EP16 クイーンの駒
夜。
ホテルのラウンジは、照明を半段落としていた。低く響くピアノ、グラスの触れ合う音。窓の外に首都高のライトの流れ。空調の微かな風がカーテンの裾をふわりと揺らし、磨かれた木のテーブルにランプの光が金の輪を落とす。
ソファ席に座るグランドマスターは、舞台のときと同じ色で、違う影をまとっていた。
勝負を終えた刃は鞘に収まる――でも、刃は刃のまま。そんな気配。
エレナは目だけで合図した。
「来たね」
桃子と蒼空は、向かいの席に腰を下ろす。桃子は緊張で指先に汗をかき、ハンカチを膝に置いた。蒼空は背筋を伸ばし、しかし膝上の手が小さく拳を作っている。
エレナは椅子に深く腰を下ろし、鋭い視線を蒼空に向ける。
「まず……名前を聞かせてもらえるかい」
「……蒼空。蒼い空と書きます」
その響きは、ラウンジの静けさに溶けていき、同時に何かを呼び戻した。蒼空は、決意を腹に落とし込むみたいに一呼吸してから、ポケットに指を入れる。小さな冷たさが、指先に触れる。
彼は例のチェスセットのクイーンの駒を取り出し、掌にのせて差し出した。
磨かれた木肌、底面のフェルトの緑。明かりを受けて王冠部が静かに光る。
エレナの表情が一変した。
「……これは」
彼女は身を乗り出す。「私が娘の麻里に渡したもの……」
その声が小さく震える。指が駒を包み込む瞬間、堤防が切れたみたいに記憶が溢れ、目に光がにじんだ。
「やはり……お前は私の孫。SORAなんだね」
桃子は思わず息を呑み、肩をすくめる。蒼空は、視線を逸らさない。心臓が一拍跳ねたのち、落ち着く場所を探している。
テーブルの上で、クイーンは静かに座した。
母の影を宿した小さな王冠。物言わぬ証人。
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【思い出の棋譜】
沈黙が一拍置かれ、エレナは低く続けた。
「今日お前が指したあの手……あれは麻里が結婚する前夜、私と最後に打った棋譜だ」
氷がグラスの中で「コト」と転がる。蒼空の喉がごくりと鳴った。
「……母さんと?」
「そうだ。私と麻里しか知らないはずの一局だ。なぜ再現できた?」
蒼空は言葉を探して、視線を落とす。瞼の裏に、さっきの盤の木目がもう一度現れる。
「わからない。でも、なぜか心の奥から声が聞こえたんです。駒を置いた瞬間、思い出したように」
(――“これは思い出の棋譜だよ、蒼空”)
呼吸の拍を揃えようとする。四拍で吸い、四拍で止め、四拍で吐く。膝の上の拳が少しずつ解けていく。
エレナは孫をまっすぐ見据える。
(……麻里。あの子はやはり、お前に“何か”を託したのか。盤を越えて残る、息のようなものを)
彼女はクイーンによく蒼空がするのと同じような仕草でそっと指腹を預けた。
駒の温度が皮膚へ移る。思い出の熱が、いまも確かに残っているみたいに。
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【麻里の真相】
「蒼空……お前は自分の母のことをどこまで知っている?」
問われ、蒼空は一瞬だけ桃子を見る。桃子はうなずき、視線で「大丈夫」と返す。
「隆、親父からは……俺が三歳の時に、交通事故で死んだってだけです」
エレナは深く息をついた。肩がわずかに下りる。
「麻里は優秀なチェスプレイヤーであり、科学者だった。結婚後、隆と共にアメリカに渡り……そこでお前を産んだ」
「アメリカ……で?」
「そう。私は麻里と頻繁に連絡を取り合っていた。お前が小さかった頃の写真も、たくさん送られてきた……」
言いながら、エレナの視線は遠くを見ていた。光沢のある写真、庭の芝、幼い蒼空の笑顔。
「……だがお前が三歳になった少し後、急に音信が途絶えた」
声が苦く震える。
「私は直接アメリカまで行った。近所の人から聞かされたのは……麻里は“死んだ”という噂だった。事故か、自殺か。真実は闇の中だ」
テーブルの端で、桃子の指がハンカチの端をきゅっとつまむ。蒼空は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで現実に踏みとどまる。
「親父は……なにも教えてくれなかった」
ラウンジのピアノが短く外れ、すぐに調和へ戻る。その一音のズレが、話の痛みと重なる。
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【Chess.aicとSORA】
エレナの声が低く鋭くなる。
「麻里と隆が勤めていた会社の名は……Chess.aic。2年くらい前に奇妙な噂を聞いた。“AIに勝てる人間をつくる”というプロジェクトが立ち上がったという。その名が……SORA」
「……俺の名前……?」
「偶然にしては出来すぎている」
エレナはクイーンを握り直す。指の関節が白くなる。
「そして、世界各地から子供をスカウトしていると。やり方は強引で……行方不明者が出ている、そういう話を聞いた事もある」
桃子が思わず声を挟んだ。
「……覚えてる? あのチート野郎、隼人。AIに繋がったスマートウォッチで打ってたあいつ……蒼空が勝ったあと行方不明になったんだよ。警察沙汰で」
エレナの目が鋭く光った。その光は、盤上で決定打を見つけた時のあの光。
「……つまり蒼空、お前は“AIに勝った”可能性があるってこと?」
蒼空は黙って頷く。喉がからからだ。水に手を伸ばすが、グラスの冷たさがひどく遠く感じる。
(もしそうなら――なぜ、俺なんだ。なぜ、母さんの名前と同じ文脈で、俺の名前がある?)
ラウンジの奥で、誰かがワインボトルのコルクを抜く「ポン」という音が小さく弾けた。場違いな軽さが、逆に現実感を強める。
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【チェスをやめろ】
エレナは目を閉じ、しばらく沈黙した。頬に落ちる影が深くなる。
やがて静かに言う。
「……蒼空。今日初めて会った祖母が言うのは酷だろう。でも私はお前に、チェスをやめてほしい」
「……え?」
「麻里も隆も、Chess.aicの闇に囚われた。お前まで巻き込まれるわけにはいかない。私の孫を……失いたくない」
その「失いたくない」が、金属の鎖みたいに重かった。祖母の声であり、戦場の指揮官の声でもある。一歩退け、と命じる声。
桃子が立ち上がり、必死に反論する。椅子がわずかに軋む。
「師匠! 蒼空は来週、全国大会に出るんです! 予選だって全勝で突破して、私たちは一緒に戦うって決めたんです!」
エレナの瞳は冷たくも、揺らいでいた。
「……その道が、お前にとって本当に幸福なのか……それだけは考えてほしい」
言葉が、蒼空の胸に重石みたいに落ちる。拍は乱れ、数えられなくなった。
四拍、四拍――崩れて、零れる。
(母さんが残した“声”。俺の指が選んだ“手”。それでも、やめるのか?)
桃子はテーブルに両手をついて、まっすぐエレナを見る。
「師匠――私、今日、会場の空気でわかったんです。蒼空は“ただのチェスが強い子”じゃない。盤に触れた瞬間、誰かの記憶と呼吸を引き継ぐ。怖いくらい。でも、その“怖い”は、守って隠して消えるものじゃない。向き合って、勝ち方を覚えて、味方にするものだって、私は思う」
エレナは桃子を見つめ、短く息を吐く。
「Monika。あなたは、昔から真っ直ぐね」
「師匠に鍛えられましたから」
桃子は笑わない。ただ、視線を逸らさずに言う。
「お願いです。逃げるための“やめろ”じゃなくて、生き残るための“戦い方”を教えてください。蒼空を失いたくないのは、私も同じだから」
エレナの睫毛がわずかに震え、視線が蒼空に戻る。
蒼空は、ゆっくりと座り直した。膝上の手をほどき、テーブルの上に両手を置く。指先がわずかに汗ばむ。
》 ——私はCaïssa、あなたの中にいる。蒼空、私を助けて
チート野郎、隼人との対戦中に聞いたCaïssaの声が蒼空の中で蘇る。
「……俺は、たぶん逃げられない」
声は小さいが、芯があった。
「逃げたら、母さんの声も、盤の上の手も、全部が遠ざかる気がする。俺が逃げたせいで、誰かがまた消えるなら――そんなのは嫌だ」
エレナの肩が、ほんのわずかに落ちる。眼差しが、少しだけ祖母の温度に傾く。
(強情。でも骨がある。……麻里の子だ)
彼女はテーブルの中央へ、先ほどのクイーンをそっと置いた。指先が離れる前に一拍だけ留まり、やがて手を引く。
エレナは目を閉じ、しばらく沈黙した。頬に落ちる影がいちど深く沈み、やがて浮上する。
開いたまなざしは、祖母の温度と、グランドマスターの硬度を同時に帯びていた。
「……わかった。やめないと言うのなら、方針を変えよう」
彼女はテーブルの中央にクイーンをそっと据え、まっすぐ蒼空を射抜く。
「来週の全国大会で優勝しなさい――圧倒的に。迷いが一手でも盤に出るなら、お前はその日限りで駒から手を引く。いいね?」
空気が張りつめ、氷の触れ合う音が遠くへ退く。
「優勝……?」
桃子が思わず身を乗り出す。
「師匠、無茶です。大会にはサンドラも出ますし、そして――あたしも」
「聞いている」
エレナの声は乾いた刃のようにまっすぐだった。
「だが、それくらいの実力がなければ、続けさせるわけにはいかない。圧勝し、世間の光のど真ん中に立ちなさい。Chess.aicが手を出せないくらい。光は、雑な闇を追い払う」
蒼空は喉を鳴らした。重さは分かった。それでも頷いた。
「……解った」
「ならば、戦略を与える」
エレナは語尾を硬く整え、短く指を鳴らした。
「まず一つ。注目を取りにいくのよ。勝つだけじゃ足りない。“読める勝ち筋”で勝ちなさい。準々決勝までは定石美、準決勝は応用の鋭さ、決勝は仕上げ――窒息させるのではなく、息を呑ませる勝ち方。観客が“説明できる驚き”を持ち帰るように」
桃子がメモを走らせる。
「……“説明できる驚き”、了解」
「二つ。証人を置く。Monika、あなたは蒼空の動線に立ちなさい。入退場、控室、対局中の視線――全部を記録する。対戦相手や運営との会話は、可能な範囲で第三者を交えて。透明性は鎧になる」
「了解。入口と非常口、背中合わせに立ち位置を固めます。スタッフ導線の確保、交渉は私が」
「三つ。出口をつくる。勝っても負けても、対局直後は人混みに入らない。あなたたちの“合図”を決めなさい。拍が乱れたら――」
「私が拍を合わせる、合言葉は『低空飛行』」と桃子。「私が絶対蒼空を守る」
エレナは満足げに頷く。
「いいでしょう」
彼女はクイーンを指で撫で、視線を蒼空に戻した。
「そして最後に最も大事なこと。勝つ理由を言語化しなさい。『強いから勝つ』は子供の理屈。あなたが優勝するのは、失われたものを取り戻すためであり、奪われない自分を証明するため。その言葉を、呼吸の四拍みたいに反芻するの」
蒼空は、ゆっくりとうなずいた。
「……取り戻す。奪わせない。四拍で、繰り返す」
エレナの口元に、ごく浅い笑みが浮かぶ。
「そう。勝利条件をはっきりさせると、体はそれに合わせて動く」
桃子が手を挙げる。
「師匠、もし優勝したら――」
「ポーランドに来なさい」
エレナは即答した。
「あなたは目立つ。だからこそ、雑に連れ去ることは彼らにもできない。その上で、私の“檻”に入ってもらう。甘い檻じゃない。毎日、生き延びるための訓練を受けてもらう。情報戦、法務の基本、盤外の間合い。あなたの父、隆の説得は私がやる」
「……檻?」蒼空が眉を上げる。
「檻は檻でも、外へ出るための檻よ」
エレナの声が少し柔らかくなる。
「きれいな森の中に放つのはそのあと。まずは、噛みついてくるものから身を守る牙と、逃げるための脚をつける」
桃子は小さく笑って、蒼空の肩を小突いた。
「聞いた? “優勝して、国外でブートキャンプ”。やるしかないじゃん」
蒼空は、わずかに笑い返す。
怖さも重さも、消えてはいない。けれど、輪郭が見えた。
(勝つ。明確な形で。説明できる驚きで。母さんの声を、俺自身の声にする)
エレナは最後に、掌でクイーンを覆い、指を離した。
「宣言は済んだわ。繰り返す――やめないなら、優勝しろ。その代わり、私も約束する。あなたが決勝で自分の声で指せたなら、盤の外の守りは、私が張る」
ピアノが静かに終止形へ向かう。
窓の外、首都高のライトが一筋、長く伸びる。
蒼空は四拍で呼吸を整え、短く答えた。
「――はい」
その一語が、テーブルの上のクイーンに微かな影を落とし、
夜のラウンジに、次の一手の音を、確かに響かせた。




