家を売り全財産を注ぎ込んで妻の起業を支えたのに、彼女は初恋の男のために俺の目を奪った
結婚記念日の朝、美沙から急に連絡が入った。投資家との打ち合わせが入ったから残業になる、予約していた映画には行けないという。
一人で街を歩き回ったものの、誰もいない家へ早く帰る気にはなれなかった。水鷺駅近くの劇場街を通りかかったとき、小さな劇場でお笑いライブの当日券が残っているのを見つけ、なんとなく一枚買った。
ライブの途中、ステージ上の芸人が客席とのやり取りを始めた。
「今日、恋人や旦那さんに内緒で来てる人います? 正直に手を挙げてくれたら、限定グッズ差し上げますよ」
最前列から、すぐに手が上がった。
「はい」
聞き間違えるはずのない声だった。顔を上げると、そこにいたのは妻の榎本美沙だった。
その隣には、知らない男が座っていた。背が高く、左の頬に薄い傷跡がある。美沙は笑いながら、スタッフから渡されたマイクを受け取った。
「今日は結婚記念日なんです。だから、本当に会いたい人と過ごしたくて」
客席から一斉に歓声が上がった。
芸人も一瞬だけ言葉に詰まったものの、すぐに隣の男へ視線を向けた。
「でも奥さん、その人が旦那さんじゃないって、どうやって証明するんです? かなりお似合いですけど」
あちこちから笑い声が響く。
後方の席から立ち上がった。椅子の脚が床を擦り、耳障りな音を立てる。近くの客が振り返り、何台ものスマートフォンがこちらへ向いた。
「証明できます」
俺を見た瞬間、美沙の顔から血の気が引いた。それでも自分では驚くほど、声は落ち着いていた。
「俺が夫ですから」
劇場の笑い声が止まった。
「この三年間の結婚記念日、美沙は一度も、本当に会いたい相手とは過ごしてなかったみたいですね」
1
美沙は座ったまま動かなかった。先に立ち上がったのは、隣の男だった。近くで見ると、座っていたときよりずっと威圧感があり、左の頬の傷は頬骨のあたりから耳の近くまで伸びていた。
周囲からひそひそ声が聞こえてくる。
「本物?」
「これ、演出じゃないよな?」
「旦那さん本人?」
最前列まで歩いていくと、美沙の手が反射的に男の袖をつかんだ。
その動きに足が止まりそうになった。三年間一緒に暮らしてきたが、俺の服をあんなふうにつかんだことは一度もない。
「美沙」
目の前で立ち止まった。
「映画、まだ間に合うよ。行く?」
美沙の唇が動いたものの、声は出なかった。代わりに隣の男が笑った。
「あんたが、美沙の言ってた“すごく真面目でいい人”って旦那さん?」
ただの一言だったのに、頬を平手打ちされたような気がした。
真面目で、誠実で、一緒にいると安心できる。美沙はいつも、そんなふうに俺を褒めていた。ずっと好意から出た言葉だと思っていたのに、男の口から聞いた途端、まるで違う意味に聞こえた。
ステージ上の芸人もさすがに異変を察したらしく、恐る恐る口を挟んだ。
「えっと……本当に旦那さんなんですか?」
美沙がようやく口を開いた。
「違います」
目を向けると、美沙は視線を逸らした。
「会社の知り合いです。そんなに親しくありません」
そんなに親しくない。
その言葉を聞いた瞬間、不思議なくらい頭が静かになった。
三年前、水鷺市役所に二人で婚姻届を出した。創業したばかりの頃は二十数平方メートルしかない狭い部屋で暮らし、両親が頭金を出してくれたマンションまで売って、そのほとんどを美沙の会社に注ぎ込んだ。
三年間の結婚生活は、美沙にとって「そんなに親しくない」の一言で片づけられるものだったらしい。
「先に帰って」
美沙が立ち上がり、腕をつかもうとした。
一歩下がって手を避ける。
「触らないで」
スタッフが客席へ下りてきた。これ以上、ここで見世物になるつもりはなかった。
背中に向けられるスマートフォンも、周囲の囁き声も無視して劇場を出た。冷たい風に当たってから、自分の手がずっと震えていたことに気づいた。
しばらく路上に立ち、スマートフォンを取り出した。
美沙へLINEを送る。
「離婚しよう」
数秒置いて、もう一通送った。
「会社も辞める」
2
その夜、家には帰らなかった。
向かったのは、ノヴァリンク株式会社だった。
会社を立ち上げた当初、美沙が経営と営業、資金調達を担当し、俺は技術面をほぼすべて引き受けた。最初のシステムも、最初の顧客も、その後会社の柱になった法人向けシステムも、二人で必死になって作ってきた。
マンションを売って用意した一千二百万円も、そのまま会社へ入れた。
創業当初から、美沙はずっと「今は資金繰りが厳しい」と言っていた。そのため俺の固定給は、ここ数年ずっと月二十八万円だった。
利益が出たら給料も上げるし、今までの分もきちんと払う。
何度もそう言われた。
けれど年末になると、決まって「まだ会社に余裕がない」と言われた。
俺も疑わなかった。
少しでも金を残すため、タクシーはほとんど使わなかった。電車で行けるところは電車で行き、近場の客先なら折り畳み自転車で向かった。
忙しい日は、コンビニのおにぎりとコーヒーだけで夕食を済ませた。開発が佳境に入った数か月は、明け方三時、四時までコードを書いていた。
視界に光が走ったり、黒い影が見えたりするようになっても、まともに休まなかった。この案件さえ終われば会社は安定する。そのあとなら、少しくらい休めると思っていた。
オフィスの明かりは深夜まで消えなかった。
十二時近くになって、美沙がやって来た。手にはレストランのテイクアウト用の袋を持っていた。
「やっぱりここにいた。なんで電話出ないの? 夕飯は?」
パソコンの前に座ったまま答えずにいると、美沙は袋を机に置き、隣のキャビネットを開けた。中から経費関係の書類を何枚か取り出し、内容も見ずにシュレッダーへ入れていく。
細かく裁断されていく紙を眺めながら、会社の金の流れが急に気になった。
「直樹、もうやめて。今は感情的になってる場合じゃないでしょう」
美沙が向かいに座る。
「今、大手企業と出資の話を進めてるの。システムが予定どおり稼働すれば、三億円の出資が決まる。そうしたらオフィスも広いところに移せるし、直樹の年収だって八百万に上げられる。必要なら社用車だって用意できる」
一度息をついた。
「今まで苦労させた分は、ちゃんと返すから」
「ほかに何を隠してる?」
美沙の動きが止まった。
「今は冷静じゃないでしょ。コーヒー淹れてくるから、少し落ち着いて話そう」
そう言って、給湯スペースへ向かった。
創業した頃は金がなく、社内システムの多くを俺と美沙で設定した。その名残で、俺の管理者権限はいまだに残っていた。
普段は技術関連しか触らない。けれど、その夜初めて経費データを開いた。
旅行費、高級ホテル、レストラン、リゾート施設の利用料が大量に並んでいた。その多くが「接待交際費」や「市場調査費」として処理されている。
日付を見れば、すぐに分かった。
どの日も、美沙は俺に「地方の取引先へ行く」と言っていた。
さらに画面を確認していくうち、美沙のLINEがオフィスのパソコンにログインしたままになっていることに気づいた。
見るべきではないとは思った。
それでも、劇場であれだけのことを見たあとでは、ためらいは長く続かなかった。
美沙のLINEでは、俺の表示名が「いい人」に変えられていた。
その上には、亮介とのトークが固定されていた。
開くと、トーク内のアルバムに何枚もの写真が残っていた。白帆海岸、温泉旅館、キャンプ場、ホテルのテラス。二人は何度も一緒に出かけていた。
真壁亮介。
劇場で美沙の隣にいた男だった。
去年の秋の写真もあった。
その頃、俺は右目の視界がおかしくなり、水鷺市中央医療センターに入院していた。網膜の状態がよくないから、仕事を休んで検査を受けるようにと医師から言われていた。
目を開けているのもつらい日に、美沙へ何度も電話した。一度も出なかった。
ようやく届いた返信は短かった。
「取引先と一緒にいるの。病気の話を私にされても困るよ。医者じゃないんだから」
結局、一人で退院手続きを済ませた。そのまま会社へ戻り、三日間ほとんど寝ずにシステム障害を直した。
同じ頃、美沙は亮介と白帆海岸にいた。
写真の中で、美沙は砂浜に座り、亮介にもたれて笑っていた。あんなに力の抜けた顔を、最近の俺は見たことがなかった。
しばらく写真を眺めたあと、会社の電話を取った。
真壁亮介の番号を押した。
3
すぐにつながった。
「もしもし、美沙?」
受話器を握る手に力が入る。
「美沙が結婚してるって、知ってますか?」
向こうが黙った。
ちょうどそのとき、美沙がコーヒーを持って戻ってきた。俺が電話していることに気づき、表示された番号を見た瞬間、顔色が変わる。
駆け寄ってきて、通話を切った。
「何してるの?」
カップからコーヒーが少しこぼれた。
立ち上がる。
「何年も隠れて付き合ってた男に電話一本かけただけで、そんな顔するんだ?」
美沙は答えない。
「教えてよ。俺は何だった?」
電話が再び鳴った。
亮介からだった。
美沙は画面を見つめたまま動かなかったので、俺がスピーカーを押した。
「誰だ?」
亮介のほうから先に聞いてきた。
思わず笑ってしまった。
「人の妻と何年も付き合っておいて、俺が誰か分からないんですか?」
数秒の沈黙のあと、向こうから笑い声が聞こえた。
「結婚してるのは知ってるよ」
胸の奥が強く締めつけられた。
「でも、俺と美沙が高校の頃から付き合ってたことは知らないだろ?」
黙っていると、亮介は続けた。
「俺が美沙の初恋だし、最初に結婚したいと思った相手も俺だよ」
美沙を見る。
否定しなかった。
「別れたつもりなんてなかった。ちょっと事情があって、俺がそばにいられなかっただけだ」
亮介の声は妙に落ち着いていた。
「あなたは戸籍上の夫ってだけでしょ。それ以外に何があるの?」
耳鳴りがした。
劇場で聞いた「親しくない」という言葉が、やけにすんなり腑に落ちた。
二人にとっては、後から現れた人間が俺だったのだろう。
「どうして?」
声がうまく出なかった。
「美沙、どうして?」
美沙は通話を切り、受話器を置いた。一度窓のほうを見て、それから俯く。
長い沈黙のあと、ようやく口を開いた。
「高校の頃から、亮介と付き合ってた」
そのまま聞いた。
「弟を助けようとして喧嘩になって、相手に大怪我をさせたの。それで何年か服役することになった」
声が小さくなる。
「入る前に、待ってるって約束した」
何も言えなかった。
「そのあと一人で水鷺に出てきて……直樹と出会った」
出会った頃の美沙を思い出した。
いつも何かに追われるように働いていた。会社を作りたいと言った彼女を、応援したいと思った。
結婚式に使う金も惜しくて、式は挙げなかった。両親が頭金を出してくれたマンションも売り、その金を会社へ入れた。
あの日、美沙は俺を抱き締めて言った。
何があっても信じ合おう。嘘はつかないし、裏切らない。
今でも覚えている。
「直樹は、本当に優しかった」
美沙が息を吸った。
「ずっとよくしてくれたし、騙したことは悪かったと思ってる」
一度言葉を止める。
「何とも思ってなかったわけじゃない。感謝してるし、大切にも思ってた」
感謝している。
大切に思っている。
そこまで言っても、美沙の口から「愛している」という言葉だけは出なかった。
「亮介が二年前に出てきて、また会うようになった」
美沙はしばらく黙ってから続けた。
「でも、会社は別でしょう。ノヴァリンクは二人で作った会社だよ」
「別?」
「今の案件、もうすぐ終わるの。出資もあと一歩なんだよ」
少し近づいてくる。
「あと数日だけ待って。全部終われば、今までみたいに苦労しなくて済む」
一歩下がった。
「亮介のことは家には持ち込まない。夫婦としての生活も、会社も、今までどおりでいいじゃない」
その言葉を聞いた瞬間、机の上のファイルスタンドをつかんだ。
モニターへ叩きつける。
画面にひびが走った。
4
机の上にあったものを、手当たり次第に投げた。
美沙は止めなかった。
ひび割れた画面越しに彼女の顔を見ていると、知らない女を見ているような気分になった。三年も一緒に暮らしていたのに、目の前にいる人間がひどく遠く感じた。
「出てって」
声は掠れていた。
「もう俺のものに触らないで。俺たちとか、二人とか、そういう言い方もやめて」
美沙は眉間を押さえた。申し訳なさより、疲れたという顔に見えた。
スマートフォンを取り出して何か操作すると、すぐに二百万円が振り込まれた。
「今は冷静になれないと思う。このお金は持ってて。しばらく家には帰らないから、少し時間を置こう」
振込元を確認した。
会社の運転資金口座だった。
そこには、俺がマンションを売って出した金も入っていた。その金で俺をなだめるつもりらしい。
美沙は出口まで行き、足を止めた。
「案件だけは予定どおり終わらせて。直樹にはできる限り補償する」
振り返らずに続ける。
「それと、亮介にはもう連絡しないで。私たちのことにも関わらないでほしい」
ドアが閉まった。
そのまま一人で朝までオフィスにいた。
午前五時を過ぎた頃、美沙がInstagramを更新した。
ほとんど投稿しない人だった。
そこに写っていたのは、豚の角煮だった。何度も食べたいと言ったのに、そのたび「忙しい」と言われていた料理。
横には二つのマグカップが置かれていた。
「MISA」と「RYOSUKE」。
投稿文は短かった。
「もう隠れなくていい」
数分後、LINEも届いた。
「亮介は劇場の件をもう気にしてないって。直樹も意地張らないで。目だって悪いんでしょ? 今月から別に五万円振り込む。案件が無事終わったら、百万円も出すから」
最後まで読んで、そのまま通知を切った。
翌朝、以前診てもらった眼科へ連絡した。症状が悪化していると伝えると、すぐに来るよう言われた。
検査の結果、これ以上は延ばせないと言われ、そのまま手術の日程が決まった。
手術自体は大きな問題なく終わった。
数日後、経過観察の診察を受けたあと、外来フロアで薬を待っていた。右目にはまだ保護用の眼帯をしていた。
目の前に誰かが立った。
顔を上げる。
美沙と亮介だった。
亮介が先に笑った。
「本当に手術したんだ」
少し身をかがめる。
「俺、むしろあんたには感謝してるよ」
美沙が眉をひそめた。
「亮介」
「俺が美沙の弟を助けようとして刑務所に入ってなかったら、あんたが美沙と結婚することもなかっただろ?」
美沙が腕を引いた。
「病院でそういう話やめて」
「別にいいだろ」
亮介は手を振り払った。
「あとから来たのは、この人なんだから」
相手をする気はなかった。椅子から立ち上がり、薬を受け取りに行こうとした。
亮介が前に回り込む。
「三十二歳だっけ?」
顔を上げた。
「親に頭金を出してもらったマンションまで売って、美沙の会社に入れたんだろ?」
「それが?」
「いや、すごいと思って」
口元を歪めた。
「何年も頑張って、最後は会社も案件もほかの人間に残すんだから」
5
ちょうど看護師に名前を呼ばれた。
それ以上相手にせず、横を通り過ぎる。
亮介はすぐについてきた。
「最後の権限、渡してくれない?」
足を止めた。
ノヴァリンクの主力システムは、創業前に俺が作った基盤を元にしている。会社設立時の契約では、ノヴァリンクは既存案件でその基盤を利用し、必要な改修もできることになっていた。
ただし、新しい顧客への再許諾や独占利用には、俺の同意が必要だった。
美沙もその契約書に署名している。
「二百万出す」
亮介が言った。
「新しい契約に必要なサインだけしてよ。これ以上揉めても、お互い得しないだろ?」
歩き出した。
「いらない」
「少ない?」
「会社も案件も、好きにすればいい」
右目の奥が脈打つように痛み、壁に手をついた。
「その代わり、もう俺の前に出てこないでくれ」
亮介の顔が赤くなった。
「何年も作ってきたものを簡単に捨てて、格好つけてるつもり?」
無視して歩く。
腕をつかまれた。
「親は知ってるの? せっかく買ってくれたマンション売って、最後がこれだって」
握る力が強くなる。
「自分の息子がこんな馬鹿なことしてるって知ったら――」
振り返った。
「黙れ」
亮介はむしろ楽しそうに笑った。
「親のこと言われると怒るんだ?」
次の瞬間、手が飛んできた。
術後の右目のすぐ近くをまともに打たれた。
視界が真っ白になった。
痛みを感じたのは数秒後だった。眼窩の奥から後頭部まで、一気に焼けるような痛みが走り、生温かいものが頬を伝った。
気づいたときには亮介へ飛びかかっていた。
揉み合いながら階段のそばまで移動し、亮介の襟元をつかむ。上半身の半分が手すりの向こうへ出ていた。
後ろから腕を回された。
美沙だった。
「直樹! やめて!」
「離せ!」
息ができない。
「先に殴ったのはこいつだろ! 見えてないのか!」
血が顎まで流れていた。それでも美沙は離さなかった。
亮介が体勢を立て直し、何度も拳を振り下ろしてきた。頭や肩、脇腹に衝撃が続き、途中からどこを殴られているのかも分からなくなった。
最後まで、美沙の名前を呼んでいた気がする。
そのあとの記憶はない。
目を覚ますと、病室のベッドだった。
病院側がすぐ警察に連絡してくれていたらしく、後から警察官も事情を聞きに来た。亮介側の弁護士から示談の申し出もあったが、応じなかった。
診断書も、警察の記録も残った。
スマートフォンには、美沙から何十件も連絡が来ていた。
百万円の振り込み。
それから謝罪。
「亮介も頭に血が上ってたの。本人も反省してる。直樹、怒るなら私にして。お願いだから、もう亮介とは争わないで」
案件が終わったら三百万円を払う。
1LDKの部屋も用意する。
亮介とは距離を置く。
目が落ち着くまで世話をする。
そんなことが延々と書かれていた。
一通も返さなかった。
医師から、手術直後の右目に強い外傷が加わり、眼球そのものを保存できない状態だと説明された。このままでは感染の危険もあるという。
同意書に署名した。
数日後、右眼球を摘出した。
義眼を入れられるのは、傷が落ち着いてからだった。
ベッドに横になったまま、美沙から届いたメッセージを一つずつ消した。
怒る気力さえ残っていなかった。
6
案件の最終契約日、会社へ行った。
会議室はきれいに整えられていた。
美沙は、俺が結局折れると思っていたらしい。机の上には新しい補償案と振込関連の書類、それに俺のために探したというマンションの資料まで用意されていた。
入るなり、美沙が立ち上がった。
「直樹。今日、ちゃんと契約まで終われば、ほかの条件は全部話し合うから」
サングラスを外した。
美沙の声が止まった。
まだ義眼は入っていない。
右目を見た瞬間、彼女の顔から血の気が引いた。
「目……」
「残せなかった」
もう一度サングラスをかける。
「摘出したよ」
美沙が手を伸ばしたので、身体を引いた。
そのとき会議室のドアが勢いよく開いた。
亮介が入ってきた。
「向こうの法務、もう待ってるんだけど。いつまでかかるの?」
俺を見る。
「必要なサイン、いつする?」
「しない」
亮介が固まった。
美沙もこちらを見る。
「直樹、保守は引き渡すって言ってたでしょう?」
「保守はできる」
美沙を見返した。
「今の顧客への対応もできる。でも、新規顧客への再許諾と独占利用には俺の同意がいる」
美沙の唇から色が消えていく。
「契約書にサインしたの、美沙だろ」
返事はなかった。
「何があっても、最後は俺が何とかすると思ってたんだよね」
外では人の出入りが慌ただしくなっていた。美沙のスマートフォンも、ひっきりなしに鳴っている。
亮介が美沙の腕をつかんだ。
「直樹なら言えばやるって言っただろ! 三億の出資、どうするんだよ!」
「私に怒鳴ったってどうにもならないでしょ!」
美沙が振り払った。
亮介の手が上がった。
乾いた音が会議室に響く。
美沙は頬を押さえ、しばらく立ち尽くした。それから俺を見た。
「直樹」
涙が落ちた。
「会社は二人で作ったんだよ。こんな形で終わらせるの?」
黙っていると、美沙はさらに続けた。
「お金なら払う。条件も直樹が決めていい」
「マンション売って、金を全部渡したとき、俺が何て言ったか覚えてる?」
美沙は答えなかった。
「大きな家なんていらないし、金持ちになれなくてもいいって言った」
立ち上がる。
「美沙と普通に暮らせれば、それでよかった」
スマートフォンの振動音だけが続いている。
「それを手放したのは、美沙だよ」
会議室を出た。
すぐに後ろから怒鳴り声や物が割れる音が聞こえたが、確かめる気にはならなかった。
会社を出てしばらくすると、取引銀行から電話が来た。
以前、案件の技術責任者として融資資料にも連絡先が載っていたらしい。ノヴァリンクの企業向け融資が返済期限を迎えることと、会社の財務状況が急激に悪化していることを告げられ、案件の状況を確認したいと言われた。
「もう案件からは外れています。今後のことは代表取締役の榎本美沙へお願いします」
それだけ伝えて切った。
駅近くのベンチへ座り、昔から付き合いのあるシステム開発会社の知人へ電話した。
「前に聞かれた業務支援システムの件、まだ必要?」
電話の向こうが一瞬静かになった。
「やってくれるの?」
「やる。ただし作り直す。三か月あれば出せる」
相手が笑った。
「ずっとその返事待ってた」
その夜、小さなワンルームを借りた。
創業前に作った基盤システムの独立版は、自分の手元に合法的に残っていた。弁護士にも確認したが、それはノヴァリンクが顧客向けに開発したコードとは別の資産だった。
その古い基盤と設計資料を元に、新しく環境を作った。必要なところではAIツールも使った。
左目が疲れたら休み、痛ければ薬をさす。腹が減ればコンビニでパンやおにぎりを買った。
一週間ほどで、中心部分は動くところまで戻った。
以前より速かった。
同じ頃、美沙とは弁護士を通して離婚条件について話し合っていた。
亮介への高額な民事請求は別途求めないことにしたが、警察や病院に残った記録を取り下げるつもりはなかった。婚姻関係の整理や財産、会社へ入れた資金については、それぞれ弁護士に任せることにした。
条件自体はまとまりかけていた。
残るのは手続きだけだと思っていたが、美沙は途中で考えを変えた。
7
作り直した企業向けシステムを業界プラットフォームへ掲載した。価格は、ノヴァリンクが提示していた額のおよそ三分の一だった。
その日のうちに三社から問い合わせが来た。
その中に、もともとノヴァリンクへ出資を検討していた大手上場企業――アルクス技研株式会社があった。
技術責任者から直接電話が入った。
「榎本さん、このシステム、本当にあなたが作ったものですか?」
「はい」
「ノヴァリンクからは、社内チームが中心になって開発したと説明を受けていました」
一度言葉を切る。
「最終契約の段階で、基盤部分の権利関係が確認できなくなりまして」
過去の事情は話さず、テスト環境だけ送った。
三十分もしないうちに、もう一度電話が来た。
翌日、アルクスへ行った。
会議室には技術責任者、事業責任者、法務担当が並んでいた。何度か条件を詰めた末、新しく作り直した法人向けシステムについて、四千二百万円で独占ライセンス契約を結ぶことになった。
同時に、技術責任者としての入社も打診された。
年収は一千四百万円からで、業績賞与と株式報酬もつく。
数日後、正式に契約した。
金が入ったあと、最初に病院へ行った。傷は順調に回復していて、しばらくすれば義眼を入れられるという。
病院を出ると、入口近くの階段に美沙が座っていた。
髪は乱れ、頬にはまだ痣が残っていた。俺を見つけるなり立ち上がる。
「直樹!」
伸ばされた手を避けた。
「ずっと探してた」
泣きすぎたのか、声が掠れていた。
「亮介が会社の金を持っていったの。外でも借金してたみたいで、今どこにいるかも分からない」
一気に喋ったあと、息を吸う。
「毎日会社に人が来る。父も母も体調を崩したし、弟も私に会ってくれない」
また手を伸ばしてきたので、一歩下がった。
「お願い、助けて。今までのことを考えて――」
「今まで?」
言葉を遮った。
「手術したばかりの目を殴られて、顔中血だらけになってた俺を、美沙が後ろから押さえてたときは?」
美沙の身体が固まった。
「俺が一人で病院にいて、何日も会社に泊まり込んでたとき、美沙は亮介と白帆海岸にいたよね」
涙が頬を伝っていく。
「劇場でも言っただろ」
目を合わせた。
「俺たち、親しくないんだろ?」
美沙は階段に座り込み、それ以上何も言えなくなった。
通りがかりの人がこちらを見る。
その場を離れた。
病院のあと、不動産会社へ行った。
青嶺町に住む両親のため、3LDKのマンションを現金で購入した。名義は両親にした。
父は書類を受け取ったあと、長いあいだ黙っていた。母の手は震えていた。
「自分の家を売ったとき、私たち……本当に心配してたのよ」
母を抱き締めた。
「俺が一人の人を信じすぎたんだ」
少し間を置く。
「もう同じことはしないよ」
その晩、ノヴァリンクに残っていた元社員から連絡が来た。
会社は事実上、営業を停止していた。売れる備品はほとんど処分したものの、融資や未払い金を埋めるには足りず、オフィスにも破産手続きに関する通知が出たらしい。
亮介は地下賭博や借金絡みでかなり追い詰められていたという。白帆駅近くで見かけた人によると、左脚をひどく怪我していたらしいが、詳しいことまでは聞かなかった。
電話を切ると、そのままパソコンを開き、自分のシステムの改良作業に戻った。
8
一度は条件がまとまりかけていた離婚についても、美沙は正式な手続きを進めなくなった。
弁護士が何度連絡しても、返事は同じだった。
「まだ決められない」
最終的に、家庭裁判所へ家事調停を申し立てた。
調停でも話はまとまらず、その後、離婚訴訟へ進んだ。
美沙は離婚を拒んだが、長期間にわたる不貞関係や会社資金の私的利用について、納得できる説明はできなかった。
こちらにはLINEの履歴、旅行記録、経費資料、会社資金の利用記録が残っていた。
訴訟になってから、美沙本人はほとんど姿を見せず、代理人だけが出廷した。
最終的に離婚は認められた。
慰謝料と夫婦の財産清算は離婚手続きの中で処理し、会社へ入れた資金や未払い報酬については別途弁護士を通して請求することになった。
離婚と財産清算で、美沙が支払う金額は合計二千万円近くになった。
判決の翌日、美沙がマンション近くで待っていた。
手には小さな果物ナイフがあった。
「そんなに私を追い詰めたいの?」
以前とは別人のように痩せていた。
「こんなお金、どこから払えばいいの?」
距離を取ると、マンションの警備員がすぐに駆けつけ、美沙からナイフを取り上げた。
「裁判所が決めたことだ」
数メートル離れた場所から言った。
「納得できないなら、法的に手続きを取ればいい。もう俺のところには来ないで」
美沙が笑った。
そのまま泣き始めた。
「どうして私ばっかりこんな目に遭うの? 亮介はいなくなるし、会社もなくなった。親にも見放されて、今度は直樹まで……」
少しのあいだ見ていた。
「亮介を選んだのも、会社の金を使ったのも美沙だろ」
声を荒らげる気にはならなかった。
「俺に言われても、もうどうにもできないよ」
それ以上は話さず、その場を離れた。
9
離婚が正式に成立して半年ほど経った頃には、アルクスでの仕事も落ち着いていた。
藤森紗季と付き合い始めたのも、その頃だった。紗季は人事部にいて、俺がアルクスへ入社したときの手続きを担当してくれた。右目が義眼であることも、前の結婚で何があったのかも知っている。
初めて二人で食事をしたのは、紗季が残業していた日だった。俺もちょうどシステムテストが終わったばかりで、それから少しずつ、金曜の夜に一緒に夕飯を食べることが増えた。
復診の日を覚えてくれていたり、オフィスの照明が眩しいときには席を変えてくれたりした。紗季といると、相手が何を考えているのか、いちいち探らなくてよかった。
交際して一年ほど経った頃、結婚することを決めた。
両家への報告を兼ねた食事会を半月後に控えたある日、美沙がアルクスへ現れた。
オフィスまでは入れず、一階ロビーで待っていたらしい。ちょうど退勤時刻で、周りには同僚も大勢いた。
俺を見つけた美沙は、突然その場に膝をついた。
「直樹、私が悪かった」
ロビーにいた人たちがこちらを見る。
「もう一度やり直せない? 亮介には二度と会わない。今度こそちゃんと直樹と暮らす」
受付が人事と警備に連絡した。
美沙は構わず続けた。
「前に直樹が欲しがってたこと、全部するから」
美沙の前に立った。
「もう終わった?」
顔を上げる。
「俺、結婚する人がいる」
目を見開いた。
「嘘」
すぐに涙が落ちた。
「前はあんなに私のこと好きだったじゃない。なんで、もう別の人を好きになれるの?」
「もう終わったんだよ、美沙」
それだけ答えた。
警備員が美沙を連れていった。最後まで俺の名前を呼んでいたが、そのまま仕事へ戻った。
夜、会社を出ると紗季が待っていた。手には、眩しさを抑えられるという新しいデスクライトの箱を持っていた。
「今日、誰か来たって聞いた」
「うん」
「話したい?」
「話す」
歩きながら、起きたことを全部話した。
紗季は黙って聞いたあと、俺の手を軽く握った。
「また来たら、一人で対応しないで」
食事へ向かおうとしたところで、道路脇から人影が出てきた。
亮介だった。
左脚はまだ悪いらしく、杖をついている。顔にも以前なかった傷が増えていた。
「ずいぶんうまくやってるみたいだな」
俺を見たあと、紗季へ視線を移す。
「美沙、俺に金返してないんだよ。元旦那なら払ってくれる?」
眉をひそめた。
「もう離婚してる」
「だから何?」
亮介は笑った。
「今は大企業の技術責任者なんだって? 俺が毎日会社の前に来たら困るよな」
紗季が口を開きかけたので、少し前へ出た。
「やってみればいい」
亮介を見る。
「病院で俺を殴った件、診断書も警察の記録も残ってる。これ以上つきまとえば警察に相談する」
亮介の表情が変わった。
そのとき、ポケットのスマートフォンが鳴った。
画面を見た途端、亮介の顔から余裕が消えた。
少し離れた歩道には、さっきからこちらを気にしている男が二人いた。亮介は舌打ちすると、俺たちから離れていった。
紗季が手を引いた。
「行こう」
少し歩いてから、笑う。
「今日、鍋食べたいって言ってたでしょ?」
そのまま二人で店へ向かった。
10
それから二週間ほど経った。
食事会の前日、警察から連絡があった。
美沙と亮介が金のことで揉め、激しい喧嘩になったらしい。亮介が自分の借金を返すために金を出すよう迫り、二人とも手が出た。
最終的に、美沙が金属製の物で亮介を殴り、まだ無事だったほうの脚まで大怪我をさせたという。
以前の病院での事件も三人に関係しているため、追加で事情を聞きたいと言われた。
警察署で話を終えたあと、担当の警察官から、美沙が俺との面会を希望していると聞いた。面会は可能だが、断ってそのまま帰っても構わないという。
少し迷い、十分だけ会うことにした。
美沙は留置施設の面会室にいた。
髪は短く切られ、顔には引っかき傷が残っている。俺を見ると、すぐに泣き始めた。
「直樹、本当に悪かったと思ってる」
黙って座った。
「亮介に金を出せって言われたの。嫌だって言ったら殴られて……」
声を詰まらせる。
「私、本当にあんな怪我させるつもりじゃなかった」
こちらを見る。
「助けてくれない? 刑務所には行きたくない」
首を横に振った。
「俺には何もできない」
「でも――」
「自分でやったことなら、自分で向き合うしかない」
立ち上がった。
「それと、明日、婚約の食事会がある」
美沙の顔が固まった。
「もう俺を探さないで」
突然立ち上がる。
「嫌!」
警察官がすぐに動いた。
「直樹はほかの人と結婚しちゃだめ! 私のこと一生好きだって言ったじゃない!」
何度も名前を呼ばれたが、そのまま面会室を出た。
警察署を出ると、小雨が降っていた。
紗季から電話が来た。
「雨、強くなってない?」
「少し」
「じゃあ運転気をつけて。スープ作ってるから、帰った頃にはちょうどいいと思う」
電話を切り、車に乗り込んだ。
エンジンをかける前に、しばらく座っていた。
気づくと、涙が落ちていた。
苦しいわけではなかった。
あの頃の生活が、ずいぶん遠く感じられた。
翌日の食事会は、小さなものにした。
双方の両親と、親しい友人、それから昔一緒に働いていた人を何人か呼び、婚約の報告を兼ねて皆で食事をするだけだった。
途中で店のスタッフが俺を呼びに来た。
「外でお待ちの方がいらっしゃいます」
出てみると、美沙の母親が立っていた。
髪はほとんど白くなっている。
俺を見るなり、深く頭を下げた。
「直樹さん、本当にごめんなさい」
黙って聞いた。
「亮介さんのところ、こちらから連絡しても全然話を聞いてもらえなくて……」
母親は鞄から通帳を取り出した。
「私たち夫婦の貯金をかき集めれば、五百万円までは用意できます」
手が震えていた。
「こんなお願いをするのが間違ってるのは分かっています。でも、もうどうしたらいいか……」
一度言葉を止める。
「前に亮介さん側の弁護士とやり取りしていたでしょう? もし連絡先が残っていたら、教えてもらえませんか」
「その話は、美沙の弁護士に任せてください」
母親が俯く。
「俺から亮介に関わることは、もうありません」
少し間を置いた。
「そのお金は、ご自分たちのために残しておいたほうがいいと思います」
それ以上は話さず、店へ戻った。
入口に紗季がいた。
何があったかは聞かなかった。ただ、手を握ってきた。
「戻ろう」
頷いた。
席へ戻ると、両親と友人たちが楽しそうに話していた。グラスが触れ合う音がする。
俺も席につき、ゆっくり酒を一口飲んだ。
11
美沙はその後、傷害罪などで三年の実刑判決を受けた。
亮介も、傷害や恐喝、違法賭博に関わった件、会社資金を持ち出した件などで責任を問われ、最終的に七年以上の刑になった。
そうした話は、弁護士や元同僚から後になって聞いた。
こちらから詳しく調べることはなかった。
その年の暮れ、紗季と結婚した。
結婚してからもアルクスでの仕事は順調で、担当した法人向けシステムがいくつか業界賞を取った。収入も入社した頃より増えた。
両親は青嶺町の新居で暮らしている。父は花を育て始め、母は地域のダンス教室へ通うようになった。
以前は電話するたび「ちゃんと食べてる?」と聞かれていたが、最近は「仕事ばかりしてないで、たまには紗季さんと一緒に帰ってきなさい」と怒られる。
紗季も人事マネージャーへ昇進した。
それから三年あまりが過ぎた、ある日の仕事帰り。
マンションの近くで、久しぶりに美沙を見かけた。
出所したあとだった。
記憶にある姿よりずっと老けて見えた。髪には白いものがかなり混じり、服も古い。手には仕事帰りらしい簡素なバッグを持っていた。
俺を見つけても、すぐには近づいてこなかった。
しばらくその場に立ったあと、ゆっくり歩いてくる。
「直樹、久しぶり」
声は少し掠れていた。
軽く頷き、そのまま通り過ぎようとした。
「待って」
美沙がバッグから皺のついた封筒を取り出した。
「五万円入ってる」
受け取らなかった。
「最近、短期の仕事をして貯めたの」
美沙が封筒を見下ろす。
「裁判で決まった金額なんて、すぐには払えないけど……まず少しだけ」
「いらない」
美沙が顔を上げた。
「もう追うつもりはない」
「でも――」
「自分で使って」
少し間を置いた。
「これからは自分の生活を立て直せばいい。俺のところにはもう来ないで」
美沙の横を通り過ぎた。
数歩進んだところで、背後から呼ばれた。
「直樹」
足を止めた。
振り返らなかった。
「もし……」
美沙の声は小さかった。
「もし私が、亮介ともう一度会わなかったら……私たち、うまくやれてたのかな」
しばらく黙っていた。
「もう、そんなことは考えないよ」
それだけ答えた。
そのまま歩き出した。
家のドアを開けると、角煮の匂いがした。
「ただいま」
キッチンから紗季が顔を出した。
「おかえり」




