おまけ(2013年 10月 19日 改)
「リリの世話はどうした?」
じゃり、とも砂を踏みしめないよう注意深く歩を進めてきた甲斐もなく、存在を看破されてしまい、開けっぱなしになっている納屋の出入り口の木戸の陰に身を潜ませていたアデラは、浴びせられた声に身を竦ませた。
獲物を狙う際に自然と一体になるとされる凄腕の狩人には及ぶべくもないにせよ、なにを根拠に気配を察知されたかもわからぬ一般人としてはアイオンの鋭敏な感覚には驚く他はない。おそるおそるといった歩調からして迷いがみられたが、アデラは問いの言葉に背を押されるように、手狭な納屋の土がむき出しの床に腰をおろしている石造りの仮面を被った男の眼前に姿を現した。
「妹さんは……リリさんは眠っています。寝たふりかもしれませんけど。ちょっと、警戒されてるみたいで」
昼には早いとはいえ、四六時中ベッドに縛り付けられている病人が睡魔の誘惑を断てないほど遅い時間帯ではない。発熱で意識が朦朧としているうちは世話を焼くアデラに懐く素振りもあったのだが、数日が経ち病状が快方に向かうにつれて、態度が変わっていったのだった。その理由のひとつとしては、アデラの両親がリリにとって、お世辞にも温かいとはいえない人たちだったこともある。家族であるがために、アデラまでもが同類に見られているのだ。
リリが逃亡奴隷である事実を踏まえれば、出会って間もない他人に心を許せてしまえる方がおかしな話だが、アイオンの考えは多少異なっていた。
「あんたは悪い人間じゃない……と思う。もう少し気を許すよう、俺からリリに言い聞かせてやってもいいが」
自信のなさがそうさせるのか、申し出とは裏腹に、気が進まない様子である。諭すというおこないは信頼を勝ち得ている人物がしてこそ意味があるのだ。徒労に終わる可能性を疑っていそうなアイオンに反して、アデラは「本当ですか?」と一瞬目を輝かせたが、居住まいを正して「いえ、それはまたの機会に」と前置きを挟み、本題に入った。
「今日はどうしても、気になることがあって来ました。お兄さんと……アイオンさんとリリさんの関係を知りたいんです」
「理由も告げずに、教えろと言われてもな」
もっともな指摘に、慌てて口を開こうとしたアデラを仮面越しの視線で制し、アイオンは続けた。
「だが、先に言っておくと、どんな理由があるにしろ、その疑問には答えられない」
ならば、嘘を吐くのも選択肢のうちに違いない。それを選ばないのは彼なりに、不器用にも誠実であろうとした結果なのかもしれない。
しかし、もどかしそうに一歩を踏み出し、アデラは「あの子は!」と声を張り上げた。それから、感情的になりかけたことを恥じるように、俯いてぼそぼそと喋り始める。
「うなされているんです。……夜になると。わたしがあの子の手を握ってどんなに励ましても、怖い夢を見てしまうらしくて。たぶん、わたしじゃ駄目なんです。わたしが一緒にいると、よけいに不安を感じさせてしまう。でも、アイオンさんは違うんでしょう?」
「………」
沈黙が返ったのが答えだった。
たった数日の付き合いですっかり情が移っているのか、リリの支えになれるのが自分ではないという現実を突きつけられ、アデラは目じりに涙を浮かべる。そこには演技の要素はかけらほども見当たらなかった。
「リリは太古に栄えた由緒ある王国の血を引く女だ」
急に始まった突飛な発言に、アデラは涙を零しそうになっていたことも忘れて、まじまじとアイオンの仮面顔を見詰める。
「俺との関係は……そうだな。前世、俺はとある王国の姫に剣を捧げた騎士だった。その姫というのが彼女の前世でもある」
反応に困って立ち尽くすアデラをちらりと眺め、アイオンは「嘘だ」とわかりきっていることを告げた。しかし、だとしても、なぜいまさらになって嘘を口にするのか、その真意はまったく読めない。
「本当のことを言うと、俺は元奴隷でな。妹とふたりで貴族に飼われていたんだが、あるとき、なにを血迷ったのか、血の繋がった兄妹同士でまぐわうように命じられた。結果、生まれたのがあの娘……リリだ。つまり、俺は彼女の実の父親であると同時に伯父でもある」
一部の地域を除き、近親相姦は禁忌とされている。青ざめて言葉をうしなうアデラに、「別の設定の方がいいか?」などとふざけた言葉をアイオンは投げかけた。
「馬鹿にしているの?」
敬語も形をなさなくなるほどの怒りに、アデラは震える。
「さぁな。かもしれない、とは思うが」
他人事じみた言い様が癇に障ったのか、アデラは荒々しい足取りでアイオンに近寄ると、その勢いのまま開いた手のひらを振り上げた。ぱちん、と乾いた音が響くが、振り下ろされた手のひらはどこにも命中していない。座ったままのアイオンに手首を締め付けられる痛みに、アデラは表情を歪ませ、苦悶の呻きを漏らした。
アイオンは少女の手首を握ったまま立ち上がると、器用に重心を操作してアデラの体の向きを真後ろに変え、背中を軽く押すようにする。それだけで彼女はたたらを踏み、外へ追い出されていた。
アデラは背後のアイオンに振り返るが、実力差を思い知らされたためか、さっきまでの勢いは消え去っている。せいぜい敵意を込めた眼差しを送るくらいである。それから、ひっそりと納屋の隅に立てかけられている黒塗りの刀へ視線が動いたが、アデラのわきまえない態度に憤ったアイオンが鞘から刀を抜くといった最悪の事態にはならず、いたって冷静に彼はさっきまでの定位置に座り直した。
「用件はそれだけか?」
落ち着き払った淡々とした口ぶりに、アデラは顔を真っ赤にして踵を返す。滲む涙や噛み締められた唇などが如実にその内心を物語っていた。
こうして頼られた以上、アイオンはある程度の信頼を寄せられていたはずで、だとするとアデラは裏切られたような気持ちを感じているのかもしれない。そのことで、アイオンが罪悪感を覚えているか否かは傍から見る限り不明だった。ひとりきりになった後も崩れないのだから、周囲に心中を読みとらせ難い無表情が癖になっているようである。