EP22 薄化粧の勝利(桃子 vs ヒロキ)
【アナウンスが、会場の天井でほどけていく。】
「準々決勝1試合目は――広島県代表、ヒロキ選手。対しては東京都代表・桃子選手」
観客のざわめきが、すぐに“勝手な評価”の温度を帯びる。
「ヒロキは ELO 1950 の常連だぞ」「桃子って子は ELO1000? 初参加か。胸を借りる形だな」
すぐそばで、颯真が肩をすくめてぼそっと言う。
「ただの初出場の女子高生やと思たら大間違いや。びっくり箱やで、あれは」
桃子は椅子を引く。制服の袖口を軽く整え、ふわりと笑う。
(去年の覇者、怜と当たるのは次。全部は見せない。――あざとく勝つ)
向かいに座るヒロキは、眼鏡の奥の目にやる気を宿していた。肩の力は少し張っているが、盤を見る目はまっすぐ。
(初参加? 落ち着いて行けば押し切れる。駒損を嫌うタイプなら、焦りを誘えば……)
審判が時計を押す。
「お願いします」
「お願いします」
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【オープニング(〜14手):受けに回る薄衣】
白はヒロキ。初手、1.c4――いわゆるイングリッシュ。
(出た、得意型。颯真先輩がくれた情報通りだね)
黒の桃子は、手元の駒をふわりと進める。…e6。
“受け身”に見える着地ばかり選ぶ。守りの絵を描くだけの無害な筆致で。
2. e3 / …Nf6
3. Nf3 / …d5
4. Nc3 / …Bd6
(“ふつうの子”のふつうの受け――そう見せる)
ヒロキは中心へ軽く圧をかける。5. d4 O-O
白のポーンは無理をしない、駒の展開も端正。6. c5 / …Be7
評価値は +0.3〜+0.5 の白微差で一定。観客は安心して見守る。
桃子(心の声):
(事前の情報じゃELO1890、駒を犠牲にしない堅牢防御、焦りを利用して逆転……だっけ?ふふ――じゃあ逆に、焦らせてあげちゃう♡)
7. b4 / …b6
8. Bb2 / …a5
9. a3 / …Bd7
10. Ne5 / …Be8
11. Bd3 / …Nfd7
――評価値は動かない。+0.5。
見た目には、黒は“受けているだけ”。攻め筋を見せず、嫌なクセも出さない。
解説席の声(小さく):
「黒は構えだけ……ですね。受けの姿勢。これだと白がじわじわ良くなります」
「ヒロキ選手は持ち味を出せる展開」
桃子は、うん、というふうにうなずく。
(見せたいのは“私の弱さ”で、見えない場所で支配するのが今日のお仕事)
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【中盤(15〜30手):リズムの窒息】
ヒロキは時計をちらと見て、テンポを上げる。
「この娘、そんなに強くない。今のうちに押し切る!」
15.e4(白が中央を割る)
桃子は…Be6で受け、“一応”の当たりを外す。16.Nd5 / …Nb8
(最善の一歩手前、でも悪くはない――そんな手を続ける)
ヒロキは早指し気味。
17.Nxf6+ / …Qxf6 18.d4 / …Bxc4 19.dxe5 / …dxe5 20.Re1 / …Nc6
評価値は+0.6前後をうろうろ。
(押せる。押せる。このまま、形勢の差で圧殺だ)
その時、桃子は駒に触らない。
ただ、考えるふりをする。
視線は盤上のどこも見ていないようで、すべてを撫でる。
(あなたの拍を、ここでほんの半拍ずらしてあげる。ふふっ蒼空みたいでしょ♡)
21.Bf1 / …Rad8
22.Qc2 / …Re7
23.Bc3 / …Red7
――最善は…Re8(+0.35)が機械の推奨。でも桃子は…Red7(+0.28)を置く。“悪くないけど、刺さらない”
ヒロキは気づかない。
自分の指の速度が、いつの間にか上がっていることに。
(なんでこっちは詰め切れない? 崩れろよ……みたいな手を選んでくれ!)
桃子は息の長さだけで笑う。
24.Bb5 / …Rd6
25.Bxc6 / …Rxc6
26.Qb2 / …Rce6
形は整うが、白の利きは増えない。
黒は隙を見せない。白は良くならない。
評価値バーは+0.5〜+0.8で固定。
(勝ってると錯覚する白 vs 負けてない黒)
ヒロキは水を一口飲んで、時計を見て凍る。
残り 11:40。
対する桃子は、残り 23:10。
(え――いつの間に!?)
桃子は駒箱の端を指でとん、っと叩く。
(気づいたね。――ふふっ、じゃあそろそろ焦った方がいいよ♡)
27.Nxe5 / …Rxe5 28.Bxe5 / …Qxe5 29.Qe2 / …Rd4 30.b5 / …c5
桃子は微妙に嫌な受けを続け、先に進めない形だけを置いていく。
観客のいくつかの目は眠くなり、いくつかの目は“不思議な不快感”で冴える。
「なんか普通に進んでるだけ」「派手さがないね」
「でも白だけ疲れそう」
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【終盤(31〜45手):落ちるのは“秒”】
時計の数字が、ヒロキの視界に張りついて離れない。
残り 4:15。本戦は45分+30秒/手。終盤ほど“考えるのは相手”にできた方が強い。
(まずい、早く。早く――)
31.Rbd1 / …Be7 32.Qf3 / …Rxd1 33.Rxd1 / …c4
桃子は単調な手で、変化を白に押しつける。
考えるのは相手。時間を使うのも相手。
解説「おっと、ここでヒロキ選手の時計が……残り10秒!」
観客の息が詰まる。
桃子は盤上を見つめたまま、微動だにしない。
まつ毛の影が、駒の影と同じ角度で揺れるだけ。
…Qe5 なら形は保てるが …Qd6 だと端のポーンが走る――二択の重さが、秒針の重さになった。
ヒロキ「……え、えーと……どっちだったっけ!?」
指がクイーンとビショップの上を往復する。
9、8、7――
ピッ、ピッ、ピッ――
タイムアップ。
審判の声は乾いている。
「黒の勝ち(時間切れ)」
場の空気が一瞬だけ遅れ、次にざわめく。
「え、今の時間切れ?」「あれ、なんか普通に勝ったな?」
冷房の風は同じなのに、時計の音だけが硬くなっていた。
桃子は顔を上げる。
「あ、……終わり? ――そっか。ありがとうございました♡」
声はやわらかく、礼は完璧に丁寧。
“何もしていない”人の、勝ち方に見える。
スコアシートの余白に、評価値担当のスタッフがざっくり記す。
全局面 +0.5〜+0.8 付近で安定。
“地味な中級者の勝ち”――表向きは。
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【盤外:見えている者の会話】
颯真が口笛を吹いてから、肩で笑う。
「……桃子のやつ三味線、ひいとるな。相手に合わせたとっても渋いやつや」
アキラは腕を組む。
「時間配分、心理、変化の押しつけ。全部コントロールしてた。やることは何もしてないのに」
報道席で観ていた外国メディアが、ペンを指で回しながら英語でつぶやく。
“Is she… sandbagging?” “No—more like hiding her fangs under silk.”
(彼女、手を抜いてる? いや――牙に薄絹をかけている)
通りがかったサンドラが、横目で盤を一瞥してにこり。英語のアクセントは氷の粒だ。
“She wins by subtracting herself. How elegant.”
(自分を引き算して勝つのね。なんて風流)
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【退場:あざとさの余熱】
ヒロキはスコアシートにサインして、舌打ちはしない。ただ、息を長く吐いた。
(押せた、押せたはずなのに……どこで、いつ。詰めの前に息が切れた)
桃子はその様子を横目で見て、胸の内だけで小さく謝る。
(ごめんね。――準決勝の相手に、全部は見せられないの)
頬に髪をかけ直し、彼女は笑う。
「ふふっ、次の相手は怜とケイタの勝者ね。まあ順当にいけば怜」
その一言に、颯真が肩をすくめる。
「やっぱり余裕あるやん」
地味に勝ったように見える薄化粧の勝ちは、本番の舞台に続くための舞台袖。
桃子は袖を払って、軽く笑った。
(さて――本気のふち、次はどのくらいまで見せてあげようか)




