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EP24 氷の詰み(サンドラ vs 伊織)

盤が設置されたテーブルには、対戦者が来る前から円形の堤防みたいな人だかりが出来ていた。報道の腕章をつけたスタッフが三脚を伸ばし、記者バッジの群れがざわめく。


「次はサンドラだって」「今朝の“10手メイト”をやった子だよ」「Engine Labのロゴ、見える?」


「午前は白のワンピだったろ。――え、今度は黒に着替えてきた!」


黒のノースリーブのショート丈ジャケット。同素材のハイウエスト・ショートパンツ。ネクタイはせず、首元に細いシルバーのチェーンがひとすじ。胸元のピンはEngine Labの王冠だけ。


彼女が歩いただけで、会場の温度が一度、下がった気がした。


先に席に着いていたのは伊織。背筋は糸のようにまっすぐ、顔には余計な影がない。


(相手のELOはインターナショナルマスター相当。勝てなくても仕方ない――でも食い下がる。桃子と蒼空のために、できるだけ情報を持ち帰る。自分のチェスを忘れるな)


トスで白黒が決まり、サンドラが白、伊織が黒に。


サンドラは唇の端を少し上げ、英語でさらり。


“I was expecting to be black, but never mind.♡”(黒番になると思ってたけど、まぁいいわ♡)


伊織は日本語で「よろしくお願いします」と深く礼をした。二人の礼儀の温度差が、そのまま盤上の予報に思えた。


===================

☆☆序盤:冷徹で整然と☆☆


1.e4 e6 2.d4 d5 3.Nc3 Bb4 4.e5 Qd7


――フレンチ・ディフェンス。黒は伊織らしい堅実な構築線。


「定跡通り、きれいだ」「黒、柔らかい“フレンチらしさ”だね」と解説席めいた囁き。


5.Bd2 b6 6.f4 Ne7


白は全駒が合理の位置を取りに行く。無駄がない。


「Engine Lab 出身って噂、本当じゃない?」


「“完全分析型”の配置精度だな」


7.Qg4 g6 8.Bb5 c6 9.Bd3 Ba6 10.Bxa6 Nxa6


ビショップ交換の触れ合いに、評価バーはほとんど動かない。


(正しい。最善。――なのに針が動かない)


伊織の眉はわずかに寄る。(正着を指しても、減点されないだけ。加点は、白の“整う側”にある)


11.Qe2 Qb7 12.Nf3 Rb8 13.Kf2 Bxc3 14.bxc3 c5


黒は反撃の芽を撒く――c5で圧を返す。


15.Qb5+ Nc6 16.Rab1 O-O


王を囲う。ここまで、黒は穴を作っていない。


記者のマイクがひそひそと拾う。


「黒、悪くない」「いや、“悪くない”のに白番の温度だけ上がる感じ。AI相手の戦いってこれだよね」


===================

☆☆中盤:静かに積み上がる圧☆☆


17.g4 Na5 18.f5 Nc4


白のg4、続けてf5。面で押さえ、線で刺す。


伊織はNc4でブロックを作る。(形の骨格は守れている)


19.f6 Nc7 20.Qb3 Qc6


白のf6が芯に潜る。評価バーが+0.5から+0.8へ、しかしゆっくりだ。


(黒は最善を指している。けど“増えない”。白は置くだけで増える……!)


21.Bh6 Rfc8 22.h4 a5 23.h5 a4


サンドラの駒は連携を完成させていく。


“Bh6”――黒のRfc8を誘い、h4→h5で筋肉を動かし、黒がa5→a4で反対翼のカウンターを選ぶ間に、白陣の輪郭はAIが描く理想図へ近づく。


+1.0。


観客が小さくため息を吐く。「キレイだ……」「人間フロストフィッシュ(※)」


※Frostfish:Frostfish社のAIプレイヤーの名称


24.hxg6 fxg6 25.Ng5


静かに白の尖りが現れる。一歩前で止まっていた“刃”が角度を持つ。


(ここで黒に悪手はない。だが“最善だけでは届かない”領域に入った)


伊織は膝の上の親指に力を込める。(落ち着け。見えるものを全部計算しろ。外の空気は切る)


カメラの赤ランプが増える。


「評価値、+1.0で固定したままに見えて実は下地が沈むんだよ」


「“減点されない正しさ” vs “置くだけで加点される正しさ”。こわいね」


===================

☆☆終盤:一瞬の爆発、美の宣告☆☆


26.f7+ Kh8


盤の温度が一度上がる。


サンドラのfポーンがf7へ――黒王の“呼吸”に触れる位置。


(ここで初めて、AIの一手に感情が宿ったように見えた。宣告だ)


緩やかに+1.0(白有利)だった評価値は、26.f7を境に白に一気に傾く


伊織はKh8。最善。


(ここから――落ちない)


27.Nxh7 bxc2


白はNxh7で“針”を抜き取り、黒はbxc2で反撃の利を作る。(まだ、詰んでいない)


28.Nf6 cxb1=Q


白のナイトがf6へ。黒はc1をQに昇格、cxb1=Q。


評価バーの針は、それでも白の端でびくともしない。


記者が息を飲む。「反撃の女王を作っても、景色が変わらない……」


黒の新女王は遠く、h筋の“橋”へ干渉できない。テンポで負けている。


29.f8=Q+ Rxf8


白もf8=Q+。黒はRxf8でそれを落とす。


(この交換に、意味があるのか――ある。線が開いた)


f8での交換で王周りの利きが剝がれ、c1–h6 の対角と h筋が同時に通った。


30.Bc1+ Kg7


白ビショップがc1+。黒王はg7へ。


――そして、盤の上に一本の道が見えた者たちが、同時に静かになる。


31.Rh7#


白ルークがh7へ。チェックメイト。


――王は逃げない。逃げられない。


h筋に白の綺麗な“橋”が架かり、黒王の背に静かな扉が閉まった。


会場に一瞬、無音。すぐに爆ぜるような感嘆。


「美しい」「詰みの絵が……」「人間的な華だ」「最後の3手だけ詩人!」


評価バーは+∞で固まった。

伊織は、詰みの図をまっすぐ見た。悔しさはある。だが、同時に納得がある。(負けを受け取る形が、こんなにも整っているなんて)


<PGN>1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4 4. e5 Qd7 5. Bd2 b6 6. f4 Ne7 7. Qg4 g6 8. Bb5 c6 9. Bd3 Ba6 10. Bxa6 Nxa6 11. Qe2 Qb7 12. Nf3 Rb8 13. Kf2 Bxc3 14. bxc3 c5 15. Qb5+ Nc6 16. Rab1 O-O 17. g4 Na5 18. f5 Nc4 19. f6 Nc7 20. Qb3 Qc6 21. Bh6 Rfc8 22. h4 a5 23. h5 a4 24. hxg6 fxg6 25. Ng5 axb3 26. f7+ Kh8 27. Nxh7 bxc2 28. Nf6 cxb1=Q 29. f8=Q+ Rxf8 30. Bc1+ Kg7 31. Rh7#</PGN>


===================

☆☆終局後:チームへのパス☆☆


伊織は英語で、言葉を選んで告げた。


“I couldn't win, but I believe my team will surely win.”


(僕は勝てなかった。でも、チームとしてはきっと勝てる)


サンドラは口角を羽のように上げる。


“I'm looking forward to it.♡”(楽しみにしてるわ♡)


記者が一斉にシャッターを切る。


「“格の違い”の定義、見た気がする」「でも黒も崩れなかったよ」「最善で届かない地点まで静かに運ぶ――恐怖だね」


人だかりの後方、スコアシートを受け取った蒼空が、並んだ手順を目でなぞる。


> 彼の内側で、Caïssaが囁いた。

(ふふっ、このサンドラって娘、AIみたいで面白いわね♡)

>


蒼空は、紙の端を軽く折った。(詩的な3手を、どう“説明できる驚き”に変えるか――考える)


サンドラは席を立ち、黒のショートジャケットの裾を指で整えた。Engine Labの王冠が、ひかりを一つ、弾く。


彼女の背中には、熱がない。けれど、残された詰み図には、静かな熱がかすかに残っていた。


A-01の盤上から駒が外され、新しい対局の駒音が始まる。


観客の耳のどこかでは、まだRh7#の小さな鈴が鳴っている。


――格の違い。それは、正しさが美になる速度の違いでもあった。

<PGN>1. e4 e6 2. d4 d5 3. Nc3 Bb4 4. e5 Qd7 5. Bd2 b6 6. f4 Ne7 7. Qg4 g6 8. Bb5 c6 9. Bd3 Ba6 10. Bxa6 Nxa6 11. Qe2 Qb7 12. Nf3 Rb8 13. Kf2 Bxc3 14. bxc3 c5 15. Qb5+ Nc6 16. Rab1 O-O 17. g4 Na5 18. f5 Nc4 19. f6 Nc7 20. Qb3 Qc6 21. Bh6 Rfc8 22. h4 a5 23. h5 a4 24. hxg6 fxg6 25. Ng5 axb3 26. f7+ Kh8 27. Nxh7 bxc2 28. Nf6 cxb1=Q 29. f8=Q+ Rxf8 30. Bc1+ Kg7 31. Rh7#</PGN>


※ 駒の動きを確認したい方は、<PGN> ~ </PGN>の部分をコピーし、

Lichessの解析ボード(https://lichess.org/analysis)のPGN入力欄に貼り付けて、Importボタンを押してみてください。

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