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EP04 挑戦の火種

蒼空はその日、昼休みの鐘が鳴り終わった瞬間、桃子に声をかけた。


「……俺、入部する。チェスクラブ」


桃子は箸を止め、ニヤリと笑った。


「ふーん、やっとその気になった?」


「正直まだビビってる。でも昨日のアキラ先輩との対局で、負けたのに……悔しいけど、楽しかった」


「よし、じゃあ善は急げ。放課後、正式に入部届け出しに行くよ」


===================

その日の放課後、二人は部室へ向かった。


引き戸を開けると、昨日と同じ木の香りと静かな空気が蒼空を包む。駒のぶつかる澄んだ音が響くなか、桃子は部室の奥に座る男子にまっすぐ歩み寄った。


颯真そうま先輩!」


呼ばれた彼は顔を上げる。短めの髪に落ち着いた目元、鋭さと大人っぽさを併せ持った雰囲気。大阪弁ネイティブ。桃子に声をかけられてちょっと顔を紅くした。


桃子は蒼空の背を押すようにして前へ出す。


「この子、蒼空。今日から入部するから」


颯真の表情は一瞬で曇った。


「……桃子、ジブンが連れてきたんか」


「そうだよ」


颯真は視線を蒼空に向ける。どこか値踏みするような目。


「お前、昨日今日はじめたばかりのどシロウトやろ」


「まあ、そうだけど……」


「悪いけど、そういうやつはこのクラブには入れへんのや。クラブの誇りを汚すからな」


唐突で冷たい言葉に、蒼空は思わず眉をひそめる。


「……なんだよそれ」


颯真は机の駒を弄びながら、視線を逸らさずに言った。


「ワイらは全国大会を目指しとる。趣味でやるなら他でやってくれ」


空気がぴんと張り詰めた。だがその緊張を破ったのは、桃子の甲高い笑い声だった。


「あははっ、何それ。颯真先輩、ちっさ!器超小っさ!」


「……なんやと?」


桃子はひとつ前に出て、蒼空の肩をポンと叩く。


「じゃあさ、こうしよう。あたしがこの蒼空を一週間で、先輩より強くしてみせる。それなら文句ないでしょ」


「はあ!?」蒼空が振り向く。「ちょっと待て、俺そんなこと――」


「蒼空、Zrób to.(やるのよ)」


桃子は笑顔のまま言い切った。


「桃子、お前なんでこないな奴のためにそんな約束をすんねや、お前やって大会の準備があるやろ!」


「颯真先輩、なにそれヤキモチですかー?1週間後の月曜日だよ。逃げないでよね?」


颯真はしばし沈黙し、赤くなった顔をあげて鼻で笑った。


「……ええやろ受けて立ったる。無駄な努力にならんとええけどな!」


こうして、半ば勝手に「一週間強化プロジェクト」が始まってしまった。


===================

「蒼空、あんたさチェスセットあるって言ってたよね?『チェス入門』の表紙と同じ装飾のクイーンのやつ」


「親父が昔出張のお土産にってくれたやつ」


「じゃあ明日からそれと例の『チェス入門』をもって学校に来ること。やっぱり自分の馴染んだ道具で勉強すると覚えが違うって」


翌日から、桃子による地獄の特訓が始まった。


始業前の午前6時に学校に来るように言われ、昼休みはもちろん放課後は午後7時までチェスクラブの部室でみっちりしごかれる。


「Spójrz!(ほら見て!) そのナイトの動き、昨日も同じミスしたでしょ!」


「いや、わかってる……」


「わかってないから同じミスすんの!やり直し!」


盤面の駒をリセットされ、蒼空は深いため息をつく。


机の上には常に『チェス入門』と木製のチェスセットが開きっぱなし。


放課後の対局が終わっても、夜には「復習会」と称して二人の家の近所のファミレスで、終電間際まで詰め込まれる。


「このページ、もう暗記してる?」


「……多分」


「多分じゃダメ。暗記ってのは目つぶっても駒の位置と手順が言えるレベルのこと」


寝不足でぼんやりした頭で、蒼空は言われるがままに盤面を再現する。


最初は苛立ちの方が強かったが、数日もすると少しずつ駒の動きやパターンが頭に入ってくるのを感じ始めていた。


===================

週末を迎えて特訓は最終段階に突入し、さらに過酷さを増した。


桃子は蒼空の家にまで押しかけてくる。


「このあたしがあんたのために週末まで犠牲にしてあげるんだから感謝しなさい!お家の人にはちゃんと言っておいてね」


「俺の家、親父は出張で海外に行っているんで今は俺しかいない」


「え!そうなの?お母さんは?」


「母さんは俺が小さい頃に死んじゃった」


「Przykro mi to słyszeć.(そうなのね、それは悪いこと聞いちゃった)……ごめんね。でもいいわ。そういうことならあたしがお弁当つくって持っていってあげる」


「大丈夫、俺いつも自分で飯作ってる。教えてくれるお礼で昼飯くらいはごちそうする」


「へぇー蒼空って料理できるんだ。そういえばいつも学校でお弁当だよね。自分で作ってたなんて意外ー!見かけによらないってこういうことだね」


「どういうことだよ!」


===================

蒼空の自室での特訓は駒の動きだけじゃなく、『チェス入門』にあった戦型の名前、攻めと守りのパターン、さらには序盤の手順を丸ごと暗記させられる。


「ほら、ルイ・ロペス、もう一回!」


「……e4、e5、Nf3、Nc6、Bb5」


「OK、次!スコッチ!」


「e4、e5、Nf3、Nc6、d4……って、これ何回目?」


その他にも駒の配置暗記に加えて砂時計を使った時間制限練習、わざと不利な局面からの逆転練習、早指し戦など『チェス入門』には入門書とは思えないほど実践的な練習方法が載っていて蒼空はこれらも桃子の監督の元に練習させられた。


「ホントこの『チェス入門』って蒼空のために書かれたみたいだね。」


桃子は笑いながら、手元の『チェス入門』をぱらぱらとめくった。


ふと、彼女の指が止まる。そして裏表紙の著者プロフィールを蒼空に見せる。


「あのさあ、蒼空は知らないと思うけど、この本の著者は一部ではすごく有名な人なんだよ」


「有名?」蒼空は手を止める。


「グランドマスター、エレナ・コワルスカ (Helena Kowalska)。実はあたしが一番尊敬するチェスプレイヤーなんだ」


「へぇ……」


口ではそう言いながら、蒼空の表情はどこか固い。


桃子は気づかず、楽しそうに続けた。


「昔、当時世界最強のAIに勝ったことがあるって噂もある人、まあ公式記録じゃないらしいけどね。でもさ、もし本当だったらすごくない?AIに人間が勝つなんて。そしてエレナはポーランド出身なんだよ。ひょっとして蒼空のおばあちゃんだったりして」


「そんな訳ない。母方のおばあちゃんは確かにポーランド人らしいけど会ったことないしエレナって名前じゃないよ」


蒼空は、考え事をしながら白いポーンを指先でなぞった。 木の匂いがほんのりと鼻をくすぐり、滑らかな表面の下に微かな木目の凹凸が感じられる。 指先に触れると、最初はひんやりとしていたのに、すぐに体温を移すようにじんわりと温もりが広がっていく。 彫られた文字は思ったより深く、爪先が引っかかる感触があった。 まるで長い年月を経てそこに刻まれた印のように、手放せない重みを持っている――そんな気がした。


===================

【不思議な発見】


特訓は颯真との対戦を翌日に控えた日曜日も続き、蒼空はなんとか計画していた特訓メニューをすべて消化した。


夜8時に桃子が帰宅した後、蒼空は机に「チェス入門」とチェスセットを広げ、ひとり盤に向かっていた。


外は風の音だけが響き、部屋の明かりが駒の影を落としている。


ページをめくると、ふと「Pawn Mate(=David and Goliath Mate)」の項が目に入った。


キングをポーンで詰ます、小さき者が王を討つ印象的な詰みの形。

しかし偶然の要素や相手のミスの積み重ねが発生するなど特定の条件下でないと成立しないため、ポーカーでいえばストレートフラッシュ並みの実戦ではまず見ることのないチェックメイト。


図解の下に、見慣れない外国語のフレーズが小さく書かれている。


(……なんだ、この文字)


そのとき、視界の端に白いポーンが映った。


何気なく持ち上げ、底を見た瞬間――息が止まる。


そこには、本のページにあったのとまったく同じ文字が、細かく彫られていた。


「……これ、前からあった?」


指先でなぞると、木目の奥から微かな温もりが伝わるような感覚。


同時に、頭の奥でパチンと何かが弾けた。


次の瞬間、盤面が鮮やかに脳裏に広がる。


駒の位置、手順、相手の応手……それらが線で結ばれるように、直感的に見えてくる。


(……これ、なんだ)


蒼空はポーンを握りしめたまま、胸の鼓動が早まるのを感じていた。


理由はわからない。でも、明日の対局で何かが起こる――そんな確信だけが、静かに燃え始めていた。


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