第7話 誰そ彼どきの逢瀬【1日目】
図書室の退出時間を待つことなく、本の中の物語は結末を迎えた。
私は本を閉じた後も手を離さずに、しばらく物語の余韻に浸っていた。
「時間だよ」
顔なじみの司書から声をかけられた。
彼女を見るたびに、まるで物語の中の魔女がここに現れたかのように錯覚してしまう。黒くて真っ直ぐな長い髪。切れ長の目を包み込む、羽のようなまつ毛が揺れている。若くも老いてもいない、年齢不詳の魔女。
「今日は『シャルロッテの告白』か。君は趣味がいい」
その言葉を聞き、嬉しくなって感想を話し出そうと口を開くと、魔女は私を遮るように手で制した。そして、「今日はもう閉める」と宣告し、そのまま去っていった。
充実した読書ができたことに満足した私は、足取り軽く図書室を後にした。
いつもは本を読む気力さえ奪われるほど疲れているのに、昨日と今日は心ゆくまで物語の世界に浸ることができた。一瞬、事件のことが頭をよぎったが、「明日のことは明日考えよう」と、あえて思考を止めた。
校庭から弦楽器の音が聞こえてきた。辺りはすっかり暗くなっている。普段、この時間の校庭には誰もいない。校庭の周りの道に設置されている灯りが、ぼんやりと辺りを照らしている。校庭にあるベンチで誰かが演奏しているのが見えた。よく見ると、昨日食堂で会ったアッシュだった。
この学校では、楽器を演奏する学生を見たことがない。勉学や魔法技術の研鑽が最優先されるこの場所では、そういった芸術的な活動は軽視されがちなのかもしれない。
街や教会では、楽器を演奏する人はいるから、この学校にも一人や二人はいてもおかしくないのに。そうか、そのひとりがアッシュなのか。
そんなことを考えながら、彼の演奏をぼんやりと眺めていると、ふいにアッシュと目が合ってしまった。にわかに演奏が乱れ、彼はそのまま手を止めてしまった。
ここで無視して立ち去るのはおかしいし、せめて挨拶だけでもして、この場を離れようと私は思った。
「こんばんは。ごめん、邪魔したみたいで。音が聞こえたから見に来ただけ。頑張って。それじゃ」
返事を待たずに立ち去ろうとすると、アッシュは「ちょ、ちょっと待って」と言って、慌てて立ち上がった。
アッシュは、ぎこちない動きをしているけれど、昨日よりは自然な笑顔だった。学生が着るローブ姿ではなく、街で見かけるような、少し派手なデザインのシャツを着ていた。
「リアラさん、音楽は好き?」
彼の問いに、私は正直に答えた。
「嫌いじゃないけど、好きというほど聴かないかな」
アッシュは、わずかに残念そうな顔をした。
「えーと、好きな曲はある?」
会話を続けようと、少しだけ緊張した面持ちで尋ねた。養父母と教会に行ったときにいつも聞いていた歌は、心地よくて好きだった。曲の名前は分からないけれど、ふとしたときに頭の中でその曲が流れている。
「教会で聞いた歌は好きかな。『らーらららーーら、らららららー♪』みたいな曲」
私が口ずさむと、アッシュは嬉しそうに、「ちょっと待ってね」と言い、彼はその場に置いていた楽器を手に取った。子どもの背丈ほどもある大きな楽器だった。教会で見たような気もするし、街のどこかで見かけたような気もする。
彼は、私が口ずさんだ曲の演奏を始めた。伸びやかで、低く響く音が心地いい。この音は、好きな音だ。主旋律だけの演奏だから、教会で聴いた歌とは少し違う曲に聞こえる。
私は、この主旋律だけの音を聴いて、不思議な感覚に陥った。どこかで、聴いたことがあるような……。
教会じゃない。どこだろう? 家? 人の歌声?
濃い霧に包まれたように、うまく思い出せない。ただ、胸の奥が切なくなって、懐かしさのような感情がこみ上げてくる。
演奏が終わった。
私は、自分が気づかないうちに、目に涙が溜まっていたことに気がついた。暗くて私の顔がよく見えないのが幸いだった。
「懐かしい気持ちになった。演奏ありがとう」
私がそう言うと、アッシュは優しく微笑んだ。
「もしよかったらまた来てほしい。いつもこの時間に練習しているから。今日はちょっとだけミスをしたけど、今度は練習しておく」
私は得心がいった。昨日も遅い時間に食堂で会ったのは、この時間まで練習していたからだったのだろう。普段は学生寮の近くで練習しているのだろうか。いつかまた、この曲を聴きたい。
それはそうと、図書室が閉まった後にここに来たことを思い出した。
「たぶんだけど、そろそろ食堂が閉まる時間になるよ」
「えっ、もうそんな時間?」
アッシュは慌てて片付け始めた。演奏を聴かせてくれた彼をこのまま置いていくのは、なんとなく気が引ける。私は、楽器の片付けが終わるのを待つことにした。
楽器をケースにしまい立ち上がると、アッシュは私を見て、嬉しそうに、にこにことしていた。彼はいつも愛想よく笑顔を振りまいている。私とは違う生き方が、少しだけ羨ましく感じた。
校庭から食堂や職員寮は同じ方向なので一緒に歩いた。その途中、食堂の裏口にある調理室の出入口に誰かが立っている姿が見えた。調理師のリヒャルトや配膳係ではないように見える。
「食堂の裏口に誰かいる?」
そうアッシュに問いかけると、彼はちらりと目をやり、すぐに答えた。
「あれはエリス先生かな?」
そう言われて、改めて姿を見てみると、それはエリス先生だった。
新進気鋭の若手研究者。他校に在籍中、発表した論文が国の機関から表彰され、教員として魔法学校に招聘された才女。国粋派のローブを身につけ、すらりとしていて並の男性よりも背が高く、凛々しさと気品のある顔立ち。引き締まった小さくて薄い唇。女性の私からみても、彼女は美しいと思う。
「この時間、裏口でエリス先生を見かけることがあるよ。たまにだけど」
「不思議。あんなところに何かあったっけ?」
私の問いかけに、アッシュは小声で、少しだけ耳に寄せて話した。
「リヒャルトさんとの逢瀬」
「嘘? ほんとに?」
私はその意外な組み合わせに驚いた。
リヒャルトは、料理の腕は確かだし、朗らかで人懐こい性格から多くの人に好かれている。でも、失礼な話かもしれないけれど、あのクールなエリス先生と並んで立つ姿がどうしても想像できない。
私の身近なところで、私の知らない物語が育っていることに心が踊った。まるで本の中の物語のような、秘密の恋愛劇が繰り広げられようとしている。
そんなことを考えながら、わくわくして帰ったのに、部屋についた途端に気持ちが冷めてしまった。その日もすぐに眠りに落ちた。
◆
ここまでの登場人物(登場順)
リアラ:19才。女性。用務員
シオリ:15才。女性。学生
司書:年齢不詳。女性。司書
セドリック:20代半ば。男性。高貴な一族の道楽息子
アッシュ:16才。男性。学生
レティシア:40代。女性。校長
フェリックス:50代半ば。男性。教授(教会派)
リヒャルト:30代半ば。男性。調理師
ロレンゾ:30代後半。男性。警備員
エリス:20代後半。女性。准教授(国粋派)