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EP25 犠牲の美(友梨佳 vs 蒼空)

【♢対局直前】


前の対局が終わり、会場の空調は少し強くなった。夏の京都は、それでも湿度の重さで肩口に薄い汗を貼りつかせる。


私(友梨佳)は、掲示板に貼られた二回戦の組み合わせを指でなぞりながら、目の前の名前を胸の内で何度か読んだ。


――蒼空。16才。


同じ大会に出ている伊織くんと同じ高校の一年生。公式レーティングはELO1000。去年までの記録は、まったくない。


「ELOがこの値ってことは、やっぱり今までは公式戦に出ていない? 高校からチェスを始めたのかしら。それで全国大会の準々決勝(ベスト8)まで……」


一回戦の戦評だけは、やたら話題だった。遅刻、残り60秒スタート、インクリメント30秒。そこから毎手21秒で指し続けて逆転勝ち。


――時間を、相手から奪う?


聞くほどに、情報は水みたいに手の隙間から落ちていく。対策らしい対策は立てづらい。でも、大丈夫。私は私のチェスをするだけ。


私は深呼吸して、髪をまとめ直し、紺のリボンの位置を指先で確かめた。


「美しく整える。中央を抱きしめる。王は静かに息をする」


心の中で、いつもの合言葉ルーティンを唱える。


【♢対局開始】


「よろしくお願いします」


私は白い手袋みたいに指先を揃えて、ゆっくりと頭を下げる。


向かいで――彼は、少しだけペコリと頭を下げた。視線が合った一瞬、深い緑が光った気がして、胸がとくん、と跳ねる。


(……綺麗な色)


私は目線を盤に戻し、初手に手を伸ばした。


【♢オープニング】


1.d4 Nf6 2.Nf3 g6 3.c4 Bg7 4.Nc3 O-O 5.e4 d6 6.Be2 e5 7.O-O Nc6


「キングズ・インディアン(※)……ふふ、けっこう攻撃的なのね。かわいい」


> ※King's Indian Defense:黒はポーンをd6とe5に配置し、

> ナイトやビショップを活用して中央を制圧する、黒の攻撃的なオープニング


私の白は、いつものように丁寧に形を整える。


c4の白、g2のビショップ、d4-e4の白い杭。黒はfianchettoから王を囲ってくる。


ここまでは、きれいな定跡の曲線。盤の上には、左右対称の呼吸がまだ残っている。


8.d5 Ne7 9.Nd2 Ne8 10.b4 f5


中央を押し出す。d5。


黒は跳ねて、また身を固め、b4から私は翼を延ばす。――そこで、f5。


(来た。あなたの呼吸)


11.c5 Nf6 12.f3 f4


私は、白の壁を前へ。黒はfポーンをさらに押し出して私の中心を叩く。


音が硬くなる。


(乱れさせない。美は崩さない。整えて、耐えて、中央に香りを集める)


13.Nc4 g5 14.a4 Ng6


私のナイトはc4へ。駒の配列が、美しい斜線を描きはじめる。


黒はgポーンを押して、翼で風を起こす。


会場のざわめきが少し落ち、駒の音だけが薄く響く。


【♢ミドルゲーム】


15.Ba3 Rf7


ビショップをa3へ――長い対角線。


盤面を見下ろすと、斜めの境界線を挟んで、白と黒が綺麗に分かれている。


「……きれい」


声に出してしまいそうで、唇の内側でだけ言う。


中央の支配は、まだ私が持っている。評価バーの指針が、ほんの少し白に傾いているのを、指先の汗で感じる。


(評価値+1.0くらいね。この勝負、もらったわ)


16.b5 dxc5 17.Bxc5 h5


bポーンを前へ。c5を白のビショップが取り返して、私はクイーンサイドの形をさらに整える。


黒はh5――ここでも翼。


駒の軌跡と、私の鼓動が、同じテンポで重なる。


18.a5 g4 19.b6 g3


――荒い息が耳に触れるような手。黒のgポーンが前進して、g4。さらに、g3。


私はaポーンを押し、bポーンも突き上げ、盤の左側で白の絵を塗り込めていく。


(大丈夫。右で暴れて、左で勝つ。あなたの王は深く、私の王は静か)


20.Kh1 Nh7


私は王をh1へ、涼しい影へ避難させる。黒はナイトをh7へ――g5-e5-f6、あるいはg5-f3の夢。


(見えている。警戒はしている。……している、けれど)


21.d6


ここで、私の白の手が中央の芯を打つ。d6。


黒陣の血圧が、ほんの少し上がる音がした。


(形勢評価は、まだ白。今も評価値+1.0くらいのはず。私が正しい。大丈夫)


向かいの彼――蒼空くんは、時計を見ない。深緑の瞳で盤の中央を見つめて、両手を膝の上に置いたまま、呼吸だけを整えている。


ほんの一瞬、会場の時計が私の視界に入った。


43:04。


彼の指が動いた。


(蒼空は21手目を――フィボナッチ数。2, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89……2584秒『43:04』で指した)


…Qh4


黒のクイーンがh4へ、静かに滑った。その音が、胸の奥の糸をひとつ撫でる。


(蒼空くん。あなたは何が見えているの?)


22.Bg1 Bh3


私はBg1でクイーンの直線を遮る。黒はBh3――黒いビショップが、王の毛布の端を指でつまむみたいに近づいてくる。


(近い。だけど、まだ崩れていない)


23.bxc7 Bxg2+


私はbxc7で、昇段の道を開きながら駒得の香りを掴む。


(白よし。+1.0。形は白のまま)


黒はBxg2+。黒ビショップがg2の兵を取り、チェック。


私はほんの指先の幅だけ眉を寄せて――


24.Kxg2


白王で取る。落ち着いて。


(これで黒の攻め駒は一枚減った。次にc8=Qの筋もある。――勝ちの匂いは、まだ白)


その瞬間、彼の瞳の深緑が一瞬、盤に映った気がした。


蒼空くんの右手が、女王をそっと持ち上げる。


(え……?)


…Qh3+


黒いクイーンが、やさしくh3に触れた。


チェック。


クイーンが、差し出された。


(――犠牲)


頭の奥で、細いガラスが割れたみたいに音がする。


美しい。けれど、これは……無謀? それとも――


25.Kxh3 Ng5+


私は取る。Kxh3。迷わない。


黒は続けてNg5+。ナイトのチェック。


(線ができた? 何の――)


26.Kg2 Nh4+


王をg2へ。


黒のナイトがh4+と跳ねてくる。チェック。駒の音が、乾いた拍子で鳴る。


(待って。息を整えて。形はまだ白。美は崩れていない)


> 蒼空の24手目のQh3+ は“取らせて”からNf3/h4の連続チェックでh筋を凍らせる。

> 白の守り駒が“間に合わない”構造になっていた。


私は王をh1へ戻す。


27.Kh1


その手が、最終図の枠を完成させてしまったことに、私の美意識は一秒遅れで気づく。


…g2#


黒のgポーンが前へ、ひとつ。


――チェックメイト。


盤上に、黒い細い線がまっすぐ森を突き抜けていた。


女王の命を燃やして描かれた、ただ一本の道。


最後に立っているのは、ちいさな兵士。


(……綺麗)


音が遠のく。評価値も、観客の息も、ぜんぶが一瞬、薄いガラスの向こうに行った。


私は口の中で、熱い息をひとつ押し込める。


――負けた。


でも、胸の内側は、不思議なくらい静かだった。


【♢終了後】


「ありがとうございました」


彼が頭を下げる。私は盤面の上に指を伸ばし、g2の黒ポーンの上で止める。


(女王の犠牲からの、ポーンメイト。無駄がない。線が綺麗。説明できる驚き)


<PGN>1. d4 Nf6 2. Nf3 g6 3. c4 Bg7 4. Nc3 O-O 5. e4 d6 6. Be2 e5 7. O-O Nc6 8. d5 Ne7 9. Nd2 Ne8 10. b4 f5 11. c5 Nf6 12. f3 f4 13. Nc4 g5 14. a4 Ng6 15. Ba3 Rf7 16. b5 dxc5 17. Bxc5 h5 18. a5 g4 19. b6 g3 20. Kh1 Nh7 21. d6 Qh4 22. Bg1 Bh3 23. bxc7 Bxg2+ 24. Kxg2 Qh3+ 25. Kxh3 Ng5+ 26. Kg2 Nh4+ 27. Kh1 g2#</PGN>


私は棋譜を眺めて微笑んで言った。


「美しかった。……負けちゃったけど、幸せな気持ち。蒼空くん、あなた、年下でかわいいのに――私、あなたのこと、もっと知りたくなっちゃった♡」


彼は困ったように笑って、目を逸らした。耳の先が、少しだけ赤い。


(あら、かわいい)


その時、背後から、ポーランド語が飛んできた。


「O nie, mój chłopak jest miękki jak wata cukrowa!」

(ちょっと、私の”彼氏”は何ふにゃふにゃしてんの!)


振り向くと、セミロングの可愛い女の子――さっき売店で見かけた子が、腰に手を当ててむくれていた。


目が合うと、彼女はちょっと照れ笑いして、私にウィンクする。


(あら、準決勝に進んだ桃子さんね。蒼空君の彼女さんなのかしら?)


私は軽く会釈して、もう一度、盤に視線を落とした。


h3に至るまでの黒女王の道筋、g2の小さな兵。


私の美の庭に、彼の手で一本の黒い小道が描き足されている。


壊されたのではない。連れて行かれたのだ。私が愛してきた整える美から、動かす美へ。


胸の奥が、少しだけ温かくなる。


(次は、私の番。あなたの“線”の上に、私の色を重ねてみせる)


私は席を立ち、深く一礼した。


――京都の夏、塗り重ねられた美の一局。


犠牲の灯りは、確かに美しかった。


そして、まだ続きがある予感が、私の指先に柔らかく残っていた。

<PGN>1. d4 Nf6 2. Nf3 g6 3. c4 Bg7 4. Nc3 O-O 5. e4 d6 6. Be2 e5 7. O-O Nc6 8. d5 Ne7 9. Nd2 Ne8 10. b4 f5 11. c5 Nf6 12. f3 f4 13. Nc4 g5 14. a4 Ng6 15. Ba3 Rf7 16. b5 dxc5 17. Bxc5 h5 18. a5 g4 19. b6 g3 20. Kh1 Nh7 21. d6 Qh4 22. Bg1 Bh3 23. bxc7 Bxg2+ 24. Kxg2 Qh3+ 25. Kxh3 Ng5+ 26. Kg2 Nh4+ 27. Kh1 g2#</PGN>


※ 駒の動きを確認したい方は、<PGN> ~ </PGN>の部分をコピーし、

Lichessの解析ボード(https://lichess.org/analysis)のPGN入力欄に貼り付けて、Importボタンを押してみてください。

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