プロローグ:Sora
1997年、IBMが開発した人工知能「ディープ・ブルー」が、当時のチェス世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフを破った。
それは、人類が“知性のゲーム”において、初めてAIに敗北した瞬間だった。
以降、AIチェスは進化を続け、StockfishやAlphaZeroなどの次世代AIは、もはや人間では太刀打ちできない存在となった。
現代のチェス界において、AIは対戦相手であり、研究ツールであり、トレーナーだ。
人間はAIから学び、AIに評価され、AIに導かれてプレイする。
つまり——
「人間がAIに勝つ」ことは、非現実的な幻想とされている。
そんな時代に、とある地方都市の片隅で、それは起きた。
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【「え、マジで?おまえ……今、勝ったの?」】
陽斗は、スマホの画面を二度見した。
そこには、「YOU WIN」という信じがたい表示が浮かんでいた。
場所は、地方都市の小さな公園のベンチ。
平日の放課後、春の夕暮れ。
中学2年の蒼空は、チェスの駒の動きすらおぼつかない初心者だった。蒼空の瞳は、光の角度によっては黒にも深い緑にも見え、その不思議な色合いが陽斗には印象的だった。
「うん。適当に指してたけど、なんか……ここかなって」
スマホに入っていたのは、陽斗が愛用するチェスアプリchess.aic。
その中でも「AI講師・エルメス」は、ユーザー評価4.9、AI段位レベル15(プロ超え)の最強クラスの相手だ。
陽斗は蒼空の一つ年上、中学3年生。蒼空とは家が近所で、いつも公園でぼーっとしている姿を何度も見かけては、なんとなく声をかけるようになった。正直、蒼空のことを深く知っているわけではないが、不思議な雰囲気の少年だと感じていた。
自分は中学校のチェスクラブに所属し、部長を務める。校内大会では2年連続優勝の実績を持ち、chess.aicのアプリではELOレート1800(中上級レベル)。昼休みはいつもアプリで海外プレイヤーとも互角に渡り合っている——そんな彼であるからこそ、”最強クラスのAIに勝てる人間はいない”というのは覆ることのない常識であった。
陽斗は、ふざけ半分で蒼空に「やってみなよ」とスマホを貸しただけだった。
それが、AI講師エルメスに圧勝するというとんでもない結果に繋がるとは、思いもしなかったのだ。
「なにこれ……バグ?」
「なあ蒼空、頼むよもう一度やってみてくれないか?」
——再びスタートボタンを押して蒼空はAIと対戦を始めた、5分後……
陽斗「えーっと、これで……21手目。おい、マジか……?」 スマホの画面に、また“YOU WIN”の文字。
陽斗「AIが……投了した。どういうことだよ……」
蒼空「……わかんない。なんか、あそこ、進むと嫌な感じがしたから……」
——AIは読みを打ち切った。 盤面の評価値は±0(※白と黒のどちらが有利かを表す指数、0だと局面は互角)に近いはずなのに、“詰みの気配”を感じ取ってしまった。 実際に詰んではいない。だが、計算上“勝ち筋が消えた”と判断されたのだ。 エルメスは、それを「人間的な直感」と誤判定した。 そして、投了。
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帰宅後、陽斗のアカウントにchess.aicから一通のメールが届いた。
> 【chess.aic運営】
> あなたが対戦したAI講師エルメスの挙動について、確認したいことがあります。
> 同一条件で再戦いただければ、協力金10万円を進呈いたします。
> どうぞお気軽に、再挑戦ください。
「やば……マジで金もらえるのかこれ!?」
数日後、陽斗はまたも蒼空を呼び出し、自分のスマホで対戦させた。
「勝利条件を同一に設定し、前回の戦型を再現……アカウント名Sora、と」
対局が始まったその瞬間、AIエルメスは過去のログからSoraの“異常”を再学習していた。
だがその学習が裏目に出たのだ——
蒼空は、たった4手で終わらせた。
Scholar’s Mate。誰もが一度は見る、“学者の詰み”。
陽斗「……え、これ、マジで詰んでるの?なんでAIがたった4手で……」
エルメスは詰みの瞬間に、内部ログに“感情の発火”に似たノイズを検知していた。
> 【ERROR CODE: MEMORY LOOP DETECTED】
> 【REASON: UNKNOWN FEAR SIGNATURE】
——AIは、アカウント“Sora”という存在に恐怖を覚え始めていた。
蒼空は「前回の対戦の後なんでこのルート、なんかAIが嫌がる気がした」と、
もぐもぐと、よくわからない感覚的な言葉を口にしていたが、陽斗は深く追求しなかった。
陽斗(不思議なこともあるもんだけど、やっぱりバグかなにかだろう。10万円儲かったぞ!)
> 【chess.aic運営】
> おめでとうございます、勝利されましたので協力金10万円と記念品を贈呈します。
> つきましては送付先の住所をお知らせください。
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数日後、陽斗は行方不明になった。
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陽斗の失踪から12時間後、彼はある施設で目を覚ました。
窓も時計もない真っ白な部屋。
部屋の中央には1台のタブレットと、チェスボード。
そして天井からは、AIの無機質な声が響いていた。
> 「再戦を開始します。陽斗さん」
——陽斗は数局をAIと対戦させられるが、やはり全く勝つことはできない……
「ま、待ってくれ!俺じゃないんだ、やったのは、友達で——!」
> 「その彼の名前を教えてください。勝ったのは、誰ですか?」
「そ……蒼空……って名前、だったと思う……」
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chess.aic本社。極秘研究セクション。
一人の研究員が、巨大スクリーンに並ぶログデータを見つめていた。
> 「Sora……彼は、どこにいる?」
画面には、"勝利者:Sora(IPトレース不可)"とだけ記録されていた。
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一方、蒼空は親の都合で町を離れ、
新たな転校先で静かな中学生活を始めていた。
ある夜、陽斗とのAI対戦が妙に頭から離れなかった蒼空は、押し入れの奥に眠っている古い木箱を引っ張り出した。 父が昔、海外出張のときに買ってきたものだと聞いている。だが、一度も使ったことはない。
金具を外すと、ふわりと乾いた木の匂い。中には白と黒の駒が薄紙に包まれて並んでいた。ひとつひとつ、手で削ったような微かな凹みがあり、台座の裏には小さな刻印が打たれている。外国語だろうか、読めない文字が曲線を描いていた。
指で駒を包み込むと、体温にすぐ馴染んで、じんわりと温かくなる。胸の奥に、なぜか守られているような、不思議な安堵が広がった。 それは、初めて触るはずなのに、長い間握っていたような——そんな感覚だった。
「……なんだろ、これ」
無意識に盤を並べ、ぽつんと座り込む。駒を見下ろしていると、微かに耳の奥で何かが囁くような気がした。言葉ではない。形や間合いのようなものが、じわりと頭の中に滲み込んでくる。 その夜はただ、盤を眺めながら眠くなるまで時間を過ごした。
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この時点ではだれもまだ、知らなかった。
この少年の中に、
最強のAIすら読み切れない「何か」が眠っていることを——




