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EP15 窒息の女王、来日

全国高校チェス選手権を翌週に控えた七月最後の週。東京は午前から蒸し暑く、アスファルトの照り返しが地面から立ちのぼっていた。


都内の文化ホール、その小さなイベントホールには白いテーブルが十脚、均等に輪を描くように置かれ、盤と駒が静かに待っている。壁には「International Chess Friendship Night」の横断幕。英語と日本語の司会台本が貼り出され、ボランティアの学生が慌ただしくペットボトルの水を並べていた。


桃子は、今朝ほどエレナから届いた短いメッセージを何度も読み返した。


――Monika、今夜大丈夫。会わせたい人って、誰?


(師匠、ほんと “Short and sharp.” 相変わらずだね……)


胸の奥がそわそわする。桃子は蒼空の顔をちらりとうかがった。彼は入場列の陰になった柱のそばで、フードを指でいじりながら、会場見取り図をじっと見ている。薄い汗がこめかみに浮かんで、目だけが冴えている。


「実はエレナ師匠から突然連絡があって、師匠は今日本に来てるんだって、今日イベントに出るらしいんだけど!蒼空、あんたどうする?」


待ち合わせした駅前でそう言ったときの彼の顔を思い出す。驚き、即決、そしてほんの少しの怖れ。


「行く。――でも俺のこと、エレナには言わないで」


――そう言って、蒼空は握った私の手をそっと離した。


(言わないよ。言わないけど……おそらく師匠は嗅ぎつける。盤の上で)


照明が落ち、MCが舞台袖に手を振る。英語混じりの司会が弾む。


「皆さん、お待たせしました! 今夜のスペシャルゲスト、ヨーロッパから――“The Queen of Suffocation(窒息の女王)”、グランドマスター・エレナ・コワルスカ(Helena Kowalska)!」


拍手が波のように広がる。


黒のパンツスーツに白いシャツ、背筋をまっすぐ伸ばして、彼女は歩いてきた。


蒼空(……写真で見るより、オーラというか圧すご……)


エレナは舞台の端でふと桃子と蒼空を見た――一瞬だけ。胸の奥がヒヤッと冷えた。まるで、窓ガラスの向こうから風が入り込んだみたいに。


「エレナさんは日本語がお上手なんですよね」


司会者がエレナの略歴を紹介しながら彼女にマイクを向ける。


「こんばんは。楽しみにしてきました」


唇にだけ柔らかい笑みを、目は鋭いまま。


司会者「今日はエレナGMにシムル(Simul:多面指し)で10人の挑戦者を同時に相手していただきます」


十の盤を、彼女は順番に見渡し、小さく頷いた。


「それでは挑戦者を募集します。十名、立候補を」


スタッフが挙手を促す。椅子が引かれる音、わずかなざわめき。瞬く間に九席が埋まり、最後の一席で空白が灯のように残る。


桃子は蒼空の手をつかんだ。「あんた、マジで師匠とやる気?――」


「……行く」


彼は桃子の手をそっと外して、一歩前に出た。


桃子(ちょ、ちょっと待って。私の心の準備が――!)


最後の椅子が音を立てて受け止める。GMは軽く会釈し、盤上に手を置いた。その仕草一つで、空気が締まる。“ここからは盤が世界のすべて”という合図。


「じゃ、始めましょう」


彼女は一番卓に歩み寄り、e4、と最初の白の兵を進めた。美しい、まるで糸で引くような手つき。二卓、三卓、と時計回りに歩き、開幕の駒音がホールに点々と灯っていく。


蒼空の卓に来た。


彼は深く息を吸った。四拍で吸って、四拍で止める。四拍で吐いて、四拍で止める――それを二度。


(落ち着け。耳鳴りを外に出せ。盤だけを見ろ)


「黒番ね」


エレナが微笑む。


数巡後、蒼空は指を前に出し、ポン、とナイトを置いた。序盤であり得ない、マイナーな変化手――観客の何人かが小さく「え?」と首を傾げる。


蒼空には何故かその打ち筋に確信があった。彼の中にCaïssaの声が響く……


> これは、エレナとの思い出の棋譜


音にならない問いが蒼空の胸腔を震わせる。


> 麻里とエレナだけが知っているライン(記憶)。

> ここでナイトは普通、跳ねない。でも、あの夜は違った。


駒の木肌に触れた指先がじんわり温かい。


エレナのまぶたが、一瞬だけ止まる。


(え……? この手は――)


彼女の視界に、ヨーロッパの自宅の部屋がよみがえる。窓の向こうに雪、ワインの赤、笑い声。


――麻里が結婚する前夜、最後に指したあの棋譜。


胸の奥が、ひやりと鳴る。


「面白いわね」


エレナは感情を表に出さない声で言い、次の卓へ滑るように移動していった。


同時対局の呼吸が回り始める。


六分の円を描き、彼女は十枚の盤を巡る。戻るたびに、誰かの手が弱く、窒息の網が編まれていく。気づいたときにはナイトとクイーンが網目を閉じ、王の逃げ道がひとつ、ひとつ、ふさがる。


観客「う、嘘だろ……」


最初の一局で白がスモザードメイト。観客の息が止まり、ぱらぱらと拍手が起こる。


次、また次――きれいな窒息。喉元に柔らかい絹を巻かれるみたいに、負けた側は苦笑して席を立つ。


(……師匠、容赦なし)


桃子は舌を噛んだ。興奮と不安が交互に波打つ。


そして、蒼空の卓だけが、残った。エレナはスタッフに椅子を持ってこさせて蒼空の前に座る。


蒼空は四拍で呼吸を整え続け、無駄はしない。余計な視線も上げない。


ただ、盤に集中する。


Caïssaの声。


> エレナが怖い?


(少し。でも、進む)


> 強い子。エレナはEmotional Gambitsを発動してる。でも大丈夫、次は“そこ”


蒼空の中のCaïssaは、笑った。


彼は駒を持ち上げ、置く。


エレナはその手を見て、目を細めた。


(何者?私のEmotional Gambitsを恐れていない。この子は……誰?)


彼女の胸で、ある名前がうずく。麻里。


死んだはずの――いや、失われた、と言うべき彼女の娘。


(深緑の目……日本の少年……Monikaのそば……まさかこの子がSORA――)


彼女は黙って指し継ぎ、盤上の罠をほどき、ひとつ別の罠に組み替える。


観客は気づかない。だが蒼空には見える。


(来た。次はこっちだ)


彼の左手が膝の上で小さく震え、右手が正確に動く。指先が木を撫で、あのときの進行に戻す。


盤上に、二人だけの記憶が敷かれていく。


廊下の時計が、静かに十五分を告げた。


観客のざわめきが薄くなり、遠くなる。


(四拍……四拍……)


喉の渇きが消えた。


エレナの視線が、鋭さの奥で揺らぐ。


(これはどういうこと? どうして――ここまで再現できる? 私でさえ、いくつも抜けているのに)


蒼空は最後の呼吸の拍を数え、そっと駒を置いた。


母・麻里の最後の一手。


静寂が、盤の上に降りた。


エレナは右手を盤に伸ばす。駒に触れ――王に触れ――ほんの、刹那だけ目を閉じる。


(麻里…そこにいるのかい?)


そして、キングを横倒しにした。木が卓に当たって、乾いた音が一度だけ鳴った。

「……ふふっ、投了するよ」


空気が割れる。


観客が一斉にざわめく「え、今のってGM、あの少年相手に投了した?」


司会が慌ててマイクを口元に上げる。


「え、えー……グランドマスター、いまのは――」


エレナは笑った。表向きの、それらしい笑みだ。


「ふふっ、指導対局は、いろいろあるの」


十の盤に軽く目をやり、スタッフへ合図を出す。拍手が戸惑い混じりに広がる。


その拍手の裏側で、彼女は視線を泳がせないまま、ポーランド語で低く言った。


「……Monika, jesteś tam, prawda?」(……モニカ、いるんだろ?)


桃子の背中に電撃みたいな寒気が走る。


(見つかった――いや、読まれてた)


桃子は恐る恐る手を挙げた。エレナの目が、たしかに彼女を射抜く。


エレナは舞台の段差を降りず、同じ姿勢のまま、さらに低い声で続けた。


「Dzisiaj wieczorem przyprowadź to dziecko do hotelu.」(今夜、この子を連れてホテルに来なさい)


頬の笑みは消さない。けれど、音だけが違う。柔らかいナイフみたいに、桃子と蒼空の鼓膜だけ切り取る声音。


司会の拍手促しで観客の視線が散った瞬間、桃子は蒼空のもとへ駆け寄った。


「だ、大丈夫? 手、震えて――」


「……大丈夫」


彼は深呼吸を一度、二度。指先はまだ微かに震えているのに、目の奥が静かだ。


(やりきった、って顔)


桃子はうなずいて、蒼空の水のボトルを開けてあげた。キャップのカチ、と鳴る音がやけに大きい。


ステージ袖で、エレナがディレクターに短く指示を出している。


彼女は視線をこちらへ寄越さない。寄越さないのに、見られている感じがする。


(さすが、師匠……盤の外も、読み筋が通ってる)


「師匠が今夜ホテルに来なさいって……行くの?」


「行く」蒼空は即答した。「たぶん、逃げても追ってくる……」


「正解。師匠は笑顔で追い詰めてくる人……」


二人で苦笑になって、それきり口をつぐんだ。


自動ドアが開閉する音、人の気配、駒の木の匂い。時間が普通に戻ってくる。


退場のとき、エレナが横を通る。桃子は思わず背筋を伸ばした。


彼女は立ち止まらない。ただ、耳だけに落とすみたいな音量で呟いた。


「よくいままで隠していたね、Monika」


「……いつから気が付きましたか?」


「最初からだよ。盤が始まる前から、空気に匂いがあった」


(空気に――匂い)


桃子は乾いた喉を鳴らす。エレナがほんの少しだけ目尻を下げる。


「心配しないで。怒ってはいない。むしろ、感謝している」


「なにに?」


「“会わせたい人がいる”って言ってくれたことに」


そこで初めて、彼女は正面から桃子を見た。


(うわ、これ、怒ってないけど終盤で獲物を追い詰める目だ)


桃子はほとんど反射で頷いてしまう。


エレナは一度だけ蒼空を見る。


彼の深緑の瞳が、まっすぐ返す。


刹那、二人の視線の間に、見えない線が張られた。弦のような、記憶のような、弾けば音がする何か。


「では今夜」


「……はい」


彼女は行った。


観客が出口に流れ、スタッフが盤を片づけ、ホールが少しずつ普通の会議室に戻っていく。


桃子は鞄からハンカチを出して、蒼空に渡した。彼は汗を拭き、ほっと息を吐く。


「なあ、桃子」


「なに」


「俺、途中で――泣きそうだった」


「うん、わかる。ヤバかった……私もちょっと泣きそうだった」


言いながら、喉の奥が熱くなる。


(だって、あの最後の一手――)


――母・麻里の最後の一手。


あの音は、ホールのざわめきのすべてより、はっきりと私たちの耳に残っていた。


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