第2話 読書後の美味しい料理【0日目→1日目】
学校職員は学校にある大きな食堂を使うことができる。この食堂には、学校で働いているのが不思議なほど腕のたつ調理師が働いていて、彼が作る料理は生徒や職員からとても評判がいい。仕入れから調理まで一貫するという、強いこだわりがあるらしい。
食堂の入り口には、すでに美味しそうな料理の香りが漂っていた。今日は本を読めたし、ここで美味しい料理を食べて、ゆっくり寝られたら大満足。私は気分よく食堂へ入った。
食堂はこの時間になると人はまばらで、食事をしているのは職員ばかりだった。教員たちは派閥ごとにテーブルを囲み、互いに視線を合わせようとしない。教会派、国粋派、教典派。私から見れば、まるで物語の登場人物が互いにいがみ合っているかのようだ。
私はそんな彼らから距離を置き、職員がよく使うテーブルから離れた窓際の席を選んだ。ぼんやりと、今日読んだ本の結末を思い浮かべながら、ゆっくりと食事をしていた。
そのとき、頭上から声が降ってきた。
「良かったら、席をご一緒してもいいかな?」
顔を上げると、少年が立っていた。彼はいつもたくさんの友人に囲まれていて、人気者の男子学生という印象だった。こんな時間にひとりで食事とは珍しい。
特に断る理由もなく、いや、正確には断る理由を考えるのが面倒で、私は深く考えずに「どうぞ」と答えてしまった。彼は向かい合わせに座った。私は、テーブルの端にでも座るものだと思っていたので、にわかに狼狽した。
「僕はアシュレイ。アッシュって呼ばれてる。君は、リアラさん、だよね?」
「そう。私はリアラ」
私は、早く食事を済ませて立ち去ろうと思った。こんな不意打ちに、仕事用の『用務員』という仮面を被ることができるほど器用じゃない。アッシュも緊張しているようで、言葉をかけようとしてはやめ、結局何も言えずに料理を口に運んだ。
二人の間には気まずい沈黙が流れた。アッシュは、フォークをぎこちなく動かしながら、口を開いた。
「前から、話したいと思っていたんだ」
「うん」
彼のぎこちない笑顔に、私は小さくため息をつきたくなった。
そそくさと食事を終え、私は席を立った。
「では、これで」
「ああ、うん。急にごめん」
アッシュは、少しだけ悲しそうな顔をしていた。
私は食堂を見渡した。先生たちや他の職員はすでに食事を終えていたようで、食堂には私とアッシュの二人以外、誰の姿もなかった。
誰もいないと思っていたのに、食器返却台のところに調理師のリヒャルトがいた。中肉中背、ふくよかな頬と少し丸い鼻。いつも清潔な白い調理服を身につけている。そんな彼が腕を組んで窓の外をぼんやりと眺めていた。献立でも考えているのかもしれない。
私はそっとしておこうと思って、静かにトレイを返却台に置いた。
カチャリという小さな物音に、リヒャルトはハッと我に返ったように振り向いた。彼の顔にパッと明るい笑顔が広がる。
「やあ、リアラ。アッシュとは知り合いだったのかい?」
私は首を傾げた。
「ううん、相席をお願いされただけ。何も話してないかも」
「何も話してない?」
リヒャルトは一瞬だけ呆けたような表情になり、すぐさま、さっきよりも強い笑顔になった。
「なるほど、そうだったのか。アッシュは、彼がいるところに自然と人が集まってくるような、気のいいやつだ。それで、どうなんだい?」
「どうって?」
私が聞き返すと、リヒャルトは身を乗り出し、まるで秘密を打ち明けるかのように小声で囁いた。
「彼のことはどう思っているのか、ってことに決まってるじゃないか」
「悪い人ではなさそう。話してないし、よくわからない」
言葉の通り、悪人ではないとは思っている。
リヒャルトはアッシュがいるテーブルの方向に視線を送った後、どういうわけか、うんうんと大きく頷いた。
「まあ、また話してみればいい。幸運を祈るよ」
私は曖昧に返事をした。
「そろそろ行くね。今日も料理、美味しかった。ありがとう」
感謝を伝えると、リヒャルトは嬉しそうに親指を立てた。
「明日は肉料理だから楽しみにしててくれよ」
「それは楽しみ! おやすみなさい」
私は、心ゆくまで本を読めたことと、美味しい料理を食べられたことに満足して、その日の夜は深い眠りについた。
明日から始まる、面倒な仕事のことなど、すっかり忘れていた。
◆
翌日、私は校長室の扉をノックした。レティシア校長に呼び出された通り、セドリックの案内役として対面するために。緊張した面持ちで扉を開けると、そこにいたのは、噂通りの青年だった。
セドリックは二十代前半に見える。均整の取れた体格に、金の髪が無造作なウェーブを描いている。端正な顔立ちには自信に満ちた笑みが浮かんでいた。その笑みはどこか傲慢な響きを持っているようにも感じる。背筋をピンと伸ばし、座り方も立ち居振る舞いも、すべてが上流階級のそれだった。
「君が案内役か」
セドリックの視線が私を捉える。その視線には、好奇心と、わずかに奇異なものを見るような感情が混じっているように思えた。
「用務員のリアラです」
私の言葉を聞いて、セドリックはニヤリと笑った。
私は眉をひそめた。いったい何が面白いのだろう。用務員である私が、高貴な人の案内役を務めることとか? いや、考えるのはやめよう。彼の言動が不愉快であっても、今はそんなことを気にしている場合じゃない。この面倒な任務を早く終わらせたい。セドリックの言動など、正直どうでもいい。
レティシア校長が本題に入った。
「さっそくですが、事件のあらましを説明します。研究室から、魔力増幅装置の試作機が盗まれました」
セドリックが、レティシア校長の言葉を遮った。
「魔力増幅装置とは?」
レティシア校長は、次に話そうとした内容から逸れたせいか、やや間を置いてから答えた。
「原理の詳細は機密事項ですが、魔道具は基本的にパッシヴであることはご存知でしょう?」
セドリックは、ふっと笑って見せた。
魔道具はパッシヴとアクティヴに分類される。パッシヴとは、例えば、魔力感知や五感強化など、意識的な操作を必要とせず、常時効果を発揮する魔道具のこと。一方、アクティヴとは、魔力を消費することで、一時的に強力な効果を発揮する魔道具のこと。魔法銃や魔法の剣がこれにあたる。再現性のある技術の確立が困難で、開発の成功例が少ないとされる代物だった。
私は、その説明を黙って聞いていた。以前、学生たちが何を学んでいるのか興味があって、図書室で基礎教養とされる魔法の入門書を眺めたことがある。でも、魔法の原理や理論には興味を持つことができなくて、すぐに本を閉じてしまった。アクティヴとパッシヴの説明は読んだけれど、うろ覚えだった。
「その魔力増幅装置はアクティヴな魔道具。名の通り、魔力を増幅させる効果を持ちます」
「試作機がすでに外に持ち出された可能性は?」
セドリックの疑問は、もっともだった。でも、きっとそれはありえないと私は思った。
「アクティヴな魔道具は、魔力感知によって捕捉できます。今のところ外部へ持ち出された形跡はありません。我々の見立てでは、まだこの校内に試作機があると考えています」
レティシア校長は淡々と続けた。
「ご存知の通り、魔法技術は国家の安全保障上、最高クラスの機密事項です。我が校は教育機関ではありますが、研究機関でもあります。学生や教員、職員の外出には制限があり、外部の人間も簡単に出入りすることはできません。とりわけ、物品の搬入搬出は厳しい制限を課しています。学校の周囲は、魔力感知を含めて国が監視しています」
普段から何度も同じ説明をしているためか、レティシア校長の説明は滑らかな口調だった。
私は知っている。この学校の関係者は、校外へ出る際には誰かに監視されていることを。
たとえどんなに大切な用事があったとしても、もし外出届が受理されなければ、学校の外には出られない。学生たちの間には、その理由を説明する通説がいくつもある。学校の周囲には柵が張り巡らされていて、不正にそれを超えた者の行く末は誰も知らない。
学生たちの間には『柵を超える』というスラングがある。『昨日の課題、提出し忘れた』『お前、柵を超えたな』のように、軽口に使われてはいるものの、実際に柵を超えるとどうなるのか、誰もが知っていた。
「警備の名目で校内の研究室や寮、倉庫は隈無く探しましたが、試作機は見つかっていません。セドリック様には、試作機の捜索と、その犯人の特定をお願いできないでしょうか」
セドリックは何か引っかかることがあるようで、黙って考えていた。やがて、ゆっくりと首を縦に振り、「わかった」と答えた。
「フェリックス先生にはこの後、あなたたちが訪問する旨は連絡してあります。リアラさん、セドリック様のご案内をお願いします。くれぐれも校内の規則には気をつけてください」
これはきっと、私自身のことではなくて、このセドリックという男を見張ってくれという意図だろうと思った。
私は、不承不承といった様子で立ち上がった。セドリックは、何がおかしいのか、口元に笑みを浮かべている。
二人は、フェリックス先生の元へ向かうため、校長室を後にした。セドリックは、先ほどまで校長室にいたときとは違って、表情に真剣な面持ちを浮かべている。彼が本気で事件を解決しようとしていることを知り、私はわずかな希望を抱いた。
これで、この面倒な任務も、早く終わるかもしれない。そうすれば……本が読める!
私は足を早めて、セドリックの後を追った。