朝の食卓
「あーやっちゃった」
いつもの幼い声が言う。
「もう後戻りできないね。あとはそっちでどうにかしてよ」
「乗り気だったくせに、他人事みたいに」
これは夢なのだと、里見は理解している。
視界は真っ暗で何も見えないが、不安な気持ちはなかった。
「まあ、頑張れば」
「あんまり馬鹿にしないでよ、こっちだって覚悟決めてやったんだから…すぐは無理でも、いつか何でも気に病まずに言えるようになる」
からかうように笑いを含む声。
11歳の自分は上機嫌だ。
これまで聞いたことがないほど明るい、安心したような声色で里見に語りかけてくる。
「すごいなあ。本当に?楽しみだね、それ!」
「ほんとほんと」
「期待しないで待ってるよ。それじゃあねー」
会話が途切れ、静寂が残される。
里見は知っていた。
この声を聞くのは、これで最後なのだと。
悲しくはない。
何かを失ったような空白感と寂しさはあるけれど、晴れやかな気分だった。
*****
鳥の鳴き声がよく聞こえる、快晴の朝。
玄関や窓から差し込む日の光が暖かい。
目の前にあるのは、台所兼食堂に続く引き戸。
その奥の人の気配に、里見は持ち上げた手のやり場を失くしていた。
平常心、無心、平常心、無心、へいじょう……
「おう、何してんだ。邪魔だからとっとと入れや」
後ろから上がった声に肩を跳ねさせて振り向くと、不機嫌な下の兄の顔が視界に入る。
しまった、前に神経を集中しすぎて背中が疎かになっていた。
「お、お先にどうぞ」
「馬鹿じゃねえの、うっぜ」
言葉通り心底馬鹿にした顔ではき捨て、氷河は何の遠慮もなく引き戸を開け放つ。
「はよー」
「ああ、氷河今日朝から?」
「1限、必須科目あんだよ。めんどくせえ」
「ふーん……里見も入れば」
眠そうな上の兄に促され、おそるおそる部屋の境界を跨ぐ。
とたん、味噌汁の良い香りが鼻を刺激した。
部屋を見回す。
おぼろげに記憶にある、しかし以前より狭く感じる懐かしいダイニングがそこにあった。
「席はいつもの空いてるとこだから」
「……あ、あの、いつものとこってどこですか」
「え?だからいつも…」
「ずっと来なかったやつが知るわけねえじゃん、兄貴まだ寝てんのかよ」
「あーそうだっけ。じゃあ、前のままの席って言えばいい?」
…前の席って小学生の頃の席?
どうしよう、覚えてない。
「そこだよ、そこ」
まごつく里見に、氷河が奥の中央の席を面倒そうに指差す。
食卓にはすでに人数分のおかずが用意してあった。
典型的な和食朝食だが、妙に量が多いのは兄弟たちに合わせてあるからだろうか。
今ここにいるのは兄二人と里見だけで、両親と弟の姿は見えない。
「ほ、他の人は、どうしたんですか」
「お袋と疾風なら朝練の後片付けしてから来るって。親父はちょうど新聞取りに行ったところ」
「いいから座れよ、そこにつっ立ってると邪魔なんだよ」
そう言って氷河が乱暴に座ったのがドア側の真ん中の席。
ちょうど里見の座るはずの席の向かいにあたる場所だった。
ちなみに紅蓮は里見から見て氷河の左隣に座っている。
うわあすっごい気まずい。
座りたくない。
心からそう思ったが、勇気を振り立たせて里見は席を引き、腰を下ろした。
視界を明後日の方向へそらしてひざに手を揃える。
今、里見は氷河の顔を真正面から見る勇気がなかった。
『俺はお前、大嫌いだから。そこんとこよーく覚えとけ?』
昨日目を覚ましたとき、たまたま様子を見に来ていたらしい氷河に開口一番に言われた言葉だ。
まだ意識がおぼつかなく、出た返事は「そ、そうですか」というかすれた声だったが、その言葉で里見はちょうど良く頭が冷えたと思っている。
皆が皆、里見のわがままを好意的に受け取ってくれるはずはない。
むしろあの流れがおかしかった。
氷河は昔から里見を見下して憚らなかったので、却ってこの方が落ち着くというものだ。
かといって気に食わない、という態度をあからさまにぶつけられるのも落ち込むが。
「そういえば、里見はもう食えるの?体調とか大丈夫」
「え!?あ、ああ、アレはその……単に疲れと寝不足のせいだったので、寝たらもうだいぶ良くなりました」
「へー」
紅蓮の質問にたどたどしく答えると、里見はあの夜のことを思い出した。
そう、あの妙な高揚感の正体。
校門で氷河と別れてから深夜まで星を見て、京太郎の家で朝まで悩みを話して。
学校で疾風や美麗と喧嘩して家に帰って藤子に会って逃げて。
河で浮かんでまた京太郎の家にお邪魔して、紅蓮から逃げて自転車を盗んで美麗の家まで走って。
ラストは、あの暴言と暴露の嵐。
体力と精神の限界で、ついでに食事もろくにしていなかった。
あのときの里見は俗に言うランナーズハイ状態だったようだ。
…道理でいつもより気が大きくなっていたはずだ。
まあそんな状態でもなければ言いたいことがろくに言えなかったと思うと、いっそ良かったのかもしれない。
しかし、昨日は大変だった。
里見はほぼ丸2日間寝ていたらしく、すぐに呼ばれた主治医(よく怪我人が出るため頼んでいる)に診てもらい、もう昼過ぎなのもあってその日は一日布団の中にいた。
「寝不足と疲労から来る体調不良ですね」とのことで問題はなかったが、それを聞いた両親からの追及が鬼のようで、正直まったく休めなかった。
そして翌朝の本日。
説教ついでに無理に約束させられ、数年ぶりの朝食参加と相成ったわけである。
正直、早々に挫けそうだ。
「あ!里見、おはよう」
声に顔を上げると、手に新聞を持った父が入ってくるところだった。
「昨日はよく眠れた?新しい部屋でまだ慣れないと思うけど…」
「あ、はい、大丈夫です」
あなたと母に長々と付き合わされて疲れていたので、とは言わなかった。
まだ素面でそこまで言える度胸はない。
これも約束させられたことのひとつで、里見の2階の部屋の荷物は移動され、昨日から1階の空き部屋に移ることとなったのだ。
家財はそのままで部屋が和室になった程度だったのでそこまで違和感はなかったが、両隣が両親と疾風の部屋なのが里見には不安だった。
いくらまた家族と接していく決意をしたとはいえ、始めから距離を詰めすぎだとこっちの精神が持たない気がする。
しばらくはストレスとの戦いかもしれない。
「もう母さんも疾風くんも来るから……あ、ご飯どのくらい?食べきれないなら無理しないで残していいからね」
「俺大盛りで」
「俺は普通でー」
「はいはい、お前らは後でな」
ぎこちなく「少なめで」と伝え、白飯をよそう正継の背中を見つめる。
その姿がおぼろげな記憶として蘇った。
そうだ、ちょうどこの角度からいつも見ていた。
私は昔、この席に座っていた。
そこまで思い出すと、唐突にあの頃の食事風景が脳裏に浮かび上がった。
正面に並んでいるのは兄弟3人だ。
右隣が父、左隣が母。
里見が汁物をこぼし、母に注意され、父が拭いてよそい直してくれる。
正面の下の兄が手を伸ばしておかずを掠め取って父に怒られる。
上の兄が一番先に席を立ち、弁当箱を手にとって学校に向かう。
もう遅れるよと言われて席を立ち、玄関のランドセルを背負って弟と一緒に玄関を出る。
今まで思い出しもしなかった、心深く沈めた思い出。
まるで普通の家族のような、そんな風景がここにあったのだと、里見は驚いた。
廊下を渡る足音が聞こえ、残りの2人の来訪を告げる。
間もなく、よく似た顔の二人が姿を表した。
「……」
「……」
「……」
藤子と疾風、そして里見は目が合ったまましばし硬直した。
ここは朝の挨拶をするべきなのだろうが、なんだかうまく口が動かない。
「あ、お疲れ様。早く座ってよ」
正継が促す声に2人がそれぞれ席に着く。
ち、近い近い。
無理無理無理無理!
真横に藤子が来て里見のプレッシャーが一気に数値を上げた。
開口一番何を言われるかわかったものじゃない。
「おい、メシ」
「はいはい、茶碗貸して」
「ほら。早くな」
予想と反する言葉に思わず顔を上げると、横目で「なんだ文句あるか」と言いたげな視線を向けられる。
この場で何か言うつもりはないらしい。
疾風のほうも、小さな声で「おはよう」と早口で言って席に着いた。
これで全員だ。
(やっぱり狭いなあ)
小学生の頃と比べると兄弟4人の体が成長しているので当たり前だが、全員入ると移動も困難なスペースである。
食事の準備が終わると、正継がようやく席について食卓を見回す。
一人一人の顔を辿るように視線を動かし、緩んだような笑顔を浮かべた。
「なんていうか…嬉しいなあ。ずっと皆でご飯ができるの待ってたんだ」
「お前、そういうことは今言うな。こいつが気にするだろうが」
「だってさあ…」
ええ、私のせいです。
本人に悪気はないのだろうが、正継の言葉にますます里見の居難さが上昇した。
何故か藤子がフォローに回ってくれているのも申し訳なさを誘う。
「いいんじゃねえの。これで一人分無駄にしなくて済むじゃん」
目の前の食事にすぐ手をつけたいのか、目の前の湯気を立てる汁を覗き込みながら紅蓮が言った。
その言葉に違和感を感じる。
「あの、人数が増えたから、むしろ食費がかさむのでは…」
「え?だって里見がいなきゃ余るんだから、来たほうが無駄が減るだろ」
「だって一人、食事する人間が増えるわけで、料理する量も増えますし…そもそも何で余るのか…」
「あー…そういえばそうだな。何でいつも余るんだっけ」
「紅蓮くん、話はその辺にしてもう食べようよ」
正継が少し焦った様子で会話を打ち切る。
良くわからないが、里見は考えるのは後にすることにした。
「はい、これ。里見のだから」
差し出された真新しい薄桃色の箸を受け取る。
割り箸以外の箸を手に取るのは久しぶりだ。
「い…」
こんな日が来るなんて、つい数日前までは思っても見なかった。
自分の現実は閉塞感で満ちていて、ここを離れることですべてが解決するものだと信じていた。
今、里見はあんなに遠ざけた場所にいる。
そして、その中で嫌々ながらでも、過ごしていく為に努力しようとしている。
急に家族に対して好意を持ったわけではない。
これからもっと大きな問題が出てくるかもしれない。
また逃げ出して、今度こそ完全に繋がりを絶つ日が来るかもしれない。
でも今。
里見には僅かなからも、覚悟と目標がある。
この5人に押し負けず、自信を持って立てるようになるのだ。
「いただき…ます」
かくして、里見の胃の痛い、しかし前を向いた日々が始まったのであった。