ラストチャンス
窓から景色を見つめる。
夜の暗がりに電灯の明かりが流れ、消えていく。
会話はなく、ただ静かな時間が過ぎて行き。
目的地の少し手前の道路で、里見は車から降りた。
「ありがとうございます」
「ご挨拶しておかなくて良いかしら。美麗ちゃんがお世話になったみたいだし」
「いえちょっとタイミングが…すぐに美麗ちゃん呼びますからここで待っててください」
おばさんには悪いが、和やかな挨拶で済みそうにないので遠慮してもらう。
収拾がつかなくなりそうだ。
車のハザードランプを後ろ目で見つつ、里見は曲がり角を曲がった。
もう自宅とは目と鼻の先だ。
里見は足を急がせた。
「おい、おい、村崎!」
聞き覚えのある声。
立ち止まり視線を彷徨わせると、数メートル先の暗闇から人の影が近づいてきた。
「会えてよかったー!ちょっと心配になってさ、来ちゃった」
京太郎が少しはにかんだ笑顔でそこにいた。
*****
「いや、ホントゴメンな。時間稼ごうと思ったけど、あの人取りつくしまなくて」
「ううん、気にしないで。少し無理言っちゃったし…いきなり押しかけといて挨拶もあんまりできなくて、こっちこそごめん」
「じゃ、お互い様な!でもさ、今どうなっちゃってるわけ?後から追いかけたんだけど村崎いないし、目黒が村崎んちの兄貴とここ入っていくしで、もうよくわかんなくてさー」
「やっぱり美麗ちゃん、ここにいるんだ」
「ここって村崎の家?広いなあ。超日本家屋だし」
「武道場もあるからね…敷地は広いかな」
感心するようなそぶりの京太郎に苦笑いを返す。
せっかくだが、今は世間話を続けてるわけにもいかない。
「ごめん、もう行かないと」
里見は京太郎の横をすり抜けようと足を進める。
「え、帰るの?やばくない?怒られるんじゃねーの」
驚いたような京太郎の顔。
「うん…たぶん」
「たぶんってか絶対だろ。怖くないの?」
「怖いよ」
まったく返す言葉もない正直な気持ちだ。
いくらふっきれても里見は里見。
急に強くなったわけでもない。
それでも行かなくてはならないのだと、自分に言い聞かせているだけだ。
「…な、村崎」
歩きながら振り返る。
暗がりでうつむいた京太郎の表情はよく見えなかった。
「ごめん、もう行くね」
「あのさ、いいこと考えた」
「え?」
「帰るのやめて、このままどっか行っちゃおうぜ」
何を言われたのか理解しあぐねて思わず足を止める。
顔だけ後ろに向けてしばらく見つめていると、京太郎は顔を上げて笑った。
「ここで帰っちゃったら、相手の思う壺じゃん!せっかく逃げ切ったんなら、とことん逃げてやろうぜ」
「でも、美麗ちゃんが」
「目黒なら平気だろ、あの性格だぜ?あっちのほうがそのうち辟易して追い出すって!大体、村崎がここで帰ったら目黒だって喜ばないだろ」
確かにその通りだと思う。
会って一番に「何で来たんだ!」と怒鳴られる様子が目に浮かぶようだ。
でも。
「な?あっちの言うこと何でも聞いてたら村崎ばっか我慢することになるじゃん。今ガツンとわからせてやるんだよ、もうお前らの勝手にはさせないってさ」
京太郎が顔を輝かせて里見に近づいてくる。
「どっか遊びに行こうぜ!夜でも結構楽しめるところあるし、俺も付き合うしさ。目黒には後で適当に連絡入れておけばいいって。な、そうしよう」
「青木くん」
「俺んちはもうばれてるけど、カラオケボックスとかゲーセンで時間つぶせば問題ないだろ?あ、金ないなら俺が出すし。特別な!」
「青木くん」
「ネットカフェとかファミレスもいいな、ゆっくりできるし。なあ、村崎はどこが良い?」
「私、帰るよ」
「何で?」
京太郎は里見のすぐ隣に立つ。
楽しそうな笑顔を浮かべたまま、目をまっすぐ見つめて。
「俺、別に迷惑とかじゃないし」
「違うよ」
「何が?」
「もう決めたから」
「何を?まさか、今までどおり我慢するって決めたの?」
「違う」
「じゃあ何?今から仲直りするなんて思ってるとか?」
顔は笑ったまま、軽い調子で京太郎が続ける。
「ここまでやっておいてさ、本気で何とかなるなんて思うわけ?どうにもならねーよ、血が繋がってるったって結局他人だし、話し合えば理解しあえるなんてありえないしさ、お互い嫌い合ってるんなら、とことんやっちゃえば良いだろ。もうどうなったって良いだろ。わざわざ正面から行ってやるなんて時間の無駄、馬鹿のやることじゃん」
京太郎が里見に覆いかぶさるように覗き込む。
視線と視線が至近距離でぶつかり、しばらく沈黙が流れた。
「青木くん、私ね」
里見がゆっくりと口を開く。
「あの人たちに文句を言いに帰ってきたんだ」
「はあ?」
馬鹿にしたような声色。
それでも里見は視線を外さなかった。
不思議と、いつもと違う京太郎のその態度が怖くない。
「嫌なことは嫌だって、できないことはできないって、ただそれだけなんだけど」
心の中で育てた恐怖心に押しつぶされて。
変化を恐れて、そのまま深みにはまって。
「考えてみたら、毎日嫌な思いして我慢して過ごすほうが、ずっと大変なのにね」
気づいたら心の中に、不満と不安の塊のようなものが存在していて。
自分にしか聞こえない声で、いつも自分を責め立てた。
「だから、今から、喧嘩しに行く…のかな?」
「何だ、それ」
「今まで言えなかった事全部言ってやる。よくわかんないけど今、すごくやる気なんだよね」
握りこぶしを作ってアピールする。
「やる気って、何だよ」
「だから…うん、何だろう」
「ばっかじゃねえの」
京太郎が顔を話して呆れ顔で里見を見下ろした。
その顔に先ほどまでの険はない。
「前からちょくちょく思ってたけどさ、村崎って結構抜けてるよなあ」
「そうかな…」
「あーあ、俺、もう付き合ってらんねーや」
そう言ってにやっと笑った顔はいつもの青木京太郎だ。
「もう知らねー。勝手にすれば」
「うん、頑張る」
「無駄だと思うけどなー」
「青木くん」
「何?」
「心配してくれてありがとう」
「心配?…ああ、そうそう、心配ね。うん、そうなのかな」
そう言いながら携帯電話を開く京太郎の顔を液晶のライトが照らす。
「うわ、もうこんな時間じゃん。なんか眠いし」
「ああ、そういえば昨日寝てないもんね」
「そういやそうか。やべ、気づいたらものすごい眠い」
二人で笑う。
ポケットに携帯電話をしまうと、京太郎は里見の頭に軽く手を置いた。
「じゃ、俺帰るし。どうなっても知らないけど、コテンパンにやられたら慰めてやってもいいぜ」
「うん、ありがとう。でもできれば負けないようにするよ」
「どーだか。ま、健闘を祈る!」
片手を上げてひらひらと振ると、京太郎は曲がり角を曲がって見えなくなった。
しばらく立ち尽くし、里見は勢いよく顔を上げる。
京太郎は何故急にあんな態度になってしまったのだろうか。
何か自分が失礼なことを言ってしまったのかもしれないが、今はわからない。
でも、ひとつ確かなことがある。
これが里見が逃げ出す、最後のチャンス。
差し出されたその手を、里見は自分の意思で払いのけた。
もうあとは進むだけだ。
もう一度握りこぶしをつくり、自分に渇を入れる。
門を押してくぐり。
光の漏れる家屋を確認して。
背筋を伸ばし、里見はまっすぐ一歩踏み出した。