逃走と迷走1
本当に驚いたとき、人は行動すらできなくなるのだと里見は今実感していた。
あまりに唐突な顔合わせだった。
「…え、ちょ、藤…母さん!」
慌てたような正継の声が何だか遠くに聞こえる。
5年という歳月を隔てているというのに、母の姿は記憶とさほど変わらなかった。
薄手のトレーニングウェアを身につけているところを見るとさっきまで道場にいたのだろうか。
母の藤子はここの師範、つまりトップである。
通常イメージする格闘技道場の偉い人といえば男性だから、世間的には少し変わっているといえる。
しかし、母がここでの一番の実力者であることは里見も知っていた。
そして、強く、努力家で、自分にも他人にも厳しいという気質もよく知っていた。
その彼女の気質が、里見を追い詰めた原因のひとつでもあったのだから。
「待って、里見が玄関に…」
「知ってる」
「知ってるって…だから今は奥にいてよ」
「知らん」
目の前で父と母が妙なやり取りを始めたが、やはり動けずにぼんやりと眺めるしかできない。
頭がガンガンして視界が揺れ、体温が下がり続けるような錯覚に陥りながらも、里見は藤子から目が離せなかった。
その目が、こちらに向けられる。
「…あっ」
喉の奥から思わずかすれた呻き声が飛び出した。
表情はない。
無表情だ。
それなのに、強い威圧感を確かに感じる。
嫌だ。
反射的に後ずさると、背中に何かぶつかって顔だけで振り返る。
疾風に困惑顔で見下ろされ、後ろに彼が立っていたことを思い出した。
そういえばいたっけ、すっかり忘れていた。
正直今すぐ脇によけてほしい。
もっと距離をとらなければ、緊張と恐怖心でどうにかなってしまいそうだった。
肩でその胸元を押すが、疾風はつっ立ったままで動かない。
ゆっくりと、しかし大股で藤子が近づいてきた。
体が震える。
渾身の力でまた後ろのほうに体重をかけるが、わずかに足が動いただけだった。
「待って!何を」
さらに正継が何か言いかけたときには、藤子は里見の目の前にいた。
こうしてみると、昔よりずいぶん顔の距離が近づいたのだと里見は気づく。
里見の身長が伸びたので当たり前なのだが、藤子が女性にしては背が高かったのでそれでもまだずいぶん差はあった。
その大きな目がまっすぐに里見の目を見る。
じっと。
まるで吸い込まれるようなその目に釘付けになり、呼吸も止まるかと思った。
いきなり、顔に強い衝撃がきて視界が反転した。
同時に肩に何かが当たってすごい音が鳴り響く。
頭を振って落ち着こうとすると、鋭い痛みが遅れて顔と肩にやってきた。
何が起こったのか。
ゆっくりと顔を上げると、先ほどの無表情ではない、はっきりと怒りの表情を浮かべた母親。
そして、その腕と肩をつかんでいる父親。
少しだけ目を見開き、でもいつもどおり無表情の上の兄と、顔を手で覆って大爆笑する下の兄。
一体これはどういった光景なのか。
まったく状況がつかめない。
耳が良く聞こえない。
そして、痛い。
「大丈夫!?」
慌てた声で疾風が里見の両肩をつかむ。
ぶつけた方の肩がひどく痛んで、里見はその手を振り払った。
自分で肩を抱えなおして、また正面を見直す。
だんだんと聴覚が戻ってきた里見の耳に届いたのは、怒鳴り声の応酬だった。
「何で…何で叩いた!どうしてそう怯えさせてばかりなんだ!」
「言ってわからないならこうするしかないだろう」
「紅蓮や氷河とは違うんだぞ!里見は女の子じゃないか」
普段からは信じられないほどの大声でそう言った正継を藤子はせせら笑った。
「は、お前はいつもそうだな!娘だから、繊細だから、か。お前が言ったとおりにしてどのくらい経った?ストレスをかけないように、修練は無しにして、怯えるからと顔も見せないようにして、いくら部屋に閉じこもっても碌に叱りもしない。傷つけたら大変だって、何でもかんでもいうことを聞いてやったな。言いたいことがあっても、黙ってたな。家族全員がそうするように、何度も何度も、お前が釘を刺したな」
何のことについて話しているのか、鈍い里見にも流石にわかった。
これは、私のことだ。
同時に驚く。
正継が日常的に里見に優しくしてくれていることは知っていたが、他の家族に関してもフォローをしてくれているなんて夢にも思わなかった。
同時に、5年間ほぼ他の家族に鉢合わせなかった理由も理解した。
わざと、だったのだ。
正継以外、里見の前に姿を現さないようにしていた。
他でもない、里見のために。
「それで…このザマだ!」
ひときわ大きな声で怒鳴って藤子は足元に合ったスリッパを蹴飛ばした。
それが玄関の引き戸に当たって大きな音を立てる。
先ほど聞いた音だ。
ここでようやく、里見は先ほど、自分が母親に殴り飛ばされて引き戸に激突したのだと理解した。
脳の回転がようやく通常通りに回復し、脈打つような痛みがはっきりと感じられる。
そして、目の前で起こっていることも。
「お前の意見を聞いたのが失敗だった!結局長い時間かけて馬鹿みたいなことをして、こいつを甘やかしただけじゃないか!むしろ最近じゃ訳のわからないことばかりして、もっと悪化してる」
「もうやめろ!里見の前だぞ!」
「だからだろうが!お前だって食事中も修練中も寝る前もぐだぐだと言ってたくせに本人には何も言えないのか?嫌われるのが怖くて自分だけいい顔して、それでも父親か!」
「だからってお前のやり方はきつすぎるんだよ!嫌がることを強要される辛さお前が一番知ってるだろう!」
「うるさい、うるさい黙れ!」
最後のセリフで藤子が正継に蹴りを入れ、とうとう本格的に喧嘩が勃発してしまった。
いい年をした男女、しかも実の両親がつかみ合っている様子を見て、里見は戦慄した。
父と母が、争っている。
よりによって、私のせいで。
家族の交わりから外れて長いとはいえ、里見は父と母の仲の良さは知っていた。
母が道場の師範として門下生を教え、父が中で家事をしながら運営面を支える…役割分担も問題なく、夫婦としても経営者としても立派だ。
家の反対を押し切って結婚したと聞いたこともある。
喧嘩したところなど、見たこともなかった。
その両親が、自分のせいで。
周りに立っていた兄弟もまずいと感じたのか、慌てて二人を止めに入る。
紅蓮は藤子の肩に手を回して正継から引き離そうとし、氷河は側面から掴み合う腕を剥がそうとして…とばっちりで顔面に裏拳が当たって悶絶している。
里見のすぐ脇にいた疾風も青ざめた顔で兄の加勢に加わった。
ふと、里見の頭の中で声が聞こえた。
疾風に土下座を披露し、酔っぱらった氷河に絡まれたあの日の、紅蓮の言葉。
『本当に、お前の話になると面倒くさいことになるな。うちのはみんなそうだ。なんであんなに変な感じになるのか、俺にはよくわからん』
あれはきっと、このことを言っていた。
里見の思考が急速に沈み始めた。
見たくない、聞きたくないことをシャットアウトする、悪い癖が顔を出す。
目の前の修羅場とも言える状況が、まるで霧がかかったように遠のいていった。
里見はゆっくりと背中の引き戸に手を当て、位置を確認しながら横に体をずらす。
やがて端の方に行き着くと、音を立てないように体を外に滑り込ませた。
長年神経を尖らせてきたお蔭で、気配と音を消すのには慣れていた。
そのまま、早歩きでその場から離れる。
道路に出ると、日がもう沈みかけて紺色の空が広がり始めていた。