前編(2013年 12月25日 改)
【1】
一部の魔物が活性化する、地上を月光が照らす夜である。
聞く者の身を竦ませる咆哮とともに、見上げるような大きさの爬虫類めいた鱗状の皮膚と緑の肌色をした人型の魔物が鉄槍を振りまわす。一息の間に戦士として鍛えられた三人の男が輪切りにされ、命を落とす光景は悪夢に違いなかった。
蜥蜴人と呼ばれる彼らには人間を殺して奪った武具を操る知恵があり、人間には及びもつかない筋力と敏捷性がある。中でも彼ら種族の指導者的立場にあるとされる個体は厄介で、たびたび現れては多民族国家オードアルヌの人民の命を脅かしていた。
人間からは蜥蜴人の王と認識され恐れられる個体は、その他の蜥蜴人よりも並外れて大きく成長した体と、もとは馬に跨った人間が振るっていた鉄製の長槍を膂力にものをいわせた乱雑さで操っていた。とはいえ脅威とはいっても災害級に分類される竜ほどではなく、過去には人間に討たれた王もいたのだが、そうすると数年後には新たな巨体の蜥蜴人が現れるため、彼らの戦いの歴史は数百年の長きに渡って続いている。
人間であるなら、子供であったとしても魔物の側に容赦をする理由はない。まして、魔物たちはこの村を滅ぼしに来たのだ。無謀を悟りながらも戦士たちが突撃を敢行し、守ろうとした抱き合う小さな兄妹を見おろすと、無慈悲にも蜥蜴人の王は鉄槍を振り上げる。そこに、何者かが割って入った。鋼と鋼をぶつけ合う硬質な音が鳴り響き、きつく閉じていた目蓋をそっと開いた男の子は、鉄槍の重量を握り締めた柄から刀身まで真っ黒に染めあげられた刀で、歯を食いしばって懸命に支える人物の背中を目の当たりにする。決して余裕はなさそうだし、蜥蜴人の王もたかが人間の子供を斬るのに全力を出しはしなかったろうが、それでも驚くべきことだった。
「なにして、やがる。さっさと、逃げろ!」
どすのきいた意外にも可愛らしい少女の声が逃亡をうながすが、周りにいる蜥蜴人は王だけではない。蜥蜴人の軍勢に襲われ壊滅状態にある村の住人たちを救うために、大勢の戦士たちが奮戦している。へたに動けばそちらの戦いに巻き込まれる危険性はあった。
どうすることもできずに「で、でも」と逡巡する子供たちに舌打ちして、少女は「クロエル!」と叫ぶ。それは男の名前だったのか、数人の戦士たちをひきつれて現れた彼は「おまかせを!」と答えを返し、みずからの両脇に腰が抜けている子供たちを抱え上げた。そのまま距離をとろうとするが、蜥蜴人の王と対峙している少女をひとり残すことに抵抗があるのか、彼の部下と思われる者たちはすぐには命令に従おうとしない。それも無理はなく、過去に討伐された事例があるとはいえ、人間が魔物の王と戦うのになんの支援もえられないといった状況は無謀極まりない。しかし、この場においてそれは選べる選択肢ではなかった。
「奴らの王と戦えるのは十使徒の方々だけだ! 俺たちでは足手まといにしかならん! さがるぞ!」
時間稼ぎすらままならずに命を散らした同胞たちの姿を思い出したのか、彼らは顔色を青ざめさせ頷く。クロエルは最後に「御武運を」と少女への言葉を残し、安全圏に向かい退避していった。
離れていく彼らに王の注意が向いたのを見逃さず、少女はうまく鉄槍の下から抜け出すことに成功する。距離をとるのではなく相手の懐に飛び込むと、擦れ違いざまに横薙ぎに刀を振るった。浅くではあれど足の脛に傷を負った魔物は呻き、怒りに燃える眼差しを足元の少女に注ぐ。強烈な殺意を込めて放たれた槍は黒塗りの刀に受け止められ、しかしそれはなんの障害にもならずに少女の肉体を両断するはずであったが、なんと彼女は刀のみねに足をかけ、強い力に押されるまま羽根のように宙を舞い距離をとる。これにはさしもの蜥蜴人の王も驚いたのか、軽業師のような身のこなしにみとれてしまい、追撃することも忘れた様子だった。着地した少女が刀を構えるのを見て、戦いはまだ終わっていないのだと思い出したようにすら見える。
赤茶けた色の髪をした少女は小柄で、服の下に隠された肢体は筋肉で無駄なく引き締まっているにせよ、まがりなりにも魔物の腕力と拮抗しうるとは信じ難いほど細い。目の前にいる蜥蜴人の王と比較すれば誰であれ大人と子供くらいの差があるが、おのれの無力を噛み締めて逃亡を選んだクロエルたちと較べても彼女は小柄である。頬を覆う魔物の爪による凄惨な傷跡には歴戦の凄みがあり、十代の歳相応の少女としての魅力を薄れさせていた。
油断ならないと判断したのか、蜥蜴人の王は無心で槍を振るおうとはせず目を細めて、少女の隙を探そうとでもしているようだった。魔物は単純に年齢を重ねることによって強者として完成する性質上、小細工めいた技術や生死の境をかいま見るような質の高い戦いの経験といった面で、人間には劣る。だが、文明を築くうちに人間がうしなった生物としての本能を備えているのだ。
「蜥蜴の分際で。上等じゃねぇか」
嘲るような口ぶりとは裏腹に、少女にも油断や慢心はみられない。
息詰まる緊張感、互いの首を飛ばすためのさまざまな思惑、それらが場に満ちるとふたたび戦いの火蓋は切られた。守勢の不利を心得ているのか、少女は攻めの役を譲ろうとはせず、護りを強いられたとしても一時のことでしかない。少なくとも速さは互角、武器の扱いや体捌きにいたってはむしろ蜥蜴人の王が遅れをとっている。それでもなお、追い詰められているのは少女だった。一度や二度ではなく研ぎ澄まされた刃は蜥蜴人の鱗状の皮膚を捉えているのだが、うっすらと血が滲む程度で断ち切るまでの成果はあげられていないのである。一方、風を裂き唸る蜥蜴人の王の鉄槍を一度でも避け損ね、あるいは受け損ねたなら、少女の命の火はあっさりと消されてしまうのだ。
体力の問題もある。魔物であれ無尽蔵のそれなどはありえないが、まっとうにやりあった場合、疲れが出始めるのは人間が先だ。疲労は磨き抜かれた体捌きといった技術にも影を落とし、そういった技術面で並ばれてしまった時点で少女に勝ちの目はなくなる。僅かな確率しかないとしても人間が勝利を掴むためには、そうなる前に賭けに出なければならない。
【2】
何度目になるのか、蜥蜴人の王が鉄槍を振りまわした勢いのまま、受け止められた刀ごと少女の体を遠くへと弾き飛ばす。使用している武器の長さの差もあり、離れると刀使いである少女の不利は否めない。即座に再度の接近を試みるのがこれまでの常だったが、やや乱れた呼吸を整える必要を感じたのか、少女は酸素を取り入れることによる肺の収縮を数回繰り返すと、決意を固めた表情を浮かべ無造作に、しかし強く地面を踏み締めて「行くぞ」とも言わずに、開いた距離を詰めた。
失敗する可能性があればこその賭けだ。そして、賭けの失敗は死を意味する。にも関わらず、少女の瞳の中に怯えの色は微塵もない。尊敬を集めるに不足のない胆力である。
躊躇のない踏み込みは飛ぶような勢いで少女の体を前に押し出した。相対していたのが人間であったなら、反応すらできずに首を飛ばされていただろう。だが、人間より遥かに優れた魔物の感覚に狂いを生じさせるまでの効果はない。あっさりと動きを見切られ、鈍く輝く鉄槍の切っ先が少女の視界の外側を通る軌道で半円を描く。
必殺と思われた一撃は、しかし不思議なことに少女の前髪を断ち額を掠めるのみで、なんら残酷な結果をもたらさなかった。ここまでの死闘で少女を強敵だと認めていたせいか、必要以上の力が鉄槍を振るうために込められており、驚きに目を見開いた蜥蜴人の王の巨体が宙を泳ぐ。どういった魔法めいた技術を用いたものか、それらしい動きもなく、彼女は固く閉ざされた城門さえ砕くだろう鉄槍の一撃を避けたのだ。
もう半歩前に進んでいたとしたら、頭蓋を砕かれていたと思うと恐ろしい以外の言葉では表現のしようがないが、みごとにやってのけた少女には動揺や焦り、達成感といった戦いの際に邪魔になる感情の揺らぎはみられない。千載一遇の好機である隙を突くことしか頭にないのか、額の傷口から溢れた血が目に流れ込むのも無視して足を進め、素早く蜥蜴人の王の背後に回り込んだ。
どうにか足腰の強さを発揮して、地面に這いつくばるといった無様はさらさずに済んだ蜥蜴人の王だが、体勢を整える頃には少女の姿を見失っていた。野生の勘を頼りに背後に振り返るが、合わせて少女も動き、王の後方に位置をとり続ける。そのうちに勢いをつけて、王の膝裏の凹みや背中の筋肉の僅かな出っ張りを足掛かりに、瞬く間に天空高く飛び上がってみせた。
唐突に頭を下にして降ってきた少女の姿に、蜥蜴人の王は言葉もない。一方の少女は冷静で、落下する最中に抜き身の刃を閃かせ、爬虫類のそれに似た剥き出しの眼球を縦に裂いた。一瞬の間に刀を二度振るといった神業は不可能だったらしく、潰せたのは片目のみである。着地後、少女が油断せずに走って距離をとると、数瞬前に彼女がいた位置を鉄槍が振り抜かれていった。
『るあおおおおおおおっ!!!!!!』
人間とは異なる青色の体液と怒りの波動が周囲に撒き散らされる。気が弱い者なら失神してもおかしくないほどの迫力があった。それにあてられた人間の戦士の少年が身を竦ませ、未熟にも直剣を取り落とすが、少年と刃を交わしていた蜥蜴人にはその隙を狙う心の余裕もない。
恐怖を喚起されたというよりも単純に大声が頭に響きでもした様子で、顔を顰めた少女は「うるせえな」と吐き捨てる。
「黙って死ねよ。でなけりゃ、黙って殺せ。片目をうしなったくらいで、なんで吠える必要がある。そのぶっとい手足にはろくに傷もつけられちゃいねぇってのに」
難敵に一矢報いた功を誇るでもない、忌々しそうな口振りである。確かに、並の蜥蜴人よりも強靭な蜥蜴人の王の鱗を貫くことができていない以上、少女が勝利を掴むための道筋が明らかになったとは言い難い。依然として、人間である彼女が不利な状況に変わりはないのだ。