EP12 期末テストと七月のチョコレート
席替えの紙が黒板に貼られた瞬間、教室がざわっと波立った。
七月の陽射しは窓のブラインドの隙間から斜めに差し込み、チョークの粉を金色に浮かせる。
「え——っと……」と指で自分の名前を追っていくと、桃子の視線が止まった場所に、もうひとつ見慣れた文字列が並んでいた。
蒼空 / 桃子
「よし、となりだ!」
桃子は迷いゼロでイスを引き、コロコロと足元のキャスターを鳴らして腰を下ろす。そしてガンッと机と机をくっつけて、教科書一冊ぶんくらいの距離が、秒でゼロになった。
「ねぇ蒼空、期末テストって勉強してる?」
「うーん、家に帰った後に軽く授業の復習をするくらい」
「“軽く”って言うわりに、いつも成績いいじゃない。数学おしえてくんない? あたし苦手なんだー」
唐突にくるド直球。蒼空は一瞬、口の中の言葉を順番待ちさせてしまう。
「べ、別にいいけど……」
「じゃあ、全国大会まで間があるし、今日の放課後は図書室で勉強ね♡」
小さなハートの絵文字が実体化して机の上に落ちた気がした。蒼空はうなずくしかない。
(今日は4拍子、しかもテンポ速い……)
教室の空調がブーンと一定の低音を刻む。拍で数えると1、2、3、4。桃子の声は二拍目で跳ねる、明るい音。
鐘が鳴る。授業が終わる。昼休み、午後の授業、放課後。時刻は滑るように進んで、二人は図書室へ向かった。
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学校の図書室は、冷房が効きすぎでもなく弱すぎでもない場所だ。
入口の消毒用アルコールの匂いを通り過ぎると、紙と糊と静けさの香り。
「四人掛け空いてる」と桃子が指差した席に座る。彼女はためらいなく蒼空の隣へ。向かいじゃない、隣だ。(先手の白に攻められている?)心臓が四拍のテンポから、また少しだけアゴーギク(テンポ上昇)する。
「え、えーと」
「はい、これが数学の教科書とノート。あ、シャーペン貸して」
「持ってないの?——」
「失くした」
だけど蒼空には桃子の筆箱には何本かのシャーペンが入っているのが見えていた。
(ヤバ……距離、めっちゃ近い……)
ノートを覗き込む肩と肩が触れるか触れないかの角度に、空調の風がひんやりと入り込む。髪からほのかにミントっぽい香りがする。拍が狂う。1、2、3、4、5。戻せ。
「ねえ、そういえばさぁ、日本って女子が男子にチョコあげる慣習があるんでしょ?」
「……2月の行事だよ、それ。今は7月……」
「えっ(汗)?き、季節なんてどうだっていいじゃない?チョコはチョコ。はい、これあんたに♡」
桃子はごそごそと鞄からリボンのついた板チョコを取り出し、蒼空に渡した。青い箱に金の箔押し、やや高級そう。
「(どゆこと……受け取っていいの?)……あ、ありがとう……?」
「(桃子、内心ドキドキ)ただの義理チョコだからね! べ、別に深い意味ないから!」
頬に色が差す。視線が左右に泳いで、彼女はポーランド語で小さく付け足した。
「……Głuptas」
(もうGłuptasは覚えた。でもどういう意味の“バカ”?)
蒼空はチョコの箱をカバンにそっと滑り込ませる。四拍で心を落ち着かせ、ノートを開いた。しかし自分でも何で緊張してたのかわからなかった。
「で、数学。どこを教える?」
「最初から」
「全部?」
「ぜんぶ」
「……りょ。」
蒼空はノートの端に数直線を引き、関数の基本から始めた。
「この式は二次関数、グラフは放物線。xの係数が負だから、頂点は右にずれる——」
「待って待って、頂点ってチェスでいう“キングの位置”みたいな?」
「チェスならxが時間でキングが右の安全地帯に逃げてるって考えるのはアリ」
「じゃ、この辺の“頂点”に城みたいに寄せるわけね」
「数学では城は寄せない」
二人とも小さく笑った。図書室の司書さんが一瞬だけこっちを見て、しかし何も言わず、スタンプをパタンと落とす音だけが遠くでする。
「じゃ、問題やってみて」
桃子はペンを握る。けれど、手が空中で迷っている。
蒼空はそっと手を伸ばして、ノートの端に矢印を書いた。
「ここ。ここから置き換えしていく」
「……ふむふむ」
ペン先が紙を走り、少し止まり、また進む。桃子が時々、唇を尖らせる。
「うーん……頭が甘い匂いになってきた」
「それ、チョコの匂いかな?」
「そうかも。ひと欠片、開ける?」
「図書室で開けるのはやめとこう。飲食禁止」
二人の視線がふっと合って、何でもない会話が少しだけ危険に感じられる。蒼空は視線をノートへ戻した。拍は保たれている。1、2、3、4。
しばらく問題を解き、正解が続くと、桃子の目がちょっとだけ猫っぽく細くなる。
「できた。やるじゃん、私」
「うん、先生が優秀」
「チェスでの先生はあたし、でも今日は——私が生徒?」
「うん、(かわいい)。生徒」
蒼空がボソッと言ったセリフに桃子の頬が赤くなる。
「次、ここ。三角関数」
「結構出題範囲広いのね」
桃子は、真剣にペン先を構え直す。
時計の針が動く。午後四時を回る頃、図書室の外の廊下から部活の掛け声がかすかに届き始めた。
桃子がふいにペンを止め、横顔で囁く。
「ねえ、期末テストが終わったらなんだけど……週末にさ、買い物付き合ってくれない?原宿とか。あたしあまり詳しくなくてさ……」
蒼空はペンを空中で止める。原宿。
「……俺が詳しいと思う? 原宿……」
「ほ、ほら、チョコもらった男子は女子にお返しする慣習もあるんでしょ、日本って」
「……それは3月のイベント」
「Zamknij się(いいから)、ポーランドじゃ7月なんだよ(大嘘)!」
声が跳ねて、慌てて自分で口を押さえる。司書さんがこちらをちらり。桃子は小さく謝り、また蒼空に向き直る。
「付き合うの?付き合わないの?どっち!?」
彼女の目は冗談の光と本気の影のちょうど真ん中で揺れている。
蒼空の胸で、四拍が一拍だけ長く伸びた。
1、2、3、4。1。
(ここでずらさない。テンポは、ちゃんと合わせる)
「……付き合う」
言葉が空気に落ちる。
一拍遅れて、桃子の口角が上がり、ポーランド語がこぼれた。
「Głuptas。素直にそう言えばいいのよ!じゃあ……期末が終わった土曜日。原宿駅の竹下口に13:11だよ」
「なぜ11分?」
「……ふふん、あんた流に言えば”拍があうから”にきまってるでしょ♡じゃ、あたしはちょっと前に着いて、食べ歩き下見してる。千駄ヶ谷の方から歩いてきてもいいし」
(……拍、それだとちょっとずれてる気がする……)「食べ歩きの下見?」
「勝ち筋は序盤で決めるのよ」
「それってチェスの格言?」
「エレナ師匠の口癖」
桃子は机の下で足をぶらぶらさせ、急に真面目顔で付け足した。
「そうだ!あんたちゃんと携帯持ってきてよね、スマホもってない人との待ち合わせは恐怖だから!」
「……わかった」
「そして遅刻したら、罰金だよ」
「罰金?」
「スイパラでおごってもらうから!」
「その罰、甘くない?」
「どうして?甘いほうがいいでしょ」
目が笑っている。蒼空も笑った。胸の四拍がぴたりと会う。
図書室のスピーカーから閉館五分前のアナウンスが流れる。司書さんからも「帰りの準備を—」の声
二人はノートを閉じ、ペンをしまい、立ち上がる。
外はまだ明るくて、蝉が勢いよく鳴いていた。
廊下を歩く間、何も言わず、でも同じ歩幅で、同じ拍で。
階段の踊り場で、桃子が立ち止まる。
「ねえ——全国、勝とうね」
「うん」
「その前に、原宿」
「うん」
「チョコは溶ける前に食べてね」
「柔らかいチョコは好き。日本も7月のイベントにするべき」
「Głuptas♡」
三回目のGłuptasは、やさしい響きだった。




