第19話 急変【5日目】
今日も朝から雨が降り続いていた。
学校の近くを流れる川が濁流になると、その水が沈殿設備にまで流れ込んできて、校内施設に供給される水が汚れてしまう。飲用水は数日分が確保されているから問題ないけれど、洗濯や掃除に時間がかかるようになってしまうことだけでもどうにかならないかと、いつも考えてしまう。
雨の中、職員寮から共通棟に向かって走っていると、校長室のある洋館の中から私を呼ぶ声がした。
「リアラさん! ちょうどよかった! 今すぐ校長室まで来てほしいって!」
同僚の用務員が手招きをしていた。
急いでエントランスに入り、借りたタオルで雨に濡れた髪を拭き、作業着の水を払った。
校長室のソファには、レティシア校長とセドリックが向かい合って座っていた。どちらも厳しい顔をしている。何か良くない出来事が起こったのは明白だった。
私が近づくとレティシア校長は表情を和らげて、私をソファの隣にある椅子に促した。私は「雨に濡れていますので、乾くまでは立っています」と断った。セドリックは黙ったまま口を開かない。校長は、少し離れた位置に立つ私に視線を合わせて、はっきりと聞き取りやすいように話した。
「事件が漏れました」
私は事を飲み込めず、目を泳がせて、すぐに校長の目を合わせた。校長は私の目を見つめたまま、静かに頷いた。
「経緯をお伝えしますと、昨日、バルタザール先生が緊急の教員会を招集し、フェリックス先生の魔力増幅装置の試作機が盗まれたことを公表しました。そして、その管理責任を問い、フェリックス先生を学校から追放する議案を提出しました」
わずかに間をおいてから校長先生は説明を続けた。
「その場にいた教員のうち、教会派の数名が賛成、他は全員が反対したことで議案は否決され、会議は解散となりました」
セドリックが話の続きを引き取った。
「リアラ君が寮に帰った後、この報せは僕の元にも届いた。急使を送り、僕の家で匿っているフェリックス先生にも伝えてある」
セドリックは顎に手を当てて考える仕草をした。やがて、その続きを話し始めた。
「フェリックス先生は教会派だが、その代表はバルタザール先生だ。そして、味方であるはずの教会派から、一部とはいえ、追放に賛同する者がいたということか。しかし、他は全員が反対したということは、教典派や国粋派も追放に反対したということなのか?」
セドリックからの問いにレティシア校長が答えた。
「はい。教会派から出された議案には、他派は反対に回ることが多いのは事実ですが、今回はそのような意図ではなく、純粋にフェリックス先生の追放に対して反対していました。バルタザール先生の議案に対して激しく抗議をする、他派の先生もいらっしゃいました」
その言葉を聞いて、私にはエリオット先生の姿が目に浮かぶようだった。そして、あのときの忠告を思い出していた。
――バルタザール。彼には気をつけたほうがいい。
確かにそう言っていた。エリオット先生がどこまで把握していたのかは分からない。でもいつかこうなることを予測していたのだろうか。
私は、レティシア校長のローブに皺ができていることに気づいた。髪はわずかに乱れ、目の周りには隈ができている。昨日から帰っていないのだろう。彼女は普段、常に清潔感を保つように身だしなみには注意を払っている。その対照的な姿に、私はレティシア校長の体調も心配になった。
レティシア校長は説明を続けた。
「ここからはセドリック様もお聞きになっていないと思いますが、バルタザール先生はその後、講堂を使って演説をしました。そこでセドリック様が視察を口実に、この事件を調査していると公言したのです。それを体制側の隠蔽であると非難し、学校の自治権を侵害していると主張しています。また別の筋からの情報ですが、どうやら彼は、すでに国に働きかけているようです」
セドリックは苦々しい顔をして説明を聞いている。そんな彼を見ながら、校長は落ち着いて話を続けた。
「バルタザール先生は以前より、次の校長を教会派から擁立するために、国を含め、学校関係者に対してロビー活動をしていました。そのことは私も把握していましたが、目を瞑ってきました。もし仮に私が失脚した場合、次の校長には、最大派閥の教会派の中から選出されるのは間違いありません。他方、フェリックス先生はこれまで、派閥間の争いには関与してきませんでした。教会派の中ではもちろんですが、他派の先生の中からも、フェリックス先生を支持する者はいるでしょう」
セドリックは、眉間を揉みながら、「なるほどな。彼はフェリックス先生を煙たがっていたわけか」と低い声でつぶやいた。そして、「バルタザール先生が国とパイプを持っていることは、僕も把握している。あまり評判は良くないが」と吐き捨てるように言葉を発した。
レティシア校長は一息を置いて、話を続けた。
「おそらく彼は、今回の件を利用して、フェリックス先生の排除に動いて失敗したものの、最終的には私を罷免するのが狙いでしょう。このまま押し切ったとしても、校長の座には彼の手の者を据えられると踏んだのだと思います。セドリック様を、このような内輪の揉め事に巻き込んでしまう形になり、お恥ずかしい限りです」
セドリックは「それは構わない」と間をおかずに答え、「だが、動きが早すぎる。事件との繋がりも考慮したほうが良さそうだ」と言った。
動機を考えているとき、セドリックはこの可能性について言及していた。
――他に考えられるのは怨恨だ。先生が誰かの恨みを買うとは思えないが、可能性は排除しないほうがいい。試作機を失ったことが公になれば、研究に支障が出るはずだ。犯人はこれを狙った。
慎ましく善良に生きていても、悪意を向けられることがある。フェリックス先生やレティシア校長にさえも。悪意を持つ者は、牙を忍ばせて唐突に襲いかかってくる。私は身震いした。
レティシア校長は、セドリックの言葉をしばらく考えてから、口を開いた。
「バルタザール先生が犯人に指示を出したという可能性があるということでしょうか?」
「あくまでも可能性のひとつとして、その線からも捜査をする。ただ、経験上、この手の策を弄する人物というのは、決定的な証拠を残さない。直接本人は手を出さない上に、仮に犯人に指示をしていたとしても、尻尾を掴ませないように、関係者を絞って口頭で済ませる。だから、証拠を集めるというよりも、『目に見えない繋がり』を考慮しておくことで、予測を立てる際に役立てる、くらいの情報になる」
まだ犯人を絞りきれていないけれど、もしバルタザール先生が指示を出していたとしたら説明がつくような何かがあるかもしれないし、今後そういうことが起きるかもしれない。気が遠くなりそうなほどの、いくつもの「かもしれない」があって、それをヒントに犯人に近づいていくしかない。
「しかし、緊急避難のつもりだったが、いささか性急だったかもしれない。まさかこのような形でフェリックス先生が標的にされるとは予測していなかった。急いで学校から連れ出させたのは失策だったか」
セドリックは天井にある照明を眺めながら呟いた。
彼が自身の失敗を認めたのを初めて見た。捜査開始時から、いくつもの策を張り巡らせて犯人を絡め取ろうとしていた。
私は、なんとなくセドリックの策がすべて成功すると思っていた。だからといって、フェリックス先生を危険から守ろうとしてセドリックの邸宅に移動したのだから、その行動は正しかったと思う。
レティシア校長の顔色が良くない。話を伝えたことで疲れを一気に自覚したようで、額に手を当てている。私はその様子を見て、校長に声を掛けた。
「レティシア校長。お疲れのようですし、まずは休んだ方が……」
彼女はゆっくりと顔を上げ、私を見て「そうね」と呟き、セドリックに向き直った。
「セドリック様、申し訳ありませんが、私はこれから数時間、お暇をいただきます」
レティシア校長がそう言うと、「ご苦労だった。ゆっくり休んだほうがいい」とセドリックが返した。レティシア校長は少しだけ疲れた顔をしたまま微笑み、一礼した。




