エピローグ 牲毀
空は、薄く白み始めていた。蒼い闇と白い日差しがほどよく混ざった時刻。八月もまもなくというこの時期でも、早朝のうちは涼しい風が吹く。
網戸から入ってくる風に、遮光性の強いカーテンが揺れる。時折、めくれたカーテンの奥から白い光が入り込むが、それを気にする者は、この部屋にはいない。
そこはアパートの一室で、一人暮らしのための作りのせいか、やたらと狭い。その中にいるのは、三人。一人は小学校高学年か中学生になったばかりといった小さな少女、あとの二人は高校生くらいの少年たち。
白い衣服をまとった少年は玄関へ向かおうと、部屋を出る。その後ろ姿に、もう一人の少年が声をかける。
「なんだ、もう行くのか」
ああ、と貴士は振り向きもせずに頷く。
「すでに刻印を失って、いつまでもこの地に留まっているわけにもいかん。我には、王家の人間としての責務がある」
「金は置いていくのか?」
路貴のすぐ後ろでは、金が丸くなったまま寝息を立てている。その穏やかな寝顔に振り替えることもなく、貴士は淡々と答える。
「彼女を連れて帰ったなら、君も帰らざるを得なくなるだろう。輪廻を破壊する呪詛は、名継家の秘術。もはや名継家を担うのは、君なのだから」
金にかかっていた呪詛は、すでにない。その呪詛を再度かけることができるのは、名継の家の者のみ。そしてその呪術を引き継いだのは、名継の長男、つまり路貴だ。
ハッ、と路貴が悪い冗談でも聞いたように乾いた笑みを漏らす。
「誰が。そんなこと許すかよ」
「無論だ」
貴士は首だけで振り返る。表情は能面のままだが、その瞳には静かな決意が宿っている。
「彼女の命は、彼女だけのものだ。王家にも名継家にも、それを承諾させよう」
そのために、王貴士だけが自分の国へと帰る。楽園争奪戦への参加権を失い、その上、金の呪詛まで解いてしまった。今回の貴士の遠征は、王家に多大な損害をもたらす結果となった。
そんな失態を重ねたうえで、貴士は名継の秘術を封印しようとしている。そんな無謀に、路貴は柄にもなく同情の言葉を漏らす。
「いいのかよ?裏切り、ってやつじゃねーのか」
その声に悲愴の色はなく、軽口めいて聞こえたから、対する貴士も呆れたように息を漏らす。
「……何をいまさら。共犯者」
そこでようやく、貴士は体ごと路貴へと振り返る。その白い、貴族のような立ち振る舞いは相変わらずで、一晩経ったていどでは治るようなものではないらしい。
断固とした強い口調で、貴士は路貴へと告げる。
「君は君の責務を全うせよ。我は我の責務を果たそう」
「おいおい。まだ俺に何かさせる気かよ」
不平の口調に、しかし路貴の表情には嫌悪がない。まるで良く分かっている相手から迷惑を押しつけられたような、そんな軽い反応。
変わらない、尊大な口調で貴士は路貴へと命じる。
「――君は、金とともにしばしこの地で暮らせ」
路貴の返答など待たず、貴士はさらに続ける。
「我が王家の援助を断って隠密に徹していたことが幸いした。我がこの地にいたことを知っている者は、王家の中でも数が少ない。知っている者はもちろん、我の直下の者のみ。彼らの口には、我が責任を負おう。ゆえに、君は君自身の隠匿に尽くすがいい」
貴士が王家と名継家を相手に、金のことを説得する間、路貴は金の身元が彼らに知られないように隠れていろ、とつまりはそういうこと。
それは、路貴にとってありがたい命令ではある。両親をいまだに嫌っている路貴は、もう決して彼らの前に戻ることはないだろう。それを、王家の人間から認めてもらったようなもの。
だが――。
路貴は、口の端を歪めて承諾を示す。
「いいけどよ。何カ月かかる話だ?」
「さあな。何年かかる話やもしれん」
金のことが、両家に認められる日――。
そんな日が、本当に訪れるのか。そんなもの、いまの二人にはとても想像がつかない。名継家も王家も、生粋の魔術師の家系だ。何年かかったって、少しも不思議ではない。
「ま、いーけどよ。あの家に帰らないですむんだ。ここに永住してやってもいーぜ」
路貴の軽口に、貴士は低い声で返す。
「莫迦を言え。君は名継の跡取りだ。いずれは戻らなければならない」
「知ったことか。あいつらが死んだら、今度こそ俺のやり方に文句を言うやつはいなくなる。そんときゃ、俺のほうから王家と縁を切ってやらァ」
それは、路貴の本心に近い。魔術師たちのために一人の少女を永遠に閉じ込め続けるくらいなら、路貴はもう、そんな関係すら断ってもいい。
そんな路貴の決意に、貴士は溜め息を漏らす。
「そうならないよう、善処しよう」
貴士は玄関へ向かい、靴を履いて外へ出ようとする。
「…………そーいやよぉ」
その背に向かって、路貴は思い出したように口を開く。
「なんであのとき、テメーの刻印が夏弥のほうへ行ったんだ?まだテメーらの勝負、決着ついてなかったんだろ?」
「我の知ったことではない。全ては楽園の意思だ」
ただ、と貴士は声を低くする。反射的に、路貴は訊き返す。
「ただ?」
貴士はしばし迷ってから、その問いを口にする。
「――君は、楽園の意思というものを考えたことがあるか?」
路貴はすぐ答える言葉を持たず、黙ったまま。その沈黙の後、貴士は言葉を続ける。
「楽園は、楽園を手にするに相応しい六人の神託者を選ぶ。そして神託者同士を互いに争わせ、最も楽園に相応しい一人だけを選ぶ」
楽園は場所を指す言葉ではなく、魔術の名称でしかない。しかし、それは一度発動すれば消えるようなものではなく、自己再生と自己増殖を繰り返す魔術的な構造体だ。楽園の中には六人の神託者を選択するという機能があり、その中から唯の一人だけに自身を差し出す。
それが、楽園争奪戦というものであり、その中心となる楽園の仕組み。
だが、と貴士はさらに問う。
「選ばれた一人は、何を得る?」
「楽園だろ。当然」
貴士は頷く。
「そうだ、楽園を得る。しかし勝者の望みは、楽園の先にある」
楽園は、あらゆる願いを叶える魔術構造体。それは、世界にすら届くとされている、奇跡に近い大魔術。
「その魔術師は、何を得る?」
「そんなの…………」
あまりにもわかり切った解答に、貴士は路貴の代わりにそれを答える。
「楽園は、世界に到達せんとする魔術師たちの望みを叶えるもの。世界に最も近いところにあるとさえ言われている。その伝承は、すべての魔術師たちに知れ渡っている」
しかし、と貴士はその最奥の問いを呟く。
「楽園を手にした者がどうなったか、君は知っているか?」
「…………」
路貴は答えなかった。いや、答えられるわけがなかった。そう、と貴士がその理由を告げる。
「誰も知らない。前回の楽園争奪戦だけは正式な手続きが踏まれなかったせいか噂に上っているが、それ以前のものはどれも、最後まで残った魔術師がどうなったのか、まるで耳にしない」
楽園は、世界に最も近い場所。魔術師たちの祈願を叶える、その可能性。
ゆえに、魔術師たちは楽園を求める。それがために、楽園争奪戦は魔術師最高峰の戦いと呼ばれている。
……なのに。
その伝承だけは広まっているのに、実際のことは何も語られない。スケールだけが大きい、まるで夢物語のよう。しかし、楽園争奪戦は確かに存在する。路貴は刻印を手にし、神託者となった。
だが、それだけでは楽園の存在を証明できない。楽園が本当に存在するなら、誰かが楽園を手にし、世界に到達したという話を聞いてもおかしくないはずなのに……。
――まるで。
誰かがその真実を隠蔽しているかのよう――。
その思考を振り払うように、路貴は首を横へ振る。
「だったら、どうだっていうんだ?」
楽園という存在を否定するのか。いや、そんな簡単な話ではない。刻印は存在し、楽園の一部たる欠片も存在する。欠片は、それ自体が世界に到る可能性を秘めた大魔術。そんなものを六人もの魔術師に分け与えられるほどの器なら、楽園の伝承を夢物語だなどと断じることはできない。
貴士は首を横に振って路貴に答える。
「もはや、我には確かめる術はない」
貴士はもう、神託者ではない。そのうえ、貴士は白見の町を離れる。楽園争奪戦の最終決戦を見ることなどできない。
だから、貴士の瞳は路貴に向かって告げる。
――君なら、楽園争奪戦の結末を見届けることができよう。
そのあまりに強い真剣な眼差しに、路貴はつい、頷いてしまった。満足したように、貴士の目がふと緩む。
あと、とまるでついでのように貴士が付け足す。
「これは我の考えだが。――楽園は何を基準に魔術師を選ぶか?」
疑問符を持ちながらも、それは路貴に対する問いではない。路貴に考える時間も与えず、貴士は即座に自身の解を明らかにする。
「――それは、その魔術師が世界に到る術を有するか否か」
その断言を裏付けるように、貴士は続ける。
「我自身には、世界に到るだけの実力はない。しかし、我とともにいた金は、世界に到る可能性たる呪詛をその身に刻んでいた」
それこそ、貴士が刻印を失った理由。金が呪詛を解呪された時点で、楽園は貴士を見限った。
路貴は納得できず、貴士に反論する。
「サンプルがテメーだけで、そんなことがわかるかよ。他の神託者はどうなる?そいつらも、世界に近いところにいた、てのかよ」
「……少なくとも、霧峰雨那はそうだった」
どうして貴士の口から彼女の名前が出てくるのか、路貴にはわからない。だが、路貴は彼女のことを知っているから、貴士に合わせて反論を続ける。
「それ以外はどうなんだ。特に、テメーが刻印奪られた雪火夏弥、あいつはどうだ。あの半人前が、世界に最も近い場所にいるだと?」
楽園に選ばれるまで、自分が魔術師であることすら知らなかった夏弥。そんな夏弥に、楽園は一体、何を期待しているというのか。
貴士は、迷いなく言い切った。
「――それも、直に知れる」
まるで自身の論に迷いなどないかのような口振りに、路貴はただただ眉を寄せる。
……貴士の言い分も、一理ある。
貴士の論に、ではない。直に、全てが明らかになるという事実に。
――残る神託者は、あと二人。
なら。
最後に選ばれるのは、雪火夏弥か、あるいは、もう一人の神託者か――。
この夏の内に、全ての決着と真相が明らかになる。いよいよ、最後の決戦が幕を開けるのだ。
「それも含め、君は最後までこの戦いを見届けよ。――名継路貴」
呼ばれた、自分の姓。その呪われた名に、しかし路貴の心はもう傷つかない。
――路貴は、彼女を救った。
なら、これからは名継の名のもとに、彼女を救い続けよう――。
それが、家を背負うということ。
ハッ、と路貴は口元を吊り上げて笑う。
「言われるまでもねえ。――承諾したぜ、王貴士」
もう用はないと、貴士は玄関を開け、光の中へ消えていく。その背が、無言のままに路貴に告げる。
――あとは、任せる。
貴士の背が完全に見えなくなり、路貴は扉を閉める。部屋に戻ると、彼女はまだ、静かに寝息を立てている。路貴は目を閉じて、一つ、決意とともに頷く。
――任せろ。




