EP03 クラブ初日と洗礼
桃子に手首を掴まれたまま、蒼空は半ば引きずられるように廊下を歩いていた。
「ちょ、待てって! 俺まだ入るなんて――」
「はいはい、口動かすより足動かして」
桃子の歩くスピードは速く、蒼空はつんのめりそうになりながらついていく。彼女は振り返らず、ただ前だけを見ていた。廊下の端、階段を下り、別棟の奥にある部室棟へと進む。
木製の引き戸がガラリと開くと、ふっと空気が変わった。
部室の中は意外なほど静かで、教室特有のざわめきがない。
窓際の机の上には木製のチェス盤がいくつも並び、整然と駒が配置されている。磨かれた木の香りと、わずかにオイルの匂い。壁には大会の集合写真や、輝くトロフィーがずらりと並び、そこに写る笑顔はみな真剣な目をしている。
「皆んなただいまー。この子今日からうちの新人ね」
桃子が軽い調子で言うと、部室の空気が一瞬だけざわついた。
数人の部員が駒を置き、こちらを見る。
「あれ、桃子が直々に連れてくるなんて、彼にはなんかあるってことだよね」
「もしかして期待株?」
「……チェス初心者って顔してないな」
(いや完全に初心者……)
――なぜそう思われるのか、蒼空には皆目見当がつかなかった
蒼空は視線を落とし、木目の床に目をやった。
何か言い返す前に、桃子が蒼空の背中を軽く叩く。
「この子ね、まだチェス初めたばかりだけど筋がいいの。あたしが保証するよ」
「へぇ」
「マジで?」
「おもしろそうじゃん」
途端に部員たちの目が獲物を見つけた猫みたいになる。
奥の机で対局していた二年生らしき男子が、駒を並べ直しながらこっちを見た。
「部長は?」と桃子。
「今日は来てない。大会の準備で顧問と打ち合わせらしい」
「そっか。じゃあ軽くお披露目マッチやろっか」
「お、お披露目?……」
蒼空が戸惑っているうちに、桃子は空いている机に向かい、手際よく駒を並べ始めた。
「ほら、座って」
「俺まだ入部するとは――」
「はい、座る」
抵抗する隙もなく椅子を引かれ、蒼空は腰を下ろした。
駒を並べる音が小気味よく響く。木と木が触れ合う澄んだ音。
向かいの席には、さっきの二年生が座っていた。短髪で目つきが鋭い。
「じゃあ軽く一局な。俺、アキラ」
「……蒼空」
握手はせず、駒が並び終わるとすぐにゲームが始まった。
アキラの指は迷いなく動く。ポーンが中央を押し上げ、ナイトが跳ね、ビショップが長い斜線を睨む。蒼空も昨日の夜からの詰め込みで覚えた形を必死に再現する。
(e4……e5……Qh5……違う、こっちの形はダメ)
中盤、アキラのナイトが蒼空のポーンを奪う。だが蒼空は一手先を読んでビショップを滑り込ませ、そのナイトを取り返す。「おっ」と小さな声が漏れる。
次の瞬間、アキラがクイーンを前に進め、蒼空のキングを脅かす。蒼空は冷や汗をかきながらも、ページで覚えた防御を咄嗟に選んだ。
途中、アキラがニヤリと笑った。
「へぇ、ビギナーにしては悪くない動きするじゃん」
「……本でちょっと練習した」
「そんだけでこれなら伸びるかもな」
周りでは他の部員たちが立ち見し、時々小声で囁き合う。
「ナイトの使い方、意外と上手いな」
「でも終盤はまだ弱い」
そんな言葉が耳に入るたび、蒼空は指先に力を込めた。
結果は、やはり負け。だけど先日桃子に負けた時みたいな完敗じゃない。中盤までは互角で、アキラも少し本気になったのがわかった。
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「……悪くない。初心者なら1000もないはずだけど、お前はすぐ1200は行くな」
アキラは蒼空と握手をしながら言った。
蒼空「1000? 1200?」
「ELOレート。チェスの強さを数字で出すやつだよ。戦闘力みたいでかっこいいでしょ♡」
横から桃子が口を挟む。「アキラ先輩は1400、颯真先輩は1800で地方大会の常連。部長の伊織先輩は2100で全国トップクラスなんだよ」
「ふーん。じゃあ桃子は?」
「Sekret♡秘密、教えたら蒼空はビビってやる気なくしちゃうよー」
アキラ「桃子はチェスの本場のポーランドで鍛えられてたんでめっちゃ強いよ。でも僕らにもポーランドでのELOレートは教えてくれない」
桃子はにやにや笑いながら、蒼空の肩をポンと叩いた。
「あたしは師匠に日本ではまた一からやり直してみろって言われてるからね……ふふっ、でも今の蒼空は1000もないから安心して」
「……数字でマウント取るなよ」
「取るに決まってんじゃん。それが現実。あんたは戦闘力1000以下から積み上げていくの、これからね」
「大丈夫、俺、すぐに1万を超えるから」
「ふふっ、Głuptas♡」
「……どういう意味?」
「ポーランド語で“おバカ”って意味♡」
「……ムカつくおまえ」
「いい?ELOレートはGM、グランドマスターって言われるチェスの神様みたいな人たちが2500-2800。そして人類の最高値がマグヌス・カールセンの2882なのよ」
「うそ!?10000はないのか……」蒼空はちょっと赤くなった。
「ELOレートは人間用のチェスの強さを表す数値だけど、もっと上はあるよ。参考値だけどchess.aicのZero Kingって最強のAIプレイヤーは3900くらいって言われてるよ」
「なにそれ?そんなに違うの!?世界最高の人間より1000以上も上」
「それだけAIプレイヤーの強さは異次元ってこと。最強のAIプレイヤーは人類が培ってきたチェスの定石とかにとらわれず、何もないZeroのところから数千万回のAI同士の対局を経て新たに戦略を1から作り直しているんだって」
「俺、AIよりも人間の方が強いのかと思った……」
「1997年に当時の世界チャンピオンがAIに敗れて以来、AIは進化をし続けてるの。ある有名なGMの人が”Zero Kingの対局を観ることは、地球に降り立ったより高度な種族が私たちにチェスの遊び方を示すようなものだ”って言ってたくらいなんだよ」
(二年前に俺がAIを倒したというのは何かの間違えだった?、陽斗にからかわれてたかも……)
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部室の奥、トロフィーが並んだ棚が夕陽に照らされ、金色に輝いていた。
蒼空はなんとなく、その光をまっすぐ見られなかった。
(俺の戦闘力は1000以下……か。でも、だからこそ)
ポケットの中で、自分の指先がチェスの駒をなぞるように動いた。
次は、もう少し届く気がした。




