EP02 再戦と勧誘
放課後の帰り道、蒼空は駅前の古い書店の前で足を止めた。
昨日、桃子にあっけなく負けたチェス。その盤面が、まだ頭の中でぐるぐると再生されている。白のクイーンとビショップが一直線に迫ってきた瞬間。あれが何だったのか、どうして自分は気づけなかったのか――悔しい、そして――知りたい。
蒼空はスマホを持っているが、家の机に置きっぱなしだ。SNSもやらないし、ネットで調べ物をする習慣もない。理由は単純で、興味がないからだ。だからこういう時は、昔から紙の本に頼る。ページをめくる感触や、インクの匂いが好きだった。
自動ドアをくぐると、静かな冷房の空気が頬に触れる。書棚を眺めながら奥へ進み、趣味・実用のコーナーで目に留まったのは――『チェス入門』入門書の割にはかなり分厚い。表紙には艶やかな木目の駒の写真。
そのクイーンの装飾に、なぜか胸がざわついた。どこかで見たことがある。
ページを開くと、駒の動き、チェックとチェックメイト、キャスリング、アンパッサン。写真と図がやさしいトーンで並んでいる。
(知らないことだらけ……)
喉が乾く。ページをめくるたび、知らない単語が増える。だけど、奇妙に落ち着いた。知らないなら、知ればいい。
レジで本を買うとき、ビニールに入れられる音がやけに大きく聞こえた。袋の角を握りしめて、家まで走る。夕焼けが住宅街の屋根を赤く染めていた。
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帰宅した蒼空は制服のまま押入れを開け、奥から埃をかぶった木箱を引っ張り出した。親父のお土産と聞いていた古いチェスセット。箱を開けると、薄紙に包まれた駒が一つずつ顔を出す。そしてあの本の表紙とそっくりな装飾のクイーンが現れた。
手に取って眺めると、台座の縁に小さなサインのような刻印と、読めない外国語が彫られている。指でなぞってみると、冷たい木肌の中に、妙な温もりを感じた。
蒼空の母は、彼が物心つく前に亡くなっている。父は海外出張が多く、家にいる時間は短い。自然と、蒼空は自分で何でもこなすようになった。特に料理は得意で、毎日三食を自炊し、学校にも手作り弁当を持って行く。父が在宅のときも、台所に立つのは蒼空だ。
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その夜は、夕飯の後で机にチェスセットを広げ、『チェス入門』を開いた。
初期配置を一個ずつ真似して並べる。キングとクイーンの位置、ビショップとナイトの順番。合っているはずなのに、何度も確認した。並び終えると、部屋の空気がすっと整う。背筋が伸びる感じ。
本の最初の章を声に出して読む。「ポーンは前へ一マス、初手のみ二マス進める。斜め前にだけ取る」。指で駒を動かしながら、ノートに矢印を描いた。次のページには“チェックメイトの基本形”。四種類の図。見覚えのある形があった。
――Scholar’s Mate、学者の詰み。クイーンとビショップの連携で王を四手詰めにする初歩的な定石。
蒼空は息をのんだ。
これは、二年前に自分がAIを相手に勝った時と同じ形だ。あの時は理由もわからず駒を動かし、気づけば勝っていた。その奇妙な体験と、今日の敗北が一本の線で繋がった。
ページを開いたまま、盤上で再現する。
<PGN>1. e4 e5 2. Qh5 Nc6 3. Bc4 Nf6 4. Qxf7#
黒のナイトとポーンの守りが一瞬で破られて、キングの逃げ道がない。さっきの自分の盤面とまるで同じだった。指が止まる。
(防ぎ方……)
解説にはちゃんと書いてある。「g6でクイーンのラインを遮断する」「Qe7でf7を守る」「d5で中央を突いて反撃」
駒を戻して、何度も動かして、戻した。黒のポーンをg7からg6へ。白のクイーンがh5に来ても、斜線が切れる。今度は詰まない。心の底でなにかがわずかに噛み合う。
(守れる。知っていれば)
ページの端が少しよれていく。キャスリングの図を指でなぞり、アンパッサンの説明で首をかしげ、基本のチェックメイトをもう一度並べ直す。
蒼空は本とチェス盤に落ちるようにのめり込んだ。『チェス入門』はまるで蒼空のために書かれたように感じられ、読み進めるうちに「知識」というより「思い出」を辿っているような感覚だった。気が付くと一冊をざっと読み終えたのに時間はそれほど経っていなかった。
眠りに落ちる直前、蒼空はほんの少し微笑んでいた。知らないことは、知ればいい。四手で詰まされるなら、五手目で笑い返せばいい。
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翌日。昼休み、桃子は教室の窓際で友人の女子たちと一緒にサンドイッチを食べていた。そこに蒼空が現れる。女子たちの視線が蒼空に集まる。
「昨日の続き、やろう」
桃子はニヤリと笑う。
「ふふ、やっぱり来たね。じゃ、相手してあげる」
桃子はサンドイッチをミルクで流し込むと教室の隅の机で蒼空とチェス盤を挟んで向き合う。
友人の女の子たちは二人を遠目でみてヒソヒソと笑いあう。
駒を並べてゲーム開始。昨日と同じ序盤――だが蒼空の手は迷わない。桃子が仕掛けようとする罠を、さらりと回避する。駒を動かすたびに、桃子の表情が変わっていく。
「……やるじゃない。どうして急にそんなに強くなったの?」
「昨日、本買った。『チェス入門』」
「はぁ? 入門書1冊でこんなになるわけ?」
桃子は眉をひそめ、ふっと笑った。
「ふざけんじゃないわよ。私、小学生の頃からチェスやってるんだよ?」
その言葉に、蒼空は肩をすくめた。
「じゃあ、本の力ってすごい」
「Kurczę!(むかつく!)ところでその本の著者って誰なの?」
蒼空はカバンから『チェス入門』を取り出して確認する。
「エレナ・コワルスカ (Helena Kowalska)って人。表紙のクイーンとそっくりのチェスセットが家にあったからこの本に決めたんだ」
――桃子の顔色が変わった
「ちょっとその本見せて!」
桃子は『チェス入門』を蒼空からひったくって著者の写真と表紙を代わるがわる見つめる。
「Boże…(ああ神様…)エレナ・コワルスカ!?そしてこのクイーンがあんたの家に??蒼空、前から聞こうと思ってたんだけどあんたってひょっとしてハーフ?」
「クオーターってやつ。母方にポーランドの血がはいってる。それが何かお前に関係ある?」
「そのエレナって人、ただの入門書の著者じゃないんだよ……」
桃子は物思いにふけりながら蒼空を試すように対局を進め、盤面はほぼ互角のまま昼休みが終わる。彼女は蒼空の顔を真剣に見つめて言った。
「決めた。あんた、今日からチェスクラブに入りなさい。私が直々に鍛えてあげる」
「は? 俺、入るなんて――」
「いいから。これは運命よ。あんたはチェスをやるべき、絶対に逃さないからね Rozumiesz?(わかった?)」
腕を引かれ、蒼空はそのまま部室へと連行されていった。




