第22話 魔力酔いの微睡み【5日目】
レティシア校長が私とセドリックの間に立つ姿が見える。小柄な私よりも少しだけ背の高い彼女の背中を、私はただ見つめていた。聞こえてくる音や声は、すべて遠く感じる。
「リアラさんはしばらくここで休ませます。セドリック様は捜査にお戻りになってください」
「僕もここに残ってリアラ君の回復を待つ」
セドリックの顔は見えない。いつもの飄々とした態度で答えているときの声に聞こえる。しかし、どことなく駄々をこねている感じもした。
「レディの寝顔を見るのは感心しません」
レティシア校長が冷たく言い放った。彼女は、滅多に怒りの感情を表に出さない。まるで氷のように冷静に相手を射抜く。有無を言わせない圧力が込められていて、誰しも思わずたじろいでしまう。
セドリックは言葉に詰まったようで、何も言い返さない。言い返しはしないけれど、動く気配もない。やはり駄々をこねている。
「セドリック様?」
レティシア校長がいよいよ語気を強めると、セドリックは立ち上がり、静かに部屋を出ていった。彼が立ち去るのを見届けて、レティシア校長は「まったく」と小さく息を吐き、ふわりと私の目にハンカチを当ててくれた。
「しばらくは動いてはなりません。魔力酔いを甘くみると大変なことになります」
険のない優しい声だった。私が「ありがとうございます」と言うと、彼女は「いいえ」と小さく返し、執務席の方へ静かに歩いていく音がした。
校長が書類を手に取る音と時計の音が耳に届いた。しばらく耳を傾けていると、トントンと書類をまとめる音がして、部屋から出ていく音が聞こえた。
目を瞑り、耳に届く音だけに意識を向けているうちに、首から下の身体の感覚がじわじわと伝わってくるようになった。それと同時に意識が混濁していく。
徐々に身体の感覚が戻ってくると、これまでに感じたことがないほどの激しい倦怠感と吐き気に襲われた。視界がぐらぐらと揺れ、額から冷や汗が流れ落ちるのを感じる。心音が耳にまで届き、校長室の静けさが、かえって私の身体の異変を際立たせているように感じた。
それから、眠っていたのか起きていたのか、意識の有無さえ定かでない時間が続いた。破裂しそうなほど膨らんだ風船がだんだんとしぼむように症状が治まっていき、やがて、私は完全に意識を失った。
「リアラさん、起きてますか?」
優しい声に呼ばれて、私は意識を取り戻した。声がうまく出せない。全身が重い。
レティシア校長は「失礼しますね」と言い、私の身体をそっとソファから起こすと、水を飲ませてくれた。
そのとき、私は自分がどれほど強烈に喉が渇いていたか、初めて実感した。身体の中を流れる水を感じ、身体の鈍い痛みも少しずつ遠のいていく。
「ご迷惑をおかけしました」
私がそう言うと、「これくらい大したことではありません」と優しく微笑んだ。
「レティシア校長、相談したいことがあります」
「どうしたのですか? 急に改まって」
「私、ずっと、校長に隠してきました。私は魔力を感知できます。たぶん他の人より強く感知できるみたいです」
今まで誰にも、養父母にさえ話せなかった秘密を、私はついに明かした。それは橋の上から意を決して飛び降りるくらいの覚悟だった。
私の告白を聞いたレティシア校長は「やはりそうでしたか」と、安堵と納得が混ざったような小さい声で囁くように言った。
「うまく言えないんですけど、魔力の痕跡がわかります。誰かが魔法を使ったら、どれくらい強い魔法だったかとか、魔法を使った人の特徴とか、そういうのが色で見えるんです」
「そこまでの詳細な感知は聞いたことがありませんが、あなたにはそれがわかるのね?」
「はい。成長してからは、魔法を使った人の気持ちまでわかるようになって。それで、酷い使われ方をした魔法だったとき、今日みたいに動けなくなったことがありました」
レティシア校長は、私を優しく抱きとめて、「怖かったでしょう。誰にも言えなかったのね」と言って私の頭をそっと撫でた。彼女の温もりを感じた。そして、「安心なさい。私は口が固いことで有名ですから」と静かに言った。
彼女の温かい、微弱な魔力が私の身体に流れてくるのを感じる。魔力酔いをしているからなのか、魔力を感じる力を抑えることができなかった。普段、私はこの力に固く蓋をして、できる限り誰にも触れないようにしてきた。魔力からその人の心の奥底にある感情までわかってしまう気がして、とても恐ろしかった。でも今は、この温かい魔力に包まれて私の気分は安らいでいる。
「信じてもらえるんですか?」
「あなたが嘘をつく人ではないことくらい、私にでもわかります。これまでにどれだけ悩んだのか想像がつきませんが、あなたはきっとそれを隠して悩み続けてきたのでしょう。もう独りで抱え込まなくて大丈夫」
そう言うと、私を抱きしめるレティシア校長の力がわずかに強くなった。話せてよかった。ずっと誰にも言えなかった秘密を明かしたのが、彼女で良かった。心からそう思う。
レティシア校長の魔力は、きめ細かい砂のように繊細で、全身から均等に溢れ出てくるように感じる。私が幼い頃、能力に蓋をすることができず、人と触れることを極端に嫌がっていた。私に伝わってくる魔力の強さがまちまちで、人によっては急激に変わることがあり、それに驚いてしまうことが多かった。
ところが、レティシア校長は常に均等に伝わってきて心地良い。彼女の卓越した魔法操作は有名で、一般の用務員にもその噂は聞こえてきていた。こうして普段から意識することなく、整った魔力に調整されていることを知っている人はどれくらいいるのだろう。それを今、私は全身で実感している。
私は我流で能力に蓋をする方法を身につけた。でも、レティシア校長は、訓練を積めば自ら魔力を発して身を守れると言っていた。この事件が終わったらそれを教えてもらおう。またこんな状態になるのは、どうしても避けたい。
ふと、レティシア校長が昨日から働き詰めだったことを思い出した。
「校長は、大丈夫ですか? 疲れてないですか? 夜から朝までここにいたって言ってましたけど」
レティシア校長は、名残を惜しむように私の身体をゆっくりと離し、私に視線を合わせて微笑んだ。
「私は大丈夫。こう見えて、体力には結構自信があります。昨晩は、事件や騒動のこともありましたが、実は考査の採点が終わらなくて働いていただけです」
「校長が、採点ですか?」
「フェリックス先生が急にお休みされることになったでしょう。彼が担当していた魔法工学の採点を、私が引き受けました。私の専門は魔法工学ですから。筆記の採点は、急な調整でしたので、引き受けてくれる先生が見つからなくて。ですが、実技まで私が引き受けるわけにはいかなくて、無理を言ってエリス先生にお願いしたら快く引き受けてくださいました」
「エリス先生って、あの綺麗な背の高い先生ですか?」
「そう。実は、私がこの学校に彼女を引き抜いたの。これは内緒ですからね」
校長は目元を細めて、秘密を共有する少女のように悪戯っぽく微笑んだ。時折垣間見える無邪気な振る舞いは、普段の彼女がまとう威厳とは対照的だった。
人は誰しも役割を演じている。私がこの学校で用務員という役を演じているように、きっと彼女も校長という大役を演じているに違いない。
「エリス先生には私の研究を引き継いでいただいて、私は校長になりました」
レティシア校長は元国粋派。エリス先生も国粋派。
魔法学校の研究は、その大半は国家的に重大な機密に関わるため、誰でも気軽に研究を引き継ぐわけにもいかない。まさか二人に、そういう意外な繋がりがあるなんて思いも寄らなかった。
エリス先生とレティシア校長は、どちらも人を惹きつける美貌の持ち主だ。もし並んで立てば、どれくらい眩しい光景になるのだろうと、私は想像した。
「いけない。もうこんな時間。あなたはここでしっかりと休んでください。お水はここに置いておきます」
レティシア校長はそう言って、私をソファに残し、慌てて校長室を出ていった。




