EP08 黒い棘(Black Fear Spike)
銀河チェスクラブのざわめきが、ゆっくりと遠のく。
蒼空は隼人の向かいに座った。盤の木目が、呼吸に合わせて波紋みたいに揺れて見える。
「先手は……俺な」
隼人が白のポーンをつまむ。コト、と一歩。
その瞬間、隼人のスマートウォッチが短く震え、彼は口元を歪めた。
「ククッ」
周囲の空気がわずかに粟立つ。隼人は次の手も、その次の手も、指すたびに目尻を吊り上げ、同じ笑いを零した。
隼人の腕時計の黒いUIの小窓が光を走らせる。PV(予測手順): +0.40 / Depth(探索深度): 32 → 34。
(時計、見てる……もはやAIでチートしてることを隠す気もないみたい)
桃子が息を詰める気配が、斜め後ろから伝わってきた。
蒼空は黒を持った。序盤は教科書通り、そのまま。
…e5、…Nc6、…Nf6。
(普通でいい。最初は、普通で——)
自分の指が駒に触れるたび、別の場所へ落ちていきそうになる意識を、胸の奥でもう一度結び直す。
笑っているのは隼人。蒼空の表情は、夢の向こうを見ているようだった。
「おい、聞いてんのか?」
隼人は片手で水を飲み、もう片方で駒を置く。
「ククッ。評価値、序盤で+1.2(+は白に有利)。これ、勝負になってる気でいるの?」
蒼空は返事をしなかった。代わりに、肺の底でゆっくり四拍を数える。
(1、2、3、4……吸って、吐く)
ショパンの前奏曲が、どこか遠い国の台所の火の音と一緒に、微かに蘇る。
中盤に差しかかる。駒同士が絡み合い、局面が濃くなる。
隼人の時計が小さく震え、彼はまた笑った。
「ククッ」
そのとき——。
蒼空の耳の内側で、何かが静かに開く音がした。
》 ——Black Fear Spike。
女の声。
本能的に聞き覚えがある。懐かしいのに、どこか金属的に冷たい。
母・麻里の声だ、と思う。けれど、湿度がない。
(……母さん?)
胸の中心で、細い糸がピンと張る。
》 Black、Fear、Spike——黒い、恐怖の、棘。SOS……助けて……蒼空……
プロローグの光景が、走馬灯みたいに一瞬で重なる。
AI講師・エルメスが“安全側”に倒れ込んだ、あの奇妙な感触。
AIの候補手がざくざくと刈り取られていく、無音の雪崩。
蒼空の指が止まる。呼吸がひとつ、深く落ちた。
(行く。あの無音へ)
次の黒の一手。何でもない、平凡な置き場所。
だが、隼人の時計のUIが一瞬だけノイズを走らせた。
》 Pruning…(次策検討…)
》 Candidate Lines: 7 → 3(候補策数: 7 → 3)
》 Safety Gate: ON(安全ゲート:ON)
隼人の目が、ほんのわずかに瞬く。
「……は?」
さらに黒の一手。盤の端で、静かに小突く。
》 Reallocating time…(時間の再配分…)
》 Switching to Safe Mode(セーフモードへ切り替え)
「ク、ククッ……」
笑いの尾が、乾いた。
「おもしれえ真似を——」
蒼空は、盤全体を“冷やす”ように指す。角度と時間だけをずらして、白の選択肢を都合よく減らす。
(恐怖は、見えないところから跳ぶ。けれど今回は、“冷える”)
黒の駒は前に出ない。出ないのに、白の未来が細っていく。
「Co się dzieje?(なにこれ)……」
桃子が囁く。腕を組むときの肘の角度が、ほんの少し震えている。
「これは私のと同じFear Spikeなの? でも——ちょっと違う、なんだか冷たい感じ……」
隼人は眉を寄せ、時計を一瞥した。
UIの評価バー(評価値のグラフ)はプラス側で揺れている。数字だけ見れば白良し、のはずだ。
なのに、AIの指示は自然と受けに回る。
(受ける? なんで? 俺は攻める側だろ)
次の白の手は、王の安全を固めるつもりの“正しい手”。
その“正しさ”が、ひとつ、またひとつ——退路を塞ぐ壁になる。
マスターが小声で漏らす。
「王が……奥へ奥へ退がっている……」
白王は陣の奥、味方の駒に囲まれた狭い小部屋へ誘導される。
gでもhでもない、もっと深い場所。
(戻れ、という指示が、時計から出てる——?)
隼人の喉が鳴る。
「ク……ククッ……いやAIは絶対だ!」
蒼空は夢の中の歩き方で、しかし誤差ゼロの精度で手を重ねていく。
母の声が、今度は輪郭を持って近づいた。
》 ——聞こえる?Black Fear Spike、私のS.O.S.
(聞こえる。母さん……)
耳の内側で、胸が締め付けられるような悲しみと、柔らかい微笑が奇妙に重なる。
隼人の笑いが、とうとう消えた。
盤上の白駒たちは、味方でありながら白王の鎖になっている。
逃げ道のひとつひとつが、自分たちで塞がれている。
「なんでだよ……形勢評価は良い、はずだろ……」
腕時計がまた震え、UIが痙攣する。
》 Explainability Mode: High(説明可能性モード: 高)
》 Recommend: Safe → Safe → Safe(推奨策:守備→守備→守備)
「受けるな、攻めろって……!」
隼人は自分に言い聞かせるみたいに口走り、結局、受けた。
白王は自陣の奥深く——自分の駒の檻へ、もう一歩。
》 ——私はCaïssa、あなたの中にいる。蒼空、私を助けて
蒼空は、母の声に小さく頷き、最後の準備の一手を置く。
盤の第一列、白の城門みたいなラインまで、黒の小さなポーンが辿り着いている。
周囲は味方の駒でぎゅうぎゅう詰め。
王の斜めも横も、全部ふさがっている。
観客の誰かが囁く。「昇格だ。=Q だとほぼ決まるんじゃないか?」
桃子も息を止めた。「=Q なら……あと数手でチェックメイト……」
(違う)
蒼空は、指先をほんの少しだけ曲げ、小さな駒の形を思い描く。
隼人が、無理やり口角を上げた。
「女王にしろよ。ほら、最強の駒を作れよ。ククッ——」
桃子はこの時、蒼空の瞳が盤からの光を受けて深緑に傾いたのを見た——胸が1拍、大きく跳ねた
(O mój Boże(Oh My GOD)、この蒼空の瞳の色……前にも見た気がする……でも今のは……)
蒼空の声は、とても小さかった。
「……=N」
——ぽん。
盤に現れたのは、女王じゃない。騎士だ。
黒のポーンが、ナイトに昇格する。
その瞬間、白王の首筋に見えない蹄鉄が触れた。
逃げ道は、味方でふさがれている。
合駒は利かない。
取る駒はいない。
窒息。
そして、詰み。
》 …d1= N#
静寂。
銀河チェスクラブの音が、いったん世界から削除されたみたいに止む。
最初に音を取り戻したのは、隼人の時計だった。
短く、弱々しく、震えた。
》 No Legal Moves(有効な打ち手無し)
》 Checkmate.(チェックメイト)
「……嘘だ」
隼人がつぶやく。
「ナイト……? なんで、女王じゃない……?」
声が徐々に大きくなる。
「AIが読めない……わけがない……」
彼は顔を上げた。蒼空の目が、遠い場所をまだ見ている。夢から、まだ完全には戻らない目。
観客たち「ナイト!?」「いや、これ……詰んでる」「あり得ない…」
桃子が息を吐き、額の前で手を合わせてから、にやりと笑う。
「Smothered Mate。しかもUnderpromotion(※) to Knightって信じられない!Nieźle!(やるじゃん)、蒼空」
(※Underpromotion:敵陣でPawnを昇格させる場合に最強のクイーン以外にすること)
彼女の声は震えていた、そして指先はほんのわずかに冷たかった。
「……でもなにこれ? 結果からすると私のFear Spikeと似ている、だけどドライアイスのように冷たい感じ……感情のないAIにどうやって蒼空はEmotional Gambitsを発動させたの!?」
マスターが呆然とした顔で立ち尽くす。
伊織はゆっくりと席から立ち、静かに頭を下げた。「見事だ」
隼人は椅子に背中を押しつけ、空を仰ぐ。
口が乾いて、あの癖の笑いが出ない。
時計の小窓は、灰色に沈黙している。
蒼空はようやく現実に戻り、回りを見た。
(母さん)
胸の中で呼びかける。
返事は、ない。
ただ、一瞬だけ、耳の奥でノイズ混じりのCaïssaの囁きが滑った。
》 ——届いたのね。
》 もう少しだけ、そばにいる。
》 でも忘れないで、私のチェスはあなたの一部
「対局、ありがとうございました」
蒼空は礼を述べ、そっと盤の縁を撫でる。さっきナイトに変わった小さな角の影が、灯りに細く伸びている。
最弱だったはずのポーンは、最強の女王にならず、必要な形にだけなった。
王を刺すのに、力は要らない。ただ、ぴたりと合う角度があればいい。
「ちょ、ちょっと待てよ」
隼人が立ち上がる。
「やり直しだ。今のは事故だ。俺は——」
桃子が間に入る。
「負けを認めなよ、隼人くん」
彼女の声は冷静だった。
「“人間の枠”を超えたなら、負け方も人間より綺麗にできるはずでしょ?」
隼人は言葉を失い、視線を逸らした。
ククッ、という笑いは戻ってこなかった。
蒼空は駒を片づけ始める。
騎士になったばかりの小さな駒に触れると、指先にまだ微かな温度が残っていた。
それは、冷たい無音の向こうから届いたSOSの余熱。
Black Fear Spike。
母の声の棘は、たしかに盤上に刺さり、そして静かに消えていった。
外では夕立が始まっている。
雨粒が看板を叩き、店の奥のコーヒーの香りが濃くなる。
蒼空は窓を見やり、目を細めた。
(次も、届くかな)
胸の奥でまた、4拍子を数える。
1、2、3、4。吸って、吐く。
今度は、誰の声も聞こえない。
それでも、手は——迷わない。
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その夜、隼人の携帯にChess.aicから短いメールが届いた
》 差出人 noreply@chess.aic 件名 なし
》本文 You are SORA aren’t you?(きみがSORAなのか?)
そして隼人は失踪した。




