、夏弥はかまわず食事を続けていればいい。
「――つーか」
なのに。
三分と経たず、路貴が再び口を開く。
「おまえには訊いておきたいことがあったんだ」
路貴は箸を皿の上に放り投げる。夏弥はまだ半分くらいしか食べていないのに、路貴のほうはすでに食べ終わっているようだ。だから、路貴は無遠慮に話を振る。
「二週間前のあの騒ぎ。ありゃ、神託者の仕業か?」
その言葉に、夏弥の手が止まる。
――二週間前。
白見町の住人のほとんどが意識不明に陥った大規模な災害――。
広範囲に及んで被害が出たものの、幸いにして死亡した人はいない。原因は不明で、現在調査中ということになっている。
その事件のことを、夏弥はよく知っている。報道では、自然災害とかどこかの工場から出た有毒ガスだとか適当なことが言われているが、あれはたった二人の人間によって引き起こされたものだ。
――鬼道喪叡と水鏡言。
――両者とも、魔術師。
二人のうち、水鏡言は夏弥と同じクラス。夏弥が丘ノ上高校に入学したとき、席が近かったことがきっかけで彼女と話をした。それから夏弥と水鏡が同じ通学路を使うということがわかって、登校のときも一緒になった。一学期の途中で席替えがあってからは離れてしまったが、昼休みのときには幹也共々、三人で昼食を食べている。
夏弥が一人暮らしをしていて自炊をしていることから、水鏡も最近では料理を始め、手作りのお弁当を持ってくるようになった。家の都合で部活には入っていないが、料理部のほうに良く顔を出しているらしく、料理の腕も最初のときに比べて上がってきている。
そんな、夏弥にとってはとても近い存在。学校で毎日のように会う、魔術師なんてモノとは無縁だと思っていた人間。
――それが。
水鏡は、魔術師だった――。
水鏡家と鬼道家は、夏弥の住む白見町では有名な魔術師の家系だ。もちろん、楽園争奪戦に参加するまで自分の家が魔術師の家系だなんてことを知らなかった夏弥には、知る由もない話。全ては、事件が起こったそのときに知ったこと。
――水鏡家は魔術師の家系なの。
水鏡本人から、夏弥は聞いた。
水鏡は、魔術師の家系。夏弥が参加する楽園争奪戦のことももちろん、夏弥以上に知識がある。
その水鏡が引き起こした、二週間前の事件。それが何であったのか、夏弥は水鏡の口からは聞いていない。しかし、代わりに答えたモノがいる。
――これは『意思』じゃ。
――世界に到達せん、という、古よりの。
それが、鬼道喪叡。白見の町に結界を張り、魔術師以外の一般人を眠らせた張本人。
魔術を知らない者に魔術の存在を知らせる行為は、魔術師の間で禁忌とされている。ゆえに、喪叡は町中に結界を張った。一般人に自分たちの存在、その行為が知られないように、人々を意識不明にした。
夏弥はその夜、鬼道喪叡に会い、そして水鏡言に会った。あの夜の事件の中心にいて、そして楽園争奪戦に現在も参加しているからこそ、夏弥はそれを知っている。
「――違う」
夏弥は言葉を選ぶように、口を動かす。
「あれをやったのは、神託者じゃない」
神託者とは、楽園争奪戦の参加者の呼び名。神託者にはその証として、腕に刻印が刻まれる。
いままで、夏弥が戦いに勝ち残ると、敗者の腕から刻印が剥がれ、その刻印は夏弥のモノと一つになった。
だから、夏弥にはわかる。水鏡が自身の魔術を解き、戦いを放棄しても、夏弥の右腕には新たな刻印が刻まれることはなかった。つまり、水鏡言は神託者ではないし、同時に鬼道喪叡も神託者ではない。
それは、つまり――。
「なんだそりゃ。あんだけの事件が、楽園争奪戦と無関係だって言うのか?」
納得いかないとばかりに、路貴が眉を寄せる。サングラス越しで目元までは窺えないが、その口調から路貴の感情はありありと伝わってくる。
路貴は背もたれに寄りかかり、背を反らして上を向く。
「あーあ。無駄騒ぎかよ。つまんねーな」
「……勝手なこと言うな」
堪え切れず、夏弥は口を開く。
「あの事件は、決して無意味じゃない。確かに被害は出た。よくないことだ、てことはわかってる。だからって、あれは無駄じゃないし、必要なことだった」
なんて、感情的に返す。
路貴の言葉は事実だが、その言い方に、夏弥は無性に腹が立つ。
――無駄、なんて。
そんな言葉で片付けられたくない。それじゃ、まるで。
水鏡の意識が戻っていないのが、無意味みたいじゃないか――。
路貴が身を起こし、テーブルに肘をついて夏弥を見る。ふーん、と息を吐くついでのように口を開く。
「必要、か。だが相手が神託者じゃないなら、戦いはまだ続く、ってわけだ。それでもかまわねー、って、そういうわけか?」
「それは……!」
夏弥は言葉に詰まる。その先の言葉を潰すように、路貴は夏弥を無視して口を開く。
「そういう意味じゃ、この間の騒ぎは無駄だ。俺としても、さっさと楽園争奪戦が終わってほしいところではあるし。でねーと、今後の方針がたてられねーからな」
それで全部なのか、路貴は空になった皿を掴んで席を立つ。もう夏弥には用はないとばかりに背を向けて、振り向くことなく自分の持ち場へと帰って行った。
夏弥はただ、路貴の消えた先に目を向けている。しかし、その目は何も見ていない。言いかけた先を続けようと口は動いて、しかし明瞭な形にはならなくて、夏弥は宙空を見つめたまま固まった。
昼の休憩時間が終わった後、夏弥は再び一〇レーンあるプールへと向かった。午前より人の数は増えたが、それでも一人一レーンの貸し切り状態にあることは変わらない。
さっきまでいたアスレチックプールとは、その賑わい具合が明らかに違う。波の音はなく、人の喧騒もない。みな黙々と泳ぎ、端まで行ったらプールから上がって最初に戻る、なんてことを繰り返す。
夏弥も、その一人。自分の泳ぎにだけ集中しようと、がむしゃらに水をかく。水の中では藍と碧の闇に白い泡が混じり、顔を上げれば周囲の景色をキャンバスに水飛沫が描かれる。
午前中から繰り返し見ているモノ。ずっと変わらない行為。――同じ、思考。
――水鏡を助けることはできなかったのか?
二週間前の夜。白見町の住人のほとんどが意識不明となった事件。その中心にいた、夏弥と同じクラスの女の子、水鏡言。
事件の最後の現場に居合わせて、しかし夏弥には全てを理解することはできなかった。
ただ、わかっているのは、水鏡が自分自身に何かしらの魔術をかけたこと。それによって、水鏡はいま、意識不明の重体にあるということ。
もう、二週間。それだけの時間が経って、しかし水鏡の意識は戻らない。夏弥は水鏡の病室を訪ねたことがある。彼女の姿はただ眠っているみたいで、苦痛の表情なんてない、穏やかなもの。耳を澄ませば、静かな寝息が聞こえてきそう。
――それは、なんて。
安らかな、眠り――。
そのイメージを振り払うように、夏弥は力任せに水を叩く。わざとやったから、腕が痺れて痛い。それだけの痛みがあっても、夏弥の思考は途切れることがない。
――あの夜、夏弥は何をした?何を、為し得た?
水鏡が何かをしようとしていた、ということは夏弥にもわかった。しかし、魔術師として十分な知識も技量も持たない夏弥には、それが何を意味しているかなんて、わからなかった。仮にわかったところで、夏弥にはどうすることもできなかった。
夏弥にできたこと、それは白い光に包まれていく水鏡を、ただ、見ていただけ。手を伸ばして、しかし彼女を助けることはできなかった。
――ただ、見ていただけ、なんて。
それは。
見殺しにしたのと変わらないんじゃないか――。
ぎりぎり、と胸が痛む。
心臓が潰れて、肺が押さえつけられるような錯覚。
水の中で、闇が一層深くなる。
「――――ッ」
息苦しさに、夏弥は顔を上げた。泳ぐのを止めると、プールの底に足が着く。なんで、自分は立っているのか。どうして、このまま沈んでいかないのか。それが、無性に気に障る。
手を伸ばせば、その先には壁。プールの端まで到達したのに、しかし夏弥は少しも泳いだ気がしない。こんなところで止まっていていいのか、そんなことを思い、そう思考する自分を殴りたい。
「クソっ……!」
自分の代わりに、目の前の壁を殴りつける。殴った壁はびくともせず、平然と夏弥の前に立ち塞がる。じりじりと、拳に痛みが走ることだけが、せめてもの慰めのよう。
――戦いはまだ続く。
不意に、路貴の言葉を思い出す。
楽園争奪戦は、まだ続く。魔術師同士の殺し合い、魔術のことなんて知らない普通の人をも巻き込みかねない、危険な戦い。その参加者は、夏弥を除いてあと二人。夏弥は、まだ顔も名前もわからない未知の敵二人に勝たなければならない。
夏弥は、その二人が互いに戦って勝負がつくのを、待つことができない。
魔術師の闘争とは、その個人だけでなく、家の名を背負った、全存在を賭けるもの。だから、敗者は家の名前に傷をつけた罪を清算するために、命を差し出す。勝者もそれを知っているから、敗者を殺すことに躊躇しない。
楽園争奪戦に参加するまで魔術師という存在すら知らなかった夏弥。そんな夏弥がいまでも楽園争奪戦に参加し、戦い続けるのは、一つの決意からだ。
――誰も死なせない、誰かに誰かを殺させない、そして、守る。
夏弥には、魔術師の闘争など理解できない。その奥にある背景を、夏弥は持たないからだ。
夏弥が持っているのは、一つの光景。八年前、楽園争奪戦によって失われた海原という町。夏弥は、その大災害で生き残った、希少な一人。
その光景を、夏弥は忘れない。
――倒壊した家屋。
――砕けたコンクリートの山。
――闇を照らす炎。
――いつまでも降り続く、冷たい雨。
夏なのに、凍えそうなくらい冷たい夜だった。町という存在がなくなって、そこら中で炎が燻っている。
その光景に、夏弥は無性に泣きたくなった。
だから、夏弥は人が理不尽に死んでしまうのを許せない。
もう、決して繰り返されてほしくない。それが、楽園争奪戦に参加してからは、二度と繰り返さない、という決意になった。
夏弥は、その決意のために戦っている。楽園が、勝者にどんな願いでも叶えてくれると言われても、夏弥はきっと何も願わないだろう。ただ、この戦いで誰も死なないように、そして守れるように。そのためだけに、一日でも早く戦いを終わらせたい。
でも――。
夏弥は自身に問い続ける。
――夏弥は、本当に守れているのだろうか、と。
水鏡だけではない。夏弥はこれまでの戦いで、何人かの尊い存在を失ってきた。それを、どうして守れなかったのか、と。なぜ、気づくことができなかったのか、と。本当に、どうしようもなかったのか、と。なんで――。
「…………なんで」
夏弥は一度、水の中に顔を埋める。
戦いの中にいる夏弥は、いつまでも止まってはいられない。どんなに悩んでも、それがいつまでも許されるなんて、そんな甘い場所ではない。
気持ちを切り替えたくて、夏弥はプールから上がる。そして、スタート位置に立つと、夏弥は再び泳ぎ始める。何度も、何度も……。
時間はあっという間に過ぎ、現在、夕方の六時。七月の半ばを過ぎたこの季節では、午後の六時は夕暮れどきだ。夏弥と幹也は着替えを済ませてプールを後にした。いまは帰りの電車の中、向かい合った四人席に二人は向かい合う形で座っている。
「はあー。今日は収穫なしかー」
「……そうかよ」
大袈裟にしょぼくれる幹也に、投げやりに返す夏弥。幹也の言葉など無視してしまってもかまわないのだが、黙っていたら眠ってしまいそうだったので律儀に応じる。午前と午後と、昼食の休憩を除いてずっと泳ぎ続けていた夏弥。プールから上がるまではなんともなかったが、着替えているうちに一気に疲労が体にのしかかってきた。すぐにでも布団に入って眠りに就きたい。
「フリーの子狙ったんだぜ。なのにみんな、ガードが固いっつーか、オープンじゃねーっつーか、ちょっと相手したらあとはバイバイみたいなー」
対する幹也は、元気があり余っているように言葉を続ける。夏弥とは違い、一日ナンパに精を出していた幹也は、まだまだ動けるらしい。散々に、幹也は不平を漏らす。
「そんなんだから、独りっきりになるんだよ。そんな恵まれない天使ちゃんに、俺が愛のキューピッドになってやろーってのに」
「幹也。キューピッドは他人同士の恋を結びつけるモンだぞ。キューピッド自身に愛がくるもんじゃない」
一瞬、幹也は言葉を詰まらせるが、すぐに口を動かして修正する。
「うん。そう、じゃあ。やっぱアレだ。ハンティング。恋の狩人でいくぞーッ!」
おー、と拳を高く突き上げる幹也。
現在、夏弥と幹也は電車の中にいる。二人以外にももちろん乗客はいる。普段の夏弥なら公衆の面前でも気にせず恥を曝す幹也を注意するところだが、疲労の極みにあるいまではそんな気にもなれない。
「…………まあ、がんばれ」
「おう。明日こそ、上玉ゲットしてやる!」
夏弥の投げやりな声援に、強く応じる幹也。幹也の言葉から気になる単語を耳にして、夏弥は傾いていた頭を持ち上げる。
「おまえ、明日も行く気かよ」
いまは夏休みだ。毎日プールに行っていようと誰も文句は言わない。言わないが、幹也が向かうのは学校のプールではない。タダではない。それに、アスレチック系のプールだからそんなに安くない。昼食代まで含めたら、そんな、毎日なんて行ってられない。
なのに、幹也は大きく頷いた。
「当然。今日来た子はフツー明日にゃ来ないだろ。だから、明日は明日で新しい子が俺を待ってるのさッ」
……そりゃ、連日で行く人はそういないだろうが。
その例外が、目の前にいる。
「……金、大丈夫なのか?」
ありきたりな問いに、しかし流石の幹也も表情を暗くする。
「ギリギリ、明日一回分はある。その後は、まー、バイト見つけねーとな。できるなら、海の家みたいなトコがいーよな。金稼ぎながら水着が見れるんだぜ。水かけ合ったりさ、パラソルの下で寝転んでたりするんだろ。ビーチバレーなんてあった日にゃ…………しししっ」
自分にとって都合のいい展開を想像してか、後半からは幹也の顔は傍目から見てわかるくらい緩む。
夏弥は肩を落としながら頭を窓へと傾ける。
「そんな都合良くいくもんなのか?」
「おまえは本物の海を知っているのか?」
質問に質問で返されてしまった。夏弥は薄い目のままで応える。
「見たことはあるさ」
「そのていどじゃ、本物の海は語れねーよ」
なおも言い募ってくる幹也に、夏弥は面倒になって窓の外へと視線を移す。
幹也の言いたいことは、だいたいわかる。だが、生憎夏弥は海へ泳ぎに行ったことがない。というか、今まで旅行というものをあまり経験したことがない。学校のイベントで遠出をすることはあったが、家族旅行などというものは一度として経験がない。夏弥の父親である雪火玄果が家から遠く離れることを快く思っていなかったからだ。
夏休み、冬休み、春休みに、ゴールデンウィーク……。大型連休になっても、玄果は旅行に行こうとは言わなかった。玄果にとっての遠出は、せいぜい、夏祭りで近くの神社に足を運ぶくらい。
そういう雪火家の事情を、幹也は知っている。幹也とは中学からの腐れ縁で、夏弥の家庭の事情をあるていどは理解している。だから、夏弥の返答も幹也はすでに知っている。
「…………じゃあ、知らない」
低く返した夏弥に、幹也はそれ見たことかと夏弥の頬を人差し指で突いてくる。
「夏弥もさー。高校生になったんだし、海に行こうぜ」
いつもなら鬱陶しさのあまりに幹也の指を払っているところだが、疲れきっているいまの状況ではそんな気も起きない。しばらく真面目に考えてから、夏弥は息を吐くついでに応えた。
「……考えておく」
行くかどうかは、まだ決められない。
夏弥はいま、楽園争奪戦に参加している。戦いが始まってからもう少しで二カ月が経とうとしている。残りの参加者は、夏弥を除いてあと二人。やっと半分というところ。しかも、まだ相手の正体は不明、いつこの戦いが終わるのか、先行きなど見えるはずもない。
だから、確約はできない。戦いが全部終わったら、海にだって行ってやろう。でも、今はまだ無理だ。
幹也は人差し指を引いて背もたれに背中を預ける。
「ところで、夏弥は明日どうする?明日も来るか?」
「パス。俺はフツーの人間だ。それに、用事もあるし」
即答する夏弥。幹也は含むところがあるように、口元に笑みを浮かべる。
「なんだ。彼女とデートか?」
その嫌な感じの笑顔に、夏弥は幹也の言わんとすることを理解する。理解するから、夏弥はきっぱりと返す。
「違う」
用事があるのは事実だが、別に人と約束をしているわけではない。夏弥自身が行きたいところがあるだけ。しかし、これは幹也の誘いを断るだけの価値のあるもの。
「……そっか」
幹也は、妙に納得したような、なぜか満足したような表情で、うんと頷く。
「なら、いい」
なにがいいのか、夏弥にはわからないし、いまは疲れていて考える気も起きない。
もう話すことはないのか、幹也はしばらく静かになった。普段ならその静けさに安堵するのだが、いまは眠気を抑えたいから、夏弥は正直なところ、幹也に何か話をしてほしかった。
電車が白見町に着いて、夏弥と幹也はバスに乗った。夏弥さえいなければ、幹也はきっと走って麻住の家まで帰ったことだろう。幹也は陸上部の所属だ、走ることが彼の生き甲斐でもある。事実、バス停で夏弥と別れた直後、幹也は水着とタオルの入ったバッグを背負って走り去って行った。幹也の家までは、あと二つ停留所をすぎたほうが近いというのに、だ。
家の前に立つ頃には、いかに日が長いとはいえ、もう辺りは暗い。疲れ切った夏弥は、夕食抜きでこのまま布団に入ってもかまわない。
だが、そういうわけにもいかない。二カ月前なら、夏弥は一人暮らしをしていて、夏弥の気分で夕食抜きでもちっともかまわなかった。しかし、いまの雪火家には夏弥以外に、もう一人いる。
「やっと帰ってきたな」
その明瞭な声は、空から降ってきた気がした。
だから夏弥は、何の疑問も持たず頭上を見上げてしまった。疲労の極みにあったがゆえに、仕方のない行為だった。
「……!」
一瞬で頭が冴えた。
夜空には弱く星の光がある。その中で、一際輝くモノが夏弥の視界に飛び込んでくる。夜空を舞う、極上の絹糸のように白く光る銀の髪。瞳は薄い金色で、外国人のような外見をしているのに、顔の造形は日本人にとても近い。
――そんな、顔の造りの細部まで見てとれるということは。
彼女は顔を下にして、夏弥に向かって飛び降りてきた――。
このままでは衝突する、その一瞬の判断で夏弥は身を引いた。同時に、彼女が地面に激突しないようにと、咄嗟に腕を前に差し出していた。目を閉じなかったのは、我ながら大したものだと思う。
二人の顔が擦れ違う、瞬間、彼女の体は重力から解放されたように静止して、夏弥が差し出した腕に手を添える。まるで重さを感じない。触れ合った腕を支えにするように、滑らかに体を下ろしていく。ふわりと、そんな自然な動作で、彼女は大地の上へと静かに降り立った。
「ローズ、おま……っ!」
あまりの衝撃的な登場に、夏弥は言葉が出てこなかった。
彼女の名前はローズマリー。彼女は自分のことをローズと呼ぶようにといって、夏弥もそう呼んでいる。見た目は夏弥と同い年か少し上、外見は人間と変わらないが、その実、彼女は式神と呼ばれる魔術の最高技術の結晶。本来の姿は黒い龍だが、普段は魔力の消費を抑えるためと、人間社会に溶け込むために、いまのように人の姿をしている。
ローズは夏弥の腕を掴んだまま、いつものようにさっぱりした調子で口を開く。
「待ちわびたぞ。すぐに夕飯にしてくれ」
ローズはぐいぐいと夏弥の両腕を引っ張る。
相手が式神で、人間ではないということを夏弥は知っている。知っているのに、どんなに字面で認識していても、実際の理解は違う。
今日の恰好は、オレンジのノースリーブに、パールグレーの膝丈くらいのスカート。靴は、前から履き続けている、黒のヒール。会ったばかりの頃は時代錯誤な黒いドレスばかり着ていたが、最近は服のレパートリーが増えたせいか、ころころと服装を変えている。
そして、今でも変わらないもの。流れる銀の髪はどこも傷んだところがなく、滑らかに風に揺れる。人形のように白い肌に、しかし触れた部分には人としての温もりを感じる。その温かく、柔らかい感触が、ぐいぐいと夏弥の腕を引く。
つまるところ、雪火夏弥には目の前の彼女が、式神なんて特別な存在ではなく、どこにでもいる普通な――その中でもかなり綺麗な――女の子にしか見えないわけで。
夏弥は抵抗するように腕を引いた。
「別に、いつも通りだろ。なに慌ててるんだよ」
いままでの疲れが嘘みたいに、意識ははっきりしている。むしろ心臓がバクバク鳴って、体は熱いくらいだ。
ム、とローズは夏弥の腕を離し、腰に手を当てる。
「別段、急かしてなどいない。……ただ、退屈だっただけだ」
そう、あっさりと白状するローズに、夏弥は困ったように口の端を曲げる。
「留守番さえしてくれれば、好きにしていいんだぞ」
「好きにするもなにも、この家には何もない」
……まあ、確かに。
夏弥は擁護の言葉も浮かばず、内心で納得する。
雪火家にはゲームもなければ漫画もない。テレビはあるが、ローズは自分からテレビを見るやつじゃない。ローズが普段この家でしていることなんて、屋根の上から町を眺めるくらいのものだ。
それでも、と夏弥は反論する。
「おまえ、少し前まで二週間近く一人でこの家にいたじゃないか。たった一日の留守番で、いまさら退屈するか?」
少し前、夏弥は訳あって二週間ばかり家を留守にした。その間、ローズは一人で雪火家の留守番をしていた。
というか、夏弥が学校にいる間は基本一人なのだから、いまさら退屈だと文句を言われても、それこそいまさらだ。
なんて、夏弥が考えていると、ローズは少しも怯まず、大きく頷いた。
「当然だ。一人では退屈する」
その、堂々とした物言いに、夏弥は咄嗟に返す言葉を失う。
だって、そうだろう。女の子から「一人じゃ寂しい」みたいなことを言われたら、男の夏弥はなんて返せばいいのだろうか。高校生で、そんなに深い人生経験のない夏弥は咄嗟の返答に窮した。
そんな夏弥の心境など知らず、ローズはさっぱりとした笑顔を向ける。
「だから、早く夕飯にしてくれ」
再度夏弥の手を掴んで引っ張るローズ。
……なるほど。
夏弥は納得した。妙にすっきりいくくらいに。
辺りはもう暗い。いつもの夕飯の時間と比べると、遅れてしまった。つまり、早く夕飯にしろとそういうことだ。
「…………はいはい」
夏弥は苦笑しながら、玄関の鍵を開ける。昔は玄果と一緒に暮らした家。玄果が亡くなってからは、ずっと一人で過ごしていた。それを、五年も。一人では広すぎるくらいの、夏弥の家。
「ただいま」
「おかえり、夏弥」
玄果がいなくなってから、久しく聞くことのなかった出迎えの言葉。ここ最近は、その挨拶にもちゃんとした意味がある。夏弥を迎える少女は、いつものように、何の打算も含むところもなく、素直に笑っている。
本日の雪火家の食卓、大量のそうめんに、大量の天ぷらに、大量の冷や奴。
「今日の夕飯は、珍しく手抜きだな」
ローズの口からそんな感想がぽつり。夏弥本人もわかっていることだが、改めて他人から指摘されると胸に響く。夏弥は一人暮らしをしていて、自炊もするから、他の同年代のやつらよりは料理が上手いと、ささやかな自負がある。
だから夏弥は言い訳をした。
「…………疲れてるんだよ。その分、量はあるんだから我慢しろ」
「なんだその『たらふく食えるのだから文句はぬかすな』みたいな言い草は」
「そんなこと、言ってないだろ」
「思ってはいるだろ」
「…………」
「そこで否定はしないのだな」
ずかずかと無遠慮にこっちの内側まで入ってくるローズ。
ローズは男の夏弥以上にモノを食べる。ローズは式神で、人間以上に魔術の行使に特化した存在だ。そのため魔力の消費量も人間以上で、その消費を補うために、ローズは少女の外見に似合わず、大食らいだ。
そういう認識があるから、夏弥はローズの言葉を否定できなかった。それでも、普段なら少しは豪華な、量だけではなく質もこだわるところを見せるのだが。
疲れている、という夏弥の状態にも、少しは配慮してもらいたい。
「あのなぁ……」
「まあ、文句は言うまい。今日の夕飯も美味だからな」
なんて、夏弥の意見を遮ってローズは食事を続ける。本当に、言葉通りに、ローズは美味しそうに夏弥の食事を口に入れる。それこそ、大量に用意したそうめんも天ぷらも冷や奴も、あっという間になくなった。
「ふぅー……」
食後に緑茶を啜るローズ。
ローズは何故か緑茶がお好みだ。確かに顔の造りは日本人に近いから日本茶の組み合わせも間違いではないが、外見、銀の髪と金の瞳と、異国の雰囲気があるのだから、ティーカップに紅茶のほうが合いそうなもの。ちなみに、いまローズは正しくティーカップを片手に持っている。
「…………」
夏弥もローズとともに緑茶を啜る。夏弥のほうは湯呑で、だ。こんなミスマッチな光景も、しかし夏弥は見慣れているからもう何も言わない。
例年なら、夏にはキンキンに冷えた麦茶を飲んでいるものだが、ローズが来てからは真夏の真昼間だろうと熱々の緑茶を啜るのが定番になってきた。
湯呑のお茶を飲み干してから、夏弥はローズに声をかける。
「ローズ」
ローズは優雅にティーカップを置いてから夏弥のほうへと向く。
「なんだ?夏弥」
夏弥は明日の予定について、ローズに訊ねる。
「明日も俺、出かけるけど。ローズも来るか?」
ぱちぱち、と二度ほど瞬きして、ローズはぱっと喜色に顔を綻ばせる。
「行ってもいいのか?」
やや、そのローズの隠すことのない歓喜の表情に気押されながら、夏弥は頷いた。ローズはまた頬を緩めて、大きく頷く。
「良し。それではお供しよう」
ローズは再びティーカップに口をつける。味わうように、数秒ほど目を閉じる。
「今日の用件は連れて行けないということだったから留守番をしていたが。かまわないというのなら、もちろん、ついていこう」
なんて、隠すこともなく喜びを噛み締めるローズを前にして、夏弥は胸の奥がくすぐったいような、妙なこそばゆさを覚える。
今日の、幹也とプールへ行く用事には、ローズは連れて行けない。いくら夏弥にはローズが女の子にしか見えなくても、彼女が式神という魔術師側の世界に関係している存在であることに変わりはない。ローズを幹也に紹介するということは、魔術師関係のことを伏せたまま、それなりに納得のいく説明をしなければならない。嘘が下手な夏弥は、だからローズに連れて行けと言われても、今日の件は承諾しなかった。
とはいっても、すでに幹也にはローズの存在は知られているから、話の弾みで彼女の説明を求められることがある。あるが、幹也には「彼女なんだろ白状しろ」みたいなことしか言われないから、夏弥は説明を完全に放棄している。
だが、明日は問題ない。ローズのことを説明しなければならないような、そんな相手とは会うことはないから。
ローズはいまだ弾んだ面持ちのまま、夏弥に訊いた。
「それで、明日はどこへ行くのだ?」
「――病院」
夏弥は平淡に答えた。その返答に、ローズはいままでの表情を消して口元を引く。
「……言のところか」
「そう」
夏弥は変わらず、簡素に頷く。
――そう。
明日の用事。
水鏡言のお見舞い――。
いまも意識不明で、行ったところで言は何も語ってはくれない。何も返してはくれない。ただ、静かに眠る水鏡を見るだけの、そんなお見舞い。




