第20話 陰謀と焦燥【5日目】
校長室から出ると、受付の前にバルタザール先生が立っていた。彼は私たちに目を向けると笑顔をつくって歩み寄ってきた。
「これはこれは。セドリック様もこちらにおいででしたか」
そう言いながら私にも目を向けた。私は咄嗟に下を向き、彼とは目を合わせないようにした。
バルタザール先生はいつも、人好きのするような笑顔を張り付けている。彼のローブだけは特別製で、他の教員のそれとは細部が異なり、シンボルが金糸で縫い付けられている。彼を嫌う学校職員からは「拝金主義者の聖衣」と揶揄されていた。バルタザール先生は、社交的で、誰とでも仲良くする態度は見せていても、私を含む用務員など一部の学校職員に対しては、冷酷で見下すような眼差しを隠しきれていなかった。
エリオット先生に忠告される前から、バルタザール先生の悪い噂はよく耳にしていた。
曰く、彼は気に入らない職員を、些細なミスでも事務室に通報し、処分するよう圧力をかける。彼の研究室には、有望な学生を積極的に集めて囲い込むが、学生がその期待に応えられなくなると、手のひらを返したように見放す。実験での怪我の責任を職員に転嫁したことがある。果てには、教会派の代表という立場を利用して、寄付の一部を私的に着服・流用していたという真偽不明の噂まで囁かれていた。
私が知る限り、職員を処分するという話は本当のことだった。私と同時期に採用された用務員は、二ヶ月と経たないうちに退職に追い込まれた。幸い、教会から紹介された職員には矛先は向かない。だから私は今でも、この学校で働けている。
バルタザール先生からの言葉に、セドリックは返事をしなかった。やや間をおいて、バルタザール先生の絡みつく声が、俯いた私の耳に届いてきた。
「セドリック様。あなたは権力にものを言わせて事件を隠蔽し、我が校を混乱に陥れました。これは疑いようのない事実です。学校の問題は、教員や学生たちで解決すべきではありませんか? あなたのやり方は、我が校の権威を損なうものであり、魔法学校、ひいては国を憂う者として見過ごすわけには参りません」
「どうやら君は、事実や物事を、根本から誤認しているようだ」
「どういうことでしょうか?」
セドリックの声は普段と変わらず淡々としている。バルタザール先生の声には、わずかに怒気が含まれていた。
「僕には権力はない。つまり、『権力にものを言わせて』いない。それに、混乱を招いたのは、君の軽率な行動によるものだ。僕の行動とは関係がない」
バルタザール先生は、ひゃっはっはっという耳に響く不快な笑い声をあげた。
「あなたには権力がない? 皆がそう思うでしょうか?」
私にもわかる。バルタザール先生の言葉は何ひとつ答えになっていない。自分が言いたいことを、ただ押し付けようとしているだけ。
思わず身体に力が入ってしまう。だめだ。怒らないようにしなければ。
「これ以上、この話を続けても無駄なようだ。ここには何をしに来た?」
「校長に用事がありましてな」
「レティシアは、これから数時間、面会できないそうだ」
「そうでしたか。まったく、このような大事が起きたときに、動けないようでは困りますな。か弱い女性は、我々、男が守らなねばなりますまい」
私は見えないように拳を握り締め、唇を強く噛んだ。軽蔑したような口調だった。それでも私は顔を上げることができなかった。
セドリックが小さく息を吐いた。
「それでは、失礼する。リアラ君、案内を頼む」
私は黙ってセドリックを追った。
セドリックは、雨の中をゆっくりと歩いて移動した。私もずぶ濡れになった。二人とも黙ったままだった。
保管庫の詰所に向かい、マンフリートから昨日保管庫を使用した教員のリストを受け取った。チェックのついた教員には変化がなかった。
その後、共通棟の部屋に入っても、セドリックは黙ったまま、水が付いたジャケットを脱いで水を落とした。私も黙ったまま、作業着の上を脱いでハンガーに掛けた。
セドリックは執務席の椅子に座って背をもたせかけた。そして、ゆっくりと、頭の後ろで手を組み、小さく言葉を発した。
「あれがバルタザールか。まるで会話が成立しない。あれほどまでに頭が悪いと、話をする気も失せる」
感情が抜け落ちたように、抑揚がない声だった。
ふと気がついたように私の顔を見て、セドリックに表情が戻った。
「事件との関係は不明だが、裏で何らかの繋がりがある可能性は考慮しておこう。さて、まずは事件に集中しよう」
そう言って、セドリックは部屋の隅に置かれている資料を漁り始めた。
私は学校史の本からヒントを探った。記事にバルタザール先生の名前が出るたびに、バルタザール先生がレティシア校長を侮辱した言葉が、私の頭の中で響いた。バルタザール先生の名前を見るだけでも苦痛だった。そして、何も進展がないことにも焦りを感じた。
昼になり、私は食料庫に昼食を受け取りに行くことにした。ここ数日は、時間がなくて昼に何も食べない日が続いていた。普段の用務員の仕事と比べて身体を動かさないせいか、あまり空腹を感じないため、我慢できる程度だった。今日はセドリックが朝から一緒なので、彼が昼食を必要とするだろうと考えた。
セドリックに向かって「昼食を運んできます」と声を掛けると、「僕も行く」と言い出し、一緒に食料庫へ向かうことになった。
この学校では昼になると配膳係が職員の持ち場に昼食を運んでくる。職員がいなくて受け取られなかった昼食は、学務事務室の隣にある会議室、通称『食料庫』にしばらく置かれる。不思議なことに、夕方になる前にはすべての食料が消えてしまう。一説には、食欲旺盛な妖精が片付けてくれると言われている。
パンとボイルドエッグ、牛乳瓶を袋に詰めて食料庫を出るとき、私の姿を見た職員がひそひそ話を始めるのが目に映った。私は俯いてその場から足早に立ち去った。
部屋に向かう途中、ひそひそ話の原因に思い至った。私がセドリックの協力者だと噂していたのだろう。この数日は、私には別の業務が割り当てられているし、視察のために来訪したセドリックと私が一緒に歩くところを教職員や学生に見られている。バルタザール先生の話も、職員の間では大きな話題になっているに違いない。
でもこれは仕事だし、私だって好きでこんな仕事をしているわけじゃない。
私が先に部屋に戻り、いつものソファーで固まっていると、食料庫から戻ってきたセドリックが、「気にすることはない」と私に声を掛けた。私を気遣ってくれたのだろうか。
それからセドリックは執務机の椅子に座り、パンを食べながら書類を眺めていた。
私も部屋の隅にある机で昼食をとることにした。噂話をしている職員の姿が、私の目の裏でちらついている。私はどう思われているのだろう。一度でも気になり出すと止まらなくなる。
――そのリストにある先生方に話を聞きにいきますか?
昨日、私はセドリックにそう尋ねた。
当てずっぽうにリストアップされた先生のところに行こうと言ったわけではなかった。私ならきっと、犯人を当てられると思った。犯人の魔力は覚えている。深い海の底のような、暗くて冷たい魔力。
私の秘密、魔力残滓を感知できる能力は、もちろん誰にも知られたくない。でもこれ以上、私が傷つくことも、誰かが傷つくことも嫌だった。フェリックス先生は何も悪くないのに傷つけられた。レティシア校長も傷つけられた。もしかすると私が見えていないだけで、他の誰かも傷ついているかもしれない。事件のせいで。
犯人を捕まえて事件を終わらせたい。私ができることは、魔力を感知することくらいだけど、それが役に立つのなら、私は能力を使う。そう決めた。




