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EP17 全国高校チェス選手権

【真夏の京都、十条にて(前日)】


真夏の京都は、街そのものが大きな湯気だった。


照り返すアスファルトから熱気が立ちのぼり、蝉の声が頭上でひび割れるように降ってくる。祇園や四条の喧騒から離れた十条のホテル周辺は、観光客の群れが嘘のように静かだが、蒸し暑さは容赦ない。湿った風が頬に貼りつき、遠くで救急車のサイレンが細く伸びた。


エレベーターを降りた瞬間、冷房の風が逃げるように背中を撫でた。会議室仕様の小さなミーティングルーム。白い長机、ペットボトルの水、配られた大会要項。壁の時計は午後七時を指している。


「じゃ、始めよっか」


伊織が資料をパタンと揃えた。白シャツの第二ボタンは相変わらず留まっている。きっちり、端正、教科書の権化。


「全国高校チェス選手権は二日制。参加者は15人――地区選抜者と推薦枠。シングルトーナメント、ラウンドは4つ。初日2ラウンド、2日目2ラウンド。持ち時間は45分+30秒/手。遅刻は開始時刻から持ち時間の45分が過ぎると不戦敗。途中棄権は翌ラウンドの組み合わせに影響が出るから、体調管理を最優先で」


「はーい」桃子が手を挙げる。


「朝ごはんは軽く、でも糖質は忘れず、ね。蒼空、パン二枚は食べること」


「わかったよ……」蒼空は苦笑したが、掌の汗は乾かない。(四拍、四拍――吸って、止めて、吐いて、止める。戻れる形)


「そして、対戦相手や」


関西イントネーションがふわりと会議室に入ってきた。颯真が自前のノートPCをくるりと回し、即席スライドを映す。横でアキラがメモを取っている。


「1回戦は対戦相手が事前に発表されとるんで情報を集めておいた。まず伊織先輩の相手なんやけど……愛知県代表のハルカ(17)って女や。ELOレートは 1700。理的な定石よりも、直感インスピレーションを重視するスタイルって言うことやで。まあ伊織先輩なら楽勝やな」


伊織「うん、ありがとう。油断しないように気を付けるよ」


「そして次は蒼空の対戦相手なんやが、コウタ(18)っちゅう福岡県の代表や。ELOレートは 1820。相手の攻撃を徹底的に受け流すスタイル。どんな劣勢でも諦めず、ギリギリまで粘るんでヤツとの対局は時間がかかることが多いらしいで。相手の持ち時間をギリギリまで削って消耗させるのが得意なんやと……時間配分が鍵になると見た」


蒼空「時間配分……了解」


「はい、はーい!あたしの対戦相手は?」桃子が手を挙げる。


「桃子は参加者が奇数だから第1ラウンドは奇数調整で不戦勝扱いになっとる。ラッキーやったな」


「えー、それはつまらないなー!」


「油断しとると2回戦からはいきなり強豪と当たる可能性が高いんやぞ」


「ふーん、それならいいか」


「ふん、余裕あるな桃子。そして今大会の注目選手も調べといたで」


颯真が胸を張る。「まずは――」

・「友梨佳(ゆりか、17)。ELOは2060。地元・京都のお嬢はんや。礼法正しく、美しい棋風に誇り。端正で審美眼が強い――そして、かわいい」

「最後のクダリ、いらないよね」桃子のツッコミは鋭い。

「審美眼の定義、顔面偏差値とか関係ないから」

「冗談や冗談。せやけど“美”で勝つ手はほんまにあるんやで。盤面の整えはメンタルに刺さる」


・「次は我らが伊織先輩(いおり、18)。ELO2100。東京都代表、前回ベスト4。教科書の権化。相手が伸びた瞬間、中心線の突きで形決めてくる。最後は教科書的な図で締め――って、本人の前で言うのもアレやけどな」

「光栄だよ、颯真くん」伊織は淡く笑った。


・「怜(れい、18)。ELO2250。神奈川県代表、去年の高校生日本チャンピオン。伊織先輩は去年準決勝でこの男に敗れた。日本国内の高校生では史上最強との呼び声も高い。盤面を静かに見つめ、感情を表に出さずに勝利を目指す、クールな天才肌のプレイヤー」

「今年は彼にリベンジしたいよね」と伊織。


・「最後がアレクサンドラ(サンドラ、16)。ELO2400。推薦枠、海外からのゲスト選手や。優勝候補ナンバーワンでFrostFish系AI企業がスポンサーに着いとる。現在最もAIに近いプレイヤーとか言われとるらしいで……っていうかELOがIMインターナショナルマスターレベル、なんでこんな化け物が今回は選手として出とるんやろ?」


「下馬評じゃサンドラか…まあそうなるでしょうね」桃子が意味有りげに微笑む。


颯真は指を鳴らした。「あと、運営の進行がタイトやから昼メシは売店もあるけど持ち込み推奨な。水も1.5L確保。会場はエアコン効いとるけど外に出る時とかは熱中症に注意して、成分表示の“Na”は――」


「そこまでいい。塩タブ用意した」アキラが淡々とカゴを持ち上げる。「冷感シートも。あと、栄養ゼリー」


「完璧」桃子が親指を立てた。

「――で、目標。ウチの学校のチェスクラブが全国を制覇する。異論は?」


「当然、ない」


伊織が即答し、アキラも頷く。颯真がニヤッと笑って肩をすくめた。


蒼空は一拍だけ、目を閉じた。


(優勝。チェスをやめないなら、優勝しろ。圧倒的に――光のど真ん中へ。説明できる驚きで勝つ。呼吸を四拍に、戻れる形をいつでも)


目を開けると、桃子がまっすぐこちらを見ていた。視線で同じ言葉を言った気がして、蒼空は小さく笑う。


「明日は初めからぶちかますよ」


「了解」


二人は小声でハイタッチした。


===================

【大会当日の朝――竹田駅から】


京都パルスプラザへ向かう電車が、朝の湿気を押し分けるように走る。


伊織は大会の手続きで先に会場に向かい、颯真とアキラは「機材トラブルで入りが少し遅れる」とメッセージを送ってきた。桃子と蒼空は二人で竹田駅で下車する。


ホームに熱がこもって、靴裏までじりじり熱い。改札を抜けると、駅前の空は白く霞んでいた。


「……京都って暑いね」


桃子が首筋の汗を手の甲で拭う。「でもこうして歩いてると、ちょっとデートっぽくない?」


桃子は試合のプレッシャーなどまるで無いかのようにはしゃぐ。


「……俺、試合のことで頭いっぱい」


蒼空は顔を赤くして前を向く。(四拍、四拍。笑うと乱れる――いや、乱れても戻せばいい)


二人は会場までの道を歩く。徒歩二十分――住宅街と工場の間を縫う道。


遠くに、白い大きな屋根が見える。京都パルスプラザ。入口付近にはすでに大きな横断幕――「全国高校チェス選手権」の文字。地方新聞のクルーが機材を組み、スタッフが誘導のプラカードを掲げている。


「見えてきたね」


桃子が笑って、歩幅をすこしだけ広げた。


ほんのり甘い空気。汗の匂いの中に、スポーツドリンクの甘さ。靴音が揃う。


けれど、その直後――。


===================

【路地の影、冷たい息】


住宅街を抜けた先、地図アプリの案内で人通りが途切れる小さなうす暗い道に入った。


蝉の声が、すっと遠のく。空気が一瞬、重くなる。昼なのに、雲がかかったみたいに光が鈍った。


角を曲がって、黒塗りの車が止まる。


音は静か。けれど、タイヤの砂を噛む感触まで耳にわかる。


後部座席のドアはまだ閉じられている。運転席からは誰も降りない。


代わりに、助手席と後部からスーツ姿の男が二人、無言で降りた。遮光サングラス、真夏なのにネクタイは乱れず、靴は鏡面仕上げ。


「……あなたが、蒼空くんですね?」


声は低く、丁寧すぎた。


男の一人が近づく。胸のピンバッジが、一瞬、陽に反射する。


Chess.aicのロゴが、そこで光った。


(――っ)


蒼空の心臓が喉に跳ね上がる。四拍が崩れて、拍が数えられない。


桃子が半歩、前に出る。「どちら様で――」


掴まれた。


男の手が、桃子の手首を強く取る。腕に、きしむ音が走った。「いっ――」顔がゆがむ。


もう一人が、蒼空の肩を押さえつける。


体重の掛け方がプロのそれだ。逃げ道を先に潰す角度。


(出口、背中、どこ――)


頭の中で、エレナと約束した言葉が点滅する。出口をつくる。人混みに入らない。


(――息が、できない)


「君に全国大会に出場してもらうわけにはいかない」


男の言葉は、事務的な温度。命令を読み上げているだけの声。


反論の声を上げる間もなく、後部ドアがカチリと内側から開く音を立てた。


車内の冷気が、外へこぼれる。さっきまでまとわりついていた夏の熱を、一瞬で奪っていく。蝉の声が、その冷気に飲み込まれた。


「離せ!」


桃子が体をねじる。ローファーの踵が鳴った瞬間、男の腹に鋭い衝撃が走り、息を詰まらせて二歩下がった。


「おとなしくしろ!」


桃子は別の男が蒼空の首にナイフを当てているのを確認し、抵抗をやめた。


「――蒼空!」


男は桃子を羽交い絞めにして淡々と力を増す。痛みの閾値を正確に測る指の圧。


(……こいつら手慣れている)


呼びかけは届く。届くのに、足が動かない。肩が固定され、体幹がずらせない。


車内から、冷たい影が伸びた。


背中を強く押される。バランスを崩した足が、黒い床へ吸い込まれ――


蒼空は、暗い車内に引きずり込まれた。


同時に、桃子も小さく喘いで、隣へ。


狭い空間に、冷気とレザーの匂い。ドアの縁が視界の端を切り取る。


バタン。


ドアが閉まる音は、不吉な終止符のように響いた。


世界の音が、そこでいったん終わった。


車が滑るように発進する。


窓の外、夏の白い光が帯になって遠ざかる。


蒼空はかすかに目を閉じ、喉の奥から崩れた声で、ようやく一言だけを取り戻した。


「――大丈夫?」


桃子の指が、暗闇の中で彼の手を探し当てる。


ぎゅっと、強く。返事は要らない。拍だけを、二人で揃えればいい。


四拍、四拍。


戻れる形を、闇の中でも。


車は、京都パルスプラザとは反対の方向に、静かに、確実に進んでいった。

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