家族会議3
もう夜も更け、物音も響くような静寂が広がっている。
それなりに広い板張りの道場に、6人の人間がようやく集結した。
不安な顔をした父。
不機嫌全開の母。
別のことを考えていそうな兄。
面倒くさそうな兄。
表情を硬くした弟。
自分はどんな顔をしているのだろうか。
顔が見えないのでわからない。
ただ、目の前に並んだ5人から逃げたいという気持ちが今はない。
鋭い目を向けてくる母と驚くほどすんなりと目を合わせることができる。
よくわからないけど、きっと今私は無敵だ。
今言え、すぐ言えということだ。
よし、言おう。
「まず始めに言わせてもらうけど、私、後悔してない」
例えどんなに無礼な言葉でもいい。
今日は「気遣い」「想いやり」そんなものは必要ない。
「反省もしない。美麗ちゃんがいなければ帰ってくるつもりなかったよ。」
本音をそのまま、目の前に向かって吐き出す。
今からすることはそれだけなのだ。
「こんな家、1秒でも居たくない。あなたたちとも。ずっと、家を出てここから離れるのを待ってた。高校を卒業するまでは、って我慢してたけど」
里見はまっすぐ藤子を見る。
藤子もまっすぐ里見を見る。
「もう無理。私、出て行くね。今までお世話になりました!」
きっとここ数年で最高の笑顔で、爽やかに言い切れた。
次の瞬間、強烈な拳が脳天に叩き落されて視界に星が散った。
「だから!もう手は上げないでって言ったよね!?」
「顔に、だろ」
「頭でもほとんど変わらないから!何で君はすぐ手ぇ出しちゃうの!?」
「今殴らなくていつ殴るんだ、お前……おい、里見」
ぐらつく頭を抱え込んでいると、すぐそばに藤子の立つ気配があった。
「そこの風見鶏はともかく、私はお前の馬鹿な意見なんて聞かん。勝手な行動に関してもこれまでの態度に関してもただで許す気はないぞ」
「…っ別に許してもくれなくてもいいよ、もう」
「生意気な口を利くな」
「私が気に食わないんでしょ?だからもう目の前から消えるって言ってるんだよ。それでいいよね」
「何勝手に一人で話しを進めてるんだ」
「はは……」
「何がおかしい?」
「私ほんっと……あんた嫌い」
言うと同時に顔を上げ、里見は目の前の藤子を睨みつける。
わずかに目を見開いた藤子のさらりとした髪の毛に手を伸ばし―――思いきり引っ張った。
「痛っ……!」
「いつも高圧的でさ、怒鳴るか殴るかすれば言うこと聞くと思ってるんだ。馬鹿で出来損ないだから、どんな風に扱ったっていいと思ってるんだ」
藤子が痛みに歪めるその顔が、里見をほんの少し愉快にした。
本当に今日の自分はどうかしている。
でもこのままで言っていいや。
こんな機会最後だし。
外そうと掴んでくる手を必死で払い、ますます力をこめる。
「私だってさ、私だって、自分が好きなように生きていいじゃん。あんたの気に入らない性格なら、生き方なら、どうだって言うわけ?家族全員できるからできなきゃいけない?そんなこと知らないし。勝手にするし」
「この……!」
「二人とも待った!ちょっと、落ち着いて!」
藤子が反撃体勢に入った時点で外野のストップがかかる。
せっかく持ちこたえていた手も、数人がかりではあっさり外されてしまった。
同時に二人の体が引き剥がされて距離が開く。
ああもう、いいトコだったのに。
まだ。
まだ言いたいことが山ほどある。
「ほんとにどうしちゃったんだよ…姉さんおかしいよ!」
頭の後ろから声がした。
里見を羽交い絞めしているのは疾風らしい。
ちなみに、正面では藤子が3人掛りで抑えられていた。
体を揺さぶって後ろ足で蹴ってみたが、やはり力の差があり外せない。
腹が立つ。
「放して。邪魔しないでよ」
「放さない。姉さんも母さんも、頭に血が上ってる」
「別にいいよ。そのほうがやりやすいし」
「母さんと取っ組み合いでもするつもり!?姉さんが一方的にやられるだけだよ!」
「やってみなくちゃわかんないじゃん」
何か今ならやってやれそうな気がするのに。
根拠はないが。
「上等だ…その根性叩き直してやる」
「バカお前、挑発すんな!」
「いたたた、お袋、爪立ってる、やめて」
「あーもう、何でこうなるの!?話し合いでどうにかできないの!?」
「できるか!お前まだそんなこと言ってるのか?いい加減覚悟を決めろ!」
今にも男衆を振りほどいて跳び出してきそうな向こうに負けじと里見も再度抵抗を試みるが、ますます腕の力をきつくされるばかりだった。
「母さん待ってってば!…姉さんも言い過ぎだ!言って良いことと悪いことがあるだろ!」
「だからその何の意味もない説教やめて。良いか悪いかなんて関係ない」
「だからいい加減…」
「だって私がもう無理なんだよ!」
ああ、この人たち、本当に何もわかってないんだなあ。
だって良いか悪いかで言えば、父、母、兄たち、弟、誰も悪くない。
悪いのは自分、バカでダメな村崎里見、ただ一人。
でも今はそんな話はしていない。
こんなに醜い内心をぶちまけて。
ひどい言葉で罵って。
それで気分良くなって笑ったりしてて。
こんな私を見て、どう?
見損なった?
軽蔑した?
やっぱりダメだって思った?
お願い、正直に聞かせてよ。
「私が悪いよ。我が侭だよ。才能なくて努力もできない上に、性格も劣等感ばっかりでどうしようもない。だから離れたほうがいいんだ。そっちがこっちを軽蔑して、嫌って、追い出してくれればお互い気持ちよく別れられるのに、はは、なのに、罪悪感持たせないでよ。私ばっかり悪者にする、あははは、嫌だ、嫌だ、あんたらなんて」
良いか悪いか、ではなく。
「嫌い、嫌い、みんな嫌いだ。あはははははは!」
好きか嫌いか―――それだけ。
「いなくなればいい!」
聞きたいのは、それだけ。
「俺は別に里見は嫌いじゃないな」
思わぬ方向からの声に笑いが固まる。
ゆっくり視線を向けると、相変わらずの無表情が里見を見つめていた。
「まあ面倒なときあるけど…妹だし。面倒見たり、何かあったら手伝っても構わないくらいには…好き?だと思ってるけど。えーと、これでいいの?」
いつも通りの抑揚の少ない、淡々とした声色で。
里見の求める、しかし望まないほうの答えを紅蓮は口にした。
「はは、何言って…無理しなくていいよ?嫌なら嫌ってはっきり言っていいよ?」
「家族として普通に好き」
「……」
思わず絶句する。
突拍子もない人とは思っていたが、こんな場面でその特性を発揮しなくてもいいんじゃないだろうか。
急な沈黙が訪れる。
「俺も…」
まさかの第二波。
背後からだ。
「俺も、姉さん好きだ」
腕の力が強まる。
痛い。
「嫌われてるのはわかってるけど…昔みたいに仲良くしたい。一緒に話したい。食事したい」
肩口が柔らかい髪で埋まる。
「い、いなくならないで」
小刻みに震える感覚が、消え入りそうなその声が、落ちる水の感触が、里見に追い討ちをかける。
待った。
この流れはおかしい。
私、さっきまで最低なセリフをさんざんぶつけてたはずだ。
こんな展開はない。
嘘だ。
こんなのは嘘だ。
「は、疾風くん」
「あーあ…泣かしちゃダメだよ、お姉ちゃんでしょ。悪い子だなあ」
振り返ると正継が笑っている。
怪訝な里見の顔に正継は吹き出した。
「何、その顔。まさかみんな、里見のこと嫌いだって言うと思ったの」
「そりゃあ…」
「里見って、本当に何もわかってないんだなあ」
先ほど家族に対して思ったことをそのまま返され、内心衝撃を受ける。
違う。
わかってないのはそっちのほうだ。
今までは表面だけ気を使ってただけで、本当は私はこんなにひどい人間なんだ。
嫌というほどわかっただろうに。
「待ってよ…言ってる意味がわからない。こっちは嫌いだって言ってるんだよ」
「だから?そっちが好きか嫌いかなんて知らないよ」
「だって…」
「いいことしたら喜ぶし悪いことしたら怒るけど、そんなことは些細なことでしょ。いくら本人が嫌がろうと、親は子供を愛する権利があるんだよ……ね?」
正継が藤子に顔を向ける。
苦虫を噛み潰したような表情でしばらく黙って、藤子はようやく口を開いた。
「私は正…父さんみたいに甘やかしたりすることはしない。お前のしたことは許さない」
「ああ…そう、そうだよね」
そう、この反応が普通だ。
やっぱり、母には受け入れてもらえない。
わかってはいたけれど。
「なら、やっぱり」
「ちゃんと落とし前はつけろ。これからはこんな事がないように、ちゃんと顔を合わせるんだ。嫌でも食事には必ず同席しろ。見るだけでいいから修練には来い。それから2階のあの部屋は没収だ。下に来い」
「え、あ、ちょっと、だから変だよそれ!」
流れ変わってなかった!
このまま行ってなるものかと必死で軌道修正を図る。
「お母さんは私のこと、ものすっごく嫌いなんだよね!?」
「何だそれは。いつそんなことを言った」
「だって、いつも私見てイライラして、不機嫌な顔になって」
「ああ、イライラする。お前だけぜんぜん思ったとおりにならない」
「悪うございましたねー」
「いつまでも体も精神も弱くて、危なっかしくて、見ていられない。お前だけ、誰に似たんだか」
「ええ、ホントに。兄弟の仲で唯一出来損ないなもんで」
「そんな風に思っていたのか」
「本当のことだし」
「私がそう思わせたのか。出来損ないだと」
はたと藤子の顔を見返す。
美しい顔が苦痛を耐えるように歪んでいるのを見て、里見は動揺した。
「い、いえ、あの」
「他の兄弟と差をつけたように思ったか。おまえにだけ、辛く当たったように感じたか」
「…はい?」
「お前の成長は他より遅かった。だから早く追いつけるようにと少し時間も手間もかけて指導を調整したつもりだった。他の兄弟と練習内容が違うと気にすると思って、前倒しで組み手を入れたりもした。全部、全部私の思い違いだった。修練自体が苦痛だったお前を、私は追い詰めたのか」
「…いや、ちょ、待ってください」
畳み掛けるような母親の言葉を里見は飲み込めずにいた。
いや、違う。
理解したくないのだ。
これまでの自分の考えの土台が覆ってしまう、そのことが怖い。
そして恐らく。
彼女の言葉を聞いてしまえば。
里見の選択は、定まってしまう。
「正継ばかり責めて、自分の間違いを認められなかった。逃げていたのは私だ。止められたって、会いに行こうと思えば、話そうと思えばできた。でもそうしなかった」
「い、いいよ、私がダメだったのが悪かったんだし、急にそんなこと」
「違う、私は謝るのが嫌だったんだ!馬鹿なプライドを優先して、お前に責任を全部押し付けた」
「やめて!!」
思わず大声で続きを遮った。
違う、こんなの。
私の中の母は、高潔で強いんだ。
自分にも人にも厳しく、高みを目指すその姿が、見た目以上に綺麗で輝いていて。
そんな母が私は嫌い。
嫌い。
「今更そんなこと聞かせないでよ、ねえ、もういいよ」
自分の声が震えているのに里見は気づいた。
どうしちゃったんだろう。
今日は、無敵なはずなのに。
何でも、好きなだけ吐き出して笑ってやるはずなのに。
舌の根が合わない。
目の焦点が合わない。
喉の奥が乾いてくる。
嫌だ、戻らないで。
弱い、いつもの自分には。
「私は、間違えた。間違えたんだ」
「もういい…もういいから」
「里見、すまなかった。今更こんなこといえる義理じゃない。でも」
藤子が里見に近づく。
何をされるか何となくわかったのに、疾風が後ろにいて里見は一歩も動けなかった。
藤子の手が肩にかかる。
それが肩の後ろに回り、前半身を自分のものでない体温が包みこんだ。
「私は、大事な娘を、失いたくない」
里見は全身の力が抜けていくのを感じた。
今まで自分を包んでいた、根拠のない自信と高揚感が一気に引いて。
代わりにやってきたのが、強い倦怠感と、頭痛と、吐き気と、視界を覆う砂嵐のようなノイズ。
あれ、何これ。
私、死ぬの?
そう思うほどの気分の悪さが一気に押し寄せて。
視界が、
黒く、
音が、
世界が、
回って、
里見の体が、崩れ落ちた。