EP06 Emotional Gambits
颯真との対戦の翌日。
放課後の廊下はすでに夕焼け色に染まり、人影もまばらだった。
「蒼空、ちょっと来なさい」
桃子に呼ばれ、人気のない教室に足を踏み入れる。
机の上にはすでに木製の盤が置かれ、駒が整然と並んでいた。
桃子は蒼空をじっと見つめて言った。
「……昨日の試合、私が“Anger Bait”って言った時びっくりしてたでしょ」
「思い出した!なんで桃子がその言葉知ってるのかって、不思議で仕方なかった」
「ふふん。それじゃあ今日は桃子先生が直々にその理由を教えてあげる♡」
彼女は盤を指でトントンと叩き、挑発的に微笑む。
「座りなさい。今日は蒼空が白。遠慮なく来なさい—Dawaj(Come on)♪」
「……ふん。かっこつけてると俺が勝っちゃうぞ」
軽口を叩きながらも、蒼空の胸はどこかざわついていた。
ルイ・ロペス。『チェス入門』で叩き込まれた定跡を、教科書通りになぞる。
だが向かいの桃子は、駒を動かすたびにじっと蒼空を見つめ、奇妙なリズムで盤を支配していく。
そして——ナイトが中央に躍り出た瞬間。
(……ううっ? な、なんだこの感覚……黒いナイトが……怖い……)
心臓がきゅっと縮み、指が動かなくなる。攻める気持ちが霧散していく。
(あれ?どこに進めばいい?俺のキングは……どこへ逃げれば……)
「——Szach-mat」
桃子の声と同時に、黒いナイトが鋭く跳ねた。
気がつけば蒼空のキングは味方に囲まれ、まるで窒息したように動けなくなっていた。
「これはSmothered Mate。息が止まったみたいでしょ♡」
——※Smothered Mate:窒息して動けないキングをナイトが駒を飛び越えてチェックメイトする、美しいけど息苦しい詰み方
桃子はにっこり笑い、手を差し出す。
蒼空は悔しげにその手を握り返した。
「……もう一回だ。今度こそ」
===================
二局目。今度は桃子が白を持つ。
蒼空はすでに妙な緊張に飲み込まれていた。
(やっぱり……桃子の駒が怖い。どう動かしても勝てる気がしない……)
たった四手。
白いクイーンが真っ直ぐに襲いかかり、悪夢のような終わりが再び訪れる。
「はい、Scholar’s Mate♡」
「……嘘だろ。なんでまたこんな初歩的なメイトに……」
蒼空が愕然とすると、桃子はくすっと笑って言った。
「どうしてだと思う? ひょっとして蒼空は私のナイトを“怖い”って感じたんじゃない?」
「……!そういえば……」
「そう。それが答え。昨日あんたが颯真先輩にAnger Baitを仕掛けて怒らせたように、今度は私がFear Spikeを使って、蒼空を“恐怖”で縛ったの」
「……Fear Spike? じゃあ俺は……恐怖で打ち筋を操られて……このメイトに落ちたってこと?」
「そういうこと♡ どう?自分の感情ごと支配される気分は」
「……どうって……怖いし、正直めちゃくちゃ嫌な気分」
桃子は満足そうに頷いた。
「Widzisz?(分かった?)。だからこそ、相手に何を感じさせるかを理解するのが“感情を戦略につかうEmotional Gambits”の第一歩なんだよ」
===================
「……でも、どうして桃子はそんな大事なことを俺に教えてくれるんだ?」
桃子は少し真面目な表情になり、指先で駒をいじりながら口を開いた。
「私ね、中学生まで親の仕事の関係でポーランドのグダニスク――バルト海沿いの港町で、第二次世界大戦の記憶が今も色濃く残る街――に住んでたの。そこで初めてチェスを習ったんだけど、その教室の先生が……エレナ・コワルスカ」
「えっ!?俺の『チェス入門』の著者……!?」
「Zgadza się(そうなの)、これは奇妙な偶然なのよ? しかも私、日本人ってことで向こうでは珍しかったから、エレナはすごく目をかけてくれた。彼女は昔、日本人の男性と結婚してたんだって。だから日本語も流暢で、いろいろ教えてくれたの」
「……そういえば俺の母方のばあちゃんもポーランド人だって先週言ったけど。……名前を思い出した、確かレナ。会ったことはないけど」
桃子はここで確信を得た笑顔を見せる。
「Lena?Rozumiem(レナ?なるほど)……そこで話は終わらないのよ。エレナには娘がいた。その名前はね――麻里さん」
「……麻里!? 俺の母さんと同じ名前……!」
「先週末ね、蒼空のチェスセットのクイーンの装飾を見て、もしかしてと思ってエレナにメールしたの。そしたら返事が来たのよ。『あのチェスセットは私が麻里に送ったもの。麻里には息子がいて名前はSORA』って」
蒼空は絶句した。喉が乾き、手のひらに汗が滲む。
「……そんな……じゃあ、俺のばあちゃんは……」
蒼空の頭の中で糸が一本に繋がったような気がした
「Widzisz?(分かった?)。エレナ・コワルスカ。『レナ』はポーランドではよくあるエレナの愛称。蒼空、あんたのおばあちゃんはエレナで間違いない」
蒼空は机の上の『チェス入門』を取り、著者写真を食い入るように見つめた。
「この人が……俺のばあちゃん……」
桃子は頷き、にっこり微笑む。
「エレナは“Emotional Gambits”を編み出した人。私が今使ったFear Spikeもそう。彼女はそれでGMまで登り詰めたの。Smothered Mateを決め技にしたから『窒息の女王(The Queen of Suffocation)』って呼ばれてるんだよ」
「……Emotional Gambitsって、Anger BaitとFear Spikeだけなの?」
「私が教わったのはその二つ。でもね、エレナはもっと色んな技を持っているはず。全部を知っていたのはエレナと娘の麻里さんだけ。でも……麻里さんはある事件をきっかけに姿を消したの」
「消えた……? でも母さんは、俺が三歳の時に交通事故で亡くなったって父さんが……」
桃子は眉をひそめる。
「そこが食い違ってるのよね。……蒼空、麻里さんのこと、どこまで知ってる?」
「母さんは父さんと同じ会社に勤めてて、俺が物心つく前に交通事故で……それ以上は、父さんは話してくれない。ばあちゃんのことも同じ」
「……やっぱりなんか裏がありそうね」
桃子はふっと息を吐き、蒼空をじっと見る。
===================
「ところで蒼空。あんた、どうやってAnger Baitを覚えたの?まさか本当に“覚醒系”?」
「日曜の夜、桃子が帰った後……チェスセットのポーンの底に見たことのない文字が刻まれているのに気づいた。しばらく握ってたら、頭の奥でパチンと音がして……颯真先輩との試合中、自然にAnger Baitの言葉と戦略が浮かんできた」
「O mój Boże(oh my god)……マジで覚醒系じゃん……。私なんてAnger Baitを使えるようになるまでエレナに一年しごかれたのに」
桃子は半ば呆れたように笑い、すぐ顔を上げる。
「ねえ蒼空、あのチェスセット、今日は家にあるんでしょ?今から見に行っていい?」
「今から? 父さんは今日もいないけど……俺と二人っきりで、桃子は大丈夫?」
「……なにそれ。どういう意味?」
「……一応俺も男だし、こんな時間に女の子を部屋に呼ぶとか、親御さんに悪いかなって……」
「Głuptas(莫迦ね)〜。蒼空は私の弟子でしょ。全然そんな心配いらないから。うちの親も大丈夫だし(笑)」
バンッと背中を叩かれ、蒼空はむっとしながらも言葉を失った。
その痛みと一緒に、妙な照れくささだけが残った。




