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EP20 サンドラ登場・格の違い

【A-01盤に降りる氷】


A-01の周りだけ、空調が一段強くなったみたいに冷えたように感じた。


でも違う。彼女が歩いてきただけだ。


長いブロンド、青い瞳、白い肌。白のノースリーブワンピースに、膝下で揺れる金糸の髪。東欧の冷たいガラスの欠片みたいな少女――サンドラ。


Frostfish系スポンサーのスタッフが二、三言交わし、短く頷く。黒地に白い王冠のワッペン。彼らのファイルの角には、小さくEngine Labのロゴが揺れている。


対するはユウト。18歳、愛知代表。全国常連、今大会も地方大会でELO2000の強豪を競り落とし、勢いは十分だった。


(ELO2400だろうが隙はあるはず。食らいついて、大金星を――)


報道を含め、ギャラリーが折り重なる。立ち見の後ろに、さらに二列。


「ヨロシクオネガイマス」


サンドラが片言の日本語で微笑み、右手を差し出す。握手。


(え、この娘すごくカワイイ)と、一瞬だけユウトの頭に花が咲く。


だが――白番の指が初手の駒へ伸びる、そのわずかな移動に、冷たい圧が走った。


(何だ……さっき“かわいい”と思ったのは何だ? この気迫……飲まれる)


観客のざわめきが低く沈む。盤の傍らの電子表示には、両者の持ち時間とAI判定による盤面の評価バーが呼吸みたいに明滅していた。


===================

☆☆開始(白・サンドラ、黒・ユウト)☆☆

1.e4


サンドラの白いポーンが、やさしくも迷いなく前へ。


ユウトはすぐ返す。


… Nf6 (Alekhine’s Defense、よし、研究範囲だ)

2. e5 Nd5


ユウト(来た、前へ。中央のスペースを押さえる気か。騎士はd5へ退く)

3. Nf3 d6


ユウト(要点はここから。白の中心圧と黒の反撃のバランス)

4. Bc4 Nb6


白ビショップがc4へ。ナイフのような斜線。黒の騎士はb6でその線を避ける。

5. Bxf7+ Kxf7


観客「えっ、いきなりチェック!?」


白ビショップがf7を叩き割る。黒王がKxf7でそれを飲み込み、露出。会場がどよめく。

6. Ng5+ Kg8


ユウト「またチェック!? ――落ち着け、王を下げるだけでいい」


黒王はg8へ。評価バーが黒優勢へ沈む。


ユウト(−2.8。大丈夫悪くない。むしろ勝ちが見えてきた)


サンドラは顔色ひとつ変えない。瞳が、まるでエンジンのログを追うみたいに、駒の影をすべらせていく。

7. Qf3 Qe8


白クイーン前へ。黒はすかさずQe8で受けの網を整える。


ユウト(はいはい、攻撃的だね。だがここは堅く受けるほど黒良し)

8. e6 h6


白のeポーンが、単騎で深く突き刺さる。


ユウト(−3.0。評価値がさらに黒に傾いた。形勢黒良し。ここから一気に――)


黒はh6。白のNg5を追い払い、呼吸を整える一手。

9. Qf7+ Qxf7


盤の周りで、評価バーが一瞬止まり――


-3.0から+99.9(= ほぼ強制詰み)に跳ね上がった。


観客の何人かが口を押さえ、盤面を二度見する。


(え、今、何が起きた? 黒が受けたのに――)


ユウトには見えない、その数字の暴力が意味を結ばない。


(……Qxf7で正解のはずだ。白のクイーンを交換して、e6の孤立ポーンを包囲すれば――)


サンドラは眉一つ動かさない。


青い瞳が、正解に触れたAIのように、ほんのわずか、輝度を上げた。

10. exf7#


白のeポーンが、f7の黒クイーンを飲み込みながら前へ。


===================

【チェックメイト。】


Kxf7の手は白の騎士g5に抑えられている。h7 も同騎士で禁じ手、g7は自駒、f8はQe8で塞がれ――逃げ場はどこにもない。


十手目、わずか5分で――Pawn Mate。


駒音は、まるで小さな鐘だった。最後の一打で、盤の空気が透明に凍る。


黒王g8は、逃げ道がない。


g7は初手からのビショップで塞がれ、h7はh6で自ら消し、f8はQe8のせいで王が踏めない。


そしてf7へ来た白ポーンの影が、王の呼吸をやさしく、しかし完璧に奪っていた。


評価バーは+∞の位置で静止し、A-01の周りに、遅れてざわめきが来る。


「10手で詰み……?」「Pawn mateだぞ、まるで魔法みたい……」「Alekhineでこれ、あるのかよ……」「格が違う、ってこういう――」


ユウトは、椅子の上で呆けた。


(ポーンが前へ? 王が動けない? 嘘だろ。俺の全国はこれで……?)


サンドラは時計に視線を落とし、口元を一ミリだけ緩めた。


――正解を言い当てたAIが、ログを保存するみたいに。


「アリガトゴザマシタ」


片言の日本語で礼を述べ、椅子を引く。その動きまで無駄がない。


ユウトの耳には、遠くの空調の音だけが残る。


(何が起こった? どこで――)


スタッフが淡々とスコアシートを回収し、Engine Labのロゴがもう一度、端で光った。


===================

☆☆“格”の可視化☆☆


<PGN>1. e4 Nf6 2. e5 Nd5 3. Nf3 d6 4. Bc4 Nb6 5. Bxf7+ Kxf7 6. Ng5+ Kg8 7. Qf3 Qe8 8. e6 h6 9. Qf7+ Qxf7 10. exf7# </PGN>


※ 駒の動きを確認したい方は、<PGN> ~ </PGN>の部分をコピーし、

(※サイトの仕様上、本文はコピーできないので後書きにもPGNを記入しました)

Lichessの解析ボード(https://lichess.org/analysis)のPGN入力欄に貼り付けて、Importボタンを押してみてください。


終局図は、美しい。


f7の白ポーンが王冠の位置にいて、e8の黒クイーンが消えた穴になっている。


h6で招いた自己崩壊、Qe8で自ら王の逃げ道を縫い塞いだ、Qxf7で引き寄せた最後の針。


その三つの小さな選択が、五分で運命を決めた。


盤の外では、ささやきが幾重にも重なる。


「序盤の原則“早期のクイーン交換は安全”――例外だ」「e6が毒だった」「9…Qxf7が致命傷。10.exf7#は機械の一手」


「格って、結局“どこで例外に気づけるか”なんだな」


「感じる速度が違う」


A-01盤の灯りがわずかに温度を戻す。サンドラは背に視線を集めたまま、群衆を割って歩く。


氷が溶ける音はしない。ただ、氷の形を理解した者たちの沈黙が残る。


===================

☆☆ユウトの長い一分☆☆


(Qxf7じゃなくて、Kh7は? いや、7…Qe8がなければf8へ逃げ筋――


h6が“詰みの絵”を完成させた? じゃあ8…h6を外せば――


違う、8…c6? …dxe5? …c5?)


時計の針が一分を刻む間に、ユウトは何十個ももしもを走らせる。


だが、十手目の静かな一歩が、全部の回路に一瞬で水を流し込んでしまう。


(格って――こういうことか)


彼はようやく息を吐いた。深くではない、小さな吐息。


そして、負けを記した自分のサインの曲線を、少しの悔しさと、少しの敬意で眺めた。


===================

☆☆氷の背中、残る熱☆☆


通路の向こう、白いワンピースがふっと角を曲がる。


サンドラは、空のペットボトルをゴミ箱に正確に投げ入れ、目線をほんの少しだけ上げた。


彼女のスポンサーが並走し、データの束を渡す。


Engine Labのロゴ。Frostfish系の紋。


そして、その背に向かって、会場のどこかから小さな拍手が起きる。


“十手メイト”の美しさに対する、純粋な感嘆だけの拍手。


サンドラは振り返らない。AIは振り返らない。


ただ、次の正解に向かって歩く。


(――格の違いは、正解の速度だ)


A-01の盤は元の位置に戻され、新しい駒が並ぶ。


だが、そこにいた者の網膜には、白いeポーンがf7に戴冠した瞬間の小さな鐘が、しばらく鳴り続けていた。


===================

☆☆観客の余白☆☆


「10手でpawn mateなんて初めて見た」


「ELO2400って、こう動くんだ……」


「“可愛い”とか言ってた俺、五秒で撤回したわ」


「いや可愛いのは事実。ただし、可愛い氷だ」


「格の違い、マジで風になるんだな。来た瞬間、寒かったもん」


笑いとため息が、溶け合う。


将棋倒しになりかけた人波が、やっと静かに散っていく。


どこかの盤でタイマーがピッと鳴った。


会場は、また別の物語を始める。


けれどA-01の物語は、五分で完璧に綴じられていた。


――格の違い。


その言葉の意味は、もう説明を要らない。


10.exf7#――それだけで十分だった。

<PGN>1. e4 Nf6 2. e5 Nd5 3. Nf3 d6 4. Bc4 Nb6 5. Bxf7+ Kxf7 6. Ng5+ Kg8 7. Qf3 Qe8 8. e6 h6 9. Qf7+ Qxf7 10. exf7# </PGN>


※ 駒の動きを確認したい方は、<PGN> ~ </PGN>の部分をコピーし、

Lichessの解析ボード(https://lichess.org/analysis)のPGN入力欄に貼り付けて、Importボタンを押してみてください。

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