第50話: 七年目の秋
蹄の音が一つ、遠くから届いた。
体が反射的に強張って——それから、力が抜けた。一頭だけの馬に、身構える理由はもうない。
鎌を持つ手を止め、音の来る方を見た。柵の外に、旗も槍も見当たらなかった。
季節ごとに、朝を起こす音は違う。七年目の春は霜の音だった。今は、乾いた葉が枝を離れる音だ。同じ小屋、同じ寝床なのに、運んでくる音が毎回違う。
麦の穂は、頭を垂れるほど重たく実っていた。刃を入れると、まとまって倒れてくる。七年分の実りの中で、今年がいちばんよく育っている、とソルが言っていた。
風は、もう夏の湿り気を持っていない。踏み固められていた柵の外の地面にも、少しずつ草が戻り始めている。静けさの種類が、少しずつ変わっていく。
馬の足音は、柵の手前で止まった。
「――ヴェイラの庭の、番人殿」
若い声だった。馬から降りた男は、旅装の埃を払いながら柵の前に立った。手綱を引く馬の首筋に、汗の筋が幾つも光っていた。剣は帯びていたが、鞘に収めたままだった。腰を低く折る仕草に、礼儀正しさがにじんでいた。
「わたしです」
「王都より、お届け物です」
男は鞍の脇の小さな木箱を降ろし、両手で差し出した。蓋には、見覚えのある封蝋が施されている。カレルが使っていたものと同じ印だった。
「エドウィン・カレル様より、必ずお渡しするようにと」
箱を受け取ると、思っていたより軽かった。
「開けても?」
「お好きなように。中身は、あなたのものです」
蓋を開けると、丸められた紙が一巻き入っていた。あの日、柵の外で読み上げられた条約の写しだと、すぐにわかった。開かずに、そっと蓋を戻した。
「読まれないのですか」
「今は」
それだけ答えた。噓ではなかった。あの日、柵の外で交わした言葉は、もう覚えている。紙より先に、声の方がずっと前に届いていた。
男は、それ以上尋ねなかった。柵の内側を一度だけそっと覗き込む。恐れの目ではなかった。初めて見る景色に、素直に驚いているような目だった。
馬に乗り直す前に、もう一度だけこちらを見た。
「――噂に聞いていたより、静かな場所です」
「そうですか」
短く、そう答えた。他に付け足す言葉は浮かばなかった。静かなのは、ずっと前からだった。
男はそれ以上何も言わず、一礼した。
「達者で」
カレルと同じ言葉を、この男も口にした。教えられたのかもしれない。
蹄の音が遠ざかっていく。今度は、体は強張らなかった。柵の外を見送ってから、また鎌を手に取った。
小屋に戻り、木箱を棚の上に置いた。指先を離す瞬間、板の上で立てた音は、思っていたよりずっと小さかった。
棚には、七年間で増えたものが並んでいる。ソルの種袋、シアの貝殻、カルの小石。王都の印がついたその箱は、隣に転がる小石ひとつよりも、軽かった。木箱は、その中に紛れ込むように収まった。特別にする必要は、もうなかった。
午後、畑に戻るとソルが畝の間にしゃがんでいた。
「東は、終わったか」
「東の畝だけ、残っています」
「手伝う」
ソルは短くそう言うと、鎌を持ち直した。二人並んで刈り進めると、束ねる速さが自然と揃っていく。七年かけて覚えた呼吸だった。
「今年は、蓄えが多い」
「多いんですか」
「冬を越すには十分すぎるくらいだ」
ソルの声に、珍しく満足そうな響きがあった。
「――昔は、これだけの畝を一人で刈っていたな」
その一言に、少しだけ手が止まった。最初の年、種の蒔き方も知らずに土を掘り返して、ソルに何度も呆れられたことを思い出す。
「教えてもらいましたから」
「教えたのは、最初の一年だけだ。あとは、お前が自分で覚えた」
それだけ言うと、ソルはまた土に目を戻した。褒め言葉には聞こえない口調だったが、そう受け取ることにした。
鎌の音だけが、しばらく畝の間を行き来した。
「霜が降りたら、根菜を掘る」
「わかりました」
「その前に、貯蔵穴を直しておけ」
「直します」
ソルは懐から小さな布袋を取り出し、こちらへ差し出した。
「新しい種だ。北の岩場で見つけた」
「育つんですか」
「わからない。だから、育てる」
「――そうですね」
布袋を受け取ると、乾いた種の重みが手のひらに伝わった。来年の畑の形が、まだどこにもないまま、そこにあった。
言葉は少ないが、やることは多い。冬支度は、庭では都よりずっと具体的だった。
貯蔵穴の蓋を直していると、茂みの奥で赤い光が一度、強く瞬いた。
「まだ穴、直してねえのかよ」
「今、直しています」
「遅い。霜はもうすぐだぞ」
カルはそう言うわりに、こちらの手元をじっと見ていた。板の継ぎ目に苦戦していると、光がふっと近づいてくる。
「――そこ、そう組むと歪む」
言われた通りに組み直すと、確かに蓋がぴたりと収まった。
「ありがとうございます」
「別に、お前のためじゃねえ。歪んだ蓋から冷気が漏れると、庭全体が冷える」
それだけ言うと、光はまた茂みの奥へ引っ込みかけて、途中で止まった。
「――今年の冬は、あったかくしてろよ」
「はい」
言い捨てるように早口だった。何かの続きがありそうな間があったが、それきり光は茂みの奥へ消えた。
素直じゃないところは、七年経っても変わらない。でも、蓋はちゃんと直った。
夕方近く、木立の際を通ると、風もないのに葉が一枚、頭上で回るように落ちてきた。
「エル」
声をかけると、答えはすぐに返ってきた。
「聞こえている」
「今年は、実りが多いそうです」
「知っている。この庭が、知らないはずがない」
いつもの返し方だった。少し笑いそうになる。
「軍のことも都のことも、もう何も聞こえてこないんですか」
「聞こえてはいる。だが、もう庭を揺らすほどのものはない」
風が一度、木立を通り抜けた。葉擦れの音が、いつもよりやわらかく聞こえた。
「――あなたは、変わったな」
唐突にそう言われて、少し戸惑った。
「どこがですか」
「足音だ。七年前は、逃げるような足音だった。今は、ここに立つための足音になっている」
「――そうですか」
それ以上、エルは続けなかった。木立の奥へ、気配だけがゆっくり引いていった。
残された葉を拾って、掌の上でしばらく転がした。逃げるための足音と、立つための足音。その違いを、自分では今でもうまく言葉にできない。
水路沿いを歩いていると、光が足元に寄ってきた。
「リナ、見て」
シアの声が弾んでいた。指す方向に目をやると、丘の斜面が赤く染まっていた。
庭の紅葉は、都の何倍も早く、何倍も鮮やかに来る。楓の葉が幾重にも重なって、夕陽の中で燃えているように見えた。
「毎年、これくらい赤くなるの?」
「毎年です」
「去年も見た?」
「見ました」
「覚えてる?」
少し考えた。去年の紅葉と、今年の紅葉。同じ場所で、同じ色のはずなのに、思い出せる形が違う気がする。
「――覚えていません。でも、今年のことは覚えます」
シアは、それで満足したように水面を揺らした。
丘の斜面に並んで座った。シアの光が、隣でゆっくり明滅している。
風が一枚、葉を運んできて、膝の上に落とした。赤く色づいた楓の葉だった。
七年の記憶は、駆け足で過ぎていった気がする。凍える指先に触れた最初の温もり。土を這うようにして覚えた種の蒔き方。初めて名前を呼んだ精霊の声。刃を向けられた朝と、剣を抜かれなかった朝。全部、今日という日の下に積み重なっている。
「リナ、都のこと、考えてる?」
「――いいえ」
「昔は、毎日考えてた?」
「毎日、考えていました」
「今は?」
「今日も、考えませんでした」
偽りは、なかった。七年前の春、正門の外で誰も顔を上げなかったあの朝のことは、今も忘れてはいない。忘れてはいないけれど、あの朝の記憶はもう、今日を動かす力を持っていなかった。アルヴィンのことも、もう浮かばない。恨みは、形を変えずにどこかに眠っている。ただ、今日という日には出番がないだけだった。
「リナ」
「なんですか」
「幸せ?」
シアの問いに、少し驚いた。今まで聞かれたことのない言葉だった。
答えを探して、丘の色を見た。赤く染まった斜面、水路の音、隣で揺れる光。七年前には、想像もできなかった景色だった。
「――幸せです」
迷わず、そう答えた。噓はつかない。それが、この庭の決まりだった。
「よかった」
シアの光が、ふわりと大きく揺れた。
冬になれば、この丘も雪に覆われる。それでも、根は土の下で春を待つ。畑も、精霊も、自分自身も、同じ土の上で季節を繰り返していくのだろう。七年、見てきたから分かることだった。
膝の上の葉に、指を触れた。乾いた縁が、かすかに丸まり始めている。右手首の蔓の模様が、夕陽を受けて薄く光った。都の印があった場所に、今は違う模様がある。それだけのことだが、それで十分だった。
「ここが、わたしの世界です」
声に出してみると、思っていたより自然に響いた。誰に言うでもない言葉だったけれど、シアが小さく「うん」と答えた。
風が、また一枚、葉を運んできた。今度は水路に落ち、光の上をゆっくりと流れていった。
赤い葉は、水面の光を割りながら、下流の暗がりへ消えていった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第50話、そしてシリーズ最終話をお届けしました。第49話で条約という「制度」の決着はもう終わっていたので、この最終話ではあえて事件を起こさないことに決めました。伝令が写しを届けに来て、リナがそれを棚の隅に置くだけ。それが今回のいちばん大きな出来事です。都から来た紙が、貝殻や小石と同じ棚に並ぶ——その扱いの軽さこそが、この七年の答えだと思って書きました。
エルの「足音が変わったな」という一言は、この最終話のために新しく用意した台詞です。第49話で「自由」については語り尽くしてしまったので、最終話のエルにはもう一段静かな角度から彼女を見てほしいと思いました。逃げるための足音と、立つための足音。その違いをリナ自身がまだうまく言葉にできない、というところに、彼女らしさを残したつもりです。
タイトルの「七年目の秋」は、第1話「七年目の朝」(あちらは春でした)と対になるように選びました。都の正門で誰も顔を上げなかったあの朝と、丘の上で紅葉を見ながら「幸せです」と即答できる夕方。同じ「七年目」でも、季節も、リナの立ち方も、まったく違う場所に辿り着けたのではないかと思います。
宮下奈都さんの「神さまたちの遊ぶ庭」からお借りした「都市 vs 辺境の豊かさ」というテーマを、追放・ざまぁという分かりやすい構造に載せて、最後まで書き切ることができました。ここまで50話、長い旅にお付き合いくださった読者の皆さまに、心から感謝します。書いている間、リナは何度も僕の想定より静かに、でも確かに強く動いてくれました。彼女と七年間を一緒に歩けたことを、幸運だったと思っています。
またどこかの庭で、お会いできますように。
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