表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/23

EP01 Scholar’s Mate

初夏の午後、廊下の床に差した陽の帯が長くのびていた。

チャイムが終礼を締めくくってから、教室の空気は一斉に色を変える。

部活のジャージ、コンビニ袋、誰かの笑い声。


高校一年生になった蒼空はその流れの端っこを歩いて、どこにも向かわずに廊下の角を曲がった。


(行く場所、別にないけど……)


ふいに視界の端に、木の肌が引っかかった。


開け放たれたドアの向こう、四角い机の中央に、薄褐色の盤。

八×八のマス目が並び、白と黒の駒が光を受けて小さく艶めく。

金属じゃなくて、乾いた木の匂い。知らないのに懐かしい感じがして、足が止まった。


===================

「——あれ、蒼空じゃん。何してんの?」


ドア枠からひょこっと顔を出し、楽しそうに笑っているのは、クラスメートの桃子だった。セミロングの髪が肩で軽く跳ねる。背は自分より少し低い。


「別に。ただ、見てただけ」


「ふーん。興味あるのかな?チェス」


ポーランドからの帰国子女で、なぜか男女問わず人気がある。感情が高ぶるとポーランド語がちょっと混ざる——それが桃子だった。


「……駒に触ってもいい?」


言葉が胸のどこかに引っかかって、ちいさい火花みたいに散った。

理由は分からないのに、口が先に動く。


「蒼空はチェス、やったことあるの?知らなかったー!」


——蒼空は2年前のあの出来事をちょっと思い出す。


「チェスの駒の形が綺麗だなと思っただけ……人とやったことはない……」


桃子はいたずらっぽく笑う


「駒に触るだけでいいの?初めてなんでしょ。せっかくだし、私が教えてあげる。これでもチェスクラブに入っているんだよ。初心者相手じゃすぐ終わっちゃうと思うけどねー♡」


桃子の天真爛漫な性格のせいなのか、からかう調子ではあるのに嫌味はない。彼女に続いて部室に入る。


===================

窓際に掛けられた白いカーテンが風で揺れて、陽がマス目の上で薄くちらつく。

椅子を引く音。

蒼空は盤の前に座り、初めて触れる駒のひんやりとした感触を指先に確かめた。


(……この感じ……)


二年前の夕方、公園のベンチ。友達のスマホ。画面に浮かんだ「YOU WIN」の文字。

手を動かすたび、誰かが耳元で囁くみたいに「次」を示してくれた。あの不可思議な確信。

けれど、その感触は今は薄い霧みたいに遠い。

指を閉じると、空気だけを掴んだみたいな心細さが残った。


(……そういえばあいつ、陽斗はるとだっけ、元気かな?)


「じゃ、いくよ。蒼空は初心者だから黒、先手の白は私ね。駒の動かし方は私の後ろの壁に貼ってあるから参考にして」


桃子がポーンを2マス前へ押す。駒がマスの中心に落ち着く音が小さく響いた。彼女の手つきは迷いがない。


蒼空は片手で髪をかき上げ、肩をすくめた。

「俺、実は強いよ」


「ふーん、そうなんだ。じゃあお手並み拝見」


根拠は曖昧な記憶ひとつ。自分でも馬鹿みたいだと思いながら、同じ列のポーンを押し出す。手のひらに汗が滲んで、木の手触りがわずかに変わった。


(……あれ?)


数手進んだだけで、胸の奥がざわついた。桃子の動きが読めない。


対面のビショップがするりと斜めのラインに乗って、彼女のクイーンが雪崩みたいに滑り込んでくる。駒が並ぶ角度、隙間、逃げ道。見えていたはずの筋が、音もなく崩れていく。


(声が……聞こえない)


二年前には確かにあった「次の一手」の囁きが、どこにもない。

耳鳴りのような静けさの中で自分だけが遅れている。


指先が硬くなる。間違った駒を掴みかけて、慌てて戻す。

桃子の指が、ためらいなくもう一度クイーンに触れた。


「はい。――Szach-mat、ポーランド語でチェックメイトだよ、蒼空くん」


言葉はやさしいトーンなのに、盤の上では冷たく決定的に映った。


===================

蒼空はキングを持ち上げかけ、そのまま固まる。

逃げ道がない。後ろはポーンに塞がれ、前は白い駒の斜線で切り裂かれている。


桃子はかすかに笑みを浮かべ、駒を元の位置に戻した。

指差し棒みたいにビショップの斜めをなぞり、クイーンの軌跡をひゅっと空で描く。


「これ、“Scholar’s Mate”っていうの。学者の詰み。四手で初心者を詰ませるやつ。ほんとはちゃんと守れば簡単に防げるんだけど、今みたいにナイトでの守備を怠ったり、ビショップで弱いマス空けちゃうと、こうやって……はい、詰み」


「……し、しらない」


「だよね。知らないと、すごく簡単にハマるの。覚えておくといいよ。王の前の弱いマスを狙われないように、ビショップとナイトを早めに出す、とか。ね?」


桃子に笑いながら言われる言葉は、石ころを転がすみたいに軽いのに、胸の内側にずしんと落ちた。悔しさで視界が滲む。鼻の奥がつんとする。


(なんで……)


蒼空は視線を落とし、唇を噛んだ。笑い声が外の廊下からこぼれてくる。日差しは変わらず温かい。


桃子はそっと右手を差し出す。


「なんだよ……」


「握手だよ、勝負が終わったら握手するの。これがチェスの作法」


蒼空はぎこちなく手を伸ばし、差し出された手を握った。

そして蒼空が彼女の目を見た瞬間、桃子は言った。


「悔しくてチェスをやりたくなっちゃったでしょ♡もう一回やる?」


桃子の言葉は不思議な感覚を伴って蒼空の心に響いたが、彼は首だけ小さく横に振る。


「そ。いつでもどうぞ、チェスクラブへ♡」


彼女は軽く手を振って、次の相手を迎えにドアの方へ歩いていった。


残された盤面を、蒼空は両手で囲む。手のひらの中に、さっきまで確かにあったはずの何かがない。空洞の形だけが、はっきり残っている。


悔しかった。いままで蒼空は何に対しても興味をもてず、本気になったことなどなかった。だが今初めての感情が自分の中で拡がっていた。負けたことがただ悔しかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ