EP10 地区予選
六月最後の土曜日。
東京都の水道橋にあるコミュニティセンターの自動ドアが開くたび、むっとした外気とセミの合唱が一瞬だけ流れ込み、すぐに会場の空調音に呑まれて消えた。
大ホールはバスケットコート二面分ほどの広さ。折り畳みテーブルが縦横の列でびっしり並び、黒と白の盤が規則正しく並ぶ。100人、いや150人は入っているだろうか。椅子が擦れる音、クロックの試し押しのカチ、カチ、プリンターから吐き出される組合せ表の紙の匂い。床はワックスで少し滑る。
受付の前には色とりどりの他校の制服。都内の何処かの女子高生たちはえんじ色のリボンで揃え、工業高校の高校生たちは校章入りのウィンドブレーカーを肩に掛けている。
将棋から転向したらしい男子は、なぜか和装で登場して注目を集めていた。ストリーマーの子は自撮り棒をスタッフに預けさせられて渋い顔。みんな、顔つきや服装は違うのに、同じ緊張の温度を持っていた。
「スマートウォッチやスマホ、その他インターネットに繋がるガジェットはすべてここに預けてください。電源は切ってくださいね。はい、イヤホンも一緒に封筒に入れてお名前を。返却は全ラウンド終了後です」
受付テーブルの端で、審判が声を張る。透明のプラ箱に次々と黒いスマートウォッチやBluetoothガジェットが入った封筒が落ちていく。ブウンというバイブレーターのあの音がしたとき、桃子は一瞬だけ眉を寄せた。
(チート野郎、隼人の“ククッ”という笑い声が頭をよぎる……でも今日は、対人の大会。盤の上だけが世界)
時計やスマホを持ち歩かない蒼空は、審判の人に「本当にスマホもってないの?」と疑われながら、自分のポケットを裏返して見せた。手首はいつも裸のまま。彼はいつも通りぼんやりした顔をしているようで、でもどこか、会場の拍を吸い込んでいるみたいにみえる。
「伊織先輩、会場、広いですね」
「音がよく響く。空調が安定してるのは助かるな」
蒼空たち一行が受付を抜けると、張り出し板の周りで人だかり。まだ一回戦(Round1)の組合せは出ていない。ホールの隅では、上位2盤用の中継ボードが準備され、審判がDGTケーブルの差し込みに苦戦している。観客スペースはロープで区切られ、ボランティアの大人が「静粛にお願いします」と書かれたパネルを持って立っていた。
「集まって」
伊織が部員を手招きし、壁際の空いたスペースに寄せる。部長の声は大きくないのに、はっきり届く。
「今日の地区予選のルール、確認ね。方式は1日開催、5ラウンドの加速スイス式トーナメント。Round1とRound2は上位と上位、下位と下位が当たるようにシードに仮の0.5点加点が入る。いきなり番狂わせで山が崩れにくい設計だ。持ち時間はラピッドの15分+10秒、勝ち1点・引き分け0.5点・負け0点」
颯真が頷く。「加速スイス、勝ち進むほど強い奴と当たる早仕分けってやつやな。OKや」
「で、全国大会への切符はダイレクト・クオリファイ(DQS)。4.0/5に到達した時点で全国出場が確定。確定後は任意で途中棄権OK。進行のために認められてるから、例えばR4終わりで4.0に乗ったら、R5は出ても出なくてもいい」
「ふむふむ」桃子は指折り数え、「つまり——四連勝であがり、ってことね」
「そう。あと重要なのが同じ学校同士の対戦の回避。この大会、R4までは同校対戦を避けるって規定がある。盤数やスコアの都合で100%ではないけど、原則は回避。だから、今日ここでは俺たちはR5までは当たらない」
「助かる……」アキラが肩を回す。「ここで身内切り合いしても、楽しくない……っていうか伊織先輩や桃子には勝てないもんな」
伊織は続ける。「ペアリングはスコア→ブッフ(Buchholz)順で座席が決まる。終わったら棋譜は上位盤は提出必須、それ以外は任意。遅刻は10分で不戦敗。トイレは審判付き添い。デバイスは完全にNG、さっきのスマートウォッチ没収も含めて、徹底される。質問ある?」
蒼空は首を横に振った。桃子が小声で付け足す。「色配分(白黒の偏り)は?」
「色嗜好は標準アルゴで調整される。初戦は乱数、以降はなるべく偏らないように当たる。……だいたいそんなところ。」
掲示板には開始から表彰までの時間割がびっしり貼られていた。
「R1とR2が午前中でR3,R4,R5が午後か。表彰式まで終わるのは夕方だな」
会場の反対側から、マイクの軽いハウリング。
「選手の皆さん、第1ラウンドの組合せを掲示します。ご自分のボード番号を確認して、着席してください」
一斉に人の塊が動いた。張り出し板の前で名前を探す目、番号を指でなぞって覚える口の動き。「B23」「A14」と小さな声が飛び交う。クロックが各卓でゼロに合わせられ、審判が駒の初期配置をざっと見て回る。空調の低い唸り、会場全体の心拍みたいな低音が足元から伝わる。
桃子は蒼空の袖を軽くつまんだ。「緊張、してる?」
「ううん」蒼空は薄く笑う。「拍が合ってきた」
「出た、拍」
「今日指すときは、1:29にしたい」
桃子は呆れたふりをして、目だけ笑った。
「Masz odwagę(いい度胸ね)じゃ、1:29に合わせて勝ってらっしゃい」
「それじゃ、行こうか」
伊織が背筋を伸ばす。部長の横顔には、教科書みたいな静けさと、わずかな闘志の光。
掲示板の紙には、それぞれの名前が整列していた。
— 伊織 Board A03(白)
— 颯真 Board B20(黒)
— アキラ Board C12(白)
— 桃子 Board B21(白)
— 蒼空 Board C13(黒)
「C13、蒼空くんはあっちだよ」伊織が指す。
蒼空たち一行はそれぞれのテーブルへ向かった。観客ロープの外側では、保護者や同級生が小さく手を振る。誰かが伊織をみて囁く。「あれが優勝候補の人」「去年の全国大会で見た、A3の卓の子だよ」
蒼空が椅子を引く。盤の木目、黒マスに落ちる蛍光灯の白。相手が着席し、軽く会釈。蒼空も会釈を返し、時計は見ない。代わりに、耳で会場の空調と、斜め向かいの誰かの呼吸を聴く。
審判団の中央に立つトーナメントディレクターが、手元のベルを持ち上げた。
「それでは、第1ラウンド開始。時計をスタートしてください」
——カチ。
ホールの至る所で、同時に小さな音が鳴る。
蒼空は目を閉じ、5拍を一回だけ数えた。
1、2、1、2、3。吸って、吐く。
彼の指は、まだどこにも触れていないのに、すでに会場の拍と同じ速さで動き始めていた。




