EP05 Anger Bait
【月曜の朝】
昇降口から差し込む冷たい光が廊下を薄く照らしていた。
蒼空は手にチェス盤と『チェス入門』を抱え、部室へ向かう足を止めなかった。
先週から続く早朝練習の習慣で、体が勝手にこの時間に動くようになっている。
扉を開けると、すでに桃子が椅子に腰掛け、片手でペットボトルを回していた。
「おはよ、蒼空。ほら、時間ないんだから早く座って」
机の上には昨日の復習用に並べた駒が、すでに美しく初期配置されている。
蒼空は座ると同時にページをめくり、駒を指で動かした。
ナイトの弧、ビショップの対角線、その一つ一つが、今は妙に鮮明に頭に入ってくる。
午前の練習を終える頃、桃子が不意に駒を止めた。
「蒼空……あんた昨日までと別人だよ。なにがあったの?」
蒼空は口元をかすかに上げた。
「うーん……なんか今日は調子いい」
本当は、昨日の夜ポーンを握った時に感じたあの不可思議な感覚が、まだ指先に残っている。でも言葉にはしなかった。
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【昼休み】
食堂のざわめきを背に、二人は隅のテーブルで弁当を開きながら小さな盤を挟んだ。
桃子が手を止め、睨むように蒼空を見た。
「ねぇ、本当になにがあったの?ひょっとして練習しすぎて覚醒とかしちゃった?」
「なにそれ?漫画か!(笑)」
「いや、今日のあんたの対局しているときの視線、駒を進めるタイミングそしてそのポーンの運び方……なんか掴んだみたいだね。これは颯真先輩との試合が楽しみね!」
桃子はそう言って笑ったが、その瞳には何かの確信を得た光が宿っていた。
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【放課後、決戦の場へ】
チェスクラブの教室に入ると、空気がいつもより張り詰めていた。
颯真はすでに席について盤を整えている。
椅子の背もたれに軽く寄りかかりながら、顎を上げて二人を見た。
その隣、部長の伊織が静かに立っていた。
背筋をまっすぐ伸ばし、眼鏡越しの視線は柔らかいが、どこか計算高さも感じさせる。
「君が蒼空くんか。まだチェス始めて一週間なんだって?」
「……はい」
伊織は口元に穏やかな笑みを浮かべる。
「颯真は去年の大会でもいいところまで行ってる。初心者相手で平打ちじゃ、さすがに勝負にならないだろう。颯真の駒を落としてハンデをつけるのはどう?Rook oddsかKnight oddsで」
言葉が終わらないうちに、桃子がすっと前に出た。
「蒼空にハンデはいらないよ、部長」
ニヤリと笑って、代わりに答える。
「あたしがみっちり一週間鍛えたんだから、蒼空は平打ちだって颯真先輩なんかには負けないよ」
颯真の口元が釣り上がった。
「大した自信やな、桃子。ほな――こいつに俺が勝ったら、お前は俺と付き合うってのはどや? ほんで、もちろん蒼空にはチェスクラブに入るんはやめてもらうで」
「なにそれ、キモっ!」桃子は即答し、すぐに続ける。
「でもいいよ。ただし、それだと賭けるものが釣り合わないから……蒼空が勝ったら、颯真先輩は卒業するまであたしの奴隷になるの。どう?」
颯真は鼻で笑う。
「ふんっ、なんだってええさ。俺が負けるなんてありえへんからな。受けて立つぞ!」
伊織は一歩下がって場を見回した。
「部長としては、蒼空くんにはクラブに入ってほしいし……颯真が奴隷になるのも見てみたいな」
くすっと笑い、頷く。
「よし、この勝負、僕が後見人になるよ。蒼空くん、頑張ってね。応援するよ!」
蒼空は深く息を吸い込んだ。
(なんか俺……知らないうちに修羅場の真っただ中……)
颯真が手を盤に置き、駒を整える音が響く。
部屋の外からは、下校する生徒たちの足音と遠くの部活の掛け声が微かに混ざって聞こえてくる。
そのすべてが、これから始まる勝負の前の静寂を際立たせていた。
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先手番(白)の蒼空。
「いくよ」
最初の一手は、b4(ポーランド・オープニング)ほんのさざ波。ポーンがひとつ、横でなく、前でなく、隅をつつく。
——初心者がやるには少しだけ、行儀が悪い。けど、彼の指先には、その“無礼”がちょうどいい。
駒が盤に触れた音に、颯真の眉がわずかに動く。
「は?開幕からそれか。なめとんのか?それ雑魚手やろ」
(そうだよ。ありがとう、そう思ってくれて)
蒼空の胸の内で、何かのスイッチがカチリと鳴った。体の中心に細いβ値スライダーが現れ、対戦相手の怒りの温度計が上がったような感覚。Anger Bait——なぜか名前が口に出る前に、現象のほうが先に立ち上がっていた。
颯真の黒の大駒がどん、と中央に杭を打ち込む。正しさの音。
蒼空は、軽くポーンを重ねる。端のポーン、翼のポーン、斜めの視線を通すだけのポーン。
ひと押しごとに、颯真の呼吸が荒くなるのがわかる。
(怒りがふつふつ——いまはまだ“沸点前”。泡が底にくっついてるやつ。ここから時間(酸素)を奪う)
「そんなん効かんて」
颯真の声は強がっているのに、手つきは前のめりだ。突き、押し、殴るみたいなリズム。
蒼空は受けない。受けずに、位置だけをずらす。ポーンの小突きで相手の“正しさ”のラインを少しずつ汚し、逃げ道の壁紙を貼りかえていく。
「桃子ー、見とけよ。終わったら、お前——」
「はいはい。棋譜、ちゃんと残してよね」
桃子はそっけない。けど、その目は蒼空の指先を追っている。
(見てろ、俺はポーンで勝つ。最弱の駒で、王を刺す。俺はそれが出来る!)
盤上でカチカチと時計が鳴る。
蒼空は肺の奥でテンポを刻む。4拍子1、2、3、4。吸って、吐く。
頬の裏側を噛む癖が出そうになって、やめる。代わりに親指でポーンの頭をひとなで。火の粉はまだ小さい、けど、導火線はもう真っ赤に燃えだしていた。
「調子のっとると痛い目見るで」
颯真は攻める。キングサイドに火薬が積まれていく。視線は前だけ。
蒼空は構わず小突く。gのポーンがじわりと前へ。黒の陣形が呼吸を短くする。
(怒り、焦り、その次は——盲点)
盤の右辺で、白の大駒たちが静かに鍵穴を囲う。クイーンは遠巻きに、ビショップは細い線の先で待っているだけ。主役は、最後までポーンだ。
「うっさいポーンばっかり。男らしゅう来いよ!」
颯真の声がわずかに裏返る。
蒼空は、わざと緩い一手を挟んだ。ほんの、半歩分の遅延。導火線が、待ったと言われたみたいに見える。
(そこで、颯真は前に出る!)
颯真は思ったとおり前に出た。王の近衛が乱れる。
盤のどこかでパチっと音がした——気がした。
蒼空の中のβ値スライダーが、さらに一段上がる。
視界の端で、桃子の肩がすくむ。「Ojej……」と唇が動いたのが読めた。
颯真は気づかない。彼は今、夢中だ。
「見とけよ。あと一手や。桃子はもうワイのもんや!」
(それ、言う?)蒼空は思わず苦笑しかけて、やめた。唇のかわりに、ポーンが笑った。
局面は濃い霧のように固まっている。
黒王は、盤の右上に居場所を狭められ、逃げ道の一つひとつが白い糸で結ばれている。
蒼空は糸の端を指でつまんで、すっと引いた。呼吸ひとつ分だけ、間を取る。
時計の秒針が跳ねる。1:11。
(ここだ)
右手の人差し指が、gのポーンに触れる。
蒼空は押し出す代わりに、まず空気を押した。胸から指先へ、空になったストローみたいに空気が細く流れる。
ポーンは、前へ。ただ一歩前へ。
g5——。
盤が、音を立てて静かになった。
ポーンが斜めに差し出す牙が、王の喉元にぴたりと触れる。
逃げ道は、味方の駒と相手の見栄でふさがっている。取れない。寄れない。戻れない。
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【チェックメイト。】
「……え?」
颯真の目から、怒りの赤がスッと引いた。
彼は一拍遅れて、左右の駒を見回し、時計を見て、桃子を見て、最後に自分の手元を見た。
「嘘や。まだやれるやろ」(いったいなんで俺はこんな打ち筋をしたんや??)
誰に向けたのかわからない一言が、部屋に落ちた。返事はない。
蒼空は息を吐いた。熱が、指の節から離れていく。
(最弱の駒で、王を討つ)
桃子が近づいて、局面をのぞき込む。そして蒼空にしか聞こえない声でそっと囁く。
「Doskonały!(すごいじゃん!)……見事なAnger Baitだったよ。やっぱり覚醒してたのね♡」
「えっ!……Anger Bait?……やっぱり?」蒼空は怪訝そうに桃子をみた。
「ほら、握手しないと」
桃子に促され、蒼空は颯真の方へ向き直り、手を差し出す。
「対局、ありがとう」
颯真はぶっきらぼうに、でもしっかり握り返した。
颯真「お前……ムカつく。けど、強いわ。ホンマに初心者か!?ポーンで詰ますとか……なんやそれ、反則みたいやん」
蒼空「反則じゃない。ポーンは軽い。だから、心を重くできる」
「蒼空くん」部長の伊織が声をだす。
蒼空「はい?」
伊織「いまの最後のチェックメイト、なんて言うか知ってる?」
蒼空「ポーン・メイト。聖書からダビデとゴリアテ、って呼ばれることもある。本に書いてあった」
伊織「知っていたの?ポーンは相手陣地でプロモーション(昇格)させてクイーンにするのが一般的で、ポーン自体でチェックメイトするのはとてもめずらしいんだ。僕も見るのは初めてだよ……まさか君、颯真を相手に狙ってこれをやったとか?」
蒼空「……まさか、偶然です」
——桃子が割り込む
桃子「うんうん、もちろん偶然だよね♪でもこのチェックメイトは蒼空らしいよ。普段はボーっとしてるのに、やるときはめっちゃ容赦ない♡」
桃子はにやりと笑い、颯真をちらりと見た。
「で、颯真先輩。『桃子はワイのもん』って言ってなかったっけ?聞き間違いかな?」
颯真「……忘れろ、……忘れてくれ。さっきのはノーカンや」一瞬だけ悔しさで拳を握った。
桃子「”ワイのもん”のクダリは忘れてあげるけど、奴隷の話は忘れてないからね。卒業までよろしくね私の奴隷さん♡」桃子が念を押すと、颯真は耳まで真っ赤になって、視線を逸らした。
片付けの音が始まる。駒が駒箱に戻るたび、蒼空の胸の中で小さな火がパチパチと燃え尽きていく。盤を畳もうとして、ふと白いポーンを一つ、掌に残した。焼印の点が、まだ温かい気がする。
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その夜。
ベッドに横たわると、眠気がすぐにやって来た。目を閉じたまま、指が無意識にgのポーンを押し出す。
——まどろみのなかで、黒いポーンが一歩だけ前に出た。
炎の残り香を、ひと息で消すみたいに。
(黒にも、何かが収まってる)
薄明かりの中で目が覚め、天井を見上げる。
蒼空は小さく笑った。
(いつかそれも、手に入れる)
窓の外、夜風。
遠くで犬が吠え、すぐ黙る。
蒼空は眠りに沈みながら、最後にひとつ、はっきりと言葉にした。
「Anger Bait」
そして、白いポーンは、夢の中でもう一度だけg5へ。
小さな刃が触れて、世界が静かになる。
チェックメイト。




