表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アズライル大陸史  作者: 胡麻十朗
第一話 仮面の男
2/9

後編(2014年 1月3日 改)

【1】


 魔物の襲撃を阻むために騎士たちの詰める砦は奇妙な雰囲気に包まれていた。

 一人の騎士がアイオンに重症を負わされた際の騒動は門番以外にも大勢の目撃者がおり、問題になって然るべきなのだが、上層部に報告を、との声がいっさい上がらないのである。暗黙のうちに、誰もが印象的な仮面を被った男のことを忘れたがっているかのようだった。

 砦の門の番人の役目は、二十四時間常に誰かしらが務めていなければならない。

 その夜、たまたまズールと当番が一緒になった騎士が「なぁ」と重い口を開いた。


「このあいだの仮面の男のことなんだが」


「……アイオンがどうした?」


「そんな名前なのか。名前を知ってるってことは、あんたはあの男とそれなりに親しい間柄なわけだな。だったら確認したいんだが、彼は……魔物、じゃ、ないんだよな?」


 騎士は心底、不安そうな様子である。

 もしそうだとしたら、騎士の属する国は強大な魔物の侵入を許してしまっていることになるのだ。たとえ今からでも上層部に報告しなければならない、との正義感が言わせたようだった。

 癖なのか、ズールは答える前に、無精ひげの生えた顎をがりがりと掻く。


「彼はあれでも、理性的な男だよ。ひょっとしたら、上位の魔物とされる吸血鬼じゃないか、とは俺も疑っているけどな。ほら、だとしたら、常に被っている仮面のことも説明がつくんだ。吸血鬼は歳をとらないわけだからな」


「吸血鬼って……大変じゃないか!」


 顔色を真っ青にした騎士の男とは対照的に、ズールはひどく冷静だった。


「そう慌てるなよ。彼がその気になったとしたら、この国はお終いだ。俺たち騎士団は壊滅するし、王家の方々も生き延びられはしないだろう。今のところ、彼は表立ってこの国に不満を表してはいない。だから、刺激しないことが最善の策なんだ」


 国が全力をあげて軍隊を派遣してもなお、討伐は不可能だと考えられている竜もどきを、アイオンは単独で討ち滅ぼしたのである。その事実をズールが知っているはずはないが、天変地異などの自然災害と危険度は同列であるとされる上位の魔物と同様に、常人に抗える存在ではないのだと理解しているらしい。

 直接アイオンと対面した際に感じるものがあったのか、騎士の男は悔しそうにうつむくだけで、直接の反論はしなかった。


「しかし、彼が吸血鬼だというなら、市民に犠牲が」


「そこが不思議なんだよな。実はさ、俺もその辺りが心配になって、彼の身辺を密かに調査させたことがあるんだ。だけど、彼の周りにいる人たちの中に、首筋のところに牙を突き立てられた痕がある、なんて事実はまったくなかった」


 騎士の男は苦笑いをして、「俺たちの勘繰り過ぎということか?」と言った。


「だといいけどな。実際、彼が普通の人間だと思うか?」


「いや」


 疑う余地もないとばかりに、男は首を横に振って自分の意見を否定する。そうでなければいいのに、と乾いた笑みを浮かべた。


【2】


 魔の森を出発して十日あまりが過ぎた日の夜、彼らは交易都市ミュドニルに到着していた。

 途中に立ち寄った小村で、多少の金銭と引き換えにぼろぼろだったリリの衣服をまともなものに新調し、靴も調達できたため、彼女は文明人らしい装いになっている。

 竜もどきとの戦いでところどころが破けたアイオンの衣服は、応急処置で穴を縫い合わせて塞ぎ、彼は同じものをそのまま着てきていた。

 また、疲れが原因なのか、道中でリリが体調を崩すという事態もあったのだが、小村にいた腕ききの薬師の老婆に熱さましの薬をわけてもらい、ことなきを得ていた。

 リリの足の裏の怪我は本当に酷い状態だったのだが、小村で彼らが数日を過ごすための(高熱を出したリリの病状が落ち着くのに数日かかった)納屋を借りた家の娘が塗り薬を塗ってくれたお蔭もあり、さほど無理せずに歩けるくらいには回復していた。リリが脱いだ靴の内側を調べると、底にうっすらと血が滲んでいるのだが、だいぶよくなっている様子である。

 さまざまな交易品が集まるミュドニルには傭兵ギルドの支部があり、そこでアイオンも魔物退治の依頼を請けたのだが、彼は依頼達成の報酬を受け取るよりも先に、体を休めるための宿をとることを優先した。

 そこはアイオンにとってはなじみの中堅どころの宿であり、暇そうに頬杖を突いていた年配ねんぱいの女主人は店に入ってきた忘れようがない仮面の男の顔を見ると、「あら、お久しぶり」と気安く声をかけてきた。


「んん? かわいい子、連れてるね。どうしたの? もしかして、さらってきた?」


 短い旅の間に、アイオンはそれなりの信頼をリリから勝ち得ている。

 興味津々な女主人の視線にさらされ、リリは無意識にアイオンの背中に隠れた。彼は自分のことを守ってくれる存在だ、と認識しているのである。

 仮面を常に被っているというのはこの上なく怪しいに違いないが、女主人は短くない付き合いから、アイオンが人さらいに手を染めるような悪人ではないと知っている。

 いつもなら、そういった悪質な冗談を言われてもアイオンはとりあわないのだが、今夜は違った。


「いや、迷子だ」


 騎士たちの詰める砦での悶着を知らなければ、共感しようのない返しである。また、アイオンはにこりともしなかったため、本気なのかそうでないのかの判断がつかず、弱り果てた女主人は彼の背後にいるリリの様子をうかがった。

 すると、愛想笑いが返ってきて、言えない事情があるのだろうと女主人は察した。


「ま、いいや。部屋はいつものところが空いてるよ。とっとと行って、休んできな」


「世話になる」


 部屋の鍵を手渡されたアイオンは素っ気なく挨拶して、階段に足をかけた。

 慌てたリリがそのあとに続く。


「お、お世話になります」


 愛らしく頭をさげたリリに笑顔で手を振って、女主人は身長に差がある二人の客が階段を上っていくのを見送る。

 それが知人であったとしても、他人が隠したがっていることを無理に詮索してもろくなことにはならないと、身に染みて理解しているため、必要以上に踏み込まないのは商売人の鉄則だった。


【3】


「痛むか?」


 ベッドの端に座らされたリリは、足の裏に重点的に巻かれた包帯を解かれて、念入りに手当てを受けていた。やや過保護なアイオンの態度にも、どこか嬉しそうに、「ううん」と返事をしている。

 一階に戻って調達してきた桶に満たした水と、清潔な布きれで丁寧に足の裏を拭き、小村御用達の緑色の薬草を磨り潰して精製された塗り薬を、たっぷりと傷口に塗る。最後に包帯をとりかえると、作業は終了である。

 敏感な足の裏を触られて、リリはくすぐったそうにしたが、決して嫌がってはいなかった。

 包帯をぎゅっと縛り終えたアイオンは、あまり心配そうにでもなく、「出かけてくる。おとなしくしていろ」と言い残すと、部屋から出ていった。リリは「うん」と答えようとしていたが、急ぎの用でもあるのか、アイオンはこれからの予定に気をとられている様子で、耳を傾けようともしない。不満だったらしく、彼女は一人、唇を尖らせた。


「返事くらい、聞いていけばいいのに」


 拗ねたようにベッドに倒れこみ、膝を伸ばしてくつろぐ。

 リリの奴隷身分は生まれたときからのものであるため、おさなくして少女売春婦としての客をとらされるとき以外では、まして、きっちりと整えられた宿のやわらかなベッドを独り占めにして眠るのは初めての経験だった。興奮したように頬を紅潮させ、自分を閉じ込めるものではない部屋の窓や天井を眺めている。

 そのうち、半開きにした唇の隙間から、かすかな寝息の音が漏れ始めた。野宿や馬小屋などではない本格的に休息を取れる環境に、やっと身を置けたことで、張り詰めていた気が緩んだようである。


【4】


 ミュドニルの目抜き通りから少しはずれたところにある裏通りは、そこらに死体が転がっていたりはしないが、不衛生な悪臭が漂い、あまり治安がいいとはいえない区域である。

 親の庇護をなくした戦災孤児の子供たちは手癖の悪いすり行為に手を染めるのではなく、凶暴な強盗犯に様変わりし、刃向えば命を奪われかねない。他にもさまざまな悪党の巣窟となっており、都市の表と裏で棲み分けがなされていた。知らずに迷い込んだ者はたとえ命を拾ったとしても、身ぐるみを剥がされ、一着の服もあたえられずに寒空の下に放り出される運命にある。

 ただし、悪党どもを上回る力が、迷い人にあれば話は別である。

 また、裏の商売上の客であれば護衛つきで案内されることもあった。仮面の男、アイオンもその口である。仕事を頼みに来る頻度はそう多くはないが、金払いのいい上客として歓迎されていた。

 急な今夜の訪問もそうである。ほくほく顔でアイオンを裏通りにある目的の建物に案内した男は、駄賃として貰った小銭を手の中で弄び、軽い足取りで去っていくところだった。そのとき、ずしん、と今まさにアイオンが入っていった建物を中心に、弱い地震めいた衝撃が走り、男の足をとめさせた。彼以外にも異常に気付いた者は複数いたが、みな次の瞬間には何事もなかったような顔で歩き出していた。

 この裏通りに暮らす人々には、アイオンは上客であると同時に、扱い方を間違えれば爆発して周囲を吹き飛ばしかねない火薬庫のような存在であると認知されており、関わり合いになるのを恐れたのだった。


【5】


「あ、く、はっ」


 裏通りの建物の中では、四十歳過ぎにはなると思われる隻眼の大男が石壁に押し付けられ、その喉を掴んで自由を奪う自分に比べれば圧倒的に細い腕をはずすことができず、酸欠で呻いていた。

 身長差があるため、宙吊りにはされていないものの首が締まっており、黒目が裏返りかけている。背後の壁には放射状の亀裂が走り、込められている力が尋常ではないことを想像させた。


「怠慢だぞ、オリバス」


 この場での絶対的強者であるアイオンの発する声音には乱れがなく、まだまだ全力を振り絞ってはいない様子だった。

 激昂はしていても、戦闘者としての彼が我を忘れることはなく、主のオリバスを救おうと無防備に見える彼の背中に斬りかかった者たちは、残らず返り討ちにあい、無残な屍をさらしていた。仲間のあとに続こうとしていた者たちは、どうにもならない運命を悟り、遠目に主の苦境を見守るばかりである。


「あの子は死ぬ寸前だった。魔の森で、魔物どもの餌になる、その寸前だった。あんたに頼んだのは、そんなことだったか? 俺は、あの子の死体を拝ませてくれ、そう頼んだのか? ……返事をしろ、聞いているのか! オリバス!」


 喉を締めつけられていては、呼吸もままならず返事などできるはずもない。理不尽な叱声を浴びる大男の背後の石壁に放射状の亀裂は広がり続け、人間一人の力では通常ありえないことに、遂には完全に崩壊する。

 オリバスはミュドニルの暗部に潜む中で、それなりの地位を手にしており、彼を知る者たちからはある程度の敬意を払われていた。そんな男に蛮行を働くアイオンを誰もとめられないでいるのだ。彼らの常識に照らし合わせてみると、異常なことだった。


「す、すまねえ。アイオン。だが、聞いてくれ。嬢ちゃんが短気を起こして奴隷商人のもとから逃げ出したりしなけりゃ、約束通りに保護する手筈は整ってたんだ。こっちも、危険な魔の森に入って、命懸けで保護しろなんて無茶な依頼は請けちゃいねえ」


 壁が壊れるついでに喉の締め付けからも解放され、ようやく喋れるようになったオリバスは、地べたに這いつくばり涙目で咳き込みながらも、懸命にそれなりに筋の通った言い訳をする。

 多少の理をアイオンも認めたのか、仮面の下では苛立ちのあまり唇を噛み、怒りに目を血走らせているに違いないが、雑多に入り混じる感情をこらえて、静かな声を出した。


「その奴隷商人はいま、どうしている」


 駆け寄った部下の助けを借りて、オリバスが立ち上がる。

 歩くこともままならないほど消耗していたが、しわがれた声で指示を飛ばし、頭髪が薄くなり肥え太った商人風の男を連れてこさせた。アイオンの怒りを鎮めるための生贄として、用意されていたようだった。


「た、たすけてくれ。金ならやる。それに、こんなことが騎士にでも知られればただでは済まんぞ。だから」


 この国では奴隷の売買は認められている。不法に商人を断罪しようとしているアイオンこそが犯罪者だった。

 説得には応じず、知ったことかとばかりに、アイオンは刀を抜く。商人の顔色が真っ青になった。


「あああっ!」


 痛みに、悲鳴が上がる。

 けれども、刀が突き刺したのは、許しを請うべく商人が地面に置いた左手の甲である。

 しっかりと地面に縫い付けられ、動きを封じられた商人の低い位置にある頭をアイオンは鷲掴みにし、ぎりぎりと締め付ける力を強めていった。

 予想されて然る瞬間が現実になるより一瞬早く、周囲にいたうちの何人かが顔を背ける。

 およそ悪事といわれるものを生業なりわいとしているにしては肝がすわっていないが、誰からも叱責は飛ばなかった。オリバスも含めて多くは視線を逸らさなかったが、意地を張ったに過ぎない。本音では彼らも見たくないと思っているに違いなかった。

 ぐしゃ、と植物のトマトのように商人の頭部が潰れ、赤い水たまりと脳味噌、砕けた頭蓋の欠片などを撒き散らす。

 頬に微量が付着した程度で、意外とアイオンが浴びた返り血の量は少なかった。ただし、商人の頭部を鷲掴みにした手の方は別である。アイオンが血まみれの手を見詰めて棒立ちになっていると、これで拭けということか、白い布きれが宙を舞ってきた。

 誰が投げたものか、アイオンは地面に墜落したそれを拾い、血の汚れを拭き取る。刀を鞘に納めたところで、「始末はしておく」とオリバスの声がかかった。


「頼む」


 彼の行く手を遮る位置にいた一部の男たちが腰を抜かして道をあける。都市では本物の悪党だと恐れられる連中が、残らず畏怖の眼差しでアイオンの背中を見詰めていた。


【6】


 大抵、どこのギルドでもそうなのだが、傭兵ギルドの支部が最も賑わうのもまた、昼間の限られた時間帯である。

 粗野で品のない傭兵(大抵の傭兵がそうである)の場合、果たしてきた依頼の報酬を受け取ると、酒場や娼館に繰り出して羽目をはずすのに忙しいので、長居しないのだった。人によっては楽しみを優先して、報酬を得るのは翌日以降に後回しにする者までおり、空いている時間帯なのである。

 そんな、昼間のせわしなさの反動のように増えた暇な時間をもてあまし気味にしている受け付けの女性の前に、「報酬をくれ」との短い言葉とともに一枚の依頼書が差し出された。

 紙質は黒ずんで古びており、刷られた年代の古さを感じさせる。持ってきた人間の顔も確かめずに、「はいはい、依頼達成してこられたと。報酬はどのくらいでしょうね」などと、いいかげんな応対を始めた女性だったが、依頼書の詳細を読み進めるうちに、「ん?」と驚愕した表情で喉に何かを詰まらせたときのような声を上げた。


「ちょ、ちょっとだけ、お待ちくださいね」


 慌てた様子で席を立ち、奥に走っていく女性を、その依頼書を持ち込んだ人物であるアイオンは、暗い眼差しで眺めていた。


【7】


「お待たせしました」


 一転して落ち着いた足取りで戻ってきた女性は、すました装いになっており、あきれるほど表面を取り繕っていた。

 こっちがわたしの本当の姿ですよ、とでも言い張りたいのだろうが、アイオンにとってはどちらでもいいことのようである。「支部長がお会いすると言っております。奥へどうぞ」と奥にある応接室に通そうとするのにも、首を横に振って拒否した。


「どうせ、討伐の達成が確認されるまでは報酬は出ないのだろう。それに、俺は疲れている。支部長とやらと顔を合わせるのは、実際に報酬が支払われる段になってからでいい」


「は、はぁ」


 予想外の切り返しに、女性はさっきまでの地が出ていた。

 アイオンが提出した依頼書の内容は、竜もどきの討伐である。

 その存在が魔の森に奥地に確認された当時に、国ではなくギルドから出された依頼だ。鍛え抜かれた騎士のように頼りにされるのではなく、使い勝手のいい便利もの扱いされがちな傭兵の評価を覆そうとしたのだった。

 腕に覚えのある傭兵たちの中には、高額の報酬に目がくらんで、かの怪物に挑戦した命知らずもいたのだが、例外なく返り討ちにあい、それでもときどきは無謀な傭兵が名乗りをあげる中で、アイオンはおよそ百年ぶりに現れた挑戦者だった。

 さらには、過去に誰もなしえなかった怪物の討伐をなしえたのだから、歴史に名が残るようなとんでもない話である。


「俺は夕暮れのカモメ亭に宿をとっている。準備ができたら使いをよこせ。それと、念のために言っておくが、報酬を踏み倒すなよ」


 竜もどき討伐の依頼は犠牲者が積み重なるごとに報酬を増していき、現在では十年は遊んで暮らせるような大金になっていた。ギルドの財政事情次第では支払われない可能性もあると、アイオンは懸念したようである。

 あくまで女性は受け付けが本分であり、ろくに剣を握ったこともない。したがって、胆力に優れているはずもなく、念押しに竜殺しの男の視線に射竦められた彼女は涙目になっていた。

 小動物を苛めている気分にでもなったのか、アイオンはすぐに視線を逸らす。重圧から解放された女性は全身に冷たい汗をかき、思い出したように呼吸をした。


【8】


 夜が深まってきたため、人気のなくなってきた通りをアイオンは歩いていた。

 アイオンは普段から他人との接点をあまり持たないようにしている上、できる限り、人畜無害な男を装うように心がけている。それでも、その本質は見る目のある人間にはたやすく見抜かれてしまうのだが、魔物に対してならばともかく、うちに秘めた獣性を今日のようにさほどの遠慮もなく、人間に対してぶつけたのは久し振りのことだった。

 それほどまでに、アイオンを猛らせたのはリリの存在である。二人の関係性はわからないが、彼が彼女を大切に思っており、そのためにさまざま相手に苛立ちを募らせていたことは確かだった。

 寝静まった雰囲気の宿屋、夕暮れのカモメ亭の扉を開く。そこには燭台に灯したろうそくの明かりを頼りに、新聞に目を通しながら夜食をつまんでいるこの宿の女主人の姿があった。


「ん、お帰り。遅かったじゃない」


「……ああ。すまない」


 適度に近い距離感がそうさせるのか、アイオンもこの女主人と接するときには調子が狂うらしい。謝らなくてもいいことを謝ると、階段に足をかける。

 その背中に、「おなかすいてない?」と夜食の盛り付けられた皿を手にした女主人の誘いがかかった。アイオンは足をとめて肩越しに横顔を向け、「食欲がない」と答えると、静かに階段を上り始める。


「あたしも、そろそろ寝るかね」


 多めに作られた夜食をもてあますように口に運びながら、一人になった女主人はぽつりとつぶやく。最後の客が戻るのを待っていたようである。


【9】


 アイオンが部屋に着くと、ろうそくの明かりはついておらず、彼の帰りを待たずしてリリは、一つしかないベッドの上で熟睡してしまっていた。

 それを叱るでもなく、機嫌を損ねたときの彼の所業を知る者なら目を疑うような優し気な手つきで、彼は意味もなくリリのほおを撫でてくすぐる。彼女は眉間にしわを寄せて寝返りを打ち、彼は名残惜しそうに手を引いた。

 腰に佩いた刀を鞘に納めたまま抜き、壁に立てかけると、ベッドの横面に背中を預けて、アイオンは床に腰を落ち着ける。その姿勢で眠るつもりなのか、まぶたをおろした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ