EP14 アレクサンドラ
> 「Monika.」(モニカ)
背中に氷水が落ちたみたいな声だった。
彼女は人混みの“温度”から一歩だけ外れて立っていた。
「Long time no see.」(ひさしぶりじゃないの)
口元だけ笑って言う。
「……Ola」(※オラ、はアレクサンドラの幼名)
桃子が淡く微笑む。その声には警戒と懐かしさが同居していた。
「Call me Sandra when he’s around.」(2人きりの時以外はサンドラと呼んでくれる?)
彼女は蒼空に一瞥を投げ、すぐに桃子へ戻す。
「So this is your… boyfriend? Pet?」(それでこの子はあなたの彼氏?それともペット?)
人波がざわつき、スイーツの甘さが引いていく。
桃子は瞬きひとつ、視線を蒼空に移した。蒼空は冗談か本気か測りかねて、曖昧に会釈した。
「Just kidding, Relax. I’m just visiting Tokyo. National High School Chess? I’m a guest.」(ふふ、冗談。今ちょっと東京にいるのよ、全国高校チェス選手権。私はゲストって訳)
アレクサンドラは左手のポーチを少し持ち上げる。黒地に白い王冠アイコン、端に小さく“Engine Lab”の刺繍。
「Frostfish-based sponsor. Friendly♡」
(フロストフィッシュ『Chess.aicの対抗AI会社』系のスポンサーなの。気前がいいのよ♡)
さらりと“正体”を匂わせる。
> 「Monika」
彼女は今度はポーランド語で短く刺す。
> 「Pamiętasz? Nigdy mnie nie pokonałaś z chłodnym sercem.」
> (ねえ覚えてる? “冷たい心”を持った私には、一度も勝てなかったよね——)
実際一度も勝てなかったのはあんたの方じゃない!と桃子は思った。しかし反論も通訳もしない。ただ、肩をすくめた。
「Hey Sandra, This is Sora. He's going to be in the match and he's going to be the rising star.」
(ねえ、サンドラ。この子は蒼空。彼も大会に出るの、そして台風の目になる)
「Yeah, I know. I saw him on the participant list. Same school as you. So this is Japan’s rising star? An ELO 1000 beginner? How… provincial.」
(ええ知ってるわ。私彼を参加リストでみたもの。あなたと同じ学校。でもELO1000の初心者が期待の星とは…まあ日本なんてチェスの辺境じゃそんなものかしらね)
「Don't underestimate Sora. He can even beat an AI.」
(蒼空をなめてると痛い目あうよ。彼はAIにだって勝てるんだから)
「Bullshit. Don’t make me laugh.」(嘘つき、笑わせないで)
Sandraは唇だけ笑みを形作って見せたが、目は笑っていなかった。
「No human could ever beat an AI in a chess match.」
(チェスで人間がAIに勝てるわけないでしょ)
彼女はスマホを取り出し、黒い画面に白いEvalバーが走る壁紙をスワイプした。
「And I'm pretty much the AI player's closest human analogue. +0.40 at depth 35——that’s the difference between us. Stable, inevitable… boring.」
(そして私こそがAIに一番近い棋士。+0.40、探索深度35。安定、不可避、退屈——それがあなたたちとの“差”。)
数字をアクセサリーみたいに掲げてみせ、すぐ消す。
「で?」桃子はあくまで明るい。「用件は?」
「Finals.」(決勝戦)Sandraは即答。
「See you there. Try not to lose beforehand.」(そこで待っている。それまで負けちゃだめよ)
桃子は不敵に微笑む
「Sandra, Do you know who you are toking to?」(サンドラ、誰に向かってモノを言ってるか解ってる?)
サンドラはポーランド語で囁いた。
> 「Nie zakochuj się w nim, Monika. Tacy chłopcy znikają, kiedy gra się kończy.」
> (恋なんかしてる場合?モニカ。チェスが終わると、こういう恋は消えるものよ。)
……そうなのかもしれない、でもチェスの向こうにあるものを見つけるため私は日本に来た……桃子の喉が一瞬だけ動く。でも通訳は、しない。
「By the way,」(ところで)Sandraは蒼空に向き直る。
「I’ll teach you the difference in class at the match. You’ll like it. It’s clean♡」
(私が大会で格の違いというものをおしえてあげるわ。綺麗にね、楽しみにしてて♡)
蒼空は真正面から視線を受け止めた。
「I prefer ‘fitting’ to ‘clean’.」(“綺麗”より“ぴたり”が好き)
Sandraの目がわずかに細くなる。
「Fitting, hm? We’ll see.」(ピタリ?、ふふっ面白いわね)
彼女の後ろから、ベージュのスーツの男が駆け寄ってきた。
「Sandra, the sponsor wants a quick photo by the arch……」
(サンドラ、スポンサーがアーチのところで撮影をって……)
「Sure.」(すぐ行くわ)
Sandraは踵を返しかけ、ふと振り向く。
「Monika.」
「You’ve lost your edge in this… backwater.」
(あなた、このチェス後進国にいるうちに“刺”をなくしてしまったようね)
最後にサンドラは日本語に切り替えて、唇だけ笑って言う。
「ケッショウデ、アイマショ」
そしてポーランド語で、ほんの小さく。
> 「Nie uciekaj.(今度は逃げないでよ)」
手を振る代わりに、評価バーの親指を上に向ける仕草をして、彼女は人波へ消えた。
温度だけが、あとに残る。
「……相変わらず性格悪いね」
桃子が肩を落とし、すぐに背筋を伸ばす。「でも、かわいいんだよね彼女♡」
「どっちが本当?」
「両方」
桃子は蒼空の袖をつまんだ。
「ねえ、聞かなかったことにして。さっきの彼女のポーランド語」
「大丈夫、英語以外は何言ってるかわからなかった」
「彼女が何を言ってたとしても全部試合で返すから」
「うん」
「桃子、Monikaって……?」
「私のポーランドでの通り名。こう見えてちょっとは有名だったんだよ、向こうでは」
すぐ横のクレープ屋では、新しい生地が鉄板に流され、ジュウと甘い音が立った。
蒼空は空気の四拍を揃える。1、2、3、4。
「決勝で会いましょう、だって」
「うん」
桃子の目がキラリと笑う。
「そうだ!——あんたスマホ持ってきた?」
「え、持ってきたけど…」
「あたしとFacebook messengerで友達になってくれる?」
「俺SNSはFacebookもLINEもやってない」
「そうなの?じゃあ今Facebook messengerを入れて」
「いいけど、なんでLINEやWhatsAPPじゃないの?」
「ポーランドはFacebook messengerなの!」
二人は手をつないだ。
夏の原宿の人波の中で、拍はまたぴたりと合う。
氷の声が残した余韻は、甘いクレープの匂いで薄まっていく。
けれど、言葉の棘は消えない。
消さなくていい、と二人とも分かっている。試合で抜けばいいから。
遠くで、英語のカメラマンの声が弾んだ。「Sandra, chin up!」
氷の心臓は写真の中で完璧に微笑み、現実の路上では、二人の拍がそれを追い越していった。




