番外編2 家族の話(村崎正継) 前編
自分には5人の家族がいる。
妻と3人の息子、1人の娘。
自営業で忙しいけれど、夫婦仲も良く子供達もみんな元気で仲良しの、絵に描いたような幸せな家庭だ。
そう信じて疑わなかったある日、何かがおかしくなった。
安心しきっていた、馬鹿な自分。
不意に落ちた落とし穴に、なす術なく苦しむ日々が始まったのである。
*****
村崎正継は男ばかりの5人兄弟の長男である。
家は小さな整備工場を営んでおり、生活はカツカツで食べるのがやっとの状態。
家計の足しにと仕事に出る母親に代わって、正継は炊事洗濯と弟たちの世話をして家を守る立場になっていた。
「兄ちゃん、タクが殴ったー」
「メシまだかよ」
「お前らちょっと黙ってろ!」
男5人ともなると家は喧騒の嵐である。
この家の家計でよくも5人も産んだものだ。
おかげで正継は毎日、家計内で増え続けるエンゲル係数を賄うために頭を悩ませる羽目になった。
いよいよ赤字続きでどうしようもなくなった頃、高校に入ったばかりの正継にひとつ上の学年の縹武雄に紹介されたのが、彼の家の道場での雑用アルバイトである。
練習に使う用具の洗濯や道場の掃除、賄い作りが主な仕事で、その類の仕事に慣れた正継にとっては願ったり叶ったりということで二つ返事で引き受けた。
意外と時給もよく余った賄いの持ち帰りもOKだったため、村崎家の危機は救われた。
清掃中に道場の練習風景を見ることがよくあったが、特に目に付いたのが男ばかりの中で際立った才能を見せる女の子だった。
中学生にしては高い身長で大人じみた顔つき、しかし大柄な男相手でも負け知らずといった実力を持った彼女は縹藤子といい、正継にここの仕事を紹介した先輩の妹だ。
武雄曰く「ここで上位三番の実力者」と言わしめる彼女は、しかしかなりの気難し屋としても有名だった。
「型がガタガタだ。一体今まで何を練習してきたんだ?」
「力ばっかりで技術がないな。恥ずかしくないのか?」
「お前、才能ないな。やめた方がいいんじゃないか」
その口の悪さで試合相手の心を折るのも有名で、その場面を目撃するたび被害者に向かって心の中で「ご愁傷様」と手を合わせたものである。
相手がことごとく道場を辞めてしまうということもあって、いつしか藤子の練習相手は兄である武雄と師範である父親の健蔵だけになっていた。
道場のトラブルを横目で見ながらそれでも我関せずと仕事に明け暮れていた正継だったが、高校卒業間際になって、その事件は起きた。
卒業したらとうとう就職。
実家の整備工場の跡取りは弟のどれかに任せることにして、正継は家の近距離にある農協の事務仕事につくことになっていた。
武雄のほうは高校を卒業して間もなく1年が経ち、いよいよ師範代としてお披露目となる日が迫っていた。
そこで親戚一同を集めて大々的に試合を行うことが決まっており、全部で3試合が行われる内、1試合目の相手は妹の藤子、2試合目が父の健蔵、そして最後が本流の跡取り。
武雄にとってはここで本流に実力を示し、今後の土台を固めるための晴れ舞台である。
そして、それが正継にとっての最後の仕事場でもあった。
試合当日、1試合目のことだった。
静まり返る道場。
あっけに取られた顔で固まる武雄を、無表情の藤子が見下ろしていた。
正継も見物人に飲み物を配りながら、その場面を見ていた。
自分の目が正常ならば。
今。
武雄が、藤子に負けた。
動揺に包まれる中続行された試合、開始から間もなく再び藤子が一本を取り、武雄のストレート負けが確定する。
試合終了の声とともに、師範の健蔵が大声で怒鳴った。
「この試合は無効だ!」
「何故ですか!」
重ねるようにして藤子が咆える。
負けた武雄はというと、呆けたような顔で座り込んで動かない。
「藤子お前、どういうつもりだ!」
「事実を教えてあげただけです。それとも、本流の前でもわざと負けてあげればよかったと?」
驚いたことに、すでに藤子の実力は跡取りである武雄を上回っていたらしい。
跡目がよりによって妹に負けるということを恥じた師範が人前ではわざと兄に負けるように指示していたとのことで、あっという間に道場内がパニックに陥った。
喧騒の中何とか後片付けを済ませ、雇い主に挨拶する間もなく、正継のアルバイトは終わった。
「はあ、あんな修羅場に居合わせるなんて。ついてねえ」
登校する日も少なくなりまた家事にのんびり従事していた正継だったが、ある日の夜、閉店前のスーパーに明日の食材を買い足しに行った際、駐車場の車止めに座り込む女性を発見した。
見たところ高校生であろう彼女は、声をかけてみるとその顔に見覚えがあった。
「あれ……ひょっとして、藤子…ちゃん?縹先輩の妹の」
「……お前、アルバイトの」
とりあえず男ばかりの我が家に招待して事情を聞くと、なんと家をひとつ身で追い出されたらしい。
現代にまさかそんなことをする家庭があろうとは。
しかも彼女は高校生。
おいおい、学校どうすんだ。
どうしようかと考えあぐねていると、彼女が心底悔しそうに顔を歪める。
「……どうして、私が跡を継げないんだ。女だからか」
「あー…」
「もう2年前から兄さんには1度も負けていない。父にだって、もう勝率は半分になってる。強くなったら、父に勝てたら、跡を継いで良いと言われたんだ。それなのに…」
健蔵は約束を守ることはなかった。
藤子が勝つ回数が増えるほど、師範は藤子に辛く当たるようになったらしい。
女の癖に前に出るなんて。
兄を立てろ。
調子に乗るな。
毎日そんな言葉をぶつけられながらも、藤子は必死に修練に打ち込んだ。
その結果が、あの試合だった。
武雄はまるで藤子に歯が立たなかった。
「馬鹿みたいだ。無駄な努力して、結局家を追い出された。もういい、駄目なんだ」
「あのさ」
すっかり憔悴している女の子を目の前にして慰めないわけにいかない。
おかしいのはどう考えてもあっちの言い分で、君は悪くない。
君の才能があり過ぎて嫉妬してるんだ。
道場なら他にもある、何なら新しく始めれば良い。
正継は必死で藤子をフォローした。
「適当なことを言うな。この状態でどうしろって言うんだ。勘当されて一文無しで、明日のこともわからないのに」
「えーと、じゃあ、俺が手伝おう!君、ここに住めばいいよ」
「は?」
藤子が心底怪訝な顔を向ける。
「こうなったら乗りかかった船だ。話を聞いたからにはこのまま放っておけないしね。家は貧乏だけど、もう一人くらいなら置けるからさ」
「本気で言ってるのか?」
「行くところないんだろ?遠慮しなくていいって。君もアルバイトから始めて、したいことをすればいいよ」
「わ、私はお前のことはあまり知らないし、性格もいいとは言えないぞ」
「え、自覚あったの。まあうちも決して上品な家庭とはいえないしなあ。OKOK」
「…り、料理も洗濯も、掃除も全然できないが」
「それならどうせ全部俺がしてるから。なんかもう習慣みたいになってるし」
「……わかった。そこまで言われたら、私も女だ。覚悟を決める」
真剣な顔で藤子が立ち上がる。
どうやら納得したようだ。
「お前、名前はなんだった?」
「あ、名前ね。村崎正継」
「正継、勘当されたとは言え、この件は一度実家に報告する必要があると思う。一緒に来てもらえないか」
早速呼び捨てか。
ま、しばらく引き取ることになるんだし、いいか。
挨拶もやっぱり必要だよな。
「わかった。ちゃんと師範の許可を取らないとな」
「ああ……正継」
「何?」
「これから、よろしく頼む」
「うん、よろしくね」
正継はこの時点で気づいていなかった。
藤子が「一緒に住む」ということを完全に曲解していたこと。
本人がまったく知らぬ間に、いつの間にか縹家に結婚の挨拶に行くことになってしまっていることに。
それも、もう25年も前の話である。