EP09 拍感同期(Tempo Empathy)
昼休みの教室。窓際の席に腰かけた桃子は、机を寄せ合った友達の輪に入っていた。
「ねえ、最近気づいたんだけどさ、蒼空くんってさあ、ちょっとカッコよくない?」
クラスの女子が声を潜めるように言った瞬間、周囲の数人がクスクス笑った。
「わかる!なんか放っておけない感じするのよね」
「うんうん、そしてあの目!なんか深い緑色に見える時があって、ドキッとするんだよ」
桃子はストローをくわえたまま、思わず眉をひそめる。
「えー?蒼空っていつもぼーっとしてるじゃん。授業中も窓の外ばっかり見てるし。変わり者だよ」
そう言いつつも、心のどこかで自分も蒼空と目が合った瞬間を思い出していた。淡い光を吸い込んだ瞳に、ほんの少し息をのんだのだ。
「でも彼、結構人気あるよ?ほら、体育のときとか意外に集中してるし」
「そうそう、声も落ち着いてて低めだし」
「ぼーっとしているときもちょっと不思議な雰囲気だよね。つかみどころがなくて」
女子たちが盛り上がる中、桃子は苦笑いを浮かべた。
「ふーん。あんたら、勝手に蒼空のこと美化しちゃってない?」
「そんなこと言ってさ、桃子は最近蒼空くんと仲良いよねー」
「あたしは蒼空にチェスを教えてるだけだよ。師弟関係ってやつ」
そんな軽口を叩きつつ、視線は自然と教室の端へと吸い寄せられていた。
窓際の席。蒼空はやはり一人で弁当を広げ、箸を静かに動かしていた。周りの喧噪にはまるで興味がないように、黙々と食べている。ときおり差し込む陽光が彼の横顔を照らし、その瞳を深い緑に染めた。
(……蒼空はあのチート野郎との対戦から変わった、やっぱり気になるかも……)
桃子は無意識にペンを握り、ノートの端に小さなチェスの駒の絵を落書きしていた。
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その日の午後、音楽室の窓は昼の白さでいっぱいだった。
チョークの粉と、磨かれすぎた床のワックスの匂い。壁際のスピーカーからは、先生の少し弾む声。
「今日はショパンの“曲名当てクイズ”をやります。冒頭だけ流すから、分かった人は手を——」
カチ、と再生ボタンが押される。
最初の三秒で、蒼空は呼吸をひとつ作った。1、2、3。吸って、吐く。
ピアノの音の奥で、換気扇が一定の唸りを刻む。蛍光灯がかすかにズレた拍を鳴らしている。前列の男子のシャープペンのノックは、今は少し後ノリ。すべてが混じって教室の拍になる。
(この録音の拍が、教室の拍に、寄ってくる)
「分かった人?」
先生の声と同時に、蒼空の手がゆっくり上がった。
「はい、蒼空くん」
「……曲名は自信ない……です。でも」
蒼空は黒板上の時計をちらりと見上げた。秒針が12を過ぎ、1に向かって滑る。
胸の内側で、別の時計が鳴りはじめる。♩=144。
「この曲、あと1分29秒で終わる」
教室の空気が、少し笑って、すぐ止まった。
「えっ、終了時間……?」
「曲名じゃないんだ」
桃子が机をつつき、「Głuptas、またそういうこと言う」と小さく笑う。目は面白がっていた。
先生はいぶかしげに眉を上げ、再生を止めずに腕時計を外した。
「じゃあ、測ってみようか。今から……はい、スタート」
蒼空は目を閉じた。
ピアノの旋律が、教室の騒がしい拍を少しずつ飲み込み、整えていく。
換気扇の唸りが三小節に一度ふっと弱まる。前列のシャーペンが弱拍で二回鳴る癖がある。
(ここで一度、呼吸を整える。1、2、3、1、2、3。)
♩=144の内側の時計は、自分のではない。ここの時計だ。
蒼空は指先で机の縁をタ、タ、タと3つ撫でた。
ピアノが同型に戻る。終わりに向かうサイン。
呼吸が一拍短くなる。
(次で、締めの和音が、降りる)
蒼空は指を一本、そっと上げた。
その瞬間、曲が終わった。
先生の腕時計の秒針が29で止まり、教室に拍の切れ目が訪れる。
「……ぴったり1分29秒」
先生が目を丸くし、クラスのあちこちから「うそ」「こわ」と囁きが跳ねた。
桃子が机に頬杖をついて蒼空を見つめる。「ねえ、それ、どうやって解ったの?」
蒼空は肩をすくめる。「拍が揃うと、終わりが見える。なんか、ここの呼吸と、曲の呼吸が同じになる瞬間がある」
「はあ?」
「うまく言えないけど……風鈴が鳴りやむ瞬間みたいな。鳴る前から“終わりの形”が決まってる感じ」
先生が咳払いをして、微笑んだ。
「曲名は——残念、当たらなかったけど。予言のほうは一本取られましたね」
黒板に「ショパン:op 64 No. 1(子犬のワルツ)」と書かれる。
「じゃ、次は普通に曲名当てでいきましょう。蒼空くんは、終了時間当ては一回だけね」
教室が笑い、蒼空も笑った。胸の奥では、♩=144がゆっくり静まっていく。
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音楽の授業が終わって廊下に出ると、音楽室のドアが空調でコンと一定の間隔で当たっていた。
蒼空はつい、変拍子したその拍に合わせて歩幅を刻む。1、2、1、2、3。
隣で桃子が肩を並べる。
「大会、今日は予選の抽選だよ。緊張してる?」
「ううん。拍が合えば、きっと大丈夫」
「出た、“拍”。なんかの宗教?」
「信仰ってほどじゃない。ただ——指すときは1:29にしたいだけ」
「またそれだ。何で1:29なの」
蒼空は少し考えてから、「ちょうど息が変わるから」と答えた。
桃子は鼻で笑い、ポーランド語で小さくぼやいた。「Dziwak.(変わり者)」
でも、手は軽く蒼空の肘に触れて、歩く拍を揃えてくれた。
階段の踊り場、掲示板には地区予選・対戦表抽選会のポスター。
蒼空の歩幅は自然に1、2、1、2、3と下り、最後の段でほんの少し間を置く。
踊り場の時計の秒針が29を指す。
彼は無意識に笑った。
(合う。今日は、合う)
そして午後。チェス盤の前で、蒼空はいつものように時計を見ない。
彼の耳は、会場の空調と、相手の呼吸と、盤の木目の拍を聴いていた。




