番外編2 家族の話(村崎正継) 後編
唐突な結婚をして2年。
藤子が妊娠したのをきっかけに新居を探していた正継の下に、懐かしい顔が訪ねてきた。
「よお、久しぶり。元気か?……藤子はどうしてる?」
正継の先輩で、藤子の兄である縹武雄だった。
「そうか、子供ができたのか。おめでとう」
「あの、何の用で…」
「実はな、悪くない話を持ってきたんだ。藤子はいい顔はしないかもしれないけど」
聞くに、縹家の道場の本流の家から直々の伝達らしい。
かいつまんだ話を聞いた正継は耳を疑った。
「分流の道場開業って…マジですか。だって縁切られてるのに」
「いや、あの時俺と藤子の試合を見てた上のほうが是非にと話を進めてきたんだ。まあ、誰が見ても半端じゃない才能を持ってたからな」
「縹先輩はそれで良いんですか?あと師範とか」
「俺はな…もともと親父に言われて自分が跡継ぎになるもんだって思ってただけで、そこまで本気だったわけじゃないんだ。二人兄妹で男は俺だけだったしな。でも、本当に藤子には気の毒なことをしたと思ってる。親父もだ。この話をきっかけにして、少しでも仲直りしたいと思ってるんだよ。直接は言わないけどな」
真剣な顔つきの武雄に、冗談ではないのだと確信する。
しかし、これを藤子に話すとどうなるだろうか。
あれだけのことをして追い出したんだ、只でさえプライドの高い藤子が、父と兄を許せるんだろうか。
とりあえず武雄には一度帰ってもらい、その日の夜に恐る恐る話をしてみると、藤子の反応は意外なものだった。
「わかった、その話受けよう」
「え、なんかあっさりだね。いいの?師範のこととか…」
「家付きで道場をもらえるのならちょうどいいじゃないか。生まれるまではしばらく運動はできないが、そのあとで早速開業しよう」
藤子の表情をまじまじと窺うが、怒りの色は見えない。
その様子を見て、藤子は呆れたようにため息を吐いた。
「ここで話を蹴ったら一生チャンスはめぐってこない……そのくらい、私にだってわかってる。お前の気が変わっていないなら、私の夢の手伝いをしてくれないか」
そして二度目の挨拶に行き、藤子と縹家の面々は復縁を果たした。
子供が生まれるのを待ち、正継と藤子はいよいよ新居に移った。
師範は藤子、経営は正継。
ノウハウは健蔵から指南を受け、いよいよ本格的に道場経営が開始したのである。
女性師範ということで開業してすぐの道場は話題になり、経営難に苦しむ時期もほとんどなく生徒が集まった。
開業3年も経つころには、経営は安定し、二人目の息子が生まれた。
慣れ始めたとはいえまだまだ忙しかったが、あれほど充実した毎日はなかったと思う。
*****
結婚してから一番嬉しかったときは、と聞かれれば、正継は「娘の里見が生まれたとき」と即答できる。
順風満帆な生活、しかし正継にはひとつだけ願ってやまないことがあった。
それが「娘がほしい」ということである。
もともと男ばかりの兄弟だった正継にとって、女兄弟というものに一種の憧れを持っていた。
息子も可愛いには違いなかったが、娘のそれは男親にとって別次元である。
ようやく生まれた女の子に、正継は夢中になった。
師範の仕事で子供の世話も正継がメインで行っていたが、余計に服やおもちゃを買い与えるのでよく藤子に怒られる羽目になった。
年子でもう一人息子が生まれ、家族は6人の大所帯となった。
「あー、それぼくの!かえして」
「やー」
「かえせ!」
「氷くん何してんの。いじめちゃ駄目だよ」
「だってぼくのライダー」
「お兄ちゃんでしょ」
むくれた顔を向けるのは次男の氷河だ。
もう5歳になるが、いよいよ自我が強くなってきて第一次反抗期真っ只中である。
しばらく黙ったかと思うと、氷河は唐突に隣の里見を突き飛ばして転がした。
「なにしてんだ馬鹿!」
「ぼくの!さとちゃんがわるい」
「うあああ」
「あー泣かした!何で妹に優しくできないの!?」
「だって…いつもぼくばっかり…うぎゃああああ!」
「氷くん、うるさい。宿題してるのに」
子供が増えると騒々しいものである。
特に氷河は感情が激しくて、気に食わないとすぐ暴れて叫ぶから一番手を焼かされた。
反面、長男の紅蓮はもう小学校に入り大人びていることもあるが、生来おとなしい性格らしく驚くほど冷静である。
今も泣き叫ぶ弟の横で平然と算数の宿題に取り掛かっているが成績は芳しくなく、小学校2年生現在の時点で正答率半分以下で少し将来に不安がある。
「お前、少し里見に甘すぎやしないか」
「そう?普通だと思うけど……」
「あまり兄弟に差をつけると片方が捻くれるぞ」
「説得力あるね。肝に銘じるよ」
しかし特に何の変化もないまま時間が過ぎ、一番下の疾風が小学校に入学した。
思えばこのあたりから少しずつ、不穏なものが垣間見え始めていたかもしれない。
「お父さん」
「ん、何?」
夕食後、後片付けをする正継に里見が話しかけてきた。
しゃがんで目線を合わせると、恐る恐るといった様子で里見が口を開く。
「あのね、私、お兄ちゃんとはーくんといっしょに学校行きたくない」
「え?何で?」
びっくりして聞き返すと里見は黙ってしまった。
同じ学校なので兄弟3人で一緒に登校させていたのだが、何かあったのだろうか。
「やっぱり何でもない」
そう言って台所を出て行ってしまった。
どうしようかと考えていると、入れ替わるように疾風がやってきた。
「お父さん、ぼくとおにいちゃんとおねえちゃんはきょうだいなんでしょ?」
「え、そうだよ。当たり前じゃない」
「だって、にてない、きょうだいじゃないって言われた」
「誰がそんなこと言ったの」
「お兄ちゃんのクラスの人」
先ほどの謎が解けた。
どうやら氷河と同じクラスの生徒にからかわれたらしい。
確かに氷河、里見、疾風は全く似ていないが間違いなく血が繋がっている。
子供らしい冗談を本気にしたんだろう。
一応二人にはその後フォローを入れておいたが、里見は本当にその日から兄弟で登校しなくなり、少し早めに家を出るようになった。
それだけではない。
家族で出かけるときなどにはいつも疾風と手をつないで行動していた里見が、その日を境にそれを嫌がるようになった。
正継はほんの少し気にはなっていたが、女の子はそんなものだろうと何もしなかった。
今思えばそれは明らかな兆候だった。
「里見と疾風を、来週から修練に参加させようと思う」
「もう?」
布団を整えながら正継が目を瞬かせた。
「もう小学校に上がったから十分だろう。むしろ遅いくらいだ。紅蓮と氷河は小学校前に開始したからな」
「まあそうだね……でも、あんまり無理はさせないでよ」
「里見に、か?」
「え?えーと」
「前に言わなかったか?兄弟で差をつけるな。それとも、女はこういうことをするな、とでも言うか?」
「そういう意味じゃないって!」
藤子の声が苛立ちを含むのを感じ取って慌てて首を振る。
しまった、少し余計な部分を刺激してしまった。
でも良い機会かもしれない、と正継は思った。
最近里見は兄弟で行動する事が少なくなっているので、修練を一緒にやればぎこちなさもなくなるかもしれない。
そんな楽天的な考えは、年を追うごとに消え失せる羽目になる。
修練に参加し始めて、里見の兄弟離れは加速度的に悪化していった。
そしてそれ以上に、母親の藤子に対する恐れも目に見えて積み重なっていったのである。
修練に参加しない正継は、そのことに気づくのが遅れてしまった。
2年も経つころには、里見は食卓で全くと言っていい程口を開かなくなっていた。
「里見、今日は学校でどうだったの?」
「……」
「えーと、修練はどう?組み手とか、慣れた?」
「里見はまだ組み手には参加していない。大幅に遅れているからな」
「え、あ、そうなの」
「おい、返事くらいしたらどうだ」
「……」
「ちょっとお母さん、いいって。里見、ごめんね」
明らかに状況がおかしくなっていた。
それでも正継は何もしなかった。
何をしていいかわからなかった。
そして、あの日。
帳簿を書き込んでいた正継のところに、息を切らせた疾風がやってきた。
「お姉ちゃんが、死んじゃう!」
驚いて道場に向かうと、ぐったりした里見が藤子の膝に頭を乗せて横たわり、紅蓮と氷河が顔を覗き込んでいた。
「おい藤子、どうしたんだ!」
「…うるさい、ただの脳震とうだ。さ、騒ぐほどのことじゃない」
「ただのって…」
近づいて文句をいこうとしたが、藤子の顔を見て声を飲み込んだ。
酷く青ざめて小刻みに震えている。
「うわ、ヤバイんじゃね、これ。やっぱ里見に組み手は無理だったんじゃ…」
氷河の声にますます顔色を失う藤子をこれ以上責める気にはならなかった。
すぐに救急車を呼び事なきを得たものの、それが決定的な亀裂となり、里見はとうとう食卓に顔を出さなくなった。
2階の部屋の鍵を常にかけ、顔を見ることすらろくにできなくなってしまった。
初めは藤子が何度もドアを叩いて説得した。
表面上は怒っていたものの藤子も里見に対する罪悪感でいっぱいで、何とか外に出そうと必死だった。
しかしそれも逆効果で、ますます里見は引きこもった。
正継もドア越しに何度も話しかけた。
不満があるなら相談してほしい、何か嫌なことがあるならどうにかする、少しでもいいから顔を見せてほしい。
紅蓮、氷河、疾風もそれぞれ何度か話しかけていたようだが、効果は上がらなかった。
特に疾風は毎日のように通い、それでも駄目で酷い落ち込みようだった。
せめて学校には行ってほしいと必死に頼むと、登校時間に玄関に近寄らないことを条件にと言われ了承した。
学校にいる間も、兄弟は近くに寄らないでほしいと。
久しぶりに聞いた声は、怯えているようにも泣いているようにも聞こえた。
藤子は何度もドアを蹴り破ってしまおうと言ったが、正継はそれに反対した。
それをしてしまうと、二度と里見の心が戻ってこないような気がしたのだ。
思い出したくもない、辛い日々。
何をしていても、里見のことが頭を掠めて気分が落ち込む。
家族で外出しなくなった。
夫婦で口論することが多くなった。
疾風が中学に上がってからよく疾風に里見の学校での様子を聞いたが、何も話さずいつも一人で行動していると聞いて胸が痛んだ。
時々話しかけても怯えたような反応で避けられ、何度も心が折れそうになった。
何故こんなことになったのか。
本当はわかっていた。
細々したことはあったけれど、一番は。
家族をまとめなければならない立場の自分が、何もしなかったこと。
ごめんね、里見。
腫れ物に触るみたいにして。
嫌われるのを怖がって。
藤子にも、他の子たちにも、僕の都合で迷惑ばかりかけてしまった。
少しばかり遅かったけど。
僕も、変わらなくちゃ。
*****
「で、どこ行ってたの?こんな時間まで」
「あの、ゲームセンターに…」
「誰と?」
「目黒さんと、青木くんと」
「連絡くらいできたよね?」
正継が背座状態で俯く里見の頭頂部を見下ろして疑問符で畳み掛ける。
現在時刻は22時直前、数日前に設定した門限はとっくに過ぎ去っている。
「すみません、時計見てなくて」
「門限の意味わかってる?」
「父さん、その辺で…姉さんも反省してるし」
見ていられないとばかりに疾風が止めに入る。
この子は昔から根っからのお姉ちゃん子である。
小さいころ氷河に何度となく泣かされていた里見を必死に気遣う様子は健気でしょうがなかった。
まあ、今はそれとは話が別である。
「疾風くんがそこまで言うのなら仕方ないなあ……里見、22時30分までそのまま座っててね。それでもういいよ」
どうせ終わるまで疾風がついてるだろうから、正継は部屋で寝る前の仕事に取り掛かることにした。
「里見は?」
部屋に戻るなり藤子がそう聞くので、廊下に正座させてるよ、と何気なく答えると藤子が渋い顔をした。
「お前……何というか、極端だな。あれだけ甘くしといて」
「そう?藤子、何度も甘やかすなってたくせに」
「そうだが…」
「でも他の兄弟と平等にはしてないね、やっぱり。他のやつだったらあんなので許してないから」
「ああ、氷河とかな」
ちなみに氷河はこの間朝帰りしたので何度か正拳を食らわしておいた。
しばらくはおとなしくしているだろう。
「女の子は繊細だから扱いに気をつけなきゃって馬鹿みたいに気を張ってたけど……あの子にはこのくらいでちょうどいいかもね」
「手は出すなよ」
「出さないよ。っていうか、君がそれ言うの?」
「私はいいんだ」
藤子が笑いを含んだ声で言う。
彼女もようやく、里見との接し方を掴み始めて嬉しいのだろう。
「そうだ、今度里見の友達に家に来てもらおうか」
「何だ急に」
「いや、いろいろ聞きたいことがあるんだよねー。学校の様子とか疾風くんの話だけじゃやっぱりわからないこととかあるし、それと」
初めはアルバイトだった。
妙な縁の連続で結婚。
道場経営を始め。
家族が増えて。
もう駄目かもと思うような問題もあった。
戸惑うことも多くて、これからもそういうことばかりだろうけれど。
「わかってて遅くまでうちの娘を引っ張りまわす理由とか。3人いてだれも時計確認しないわけないからね」
何もしないで後悔することは犯すまいと、正継は心から思うのだ。