EP01 Scholar’s Mate
初夏の午後、廊下の床に差した陽の帯が長くのびていた。
チャイムが終礼を締めくくってから、教室の空気は一斉に色を変える。
部活のジャージ、コンビニ袋、誰かの笑い声。
高校一年生になった蒼空はその流れの端っこを歩いて、どこにも向かわずに廊下の角を曲がった。
(行く場所、別にないけど……)
ふいに視界の端に、木の肌が引っかかった。
開け放たれたドアの向こう、四角い机の中央に、薄褐色の盤。
八×八のマス目が並び、白と黒の駒が光を受けて小さく艶めく。
金属じゃなくて、乾いた木の匂い。知らないのに懐かしい感じがして、足が止まった。
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「——あれ、蒼空じゃん。何してんの?」
ドア枠からひょこっと顔を出し、楽しそうに笑っているのは、クラスメートの桃子だった。セミロングの髪が肩で軽く跳ねる。背は自分より少し低い。
「別に。ただ、見てただけ」
「ふーん。興味あるのかな?チェス」
ポーランドからの帰国子女で、なぜか男女問わず人気がある。感情が高ぶるとポーランド語がちょっと混ざる——それが桃子だった。
「……駒に触ってもいい?」
言葉が胸のどこかに引っかかって、ちいさい火花みたいに散った。
理由は分からないのに、口が先に動く。
「蒼空はチェス、やったことあるの?知らなかったー!」
——蒼空は2年前のあの出来事をちょっと思い出す。
「チェスの駒の形が綺麗だなと思っただけ……人とやったことはない……」
桃子はいたずらっぽく笑う
「駒に触るだけでいいの?初めてなんでしょ。せっかくだし、私が教えてあげる。これでもチェスクラブに入っているんだよ。初心者相手じゃすぐ終わっちゃうと思うけどねー♡」
桃子の天真爛漫な性格のせいなのか、からかう調子ではあるのに嫌味はない。彼女に続いて部室に入る。
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窓際に掛けられた白いカーテンが風で揺れて、陽がマス目の上で薄くちらつく。
椅子を引く音。
蒼空は盤の前に座り、初めて触れる駒のひんやりとした感触を指先に確かめた。
(……この感じ……)
二年前の夕方、公園のベンチ。友達のスマホ。画面に浮かんだ「YOU WIN」の文字。
手を動かすたび、誰かが耳元で囁くみたいに「次」を示してくれた。あの不可思議な確信。
けれど、その感触は今は薄い霧みたいに遠い。
指を閉じると、空気だけを掴んだみたいな心細さが残った。
(……そういえばあいつ、陽斗だっけ、元気かな?)
「じゃ、いくよ。蒼空は初心者だから黒、先手の白は私ね。駒の動かし方は私の後ろの壁に貼ってあるから参考にして」
桃子がポーンを2マス前へ押す。駒がマスの中心に落ち着く音が小さく響いた。彼女の手つきは迷いがない。
蒼空は片手で髪をかき上げ、肩をすくめた。
「俺、実は強いよ」
「ふーん、そうなんだ。じゃあお手並み拝見」
根拠は曖昧な記憶ひとつ。自分でも馬鹿みたいだと思いながら、同じ列のポーンを押し出す。手のひらに汗が滲んで、木の手触りがわずかに変わった。
(……あれ?)
数手進んだだけで、胸の奥がざわついた。桃子の動きが読めない。
対面のビショップがするりと斜めのラインに乗って、彼女のクイーンが雪崩みたいに滑り込んでくる。駒が並ぶ角度、隙間、逃げ道。見えていたはずの筋が、音もなく崩れていく。
(声が……聞こえない)
二年前には確かにあった「次の一手」の囁きが、どこにもない。
耳鳴りのような静けさの中で自分だけが遅れている。
指先が硬くなる。間違った駒を掴みかけて、慌てて戻す。
桃子の指が、ためらいなくもう一度クイーンに触れた。
「はい。――Szach-mat、ポーランド語でチェックメイトだよ、蒼空くん」
言葉はやさしいトーンなのに、盤の上では冷たく決定的に映った。
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蒼空はキングを持ち上げかけ、そのまま固まる。
逃げ道がない。後ろはポーンに塞がれ、前は白い駒の斜線で切り裂かれている。
桃子はかすかに笑みを浮かべ、駒を元の位置に戻した。
指差し棒みたいにビショップの斜めをなぞり、クイーンの軌跡をひゅっと空で描く。
「これ、“Scholar’s Mate”っていうの。学者の詰み。四手で初心者を詰ませるやつ。ほんとはちゃんと守れば簡単に防げるんだけど、今みたいにナイトでの守備を怠ったり、ビショップで弱いマス空けちゃうと、こうやって……はい、詰み」
「……し、しらない」
「だよね。知らないと、すごく簡単にハマるの。覚えておくといいよ。王の前の弱いマスを狙われないように、ビショップとナイトを早めに出す、とか。ね?」
桃子に笑いながら言われる言葉は、石ころを転がすみたいに軽いのに、胸の内側にずしんと落ちた。悔しさで視界が滲む。鼻の奥がつんとする。
(なんで……)
蒼空は視線を落とし、唇を噛んだ。笑い声が外の廊下からこぼれてくる。日差しは変わらず温かい。
桃子はそっと右手を差し出す。
「なんだよ……」
「握手だよ、勝負が終わったら握手するの。これがチェスの作法」
蒼空はぎこちなく手を伸ばし、差し出された手を握った。
そして蒼空が彼女の目を見た瞬間、桃子は言った。
「悔しくてチェスをやりたくなっちゃったでしょ♡もう一回やる?」
桃子の言葉は不思議な感覚を伴って蒼空の心に響いたが、彼は首だけ小さく横に振る。
「そ。いつでもどうぞ、チェスクラブへ♡」
彼女は軽く手を振って、次の相手を迎えにドアの方へ歩いていった。
残された盤面を、蒼空は両手で囲む。手のひらの中に、さっきまで確かにあったはずの何かがない。空洞の形だけが、はっきり残っている。
悔しかった。いままで蒼空は何に対しても興味をもてず、本気になったことなどなかった。だが今初めての感情が自分の中で拡がっていた。負けたことがただ悔しかった。




