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アズライル大陸史  作者: 胡麻十朗
第一話 仮面の男
1/9

前編(2013年 10月20日 改)

【1】


 木々が鬱蒼としげる深い森の中を、一人の男性が歩いていた。

 肌の露出を抑えた闇に溶け込む夜色の衣装に、表面が滑らかになるまで石を削って作られた古びた仮面を被った怪しげな黒髪の男である。仮面は左目を覆う部分のみが欠けており、野生の狼を思わせる鋭い眼差しを露わにしていた。鞘に納められている腰にく刀も、服と同じ色合いである。

 明らかに、夜闇の中に身を置いて戦うことを想定した装備だ。男性にしては小柄な体格と相まって、暗殺者めいているが、男の職業は傭兵だった。森に踏み入ったのも、魔物退治の依頼を引き受けたためである。

 魔の森とよばれるそこは、危険な魔物どものすみかだった。

 魔物は繁殖力が強く、放置しておくと人類の生活圏を脅かしかねない。そのため、定期的に間引かねばならないのだ。


「邪魔だ」


 燃えるような赤い毛並の馬に似た魔物や、節くれだった角を生やした猪に似た魔物、人間の大人を一呑みにしそうな大蛇など、ときおり目の前に立ち塞がるそれらを男は苦もなく排除していく。特に大蛇は戦いに慣れた傭兵が数十人からの徒党を組んで対処するような大物なのだが、掠り傷すら負わずに蹴散らしていった。

 熟達した剣技もさることながら、身体能力の面でも魔物を凌駕しており、人間の皮を被った上位の魔物ではないのかと思わせるほどである。

 実際、人間に似た魔物の例はあった。彼らの中の上位種族であることで知られる吸血鬼だ。

 吸血鬼や竜など、上位とされる魔物は人語を解し、人間以上の知恵者であるともいわれる。危険度も魔の森にいるような中位以下の魔物とは一線を画し、彼らの怒りを買ったことで、滅亡した国さえあるのだ。

 そんな魔物たちと同等であるかはともかく、男の強さが人間の範疇はんちゅうを逸脱し、魔物の側に寄っているのは確かだった。


【2】


 森に棲む魔物は奥地になるほど、その凶暴性を増す。まして、命あっての物種だ。傭兵とは命を張って金を稼ぐ商売ではあるが、彼らは決して自分の命を粗末にはしない。通常、魔の森に潜む魔物退治の依頼を引き受けたとしても、奥地には立ち入らず、下位の魔物を標的にするものだ。

 けれども、仮面の男は違っていた。ぞっとすることに、森の最奥に足を踏み入れたのである。

 そこには森の主とも噂される、竜もどきと呼ばれる怪物がいた。

 もどきとはいえ竜の名を冠するのは飾りではなく、中位の魔物の中でも、限りなく上位に近い強大な魔物だ。知恵はまわらないが、縄張り意識が強く、見つかればまず生きては帰れない。

 その存在は半死半生で帰還を果たした無謀な冒険者によって確認され、以来、魔の森に棲む魔物の根絶は不可能だと結論づけられていた。


「とろそうな図体だ」


 強がりなのか、男は竜もどきの眼前に立ち、人間を飲み込む大蛇をさらに丸のみにしそうなその巨体を見上げて、軽口をたたく。

 鞘に隠れていた漆黒の刀身は露わになっているが、昼の明るい時間帯であるため、暗殺刀としての本領は発揮できていない。また、さしもの男も、身体能力で竜もどきを上回ることは不可能である。

 不利な面ばかりが目につくが、その余裕の態度は崩れなかった。


「どれだけ生きたか知らないが、もう十分だろう。お前ら魔物は俺たち人間が生きていくのに邪魔なんだ。そろそろ、引導を渡してやる」


 腰を落とすと、大振りの刀を両手で握り、切っ先をまっすぐ竜もどきの眉間に向ける。

 矮小な人間にあなどりまじりの敵意を向けられた竜もどきは、顎をぱっくりと開き、聞いた者の全身を震わせる怒りを咆哮に乗せた。久しくなかった森の主の怒りを感じ、近隣の魔物が逃げ惑う中、男はどっしりと構えてまばたきひとつしない。

 先に仕掛けたのは男の方だった。

 常軌を逸した神速の踏み込みで迫り、刀に体重を乗せて突く。宙に砂埃が舞い、突風が巻き起こるほどの瞬発力には竜もどきも不意をつかれたが、鋼よりも固いといわれる鱗が貫かれることはなかった。ぎぃぃん、と鉄を打つよりも硬質な音が響き渡り、鱗の表面を切っ先が滑る。

 渾身の力を込めた突きである。刀は折れず曲がりもしなかったが、それを操る男の心にはひびくらいは入ったかもしれない。噂には聞いていたにせよ、実物のあまりの固さに目を剥き、動揺が反応を鈍らせる。竜もどきが豪快に振り回した尻尾を避けきれず、男は吹き飛ばされてしまった。

 命中したのは尻尾の根本の部分であり、加速する尻尾の先端に較べて明らかな威力の減衰はみられたが、人間の男を相手どるにはまったく関係がない。常人であれば全身の骨を砕かれ、内臓を破裂させてお陀仏である。

 男は十数本の木々を薙ぎ倒し、仰向けに倒れて止まった。仮面は割れてこそいないが、足元に転がっており、素顔をさらけ出している。

 低めの声を耳にしなければ女性といわれても信じてしまいそうな、凛とした美形の少年だった。片頬に奴隷身分を表す焼印があり、それを隠そうと仮面を被っていたものと思われる。その表情は見開かれた目や口の端などから僅かな血が垂れていること以外は先ほどまでと変わったところはなく、寸分も美しさは損なわれていない。

 よほどの執着があるのか、大変な衝撃に見舞われたにも関わらず、黒塗りの刀は手放していなかった。

 不幸にも折れた大木の尖った枝がみごとに腹部を貫いており、死んでいるのは間違いがない。


【3】


 夜空に月が浮かんでいる。

 数時間後、森は静寂を取り戻していた。

 竜もどきは縄張りに踏み込む者さえいなければ、気性はおとなしいといってもよく、悪戯に人間を襲ったりもしない。厄介なのは一部の中位の魔物を家族とみなし、卵から孵化するまでの期間、面倒を見ようとする習性があることだ。竜もどき自体は人間に危害を加えなくとも、孵化した中位の魔物たちが人間の脅威となるのだ。

 竜もどきは猫のように巨体を丸めて眠っていた。その巨体に複数の魔物の卵を包み、孵化させるべくあたためており、彼らの実の母親よりも母親らしい愛情に満ちている。外敵には容赦がない気質も、母親たらんとしているところからきているのかもしれなかった。

 けれども、竜もどきは文字通り上位の魔物である竜から生まれた奇形児であり、生殖能力はそなわっていない。つがいを得ることもなく、本来の仲間とは離れて暮らし、長い寿命を生きる。本当の意味での母親にはなれない魔物なのだった。


『ぐるっ』


 竜もどきの眠りは浅い。侵入者は足元に散らばる木の枝を踏み折る音すら立てなかったが、匂いにでも反応したのか、寝込みを襲われる前に目を覚まし警戒を強めた。気配もなく数時間ぶりに舞い戻ってきた殺したはずの男を、油断なく距離をとって見下ろす。

 そこにいたのは全身の骨が砕け、内臓が破裂し、絶命したと思われた少年だった。ふたたび仮面を被り素顔を隠しているが、流した血が染み込んだ衣服といい、本人のように見える。致命傷はすべて塞がっており、いよいよ正体は人間ではなさそうだ。

 男は鞘に納められたままの刀に手をかけ、ゆらりと幽鬼のように揺れたかと思うと、一瞬後には竜もどきの頭の高さにまで飛び上がっており、夜の闇にまぎれて刀を振るった。

 昼間とは異なり、突風も何もともなわないが、比較にならないほど速度が上がっている。また、見かけは変わらないが、腕力も強化されていた。振るわれた闇に溶け込む色の刀は今度は鱗に弾かれることなく、やすやすと竜もどきの顔面の皮膚を切り裂いてのけたのだ。

 竜もどきは頭部を血まみれにしながらも戦意をうしなわず、大きく発達した顎を開き、落下途中にある仮面の男の体を食いちぎらんと迫る。

 けれども、男は意に介さず、刀の間合いに入るそばから、竜もどきの顎を削ぎ落とし、目玉を抉り、脳みそをかき回し、太い首を断ってとどめをさした。昼間の苦戦が嘘のような圧倒的な強さである。

 竜もどきの巨体が地響きを立てて横倒しになる。

 体重を感じさせない軽やかさで着地した男は、日常のありふれたできごとのように、竜殺しの偉業の達成にも眉ひとつ動かさない。それよりもと、竜もどきが丸まって眠っていたところにあった魔物の卵に目をとめ、そちらにゆっくりと近づいていった。

 ちょうどそのとき、複数あった卵のうち、ひとつに罅割れが入り、小さな魔物が顔を出した。人間の目から見ても庇護欲をそそられる愛らしい仕草で、卵のからを帽子のように被ったまま、周囲の様子を見まわし、育ての親である竜もどきを殺めた男のもとに自分から寄っていった。


『ぴぃ、ぴぃ』


 親だとでも誤って認識しているのか、生まれて間もないその小さな魔物は、立ち尽くす男の足に額を擦り付ける。男はそれに刀を握って答えた。胴から輪切りにされ、わけもわからないうちに、小さな魔物は息絶える。

 男は死骸には見向きもせず、残りの卵も割って始末し、血糊を払い刀を納めた。


【4】


 過去、竜もどきが誕生したのは一度ではない。仮面の男が戦ったのとは別の個体が魔の森以外の土地に住みついた例もあり、そこで命を落とすこともあった。だが、寿命やより強大な魔物と争ったためにそうなるのであって、人間に討伐されるなど常識ではありえない。まず、前提として体の大きさが違いすぎるし、彼らの頑丈な鱗を貫ける手段を人間は持ち合わせていないのだ。史上初めて、魔の森の奥地に入って竜もどきを殺め、無事に生還を果たした男は、事実人間であるなら大変に規格外の存在なのである。

 常人が足を踏み入れれば命はないとまでいわれる危険な森を、男は散歩でもするように歩いていた。

 森の主が倒されたことで恐れられているのか、襲いかかってくる魔物もおらず、低位の魔物がようやく見られるようになってきたここまで、刀は鞘に納められたまま抜かれてもいないのである。

 森の景色に特徴はなく、自分の位置を見失ってしまいそうなものだが、男は方位磁石を使ってすらいないのに、最短距離を通って来た道を引き返していた。野生の獣めいた方向感覚である。また、月が二度昇るほどの時間をかけ、それなりの距離を踏破したにも関わらず、疲労した様子がみられないことも異常だった。まして、数時間の睡眠と食事の時間をとる以外は歩き通しで、森の奥地まで到達したあと往復してきているのだ。

 事実、男にとって現状は散歩しているのと変わらないのかもしれない。睨みをきかせるだけで魔物は逃げていくし、賢明な魔物はそもそも男の視界に入ろうともしないのだ。どちらが魔物かわからないような奇妙な光景である。

 男はそれに疑問も抱いていないようだったが、ふと足を止め、進路とは違う方向に目を凝らした。

 そちらは森の深い樹木で影になっており、よほどの視力の持ち主であっても見通せないほど暗闇が深い。よしんば、見通すことが可能だったとしても、死角をなくすように生えた自然の樹木の配置によって、その先の光景が見えたはずはないのだ。

 といった理屈をあざ笑うかのように、どんな光景を目にしたのだか、弾かれたように男は駆け出した。入り組んだ森の中を走っているとは思えないほどの速度である。木々の隙間を縫うように駆け、目の前に立ち塞がる大樹を回り込む時間も惜しいとばかりに、斬り捨てて押し通る。

 そうして辿り着いた先には、犬型の魔物が大勢集まっていた。人類の友たる犬種とは異なり、首がふたつあるのが特徴となっており、一匹の脅威はさほどでもないが、群れをつくって少数の獲物を襲う習性が恐れられ、中位に分類されている魔物だ。竜を筆頭とする単独で国を滅ぼすような魔物ほどではないにせよ、単純な数による脅威も侮れるものではないのだ。

 それにしてもその群れは異常な数であったが、男は怯みもしない。鞘から抜きざま刀を投擲とうてきし二匹を串刺しにすると、並外れた跳躍力で群れの中央に降り立ち、周囲に睨みをきかせた。威圧された魔物たちは散り散りに逃げ出し、あとには男と、刀で串刺しにされた魔物だけが残された。いや、もう一人、遠目にはわからなかったが、十代前半くらいの年齢の黒髪の少女が気をうしなって倒れていた。

 服はぼろぼろになり、体中が泥で汚れているが、男の素顔にひけをとらないほどの美少女である。波打つ癖のある黒髪には野性味があるが、低めの身長といい、全体に幼さを色濃く残している。成長すれば誰もが振り返る美貌の持ち主になるだろうことは疑いようがない。剥き出しの素足はやわらかく皮膚が擦り切れており、魔の森で死に瀕していた背景には、辛い事情があったのではないかと思わせる。

 男はその場に膝を突き、真剣な眼差しで少女の胸の膨らみがゆっくりと上下していることを確認すると、あからさまにほっと息を吐いた。どういった感覚をしているのやら、遠く離れた場所からこの少女の危機を悟り、文字通り飛んできたようである。


【5】


「う……」


 ほどなくして、少女は目を覚ました。頭痛でもするのか、頭を押さえつつ上半身を起こしている。


「わたし、いったい」


 記憶の混乱があるようで、現状が把握できていないように見える。

 けれども、すぐに生命の危機にあった状況を思い出し、慌てた様子で周囲に目をやった。犬型の魔物たちが見当たらないことに、ますます混乱の度合いを深めている。


「え? え?」


 少女が現在の状況と記憶との食い違いにとまどっていると、背後から「起きたか」と声がかかった。振り向くと、仮面を被った男が夜の闇を照らす焚き火の熱で、携帯用の干し肉を炙っている。ちなみに、魔物の中には食用に適したものもおり、先の魔物はそれにあてはまる貴重な食料源であったが、死にかけて間もない少女の心情をおもんばかったのか、男は死体を少女の目に触れないところに捨ててきていた。

 意外にも顔見知りの関係ではないらしく、見知らぬ男の登場に固まっている少女に、男は「ほら」と串に刺した干し肉を手渡し、素っ気なく「食べろ」と言って勧めた。

 よほど空腹だったのか、警戒しているようにも見えた少女は涙を流して肉に齧りつき、胃を満たした。その涙にはあるいは幸運にも生き延びられた事実による安堵の意味もあったのかもしれない。


「あなたが、たすけてくれたの?」


 あまり多いとはいえない食事量で満腹になり、鼻をすすって涙をとめると、少女はおそるおそる、男に話しかけた。

 状況を踏まえれば危害を加えられることはなさそうだが、男が仮面で顔を隠しているために、怪しく感じているようである。それを察したのか、男は仮面に手をかけ、そっとはずしてみせる。

 露わになった整った顔立ちと、頬に刻まれた焼印に少女は息を呑んだ。


「その焼印……奴隷なの? あなた?」


 はっきりした少女のものいいにも、男は小揺るぎもしない。


「逃亡奴隷だ。この仮面は、焼印を隠すために必要でね」


 逃亡奴隷とは主人のもとから逃げ出した奴隷のことである。犯罪者扱いとなるため、その証拠となる焼印を男が仮面を被って隠していたのは不自然なことではなかった。


「そう……実は、わたしもなの。顔にではないけど、焼印もある。魔の森に入れば彼らも追ってはこられないと思って逃げ込んだのはいいけど、あやうく魔物の餌になるところだったみたい。あなたに出会えて、わたしは幸運だった」


 偶然にも命の恩人である男は自分と同じ境遇の人物らしいと知り、少女の心の壁は薄くなったようだ。物腰がやわらかくなり、口数が増えていた。


「奴隷に身を(やつした時点で、俺たちは神に見放されているさ」


「でも、あなたはわたしを見捨てなかった」


 それで充分だと言いたげなまっすぐな感謝の眼差しを向けられ、照れたとも思えないが、男は意味もなく仮面を被りなおして沈黙した。

 ぱちぱちと弾ける焚き火の音が響く中、少女は「ところで」と男が黙ることのないような話題をもとめ、口を開いた。


「あの状況で、わたしはどうやってたすかったの? しょうじき、殺されてしまうものとばかり。……あ、ごめんなさい。その前に、名前を教えてもらっても構わない? わたしはリリっていうの。あなたは?」


「アイオン」


 そのとき、なぜか少女は目をみはり、「そ、そう」と動揺を滲ませて言った。それきりいくら待ってみても、名前以外は何も言おうとしない男に、また別の質問を投げかける。


「その、じゃあ、あなたのことアイオンって呼んでもいい? わたしもリリって呼び捨てにしていいから」


「好きにしろ」


「うん。呼ばせてもらうね。……あの、もしかしたらまた、答えてもらないかもしれないけど。アイオンはどうして、危険をおかしてまでわたしをたすけてくれたの? 秘密にしなければならないはずの奴隷の焼印を見せてくれたのも、どうして?」


 すると、案の定、アイオンは口を噤んで喋ろうとしない。

 けれども、今度ばかりはリリも譲る気はないようだった。十分以上もの間、彼女が無言で答えが返るのを待ち続けていると、「はぁ」とため息の音が聞こえてきた。


「気まぐれだ。深い理由はない」


「うそ」


「嘘なものか。聖人君子でもあるまいし、初対面の人間を助けるのに、立派な理由など持ち合わせはしない。わかったら、もう寝ろ。火の番はしておいてやる」


 強引にもほどがある理屈である。リリは聞かされた答えに納得がいかず、ぐずっていたが、疲れもあったためにやがて眠りに落ちた。そんな彼女に、陽の出ている時間帯はともかく、夜と早朝はそれなりに冷え込むため、アイオンは着ていた外套を脱いでかけてやっている。

 第三者が見ていれば、いろいろと想像を掻き立てるに違いない気遣いだった。



【6】


 魔物さえ現れなければ、魔の森の危険度はずっとさがる。とはいえ、人の手の入っていない森は獣道ばかりで歩くにも難いが、アイオンにとっては慣れたものである。あきれたことに、リリという荷物を背負って移動しているのだった。


「ごめんなさい」


 この程度の負担で、アイオンに疲れている素振りはみられなかったが、彼の背中でリリは小さくなっていた。

 彼女が素足で森を歩きまわり足の裏を血まみれにしていたため、アイオンが気遣ったのである。

 迷惑をなるべくかけたくない一心から、リリは断ろうとしたのだが、「無理をすると、歩けなくなるぞ」などと脅され、結局は頷いたのだった。

 なお、明るい陽射しに照らされてみると、アイオンの乾いた血糊が付着した黒の衣服もかなり穴だらけになっているのが目立ち、本人の様子から怪我などしていないのは明らかだったが、そのこともリリに遠慮をさせた一因である。

 歩き出してみると、アイオンは大変に健脚な男だった。負担を負担とも感じず、むしろ一人だったときよりも歩調を速めている。また、昨夜の食事に出された干し肉には限りがあり、大半をリリに譲ったため、アイオンの口にした量は微々たるものだった。空腹に慣れているにせよ、たいした低燃費である。

 早朝に出発した彼らは、陽が沈む前には森を抜け出ていた。

 その間、リリにしてみると不思議なことに、魔物とは一匹たりとも遭遇していない。「たまたま神の奴が見ていてくれたんだろう」などと、冗談まじりにアイオンはごまかすようなことを言ったが、大勢の蟹の魔物に囲まれ死にかけたばかりで、信心深くもないリリが納得するはずもない。といって、幸運だった、という以外の理由にも思い当たらない。不思議なこともあるものだ、と納得するしかなかった。


【7】


 ときおり、一定数以上に増えた魔物が、魔の森の外にある人里に押し寄せることがある。そのときにそなえて、徒歩で三日ほどかかる人里と森との間に、砦が建造されて騎士たちが詰めていた。

 そういった事態に陥る前に、森の魔物の数を調節できればいいのだが、アイオンのような化け物じみた男でもなければ、中位の魔物の一体とすら戦うのは命懸けになる。それこそどれだけの犠牲を払わなければならないか予測も立てられない。

 そのため、ことが起こった際に砦を盾にして魔物どもを押し返す手段がとられていた。国から魔の森の偵察を兼ねた魔物退治の依頼をアイオンの所属する傭兵ギルドは請け負っているが、現状、あまり当てにはされていないのである。

 一晩を野宿で明かした翌日の昼、彼らは騎士たちの詰める砦に到着していた。

 重々しい鋼鉄製の門が開くと、アイオンとそれなりに親しい顔見知りの騎士が門番をしており、「よお、遅かったじゃないか。今回は魔物を何匹殺してきた」と慣れ慣れしく彼に話しかけた。文字通りの怪物である竜もどきを討伐してきたとは、さすがに想像の範囲外のようである。

 さらにそれだけでは終わらず、どこか指摘しづらそうに、「で、その子は?」とアイオンに背負われているリリの素性を尋ねた。少女の存在自体には驚いていない様子である。それもそのはずで、あらかじめ物見やぐらから見張っている騎士がいたのだった。


「迷子だ」


 騎士に引き渡されれば逃亡奴隷であるリリはただでは済まない。アイオンの強引な言い訳を聞きながら、彼の背中に顔を埋めて寝た振りをしながら、リリは不安と戦っていた。


「迷子って、おまえ」


 この場にいる騎士はアイオンの顔見知りの男だけではない。他にも数人いる彼らを馬鹿にしているかのようなアイオンの言いぐさに、緊張感が高まる。


「何日か前に、ここを奴隷商人の馬車が通ってな。来る途中で、商品に逃げられてしまったというんだ。なんでも、その奴隷は整った顔立ちと、波打つ黒髪が目をひく女の子だというんだが」


 探るような騎士の視線にもアイオンは動じない。

 呼吸をすることも忘れるくらいに、リリは真っ青になっていた。


「見せてくれないか。その子の顔を」


 リリはまぶたを力いっぱいつむり、破滅を覚悟をする。

 けれども、それはおとずれなかった。


「断る。眠っているのに、わざわざ起こすのも忍びないだろう」


 その言葉を聞いた騎士は、眉間にしわを寄せて、仮面の下の表情はわからないが、後ろ暗いところはないとばかりに堂々としているアイオンを睨む。

 睨み合いは長くは続かなかったが、リリにとっては生きた心地のしない時間だった。


「……泊めてはやれんぞ」


 やがて、目を逸らしたのは騎士の男だった。

 この砦を抜けたとしても、人里まで一晩は野宿をしなければ着かないため、アイオンに限らず魔物退治の依頼を請けてきた傭兵は、砦にある騎士の宿舎を借りて休むのが慣例になっていた。男や周りにいる騎士たちはアイオンの背中にいる少女の正体を見抜いている。見逃してやるからさっさと行け、と男は言っているのだ。


「おい、ズール!」


 素直に歩き出したアイオンに、男の仲間の騎士がとがめるような声を張り上げた。

 けれども、ズールと呼ばれた騎士は無言で首を横に振るのみだった。そんな彼の様子に、痺れをきらした騎士の一人が腰に差した剣を抜き、「きさま、まてっ!」と頭に血をのぼらせて叫ぶ。

 足をとめたアイオンは、背負っていたリリを地べたに横たわらせ、「寝た振りを続けていろ」と離れ際に彼女の耳もとに囁くと、その騎士と向かい合った。


「抜いたな。剣を」


 魔の森ではあれほどの激戦を潜り抜けたにも関わらず、傷一つない黒光りする飾り気のない刀を引き抜く。

 その眼差しはズールとやりとりをしていた際とは違い、別人になったかと思うほど苛烈で、相対する男は重圧に呑まれていた。密かにズールは仲間の騎士に同情していたが、とめられる段階はとうに過ぎている。

 重圧に晒され続けることに耐え切れなくなった騎士が、勝算もなく足を前に踏み出したときが決着だった。鮮やかに鉄の剣身を半ばからたたき斬られ、ありえない事態にぼうぜんと立ち尽くす騎士の腹部を、アイオンは着ていた鉄製の鎧がぐしゃりとへこむほどの力で蹴り飛ばす。馬に蹴られてもこうはなるまいというほどの飛距離を騎士は空中で稼ぎ、地面に墜落すると苦しそうに呼吸をして血の泡を吐いた。


「ズールに免じて命はとらないでおいてやる」


 蹴り飛ばされた男は肋骨が折れる重症を負って呻いており、脂汗を流していたが息はあった。

 恐ろしいことに、口ぶりからして、仮面の男は手加減をして蹴ったようである。

 残りの面々はただただ何も考えられずに、アイオンが大事そうにリリを抱き上げて去っていくのを見送る。

 もっとも早く冷静さを取り戻したのは、彼の実力の一端をこの騒動に発展する以前から理解していたズールだった。負傷者の介抱は急を要する。「おい!」と手伝いをもとめて、仲間の騎士たちを我に返らせる。彼らはみな、悪い夢でも見たような表情をしていた。





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