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EP11 手数と時間

☆☆Round1 (Smothered mate)☆☆


伊織(白)


ELOレート2100の教科書の権化は、教科書の順に進める。ゆっくり中央、ゆっくり展開、過不足のない打ち回し。相手が一手伸びたところで、中心の突きが形を決め、背後から静かな圧が立ち上がる。

終盤の入口で軽くルークを交換、駒が減ったぶん有利がはっきりと姿を現す。残るのは教本に載っている“勝ちやすい形”。


「ここからは練習通りだね」小声で呟き、最後は教科書的な図で締め。


投了した相手の”ため息”もなんだか礼儀正しく聞こえる。


桃子(白)


初手から軽やかにテンポを刻む。ナイトの跳ね→ビショップの睨み→小サックでラインを開通。相手の肩がわずかに上がる。桃子の視線が斜めに走り、両取りの影だけ見せて、別の筋で刺す。


五分も経たず、黒の王周りが“いい匂い”に整列した瞬間、彼女は細い一手を置いた。


21手目で相手は時計を二度見して、投了。「……ありがとうございました」。


桃子はウインク。「ふふっ、戦術の香水、好きでしょ?」


蒼空(黒)


開始三分。会場の空調は低いベース音、相手の呼吸は二拍目で浅くなる。蒼空は時計を見ない。指の内側で1、2、1、2、3を一回数え、ただの“待機”を一つ置く。盤はじわじわと詰まり、白王の背後に味方の駒が自作の壁を築く。


——そして、意識の外から黒いナイトの刃が白王の喉元に突き立つ


逃げ道は白の駒で満杯。


観客「きれいなSmothered mate(窒息の詰め)だ」静かな拍手。終了タイム10:10


===================

☆☆Round2 (Boden’s Mate)☆☆


桃子(黒)


序盤の打診を二つ三つ。相手の視線に小さな恐怖の泡が浮かんだのを見て、桃子は拍を半歩だけ速める。


Fear Spike。


候補手が見えているのに触れることができない、あの冷たい違和感が盤面を覆う。


白は“触れられない手”に見入った。視界の端で、黒の別筋が静かに口を開ける。


21手目、時計が0:13で止まる。「……参りました」。桃子は肩を竦め、「怖くないよ、ちゃんと見ればね」と笑う。


伊織(黒)


駒交換の向こうに見えるエンドゲームの輪郭を、序盤から計算している。


「ここはビショップ対ナイトの長い戦だ」自分にだけ聞こえるくらいの声。


ポーン構造を一段ずらし、相手のキングを遠くにとどめる。トライアングル(三角手)で一手渡し、ツークツワンクに近い位置まで押し込む。(※Zugzwang:指すことで状況が悪化するため、できれば手を指したくないのに、指さなければならない状況)


「投了でいいですよ」ではなく、図を作ってからそっと手を差し出す。相手は素直にキングを横に倒した。


蒼空(白)


盤上に張りつめた空気が、ふと揺らいだ。相手が不用意にナイトを動かした瞬間、蒼空の呼吸と会場の拍がぴたりと重なる。


左翼のビショップが斜めに滑り込み、黒王を逃げ道へ追いやる。続けざま、右翼のビショップが遠くから鋭く切り込む。二つの光が交差し、黒王は自陣の味方駒に囲まれて動けない。


「……2つのビショップでたすき掛けに詰ます、ボーデンのメイト(Boden’s Mate)だ」


観客席の誰かが呟き、静寂が広がった。


秒針が10:10を指すと同時に、審判が手を上げる。「チェックメイト」。


盤の上に刻まれたX字が、蒼空の無表情の奥で確かな勝利を告げていた。


===================

☆☆Round3(21手と10分10秒)☆☆


観客ロープの外、紙コップの水を持った男子が囁く。「あの女の子、また21手で詰みだ」


別の子がメモを見て驚く。「R1もR2も21手。マジで21で揃えてんの?」


桃子は終局図を眺め、「アハハ、また21手だ、ウケる♡」と肩で笑う。彼女の勝ち筋は香り高い短編みたいに、毎回ぴったり締まる。


その横で、別のざわめき。


》 「なあ、あの黒い髪の子ってさ……打つのが異常に早くない?相手ばかりが時間使ってる……」

》 「ほんとだ……」


蒼空は聞こえていない。いや、会場の拍に溶けているだけ。


1、2、1、2、3。着手。

盤は音を立てずに崩れ、相手は気づいたときには退路を味方で塞いでいる。

そして相手のキングが横倒しされた時のクロックは、またもや10:10。


》 「うそ!ほら見て、黒い髪の子は終局のたびに10:10で時計が止まってる。R1もR2も今のR3も」

》 「R1もR2もR3も…全部10:10?スクショ撮…あ、スマホ預けてた」

》 「なんだこいつら……化け物か」


===================

☆☆Round4 (溶けてゆく時間)☆☆


相手は前大会の上位。指すときに息を止める癖がある。


蒼空は開始前に8分の5拍子の先頭2拍、相手の鼻先まで届くくらい静かな呼吸を作る。


中盤、白王はまだ安全、形勢評価は互角。


蒼空は等価の二択を用意する。


Qh5+ と Qg4+。選択によって形勢評価は変化しない。どちらでもいい。だからこそ、時間を喰う。


相手は息を止める。3と4拍目までに指せない。5拍目で迷いが滲む。


蒼空はAを見せてB、次はBを見せてA。選択の拍をズラし続ける。


評価値が確認できるUI(画面)が見えるわけじゃないのに、候補手が削られていく音が会場の空調に紛れて響く。


「……おかしい、進まない」観客の誰かが呟く。評価バー(評価値のグラフ)を表示する画面は会場には無いが、互角の匂いのまま、白の時間だけが溶けていく。


相手の目に焦りが灯る。息を止め、指が硬直する。蒼空は1:29のリズムで、また二択。


やがて白はセカンドベストに手を伸ばし、指の途中で止まる。


「……参りました」


静かに投了。会場がざわめき、クロックを見る者は皆、10:10で止まっているのを見て顔を見合わせた。


蒼空は軽く会釈し、時計は見ない。代わりに、会場の拍が今も自分の胸と重なっているのを確かめる。


☆☆DQS(ダイレクトクオリファイ、そして10:10の謎)☆☆


控室。紙コップの水と塩タブレットの皿。


掲示板には速報の紙。「DQS達成者(4.0/4)」の欄に、伊織/桃子/蒼空の名が並ぶ。場内が「早すぎ」のざわめき。


「さて——Round5どうする?」伊織が椅子を引く。


「出る」蒼空が即答する。


桃子が肩をつつく。「Nie(ダメ)、出ない。全国に行けるんだから十分だよ。今日はおしまいにしよ」


蒼空は少し迷って、頷く。「……わかった」


伊織が笑う。「僕もここで運営の手伝いに回るよ。だから僕ら3人はR5は棄権で4.0確定にしよう。全国の前に体力を残すのも実力のうち」


三人は同時に立ち上がり、受付へ棄権届を出した。審判が驚いて、すぐ納得の顔をする。「DQS達成、おめでとう」


桃子が蒼空に駆け寄る。


「全国おめでと!見て見て、あたしは全部21手で揃えたよ。すごくない?♡」


「んー……あ、俺は全部10分10秒になってる」


「……は?全部!? ほんとだ……なんで!?」


「1分29秒で指してたら、そうなった」


「Co jest, kurwa!?(マジか、どゆこと!?)」


「8分の5拍子で1分29秒=89秒を1拍目で合わせると自然に610秒=10分10秒になる」


「……なにその数学っぽい話、怖い!」

桃子は数学が苦手だった。


「フィボナッチ数列。前の二つの数を足して次の数を作るやつ。0, 1, 1, 2, 3, 5, 8, 13, 21, 34, 55, 89, 144, 233, 377, 610……」


「ちょっと待って、あたしの21手もフィボナッチじゃん!」


「そう。自然界のリズムはみんなそれで出来てる。花びらの数、渦、貝殻、太陽の黒点……自然って不思議……」


「いや、自然よりあんたの方が不思議だから!」


===================

☆☆全国出場者リスト☆☆


夕方。


掲示板の前に人だかり。「全国出場者(DQS & 上位タイブレーク)」の青い見出し。


印字された紙に、伊織/桃子/蒼空の名前がまっすぐ並ぶ。


颯真「うぇ、伊織部長と桃子はともかく蒼空まで全国に行くんか!」


アキラ「蒼空はまだチェス初めてひと月……だよね、ホントに初心者だったの!?」


桃子はさりげなく蒼空に腕をからめる。

「んふふ♡だから言ったでしょ、蒼空はやるときはやるって♡」


フラッシュはないのに、カメラのシャッター音が聞こえた気がした。スマホ禁止のはずの会場で、誰かの記憶がシャッターを切る。


「写真撮って!」と友人が笑い、ロープ外から指で四角を作る。


桃子はピースを、伊織は控えめに微笑み、蒼空は1、2、1、2、3と数えてから、軽く頷いた。


掲示板の端、4.0/4の並ぶ列に小さな星印。


空調の音が、今日いちばん静かになった。


次は——全国。


拍は、まだ止まらない。

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