第8話 残滓の記憶【2日目】
翌朝、私はセドリックに割り当てられた学校の部屋で、彼が来るのを待っていた。
学校ではもう一限目が終わり、二限目が始まろうとしている時間だというのに、セドリックは来ない。来ない。来ない。どことなく時間にルーズな人だろうと思っていたけれど、その想像をはるかに超えていた。
姿勢を正して座るのに疲れて、私は部屋の中を歩いた。セドリックの使う執務机の横にあるサイドテーブルに、古ぼけた一冊の本が置いてあるのが目に留まった。表紙がぼろぼろになり、頁の端は擦り切れている。その本は、私が以前読んだことのあるタイトルだった。
本を手に取り、読み始めて間もなく、セドリックが部屋に到着した。彼は慌てる様子もなく、ただ平然とドアを開けた。
セドリックの椅子に座って本を読む私を見て、彼は愉快そうに笑った。
「その本、ここにあったのか。持ち帰るのを忘れていたようだ。リアラ君、君は本を読むのか?」
その口調は素直な驚きを含んでいた。なんて失礼な人だろう。
「本は好きです」
「好きな本は?」
セドリックは間髪を容れずに質問を重ねてきた。昨日も質問の早さに驚かされたことを思い出す。これは彼の癖なのかもしれない。
好きな本と言われると答えに困る。それぞれの物語には、それぞれの良さがあるから。私は、最近読んだ本をつらつらと並べ立てた。
早口で話し過ぎたようだった。セドリックは目を丸くしていた。
「先月発表された、カルッツァの『夜霧』は読んだかい?」
「!」
その作家の名前はよく知っている。養父母が演劇に連れて行ってくれた『夜明けの星』の作者。新作が出ていたなんて!
爛々と目を輝かせる私を見て、セドリックは口元に笑みを浮かべた。
「明日、持ってこよう。だが、君が今読んでいるその本は、僕にとって大切なものだから、返してもらえないだろうか」
「ごめんなさい」
私は素直に謝った。セドリックは、どこか無邪気さを感じる表情をしていたけれど、不思議と腹は立たなかった。
◆
私たちは試作機の捜索のために保管庫へ向かった。
保管庫の前にはロレンゾが腕を組んで仁王立ちしていた。予定の時間から随分と経っているのに、彼はこの場を離れることなく、ずっと立って待っていたのだろうか。彼は疲れることがないのだろうか。この超人は疲れることがなさそうだと私は思った。
実をいうと昨日まで、彼がロレンゾという名前だとは知らなかった。仕事では何度か顔を合わせたことがあるし、なんとなく挨拶を交わす関係ではあるけれど、彼のことは『強そうな警備員』という認識しかなかった。
私はロレンゾに挨拶をした。
「おはよう」
ロレンゾは腕を組んだまま、「おはよう、嬢ちゃん」と返してきた。彼はそのままセドリックに視線を移した。
「それと、セドリック。お前さんを許しちゃいないが、他ならぬ校長からの頼みだからな。だが、おかしな真似はするなよ」
声が柔らかい。どうやら、昨日のことを怒ってはいないようだ。セドリックは、相変わらず飄々とした態度でロレンゾに返した。
「安心してくれ。レティシアからの依頼通り、君は、僕たちを見張っていてほしい」
私は、にわかに焦った。セドリックは、まるでロレンゾを挑発しているかのように思えた。しかし、セドリックはロレンゾに右手を差し出した。セドリックの予測不能な言動に、ロレンゾは一瞬うろたえた。わずかに間があって、差し出された右手を無言で握った。彼は警戒と戸惑いが入り混じった表情をしていた。
ロレンゾがもう一人の警備員を呼んできた。昼間はだいたいこの二人が保管庫の詰所にいる。以前は校内の見廻りをしていたことがあった。私は警備の事情には詳しくないけれど、たぶん二人一組で持ち場が変わるのだろう。
もう一人の警備員はマンフリートという名前らしい。チリチリとした赤茶の髪以外に、これといった特徴のない男で、ロレンゾと違って積極的には話しかけてこない。いつも眠そうにしているのに、居眠りをしているところは見たことがない。その細い目は、何かを警戒するように、常に人の動きを追っている。快活なロレンゾと比べて、マンフリートのほうが私にとっては苦手なタイプだった。
「相棒が扉の前で見張りをしてくれる」
ロレンゾがぶっきらぼうに説明し、マンフリートは無言で頷いた。
保管庫に入ると、ひやりとした淀んだ空気が流れてきた。埃っぽい匂いが鼻につく。
「今朝、フェリックス先生から、試作機を置いていた場所を聞いた。『C6の下段』だそうだ」
セドリックがそう言い、棚に貼られた『F』の区画を示す文字を見ていた。それで遅くなったのなら、そう言えばいいのに。
通路の隅に、小さな虫の死骸が転がっていた。この場所は、いったい誰が掃除しているのだろう。もしかして誰も掃除していない? 仕事が増えるのは嫌だから、黙っておこう。
そんなことを考えながら、私は平然とした態度を装っていた。でも本当は、気が気ではなかった。
私には誰にも言えない秘密がある。
誰にも知られるわけにはいかない。ロレンゾには、きっと気づかれないだろう。問題はセドリックだった。あの人は何を考えているか分からないし、繊細なところがあるから目端が利くかもしれない。絶対にバレないようにしなければ。
C6の下段には、いくつかの箱が置かれてあり、その間に少し大きな隙間があった。きっとここに試作機の箱が置かれていたのだろう。
セドリックは「ふむ」とつぶやき、周囲を見回している。鋭い視線で保管庫の隅々に目を走らせる彼の様子を、腕を組んだロレンゾがじっと見ていた。
そんな二人をよそに、私はしゃがみ込んで箱の置いてあった場所をじっくりと観察した。かつて箱が置かれていた様子が目に浮かぶように、ここには埃が積もっていなかった。
フェリックス先生の部屋にあった箱を思い出しながら、この棚の下段、箱の置いてあった場所に触れる。
わずかに、同じ魔力が残っていた。
これが誰にも言えない秘密。魔力の『残滓』を感じ取れる能力。どうやらこれがパッシヴスキルと呼ばれる、生まれながら備え持つ能力らしい。能力の種類やその強弱は人によって異なり、あまりに多種多様であるため、体系化が進んでいないと本で読んだ。
魔力感知には、優れた魔道具がいくつか存在する。しかし、人間が持つ感知能力は、魔道具のそれに劣る。ほとんどの人は、せいぜい『勘が働く』程度の能力しか持たない。さらに、魔力感知とは、魔力を行使した際の膨大な魔力を感知するものであって、魔力残滓のような微弱なものは感知できない。どれほど優れた魔道具であっても、それは不可能なことだった。
私は魔力残滓を感知できる。どうやらそれは人並みから逸脱した能力のようだった。その場に残された魔力の細かな特徴までわかってしまう。人から発せられた魔力に色がついて見えるから、誰の魔力か知っていれば、誰が魔力を使ったのか判別できる。さらに、使われた魔力がどのような性質か、どんな魔法だったのか、そして場合によっては、それを行使した人の感情の温度まで感じ取れる。
幼い頃は『他の人よりも魔力に敏感』で済んでいた。けれど、成長するにつれて、感知できる魔力の精度が高まってきて、気持ちまで感じるようになってしまった。
以前、悪意に満ちた、おそらく誘拐現場の、強烈な魔力残滓に触れてしまったことがある。さらに魔法を行使された被害者から放出された、悲鳴のような魔力痕が、その魔力残滓にこびりついていた。そのときは頭痛や吐き気に苛まれて、何時間も身動きがとれなかった。今でも思い出すだけで震えが止まらなくなる。
能力が高まった代わりなのか分からないけれど、やがて能力を制限する術が身についた。気持ち悪い思いをしないために、普段は意識してこの能力に蓋をしている。それでも、私の意図しないうちに魔力を感じ取ってしまい、体調が悪くなることがある。もしこの能力を誰かに知られて、利用されることになったら、私はきっと、生きた心地のしない毎日を送ることになる。
はっきりとわかる。ここには、間違いなく、試作機が置かれていた。
試作機が放つ魔力残滓。それに絡みつく魔力が二つ。ひとつは、試作機の制作者であるフェリックス先生。もうひとつは、誰かは分からないけれど、試作機に触れた犯人。
フェリックス先生の魔力は、枯れた木のように色を失っているのに、穏やかで深い温かみを感じた。犯人の魔力はとても深い蒼色。拒絶とも孤独とも受け取れる冷えきった感情と、静かに燃える青い炎のような激情が絡み合っていた。
私がしゃがみこんで魔力残滓を感じ取っている間、セドリックは「ふむ、どこから探したものか」とつぶやいていた。彼は、保管庫の中にこれだけ膨大な数の棚が並んでいるとは思っていなかったらしい。
私の目には、まだ魔力の跡が映っていた。私の肩より高い位置にあり、この区画の先を右に曲がっている。集中できているうちに追いたい。その跡はさらに、いちばん奥の通路を左に曲がっていた。
その瞬間、「こら! 嬢ちゃん。あんまり勝手に動くな」とロレンゾに声をかけられて振り向いた。集中が途切れてしまった。魔力の跡は、もう私の目には見えなくなっていた。
「そっちに何かあるのか?」
声の主はセドリックだった。彼は私を見て、ニヤリと笑った。やはり油断ならない人だ。
「前にここに来た時に、奥の方は荷物が少なかったから、そこから探すのが楽かなと思って」
私は咄嗟にそう言い繕って、うまく誤魔化そうとした。
「総当りするしかないか。先生が言うには、試作機は黒い筐体に白いインクの署名がある。おそらくだが、見たらすぐにそれとわかるだろう」
セドリックはそう言いながら、私の方に歩いてきた。彼の後ろを、ロレンゾが監視するように張り付いている。
私はセドリックに道を譲ろうと、さっと横に避けた。しかし、どういうわけか、セドリックは私の前に出ようとしない。
あろうことか、セドリックが私を急かしてきた。
「行かないのか?」
「セドリック様が決めることです。お先にどうぞ」
しかし、セドリックは普段通り、飄々と答える。
「君の方が保管庫には詳しい。連れて行ってくれ」
その言葉に、私の心臓が跳ね上がる。能力がバレたのだろうか。いや、そんなはずはない。この能力は、誰にも話したことがない。
セドリックは、私の表情を面白そうに眺めている。彼の言動は、私の能力を知っているかのように思わせるものだった。
私は、観念したように息を吐いて、さっきの魔力の痕跡をたどり、保管庫の奥へと向かった。