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魔法学校の用務員リアラ  作者: エーカス
第1章
23/28

第23話 エリス先生【5日目】

 しばらくすると、自分で身体を起こすことができるようになった。立ち上がろうとして膝に力を込めてみても、まるで自分の足ではないかのように、うまく力が入らない。再び身体を横たえたいという抗いがたい欲求が押し寄せてくる。焦れば焦るほど状況が悪くなる悪循環に陥る気がして、立ち上がることを諦めた。レティシア校長が戻ってくるまで、ここで大人しくしていよう。

 校長室のドアが開いた。

 レティシア校長が戻ってきたと思い、私はゆっくりと身体を起こした。ソファに背中を預け、ドアの方に視線を目を向ける。しかし、そこに立っていたのはエリス先生だった。

「あなたは確か……リアラさん、で合ってる?」

「はい。リアラです」

 私の名前を覚えてくれていたことに驚いた。ほとんど教員とは仕事中に話す機会があるけれど、思えばエリス先生とは一度も話したことはなかった。とりわけ何か理由があったわけではなく、彼女が使っている第五研究棟がある区画は、私の担当ではないという単純な理由だった。エリス先生の声は、高くも低くもなく、心地よい響きだった。

 エリス先生もわずかに驚いた様子で私に尋ねてきた。

「あなたはどうしてここに?」

「魔力酔いを起こして、休ませてもらってます。先生は?」

「考査の実技の報告」

 校長が不在なのに、私がいるから、エリス先生が校長室に通されたのだろうか。それとも、日常的に校長室への入りが許されるほどの特別な信頼関係があるのだろうか。レティシア校長からエリス先生へ研究が継承されたという話を思い返すと、おそらく後者だと思った。

 エリス先生はしばらく所在なさげに立っていた。やがて、私がソファから動けないでいる様子に気づき、静かにこちらへ歩み寄る。

「顔色がまだ優れないようだけど」

「身体は起こせるようになったのですけど、まだ自力で立ち上がることができなくて」

「それは大変。何か持ってくる?」

 本当は、すぐそばのテーブルに置かれてあるコップに手が届かなくて困っている。でも初めて顔を合わせたばかりの先生に、そんな些細な用事を頼むのは気が引ける。

「遠慮しないで」

 私が何も言わないでいるのを見かねたようだった。エリス先生は言葉数が少なく、端的に話をする。私にとって、無駄のないこのやり取りは居心地がいい。私もたくさん話すのが得意ではないから。

「コップが届かなくて……」

 私がそう言うと、エリス先生は迷うことなくコップを手に取り、手渡してくれた。そのとき、彼女の指先がかすかに私の指に触れ、彼女の微弱な魔力が身体に流れ込んできた。

 私はコップを取り落とした。ガラスのコップは校長室の床に鈍い音を立てて転がり、水がじわじわと床に広がっていく。

 この魔力、エリス先生が犯人だ。

 彼女は動じることなく、床に転がったコップを拾い上げた。

「大丈夫? 水はかからなかった?」

「大丈夫です。ごめんなさい」

 エリス先生は私の内面で起きた変化にまったく気がついた様子もなく、コップを持って校長室を出ていった。

 視界を支配する透き通るような水。その深い底から水面を見上げるような言いようのない孤独感。水の中は息ができなくて苦しいはずなのに、何の感情も感じない。善意も悪意さえもない、ただただ透き通った水の底。

 保管庫で試作機に絡みついていた魔力や、この校長室の魔法陣に残っていた魔力とは色合いは異なる。でも間違いなく、あれと同じ魔力だった。

 エリス先生はコップに水を入れて校長室に戻り、そのまま私に飲ませてくれた。そのとき私に触れて感じ取った魔力にも、何の感情も感じ取ることができなかった。

 私が「ありがとうございます」と礼を言うと、彼女は小さく返事をして、コップをテーブルに置いた。これほど確信を持って犯人がエリス先生だと分かっているのに、事件の犯人がすぐ目の前にいるというのに、不思議なほど恐怖心が湧いてこない。敵意も害意もなく、まるでこの世界に何の情念もなく存在しているかのような、虚無に似た、無機質な魔力のせいだ。

 試作機は今、どこにあるのだろう。エリス先生がここにいる以上、間違いなく学校の敷地内のどこかに隠されているはず。彼女はレティシア校長の研究を引き継いだ。それならば、校長と同じように、彼女にも『隠し部屋』があるに違いない。

 もうひとつ気になるのは、他校から引き抜かれるくらい優秀なエリス先生が、どうしてこのような事件を起こしたのか。目の前にいる彼女からは悪意を感じない。

 あの埃っぽい保管庫の中で感じた魔力は、ぞっとするような冷え切った感情と燃えるような激情が混在していた。あの時は冷酷に盗みを働く犯人の感情だと解釈した。今になって思うと、何かに深く絶望し、それでも必死に抗おうとしている苦悩のようにも感じる。でも、エリス先生に真実を直接尋ねるのは危険ということだけは、明確に理解できた。


 私があれこれと考えを巡らせている間に、レティシア校長はセドリックを連れて校長室に戻ってきた。

「エリス先生、来ていたのですね」

 彼女はそう声をかけられると、入口の方へ静かに歩いていき、レティシア校長と会話をした後、そのまま部屋から立ち去った。

 レティシア校長には、エリス先生が犯人だと早く伝えたい。でも、セドリックの前でそれを伝えることは危険だ。いとも簡単に、私の秘密が暴かれてしまう。折をみて校長だけに伝えなければならない。

 そんな私の心境にはまったく気付かない様子で、セドリックはソファに座る私を見て、「良かった。回復したようだ」と安堵の表情を浮かべた。冗談を言おうと思ったのか、「あのまま起き上がらないのかと思った」と縁起でもないことを口にして肩をすくめた。

 私は鋭い目で彼を見ただけだったけれど、レティシア校長は、「そういうことを言ってはいけません」と、きっぱりと言った。セドリックは、ばつが悪そうに苦笑いをした。

 レティシア校長が早足で私に歩み寄り、心配そうに私の顔を見つめた。

「お加減いかがですか?」

「何とか自力で身体を起こせました。でもまだ立ち上がれないみたいです」

「身体の自由が効かなくなって不安に思うでしょう。今は辛抱です。この段階まで来たら、ゆっくりと休めば、明日には普段通り動けるようになるはずです」

 そう言って、レティシア校長は微笑んだ。

 私の向かいにあるソファに腰を下ろしたセドリックは、「体調を崩しているところ、すまないが、いずれ君の耳にも入るだろうから、僕から先に伝えておこう」と前置きをして真剣な眼差しで私を見た。

「事件の捜査は、二日後、つまり明後日までが期限になった」

 レティシア校長が「今はその話は……」と制止しかけた。私はゆっくりと首を振り、「聞かせてください」と答えた。セドリックはさらに声を落として話を続けた。

「僕は彼を侮っていたようだ。この件に、国が絡んでくるのは想定外だった。いや、むしろ国のためには協力を惜しむべきではないと、今でもそう信じている」

 彼の物言いはひどく抽象的だった。これまでは常に直截的だった。彼自身、心の整理がついていないのかもしれない。

「国から正式に、これ以上の行動を慎むようにとの通達があった。僕は三日後には実家に連れ戻される。明後日まで猶予を与えるから、それまでに解決しろという意味だ。この背景には、バルタザールがいるのは間違いない。あの男の主張は『この捜査は学校の自治権を侵害するものであり、学校の権威を損なう』だったはずだ。ところが、その舌の根も乾かぬうちに、彼自身は国に働きかけたわけだ。まったく、節操のない男だ」

 セドリックは忌々しげに吐き捨て、深く呼吸をした。

 事件が解決してもしなくても、私は三日後にはこの任務から解放される。この厄介な仕事を引き受けることになったばかりの頃の私ならきっと喜んでいた。でももしこのまま解決せずに捜査が終了したら、私は間違いなく後悔する。

 当初は、ただ義務を早く終わらせて、本を読む時間がつくれればそれでいいと思っていた。事件のことは気になっていたけれど、正直なところ、私自身の強い意志として解決しなければならないという情熱はなかった。

 捜査を進め、事件に関わる先生方と会話を交わしていくうちに、いつしかこの事件を解決することが私の目標になっていった。

 セドリックが私に視線を合わせた。

「明後日などと悠長なことは言っていられない。明日中に、成果を挙げるしかないだろう」

 そう宣言する彼の目に、揺るぎない決意が見えた。

 もちろん私もそのつもりだった。もう後悔はしたくない。

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