第6話 読書未遂【1日目】
レティシア校長への報告を終えた気ままな殿方は、「今日はここまでにしよう」と宣言した。
まだ日が暮れるには早く、私は呆れながらも、早く仕事が終わるのは良いことだと思った。事件は気になるし、セドリックの言動は気に入らない。けれど、彼との時間が終わったことだけは素直に嬉しかった。その足で、迷うことなく図書室へと向かった。
図書室は、いつになく学生で賑わっていた。この時間帯は、課題の調べ物をするために多くの学生が訪れる。それにしても、今日はやけに人数が多い。この先に控える考査のためだろうか。教科書を手に隣の席の人と話し合っている学生たちが目立つ。話し合うならここじゃなくて、講義室や屋外でもいいのに。
私はそんな賑わいの中を静かに進み、昨日の続きを読もうと、書架から本を手に取った。いつもの窓際の席には、すでに学生が座っていた。
なんとなく気分が乗らないまま、入口の近くにある長いカウンターの隅に腰を下ろした。手にした本を開いても、物語の世界に集中できない。周囲の学生たちの話し声が耳につき、文字がただの記号にしか見えない。
周りの学生がうるさいからなのか、それとも、さっきのセドリックの言動のせいで、まだ心のどこかに怒りが残っているからなのか。いや、今はそんなことは考えたくない。せっかく楽しみにしていた読書の時間なのに。
「今日も早かったんだね」
シオリの声がした。肘を着いたまま横を見ると、私の隣にシオリが座ろうとしているところだった。
「早く終わったのはいいものの、気分が乗らなくて本が読めずに、ふてくされ中」
わざと口を尖らせた。シオリを見た瞬間に、冗談めかせて言えるくらいには落ち着いてきた。そんな私の言葉を聞いて、シオリは小さく笑った。少し疲れたような顔をしているのが気になる。
私は小さく伸びをした。せっかく図書室に来れたのに、このままでは不完全燃焼だ。こうなったら気分転換をしよう。シオリも元気になるかもしれない。
「もう帰るところ?」
「私も今日は集中できなくて、もう帰ろうかなって思ってたところ」
「これから一緒に夕食しない? 早い時間だから混んでるけど」
私の誘いに、シオリは嬉しそうに目を輝かせた。
「うん。行く行く」
彼女の言葉を聞くと、私の心はふわりと温かくなる。私は、本をそっと閉じた。
シオリと共に図書室を出ると、外は夕焼けが美しく空を染め上げていた。隣を歩くシオリは、バッグを抱えたまま俯いていて、どことなく元気がなかった。私が心配して見ていることに気がつくと、シオリはハッとした様子で微笑んだ。
食堂には、夕食をとる学生たちがひしめき合っていた。この食堂は、静かな図書室とは真逆だけど、リヒャルトの料理の匂いが、私の心を少しずつ解きほぐしていく。
食事を終えて立ち上がる集団がいたので、私とシオリはそのテーブルに並んで座った。
「美味しそう!」
「うん、美味しそうだね!」
私も、シオリも、皿に盛りつけられた肉料理に心を踊らせた。
リヒャルトの宣言通り、今日の肉料理は素晴らしかった。肉の旨味が口いっぱいに広がり、疲れた心に染みわたっていく。学校の食堂でこんな料理が食べられるなんて、なんて贅沢なのだろう。私の心がだんだんと穏やかになっていく。
しかし、隣のシオリは、どこか浮かない顔をしていた。その瞳が不安に揺れている。
「考査が近いのに、なかなか勉強が進まなくて」
出会ってから少し経った頃、シオリから身の上話を聞いた。彼女は一般家庭の出身で、兄弟姉妹はいない。魔法学校への入学が決まったとき、両親は大変喜んで、高価な洋菓子を買ってきてお祝いしてくれたという。しかし、実家のある街は遠く、卒業まで帰省することができない。長期休暇期間中も寮で過ごす予定だと聞いていた。
そんな彼女が、考査を前に、そのプレッシャーに押しつぶされそうになっている。
「これでもね、成績だけは良かったんだ。でもこの学校に来たら、授業についていくのに精一杯で……」
彼女は、はにかんだように、困ったように、笑った。
この学校には、各地の成績優秀者が集まる。入学することも難しいが、修了するほうがもっと大変だ。二回連続で赤点を取れば留年となり、同じ年次で二回留年したら退学になる。私がこの学校で働き初めてからの短い間にも、何人もの学生が去っていった。無事に修了できた者のほとんどは、国の機関の幹部として活躍すると聞いている。
シオリもきっと多分に漏れず幼い頃から賢く、この学校に来たのだろう。
学校の授業のことは何も分からない。でも、シオリが毎日、誰よりも熱心に図書室で勉強しているのを知っている。無責任に『大丈夫』なんて言えない。
私は、シオリの手をそっと握った。
「何かあれば、いつでも話を聞くから。私が言えるのは、頑張っているのを見てるってことだけ」
シオリは、こぼれ落ちそうなくらい大きな瞳を向けて、その手をぎゅっと握り返してきた。
食事を終えた後、私はシオリに今日起こったことを話せる範囲で冗談交じりに話した。セドリックが警備員のロレンゾを怒らせて、私が「本当に怖かった」と打ち明けると、シオリは驚いたように目を見開いた。セドリックがその後、マカロンを頬張って「あんなに怒らなくていいのに」とすねていたことを話すと、シオリは堪えきれないように笑い出した。
彼女の笑い声を聞くと、私の心は穏やかになる。
二人は食事を終えて食堂を出た。シオリは「ありがとう」と微笑み、寮へと戻っていった。
まだ図書室は開いている時間だった。読みかけの本は、あと少しで読み終わる。今日は最後まで読み切ってしまおう。
図書室にはすでにほとんど人の影がなかった。
読みかけの本を手に取り、いつもの窓際の席へ向かうと、少しだけ離れた机に分厚い本が置きっぱなしになっていた。学生が何かの調べ物をして、そのまま置いていったに違いない。片付けようと思って、その本に近づいた。何年か前に発行された学校史だった。
魔法学校の設立から、その学校史が書かれた年までの出来事が年表にまとめられ、その後はそれぞれの出来事についての説明や、当時を知る先生のインタビューが掲載されている。
ぱらぱらと捲っていると、学校に赴任した当時のレティシア校長が描かれた記事を見つけた。
校長は、魔法学校を修了後、軍に入隊。その後、魔法学校に教員として戻ってきていた。当時の彼女のローブには、国粋派の証である金色の雌鶏と雄鶏の刺繍が入っていた。所信の挨拶文では『我が国の魔法は、他国の追随を許さぬ境地にあり、我が国の発展にのみ魔法の繁栄がある』といった過激な言葉が記されている。常に公平中立を貫き、派閥争いには一切関与しない現在の校長とはかけ離れていた。
本の物語では、戦争を識る軍人ほど戦争を嫌い、戦争を識らぬ者ほど戦争を好むのが定番だった。レティシア校長は、どんな気持ちで軍にいたのだろう。学校に来てから何があって、校長になったのだろう。この記事を書いたレティシア先生と、いつも優しく私に接してくれるレティシア校長が同じ人物なのは間違いない。でも、まるで別の人物のように思えてしまう。
こうして堂々と掲載されているのだから何の問題もないはずなのに、なんだか知ってはいけない過去を知ってしまったような気持ちになり、私は学校史を閉じ、その机の上にそっと置いておくことにした。